宋史卷八十 律歴志第三十三 律歴十三(紀元歴)

歩交會(日食・月食の算出)

  • 交終分一九万八三七七秒八八〇、交終日二七日余一五四七秒八八〇、交中日一三日余四四一八秒五四四〇、朔差日二日余二三二〇秒九一二〇、望策一四日余五五七九、交率三二四、交数四一二七、交終度三六三度余七九秒四四、交中度一八一度余八九秒七二、交象度九〇度余九四秒八六、半交象度四五度余四七秒四三、日食陽暦限三四〇〇(定法三四〇)、陰暦限四三〇〇(定法四三〇)、月食限六八〇〇(定法四四〇)を掲げる。
  • 「推天正十一月経朔加時入交」以下「求次朔及望入交」「求定朔望夜半入交」「求次定朔夜半入交」「求定朔望加時入交」「求定朔望加時月行入交積度」「求定朔望加時月行入交定積度」「求定朔望加時月行入陰陽暦積度」「求定朔望加時月去黄道度」「求朔望加時入交常日」の各条で、経朔・望の入交(黄白道交点との角距離)を逐次算出し、月が黄道を離れる度数(去黄道度)を求める手順を示す。
  • 「求日月食甚定数」「求日月食甚辰刻」「求日月食甚入気」「求日月食甚日行積度」「求気差」「求刻差」「求朔入交定日」「求望入交定日」「求月行入陰陽暦」「求入食限交前後分」の各条で、食が起こる時刻(食甚)とその前後の交点角距離を求める。
  • 「求日食分」「求月食分」「求日食汎用分」「求月食汎用分」「求日月食定用分」「求月食既内外分」「求日月食虧初復満小余」「求月食更点法」「求月食入更点」の各条で、食の分数(何分食するか)と、虧初(欠け始め)・食甚・復満(元に戻る)の時刻を求める。
  • 「求日食所起」「求月食所起」の条は、日食は陽暦に入るときは西南から欠け始めて南で最大となり東南で終わり、陰暦に入るときは西北から東北で終わる(食が八分以上なら正西から正東)、月食は陽暦では東北から西北、陰暦では東南から西南で終わる、と方位を定める。「求日月出入帯食所見分数」「求日月食甚宿次」は、日の出入りの際に食を帯びて見える分数、および食甚時の日月の宿次を求める算式である。

歩五星(五星運行の算出)

  • 木星・火星・土星・金星・水星それぞれについて、周率・周差(または合日)・歴率・周日・歴度・歴中度・歴策度・伏見度(金水は晨伏夕見・夕伏晨見の度数)を掲げる。木星は周率二九〇万七八七九秒六四、周差二四万五二五三秒六四、歴率二六六万二六三六秒二二、周日三九八日余八八秒六〇、伏見度一三。火星・土星・金星・水星も同様の形式でそれぞれの数値を掲げる(原本には各星の「段目・常日・常度・限度・初行率」や「盈縮暦(策数・損益率・盈積度・縮積度)」の数表が続いていたはずだが、底本では罫線のみが残り数値部分は失われている)。
  • 「推五星天正冬至後平合及諸段中積中星」以下「求木火土三星平合諸段入暦」「求金水二星平合及諸段入暦」「求五星平合及諸段盈縮定差」「求五星平合及諸段定積」「求五星平合諸段所在月日」「求五星平合及諸段加時定星」「求五星諸段初日晨前夜半定星」「求諸段日率度率」「求諸段平行度」「求諸段総差」「求諸段初末日行分」「求毎日晨前夜半星行宿次」「径求其日宿次」「求五星平合及見伏入気」「求五星合見伏行差」「求五星定合及見伏汎積」「求五星定合定積定星」「求木火土三星定見伏定積日」「求金水二星定見伏定日」まで、天正冬至から各惑星が太陽と合する(平合)時刻や、留・順行・退行・伏見(見え隠れ)の各段階に入る日数・度数を、上記の周率・歴率・変差等の定数を用いて逐次算出する一連の技術的手順である。

渾儀の改鋳と天文機器の沿革

  • 熙寧六年(一〇七三年CE)六月、提挙司天監の陳繹は、渾儀の尺度が規格に合わず二極・赤道の四分が不均等で、遊儀が重く動きが渋いなど諸々の不具合を指摘し、古尺に基づき改造することを求めた。詔により新式で製造させ、司天監で測験して精粗を比較させた。同七年六月、司天監が新製の渾儀・浮漏を迎陽門で披露し、神宗が輔臣とともに観覧、提挙官の沈括に改造の理由を問うた。集めた監官では優劣を比較できず、翰林天文院に置くこととし、七月に沈括を右正言・司天秋官正とし、皇甫愈らにも褒賞があった。沈括はかつて渾儀・浮漏・景表について三つの意見書(「天文志」に見える)を上奏し、朝廷はその説を用いて古い暦書の器具を改造させており、このとき完成したため褒賞したものである。
  • 元豊五年(一〇八二年CE)正月、翰林学士の王安礼は、詳定渾儀官の欧陽発が提出した渾儀・浮漏の木製模型について、司天監の浮漏は疎漏で使用に堪えず、至道・皇祐の渾儀・景表にも誤差があるとして、新式による改造を上奏し、朝廷はこれに従った。
  • 元祐四年(一〇八九年CE)三月、翰林学士の許将らは、水運渾儀の木製模型を試験したところ天象と違わなかったため、別に銅製のものを作るよう求め、詔により「元祐渾天儀象」と名付けられた。許将らはさらに、渾儀(観測用)と渾象(天球儀)を一器にまとめれば両者の利点を兼ねられると述べ、これに従った。元祐七年(一〇九二年CE)四月、詔により尚書左丞の蘇頌が「渾天儀象銘」を撰し、六月に元祐渾天儀象が完成、三省・枢密院の官が閲覧した。
  • 紹聖元年(一〇九四年CE)十月、詔により礼部・秘書省が渾天儀象の製造を詳定する局を置き、新旧の渾儀を集めて測験し精密なものを採用させた。
  • 宣和六年(一一二四年CE)七月、宰臣の王黼が、崇寧元年に方外の士(王姓を名乗る者)から璣衡(渾天儀の別称)の制作法を記した「素書」を得て小型の模型を作らせたところ二か月余りで完成したと上奏した。その璿璣は球形で周天三六五度四分度之一、南北極・崑崙山・黄赤二道・二十四気・七十二候・六十四卦・十干十二支・昼夜百刻・二十八宿および内外三垣・周天星を備え、日月は黄道に沿って天とともに一日一周左旋しつつ月は一日一度右旋し、冬至には赤道の南二十四度に出て夏至には赤道の北二十四度に入り、春秋分には黄赤二道が交わって卯・酉に出入りするなど、実際の天象と精密に一致したという。玉衡(動力機構)は屏外に立てて水力で輪を回転させ、機輪四十三をもって人力を用いずに運転し、日に二九二八歯進むものから五日に一歯しか進まないものまで異なる速度の歯車が一つの機構から生じ、精密さは造物主に迫るほどであった、と称した。旧来の一行(唐代の僧、暦学者)の制と比べ、機関を木・玉に改めて渋りをなくし、日月を黄道に付して星度を隠さないようにし、月の満ち欠けを機械で再現し、司辰(時刻を告げる人形)・燭龍(時刻を示す仕掛け)などを備えて改良したという。璣衡の呼称についても、鄭康成(鄭玄)の説(運転するものを璣、静止して正すものを衡とする)が最も近いとし、月の光と影の理についても揚雄・京房・沈括の諸説を統合したものであると述べた。王黼は、これを明堂または合台に安置して測験用に据え、さらに三器を別に製作して一つは御府に、一つは鐘鼓院に、一つは車駕行幸用に備え、書物として後世に伝えるよう提案し、詔によりこの制作を統轄する局が置かれ、王黼が総領、内侍の梁師成が副とされた。