歩晷漏術(正午の晷影と昼夜漏刻を求める法)
- 基本定数:二至限一百八十一日六十二分、一象度九十一度三十一分、消息法一萬六百八十九、辰法三千二百五十、刻法三百九十、半辰法一千六百二十五、昏明刻分九百七十五、昏明二刻一百九十五分、冬至岳臺晷景常數一丈二尺八寸五分、夏至岳臺晷景常數一尺五寸七分、冬至後初限(夏至後末限)四十五日六十二分、夏至後初限(冬至後末限)一百三十七日。
- 岳臺(開封)を基準地とし、冬至・夏至からの経過日数によってその日の正午の晷影の長さ(午中晷景定數)を求め、盈縮の限に応じて汎差・定差を算出し常晷に加減する手順が示される。続いて毎日の消息定數(昼夜の長短の変化率)、黄道去極度・赤道内外度、晨昏分・日出入分、距子度・距中度・毎更差度、夜半定漏、昼夜刻・日出入辰刻、更点辰刻、昏暁及び五更中星を、いずれも消息定數から逐次導く算式が列挙される。
- さらに岳臺以外の地(九服)について、岳臺の晷景と一致する日までの日数を「距差日」として求め、これを用いて各地の午中晷景定數・昼夜漏刻を補正する法(求九服距差日・求九服晷景・求九服所在晝夜漏刻)が付される。
歩月離術(月の運行を求める法)
- 基本定数:轉度母八千一百一十二萬、轉中分二百九十八億八千二百二十四萬二千二百五十一、朔差二十一億四千二百八十八萬七千、朔差二十六度(餘三千三百七十六萬七千、約餘四千一百六十二半)、轉法一十億八千四百四十七萬三千、會周三百二十億二千五百一十二萬九千二百五十一、轉終三百六十八度(餘三十八萬二千二百五十一、約餘三千七百八)、轉終二十七日(餘六億一百四十七萬一千二百五十一、約餘五千五百四十六)、中度一百八十四度(餘一千五百四萬一千一百二十五半、約餘一千八百五十四)、象度九十二度(餘七百五十二萬五百六十二太、約分九百二十七)、月平行十三度(餘二千九百九十一萬三千、約分三千六百八十七)、望差一百九十七度(餘三千一百九十二萬四千六百二十五半、約分三千九百三十四)、弦差九十八度(餘五千六百五十二萬二千三百一十二太、約分六千九百六十七)、日衰一十八小分九。
- 月の入転度・入転が中度の内外いずれにあるか(疾暦・遅暦の別)、遅疾差度及び定差、朔弦望に直る月行定分、盈縮定差を加減した朔弦望の定日などを、上記の定数から逐次算出する算式が並ぶ。
- 「求月行九道」の条では、月の軌道を四季・交点の陰陽により四つに呼び分ける。冬に陰暦・夏に陽暦にある交点では月は「青道」を行き、冬至・夏至の後は半交が春分の宿で黄道の東に、立夏・立冬の後は半交が立春の宿で黄道の東南に当たる(その衝の宿でも同様)。冬に陽暦・夏に陰暦にある交点では月は「白道」を行き、冬至・夏至の後は半交が秋分の宿で黄道の西に、立冬・立夏の後は半交が立秋の宿で黄道の西北に当たる。春に陽暦・秋に陰暦では月は「朱道」を行き、春分・秋分の後は半交が夏至の宿で黄道の南に、立春・立秋の後は半交が立夏の宿で黄道の西南に当たる。春に陰暦・秋に陽暦では月は「黒道」を行き、春分・秋分の後は半交が冬至の宿で黄道の正北に、立春・立秋の後は半交が立冬の宿で黄道の東北に当たる。四季・八節において陰陽の交わるところは皆黄道と相会するため、月の軌道は九道(黄道・青道・白道・朱道・黒道の別)として捉えられるとする。
- 続いて、正交入交度・正交加時月離九道宿度、定朔弦望加時月離所在宿度、定朔・次月定朔の夜半入転、定朔弦望夜半月度、晨昏月、朔弦望晨昏定程、転積度、毎日晨昏月、天正十一月定朔夜半平行・次月定朔夜半平行月・定弦望夜半平行月、天正定朔夜半入転度・次月定朔及弦望夜半入転度、定朔弦望夜半定月、朔弦望定程、朔弦望転積度分、毎日月離宿次を求める一連の算式が示される(大月は三十五度八十分六十一秒、小月は二十二度四十三分七十三秒半を加える等、月の大小による加算値も規定される)。
歩交會術(日月食を求める法)
- 基本定数:交度母六百二十四萬、周天分二十二億七千九百二十萬四百四十七、朔差九百九十萬一千一百五十九、朔差一度(餘三百六十六萬一千一百五十九)、望差空度(餘四百九十五萬五百七十九半)、半周天一百八十二度(餘三百九十二萬二百二十三半、約分六千二百八十二)、日食限一千四百六十四、月食限一千三百三十八、盈初限縮末限六十度八十七分半、縮初限盈末限一百二十一度七十五分。
- 交初度・交中度、日月食甚の小余及び加時辰刻、朔望加時日月度、朔望日月加時去交度分(交前後分)を求め、日食四正食差定数(東西食差・南北食差)を加減して日月食去交定分を得る手順を示す。
- これにより日食・月食の食分(陰暦・陽暦それぞれの食限に対する割合を十分率で表す)、日食・月食の汎用刻分及び定用刻分、虧初・復満の時刻、初虧・復満の方位(食が陽暦にあるか陰暦にあるかで西南・西北等の起こる方位が異なる)を算出する。
- さらに月食の更点、月食既(皆既)の内外刻分、日月帯食(食の最中に日の出入りにかかる場合)で見える食分の求め方が示される。
歩五星術(五星の運行を求める法)
- 木星:終率一千五百五十五萬六千五百四、終日三百九十八日(餘三萬四千五百四、約分八千八百四十七)、厯差六萬一千七百五十、見伏常度一十四度。
- 土星:終率一千四百七十四萬五千四百四十六、終日三百七十八日(餘三千四百四十六、約分八百八十三)、厯差六萬一千三百五十、見伏常度一十八度半。
- 水星:終率四百五十一萬九千一百八十四(改九千一百九十四)、終日一百一十五日(餘三萬四千一百八十四、約分八千七百六十四)、見伏常度一十八度。金星・水星は太陽に附随して動くため厯差を立てない(附日而行更不求厯差)。
- 底本には木星・土星・水星の終率等のみが記され、火星・金星の同様の記載は見当たらない(この巻では底本に脱落があると見られる)。晨伏・晨疾初・晨疾末・晨遅初・晨遅末・晨留・晨退・夕退・夕留・夕遅初・夕遅末・夕疾初・夕疾末・夕伏という五星共通の変段区分ごとの変日・変度・暦度・初行率を記す表が付されるが、底本ではその数値部分(版面)の多くが失われている(□(底本欠字、罫のみで数値なし))。
- 続いて、五星の天正冬至後諸段中積中星、木火土三星の入暦、木土火三星の盈縮定差、留退差、諸段定積、諸段所在月日、諸段加時定星、諸段初日晨前夜半定星、太陽盈縮度、諸段日度率・平行分・汎差・総差・初末日行分・日差、毎日晨前夜半星行宿次、五星定合定日、五星定見伏を求める一連の算式が示される(金星・水星は順合・退合・平合・再合等で別法を用いる)。
周琮の暦論
- 律暦志の編者は末尾に、周琮が暦を論じた言葉を引く。琮は、古今の暦法のうち後世の術が前人に勝る点があってこそ万世の法たりうるとし、一行の『大衍暦議』『略例』が暦法の強弱を校正して中平の数を得たことを最も評価する。
- 劉焯は日行に盈縮の差があること(旧暦は日の平行を一度としていたが、冬至前後は八十八日八十九分、夏至前後は九十三日七十四分で、冬至前後は一度を超えて進み、夏至前後は一度に及ばないと悟った)を発見した。
- 李淳風は定朔の法、及び気朔閏余を同一の術で扱う法(旧暦は平朔で一大一小を繰り返すのみであったが、日行の盈縮・月行の遅疾により朔余を加減して定朔・定望を求め、大小の月が連続三月を超えないようにし、日食を必ず朔に、月食を必ず望に定めた。麟徳暦で気朔閏余を同一の母数に帰した)を悟った。
- 張子信(北斉の学士。葛栄の乱を避け海島に三十余年隠棲し、専ら円儀で天道を測った)は、月行に交道の表裏(外道=陽暦、内道=陰暦)があり、月が内道にあれば日食が起こり外道にあれば起こらないこと、また五星にも盈縮による加減の数があることを初めて悟った。
- 宋の何承天は圭表による景の測定で気を定める法を初めて悟った(八尺の表を立てて十余年測り続け、旧暦の冬至が常に天より三日遅れていたことを知り、元嘉暦を作って冬至加時を旧暦より三日遡らせた)。
- 晋の姜岌は、月食が衝する宿をもって太陽の所在する度とする法を初めて悟った(日の所在する宿度が不明なとき、月食の宿の衝をもって日の所在宿度とする)。
- 後漢の劉洪は『乾象暦』を作り、月行に遅疾の差があること(旧暦は月の平行を十三度十九分度之七としていたが、実際には遅いときは日行十二度強、疾いときは十四度太で、その差は五度余りに及ぶ)を初めて悟った。
- 宋の祖沖之は歳差を初めて悟った(『書経』堯典に「日短星昴以正仲冬」「宵中星虚以殷仲秋」とあるが、三千余年を経た当時では中星の差が三十余度に及んでおり、毎年わずかずつ差が生じることを知り、『大明暦』で四十五年九月ごとに一度退くとした)。
- 唐の徐昇は『宣明暦』を作り、日食に気刻差の数があることを悟った(旧暦は日食を平均的に求めるのみで食分が実際と合わないことが多かったが、気刻差の数によって増損することで実際の観測に近づけた)。
- 「明天暦」は、日月の会合が朔となることから日法・積年に自然の数があること、及び晷景を立てて気節加時の所在を求める法を悟ったとする(元嘉暦以来の日法は四十九分之二十六を強率、十七分之九を弱率として朔余を定めていたが、日月の会合をもって朔余の虚分を日法とするのが自然の理であるとし、気節加時についても晋漢以来の約法に半日の差があったのを、明天暦で厳密に推求し尽くした)。
- 後世の暦作者はおおむねこれらの発見を継承したが、そのうち粗雑さが甚だしいものとして苗守信の『乾元暦』、馬重積の『調元暦』、郭紹の『五紀暦』を挙げる。暦を作る者はいずれも日月の会合により晦朔の数を定め、春秋の日食記事によってその強弱を検証し、気序については夏至・冬至(伝の「南至」)を基準として日行盈縮・月行遅疾・五星加減・二曜食差・日宿月離・中星・晷景の立数立法をすべて前代の説に本づかせるべきであり、そのうえで夏の仲康五年九月「辰弗集于房」から現在に至る三千年間の星辰気朔・日月交食を照合し、前後・親疎の差が均等な中平の数を得られるものこそが後世に施行するに足るとする。
- 験証の法として、一行・孫思恭の説に従い、数の多寡ではなく親密さを基準とする。日月交食は一分二刻以下を「親」、二分四刻以下を「近」、三分五刻以上を「遠」とし、暦注に食ありとするのに実際に食がない場合、またその逆の場合は「失」とする。星度の較差は二度以下を「親」、三度以下を「近」、四度以上を「遠」とし、晷景尺寸の較差は二分以下を「親」、三分以下を「近」、四分以上を「遠」とする。古を較べて多く合致し、かつ立法立数が理に通じるものを最上とする。
- 琮は自ら暦に通じると称し、「世に暦を知る者は甚だ少なく、近世では独り孫思恭が最も精妙である」と述べ、思恭もまた劉羲叟を暦を知る者として推していたという。