嘉禾(穀物の豊穣の瑞祥)
- 乾徳2年10月、眉州が九穂の禾の図を献上。4年4月、府州・尉氏県・雲陽県で麦が両岐(一茎に二穂)となり、5月魚台県で麦が三岐に、6月南充県の民何約の田で禾が2茎(それぞれ13穂・11穂)となり、7月にはさらに1茎9穂の禾が生えた。開宝2年5月、梓・蜀の二州、6年4月東明県、8年5月鄭州・梓州・合州・巴州の各県がともに瑞麦を献上。太平興国元年9月、隰州が長さ1尺余の合穂の禾を献上、10月渝州が九穂禾を献上。3年4月夏県、5月舒州、6月閬州でともに麦が両岐に。4年7月洺州が嘉禾を献上、卭・資の二州で禾がともに九穂、8月涇州の民田にも嘉禾、9月知温州何士宗が九穂禾の図を献上。5年7月蓬莱県の民王明の田で穀物が隣の畝と穂を合わせ1尺ほど離れた所で連なり、8月知慈州張愈が合穂禾を献上、9月流渓県、6年5月汝陰県、9年5月施州でともに麦が両岐に。端拱元年5月陳州。淳化元年4月魏城県、7月閬州、2年4月蔡州、5月陳州・陵州仁寿県、4年5月達州、5年4月永城県がともに瑞麦を献上。至道元年6月、嘉禾が眉山県の蕭徳純の田に生え1本24穂、7月金水県の胥羅翊の田の禾が9穂、舒州監軍呉光謙の廨の粟畦で2本が枝分かれし10穂、臨渙県の民侯正の家で2本の禾が合して1穂となった。8月綿竹県の禾が9穂、夏州団練使趙光嗣が嘉禾1函を献上、10月濠州が瑞穀の図を献上。2年5月泗州が瑞麦を献上。3年2月洋州の嘉禾が合穂となり知州施翊が奏上、4月唐州・遂州盤石県がともに瑞麦を献上、5月黄州・建昌軍で麦が2〜3穂に、8月雅州の禾が1茎14穂、雄州でも嘉禾が生え、9月知代州李允正が嘉禾穂1匣を献上。咸平元年5月曲水県で麦が2〜3穂に、7月後苑の嘉禾が1茎24穂、百丈県の民李文宝の禾が1茎17穂、8月蘇州廨後園・邠州の民田でともに合穂の禾が生じ、平夷県の民王義の田では2穂が合して1つとなり、化城県の民張美の田の禾は9穂。2年5月華州で麦が2〜3穂、7月資官県の吏董昭美の禾が1茎9穂、棣・洺の二州でも嘉禾が合穂となり、彭城県の民張福先の田の粟が1茎4穂に分かれ、8月郪県趙範の粟が1茎9穂、玄武県の民李知進の田の粟が1茎から5苗に分かれ計21穂となり、榆次県の民周貴の田の禾は3茎で共に1穂をなした。3年5月鄼県・海陵県でともに麦が2〜3穂、7月真定府の禾が3茎で1穂、達州の民李国清の田の禾が1苗9穂、8月辰州の公田の禾に1茎3穂が4本、隰州の嘉禾が合穂の図とともに献上された。4年8月舒州で嘉禾が生え、9月知河中府郭堯卿が嘉禾合穂の図を献上。5年8月臨汾県の民吉遇、洪洞県の民范思安の田でともに隣の畝を越えて禾が1つに合わさった。6年7月渉県の民連罕の田では4畝離れた禾が同じ穂に、銅梁県の民楊彦魯の禾は1茎9穂。景徳元年正月寧晋県の民耿待問の田で合穂の禾が3本生え知州王用和が図に描き献上。2年7月獲鹿県の禾が合穂、8月滎陽県及び相州で異なる畝の禾が同じ穂となり、9月并州が嘉禾の図を貢進。3年8月大名府・滄州でともに嘉禾が生え、真定府では異なる畝の禾が同じ穂に、9月栄州の禾は1茎18穂。4年6月南雄州保昌の民田の禾は1本9穂で図を献上、7月神泉県の民張篆の田の禾は1苗9穂、貝・兖の二州で嘉禾が合穂に、9月衛・徳の二州及び広安軍がともに嘉禾の図を献上。大中祥符元年、曲水県・南鄭県でともに麦が2〜3穂、7月乾封県奉高郷の民田の禾が異なる畝で同穂となり判州王欽若が奏上、8月鄆州が嘉禾を献上、淳化県の民賀行満の田では4畝離れた禾が合して1穂に、新平県の民尹遇の田では合穂の禾が2本、真定府の粟が2穂を生じ、9月灃州の嘉禾が1茎10穂、虢州団練使綦興が合穂禾を献上、嘉州の民潘徳麟の田の禾は2茎それぞれ9穂、麟州でも嘉禾が生じた。2年6月簡州の民集若寧の家の禾が9穂、7月黔州の嘉禾が異なる畝で合穂に、8月嘉州廨庭に1茎14穂の禾が生じ、岐山県では異なる畝の禾が同穂となり知州施護が奏上。3年4月同州で麦が2〜3穂、7月冀・淄・昭の三州で嘉禾が多穂で異畝同穎、8月寧化軍の嘉禾が合穂に、宝鼎県の民張知友の田では4畝離れた禾が合穂となり判府陳堯叟が奏上、楼煩県の民田の禾は異なる本から同穂となり、劍州の嘉禾は1茎9穂。4年3月辛巳、帝が西京に至った際、福昌県の民朱懿文の嘉禾が1本7穂、昌元県の民舒元晃の田の禾が1茎9穂と知州柴徳方が奏上、金水県の民田の禾は1茎36穂。4月六安県で麦が2〜3穂、5月唐・汝・廬・宿・泗・濠州で麦が自生し、8月蜀州の禾が1茎9穂、長寿県の民常自天の田では合穂の禾が2本、蒲県では異畝同穎の禾が生じ、9月知虢州李昭が合穂禾を献上。5年4月遂州で麦が両穂あるいは3穂に、7月華州の禾が1茎2穂、真定府の4県で嘉禾が合穂となり、8月京兆府に嘉禾が生じ、9月巴州の禾は1茎24穂と1茎17穂。6年3月邕州で麦が両穂あるいは3穂に、7月益州の嘉禾が9〜10穂、朝邑県の民田の禾が8茎で同穎、已未皇帝が近臣を後苑に召し嘉禾(7穂から48穂まで)を見せ絵に描いて百官に示した。8月龍門県・永定軍・博野県の民田でともに嘉禾の合穂が生じ、瀛州の嘉禾を知州馮守信が奏上、忻州秀容・定襄の二県の民田で禾が合穂に、保定軍の公田・大通監でともに嘉禾が生じ、9月京兆府が長安県の嘉禾(一枝双穂)の図を献上。7年、通泉県尉劉定辞の官廨の禾が1本6穂、邯鄲県の民馬文の田で合穂の禾が2本、滁州の榷酒署内の禾が1茎3穂、晋原・平原の二県の民田の禾がともに1本12穂に。3月郾城県で麦が両穂あるいは3穂、8月知亳州李迪が1茎3穂から10穂までの禾を献上、府谷県の民劉善の田では3畝離れた禾が合して1穂となり、嵐州牙吏燕青の田の禾は1茎8穂と1茎5穂、遼州平城の民田では2畝離れた禾が合穂となり13本あるいは21本が合して1つになったものもあった。9月施州の禾は1茎9穂から12穂、真定・貝州でともに嘉禾が合穂に。8年、湖陽県で麦が両穂あるいは3穂、4月旭川県の民任慶和の田の禾は1茎9穂、閏6月眉山県の民楊文継・卭州の李義の田の禾がともに1茎9穂、7月永静軍で合穂の禾が2本あり監軍使仲甫が奏上、8月桂陽監の民何文勝の田の粟は1本2穂。9年4月建初県で麦が両穂あるいは3穂、8月判大名府魏咸信が合穂禾を献上、永静軍阜城県の民田の穀物では3畝離れて合穂となったものが2本、広州に嘉禾が生じ、安化県の民呉景延の田の禾は穂長1尺5寸、9月知鳳翔府趙湘・知汾州王守斌がともに嘉禾の図を献上。天禧元年7月、流江県の禾は1茎9穂。2年9月、河北安撫副使張昭遠が長さ1尺余の穀穂3本を献上、資州の禾は1茎9穂。3年7月、饒陽県の民楊宣の田では2畝離れた禾が合して1穂に、益州の嘉禾は1茎9穂。4年8月、内裏の玉宸殿で瑞穀の図(9穂・10穂のもの)を近臣に示した、9月郪県の民岑貫の田の禾が1茎9穂と知州蘇維甫が奏上。5年4月、河南府の民田の嘉禾が合穂となり知府王欽若が奏上、7月導江県の民趙元賞・青城県の民王偉の田の禾がともに1茎9穂。乾興元年5月、南劍州の麦が1本5穂、緜州で麦が両岐に、8月洋州の嘉禾が合穂に、11月高陵県でも嘉禾が合穂に。天聖2年8月乙酉、寧化軍の嘉禾が異畝同穎に。4年9月、栄州の禾は1本9穂。5年、資州の禾は1本9穂。6年、忻州の禾が異なる本から同穎に、5月乙未陳州の瑞麦は1茎20穂、6月陳州が瑞麦の図を献上。7年7月、河南府の嘉禾が合穂に。8年8月壬午、皇帝は近臣を元真殿に召し瑞穀を見せた。9年、膚施県の禾が異畝同穎に。景祐元年7月、磁州の嘉禾が合穂に、8月大名府の嘉禾も合穂に、9月涇州・磁州・保徳軍でともに嘉禾が合穂に、10月孝感・応城の二県で稲が二度実り、成徳軍の禾は1本9穂。3年5月、栄州の禾は1茎9穂。4年7月已巳、臨清県の穀物が60本異畝同穎となった。康定元年6月、蜀州・懐安軍でともに禾が9穂に。慶暦2年、寿安県の嘉禾が合穂に。6年5月、昭化県の禾が1茎両岐に、8月趙州・懐州でともに嘉禾が異畝同穎に、9月定襄県の嘉禾が2畝離れて合穂に、長江県の禾は1茎10穂、12月石照等の県で野生の穀物が自然に生じた。7年9月、汾州・栄州・徳州でともに嘉禾が合穂に。皇祐元年、密州の禾が合穂となったもの5本、永康軍の禾は1茎9穂。2年9月、延州・石州でともに嘉禾が異畝で合穂に、永康軍の嘉禾は1茎9穂、12月密州の禾は10茎で1穂に合わさり石州は4茎で1穂に合わさった。3年5月、彭山県が瑞麦の図(1茎5穂のもの数本)を献上、皇帝は「朕はかねて四方に瑞祥を献上させることを禁じてきたが、今回西川の秀麦の図を得たのは真の瑞祥と言える」と述べ、田夫に束帛を賜い奨励した。この月滁州の麦は1茎5穂。4年8月、嘉州・蜀州でともに嘉禾が1茎9穂、9月南劍州の禾は1本双茎で20穂。5年3月、資州の嘉禾は1茎9穂、閏6月資州で麦が両岐に、7月鄆州・祁州の禾が異畝同穎に、9月成徳軍の嘉禾が異畝同穎に、緜州の禾は1茎9穂。至和元年12月、蜀州の嘉禾は1茎9穂。2年5月、亳州で麦が両岐に、6月応天府が大麦1本70穂・小麦1本200穂を貢進、8月卭州の嘉禾は1茎9穂。嘉祐3年6月、緜州の麦が1穂で両岐に、7月泰山が瑞麦の図(5本で計501穂)を献上。4年6月、彰明県で両岐の麦が100余本。5年3月、崇安県の嘉禾は1本90茎。7年、陵州の禾は1茎9穂、9月平遥県の禾が異畝で合穂に。熙寧元年、永興軍の禾は1茎4穂、眉州の禾は1茎9穂。4年、乾寧軍の禾が2茎で合穂に、成徳軍・晋州・汾州の禾が異なる畝から同穂に。6年、南溪県の禾は1苗9穂。8年、懐安軍・瀘州・渠州でそれぞれ麦が両岐に、安喜県の禾が2本で5畝離れて合穂に、平山県の禾が合穂となったもの2本、保塞県の禾7本が1畝あるいは2畝離れて合穂に、潞城県の禾も合穂となったもの2本。9年、火山軍の禾が5畝離れて合穂に、束鹿・秀容の二県で4畝離れて合穂、渤海県ではすべて異なる畝から同穎に、流江県の禾は1苗9穂、譙県の麦は1本3穂、尉氏・湖陽・彭城の3県の麦は1本2穂、渠州の大麦は1穂で両岐〜4岐のものがあり、陽翟県の麦が両岐に、天興・宝鶏の二県はともに麦が両岐でさらに1本に3〜4穂または6穂を持つものがあり、石州・安州でも麦が両岐に。10年、磁州の禾が合穂に、眉州の禾は9穂、亳州の禾は2穂。元豊元年、武康軍の禾は1茎11穂、汝州の禾が合穂に、寧江軍の禾は1茎10穂、邢州の麦が両岐に、夔州の麦は1本3穂。2年、簡州・安徳軍で麦が両岐に、曹州に瑞禾が生じ、北京安武軍・懐州・鎮戎軍の禾が合穂に、鎮戎軍・懐州の禾はすべて異畝同穎に、袁州の禾は1茎8穂から11穂まで層をなし長いものは1尺余、安州の禾は異畝で合穂に。3年、眉州の禾は1本9穂、斉州の禾は1茎5穂、趙州の禾は2本合穂に、安州の麦は1本3〜5穂で計14茎、深州の麦が両岐あるいは3〜4穂で計40畝に及び、眉州の麦も両岐に。4年、徐州の麦は1本172穂、代州の禾が合穂に、襄邑県の禾は1本9穂。5年、高邑県の禾は1茎5穂、青州・安粛軍・憲州の禾がすべて異畝同穎に。6年、洪州の7県で稲が収穫後再び実り、威勝軍武郷県の禾が2本5畝離れて合穂に、歴城県の禾が2本合穂に、趙州の禾が3畝離れて合穂に、唐州の禾は2穂のものが4本、瀘州の禾は9穂、懐・青・濰の三州の禾はすべて異なる畝から同穂に、府州・陝州・保平軍の禾がすべて合穂に。7年、蜀州の禾は9穂、青州の禾は11本が異畝同穎、同州の禾も異畝同穎、合州の麦は両岐に。8年、亳州の麦は1茎2穂・1茎3穂・1茎4穂、鎮潼軍の秫禾苗は異なる畝から同穂に、岷州の禾はすべて4穂、泰寧軍の禾は異なる本から同穎のもの3本、この年の秋冬、保・澤・趙・鄂・隰・滄・濰・密・簡・饒の諸州・威勝軍で禾が合穂あるいは異畝同穎に。元祐元年、簡州の禾が合穂に、石州の禾が異畝同穎に。2年、忻・隰・磁・濰・懐州の禾が異畝同穎に、趙・易州の禾が合穂に。3年、祁・保・彭州の禾が異畝同穎に、瀛・磁・代・豊州及び安国軍の禾が合穂に、劍州・安国軍の麦が両岐に、夔州の麦は1本12穂。4年、泰寧軍の麦が異畝同穎に、流江県の禾は1本2穂、栄徳県の禾は1本9穂、青・鄭・斉・趙州の禾が合穂となり1本3穂のものもあり、峨眉県の禾が異畝同穎、さらに1つの禾が153穂に及んだ。5年、冀州・安武軍・大名府・威徳軍の禾が合穂に、永寧軍の禾が2本5畝離れて合穂に、平定軍の禾が異畝で合穂に、汀州の禾は36穂、劍州の禾は1本8穂、普州の麦は1茎双穂、夔州の麦が5岐に。6年、汝陽県・美原県・兖州・鄒県の麦が1茎で数穂、南劍州の粟は1本39穂、瀛・定・懐・汝・晋・昌州・平定・永康軍の禾が合穂に。7年、均・兖・祁・滄・資・華・柳州の禾が合穂に、鄂州の禾は1本1枝2穂・3本3枝2穂、仙源県の禾が異なる畝で合穂に、耀州の粟が2茎で2畝離れて合して1穂に、梁山軍の禾は1茎9穂、固始県の麦に双穂のものがあり、定陶県・丹陽県で麦が両岐に。紹聖元年、博野県の麦は1本5穂、漢陽軍の麦が両岐に、楽寿県の麦は1本2穂あるいは3穂、懐安軍の禾は1本9穂。2年、青・濰・果・冀・徳・浜・嵐・濮・達州の禾が合穂に。3年、安武軍の禾が合穂に、嵐州の禾が2根合穂となったもの2本、普・相・青・斉・嵐州及び永康軍の禾が異畝同穎で9穂まで合秀に、泉州の粟は2本で5穂あるいは8穂、瑕丘・武陟・陝城・小渓の4県の麦が合穂に、良原県・沈丘県・長子県の麦が両岐に。4年、河中府の麦が3穂に、虹県・雲安県の麦が両岐に、茂州の麦は1枝2穂、汶山県は1枝3穂から6穂まで、西京・鄆・斉・隰州の禾が合穂に、穎昌府の禾は1茎4穂から5穂。元符元年、慶州の禾が異なる本から同穎に、青・晋・潞州・荊南府・永寧・鎮戎軍等11箇所の禾が合穂に、邢州の禾が異なる畝で合穂に、南劍州・嘉州の禾は1茎9穂、内郷県の麦は1茎2穂、符離・霊壁・臨渙・蘄・虹の5県の麦が両穂に、両当県の麦が3穂に、安平県に瑞麦が生じた。2年、漣水軍の麦が合穂に、鄧・岷州・鎮戎軍の禾が合穂に、11月岷州宕昌砦に瑞麦が生じた。建中靖国元年、沛県・晋州の禾が合穂に。崇寧元年、淄州の禾が合穂に。2年、晋寧軍・忻州の禾が合穂に。5年、河南府・保徳軍・慶・蘭・潭・冀府州・岢嵐軍の禾が合穂に、淮西路では民田がすでに刈られた後にまた実った。大観元年、蜀州の粟は1茎9穂。2年、鞏州の粟は1茎6穂、鎮潼軍・隆徳府・保徳軍・慶・蘭州の禾が合穂に、武信軍の禾は1茎9穂、簡州の麦が両岐に。3年、武信軍・瀘・遂・普州の麦が両岐に。4年、蔡州の麦が1茎両岐から7〜8岐まで計90畝に及び、9月尚書左僕射張商英が袁州の瑞禾の図及び宋大雅が撰した「修嘉禾」十三章を上奏し、詔して褒答し、商英の求めにより中書省右僕射庁の壁に写し掲げることを許し、三省枢密院にも同観を許した。政和元年、知河南府鄧洵武が秋の実りが大いに実り双穂から10穂以上の嘉禾が並ぶことなく生じたと奏上、栄州の粟は1茎9穂、蔡州の麦は1茎両岐から3〜5岐、8〜9畝から近くは10畝、遠くは連野に及んだ。2年、知定州梁士野が嘉禾合穂の1株について、5畝隔てて計6尺3寸離れた所から生じて1穂となったこと、また中間の畝の1株から3茎が生え3穂の粟を結んだことを奏上。5年、鄧州仙井監の嘉禾が合穂に、この冬台州が寧海県の早稲(1本2粒米のもの)計3石を進上、当時ちょうど明堂の儀礼を整備していたためこれと合わせて典礼を成し詔して拝表しての祝賀を許した。以後史官は多く奇祥異瑞を記録するようになり麦・禾のことは常事として記さなくなったが、宣和末に郭薬師が「嘉禾合穂」を新たに収復した地の事として記したのみである。
羽虫の孽(鳥類の異変)
- 建隆3年7月、南唐の李景が鳳の卵を献上。雍熙4年10月、知潤州程文慶が垂纓のような毛を持つ鶴の頸を献上。端拱元年8月、清遠県の廨舎に鳳凰が柏樹に集まり高さ6尺、多くの鳥がこれに従い東北へ去ったため知州李昌齢が図を献上。至道元年9月、京師で朝から夕方まで百万余の群鳥が音を立てて飛翔し、識者はこれを「突厥雀」と呼んだ。景徳元年5月庚寅の午時、白州に3羽の鳳凰が東から城中に飛来し多くの鳥がこれを取り巻き万歳寺楼の百尺の木の上まで至った、身長9尺高さ5尺で五色の文様と金の杯のような冠を持ち、申時に北へ向かって去り絵に描いて奏上された。大中祥符元年春、昇州で黄雀の群れが日を遮るほど飛び空から落ちるものもあり、占いで民に労役の事があると出、この年火災も起こった。宝元2年、長挙県に嘴と脚が紅い普通と異なる白鵲が現れた。治平4年5月、太子右賛善大夫陳世修が白い烏を献上。熙寧7年6月乙未、増城県で鳳凰が現れた。元豊3年8月戊寅、平棘県で白い鵲を得た、9月丙午趙州でも白い烏を得た。6年7月壬申、丹州で白い鵲が生まれた。至和3年(実際は嘉祐年間か)9月、明堂での大饗の際に鶴が堂上を回翔し、翌日には上清宮でも飛翔したため各地から瑞鶴の報告が相次ぎ宰臣らの拝表祝賀は数え切れないほどであった。宣和元年9月戊午、蔡京らが赤烏を拝賀し、さらに白鵲も拝賀した。政和年間以後、禁苑の多くが村里の家や野の店のように作り変えられ、麀鹿・駕鵝・禽鳥数百がその中に飼われ、宣和年間には秋風の夜静かな折には禽獣の鳴き声が四方に響き渡り深山大沢の趣であったため、識者はこれを不祥とした。宣和末、南郊の礼を終えて郊宮の端拱殿に還御した際、まだ夜が明けきらぬうちに百官が祝賀を称えようとしたところ、突然梟が殿屋にとまって鳴き、あたかも拝礼の声に応じるかのようであったため聞く者は驚いた。時にすでに女真が盟約に背いたことが報告されており、1か月足らずで内禅(退位)が行われ、翌年には都が陥落する難に至った。建炎3年、高宗が揚州にいた折、2月辛亥の早朝、翠羽の鳥が行殿を3周鳴きながら飛び、1度2度宰臣汪伯彦の朝冠に止まった、尊い服に鳥が止まるのは不祥とされ、翠羽はまた青祥(青色の異変)にも当たる。劉向はかつて「野鳥が宮に入るのは宮室が空になる前兆、あるいは敗亡の応である」と述べている。この月金軍が揚州に侵入し急遽渡江する事態となり、まもなく汪伯彦は宰相を罷免された。4年正月丁已、金軍が陝州を包囲した際、鳶や烏数万羽が城上を飛び騒ぎ戦いの声と入り混じった。金将婁宿(原文「婁室」の誤りか)は「城はまもなく陥落するだろう」と述べ攻撃を強めたところ守りが破られた、これも羽の妖異とされる。7年、劉豫の後苑で梟が鳴き、さらに群鳥が内庭で鳴いたのが「休(吉)」と言っているように聞こえたため劉豫はこれを嫌い、梟を捕らえた者に銭5000を与えると募ったところ、この年偽斉(劉豫の政権)が滅んだ。17年2月、白鳥6羽が高禖壇の上に集まり府尹沈該が瑞として奏上。27年、饒州鄱陽県に鳧の身体に鶏の尾・長い嘴・四角い足・赤い目を持つ怪鳥が現れ民家に数日とまり、矢を射ても当たらなかった。乾道6年、卲武軍泰寧県で雀が飛び鳴きながら瑞寧仏刹の香炉の上で立ったまま死んだ、これに先立ち紹興初にもこの邑で雀が丹霞仏刹の香炉で立ったまま死んだことがあり、いずれも羽の妖異であるが仏教徒はこれを「雀化」と称した。慶元3年春、池州銅陵県で鴛鴦の雄が雌に変化した。
羊禍(羊にまつわる異変)
- 紹興5年、江東西で羊の大疫。17年、汀州で角のない羊が生まれた。嘉定9年、信州玉山県で頭が並んだ羊が生まれた。
赤気(赤い光の異変)
- 端拱元年11月戊午夜、西北方に日脚のような赤気が高さ2丈にわたり現れた。咸平6年6月辛未、赤気が婁・天廩の星域に出現、占いで「倉廩に火災あり」と出た。景徳3年3月丙辰、北方に赤気が天を貫いた。大中祥符3年12月癸亥、青赤の気が紫微垣を貫いた。慶暦3年12月26日、天雄軍・徳・博州に紅雪が降り血のようであった。熙寧2年11月、毎晩西北隅に火のような赤気が現れ人定(夜10時頃)に消えた。元祐3年7月丁卯夜、東北方が昼のように明るくなり、まもなく赤気となり内部に白気が天を経った。建中靖国元年正月朔の夕方、東北から赤気が起こり西方まで広がり、しばらくして中から白気が2条出て赤気が散ろうとした頃さらに黒気がその傍らに現れた。宣和元年4月丙子夜、西北方に数十条の赤気が天を貫き紫宮・北斗を犯し、星を見ると絳紗を隔てたように見え、裂けるような音がして黒白二気が西北から東北を経て東南に及び夜明けまで続いた。靖康元年9月戊寅、赤気が日とともに現れた。建炎元年8月庚午、東北方に赤気が現れ占いで「血祥」と出た。4年5月、洞庭湖の夜に火のような赤光が東北に現れ天を貫きまもなく東南に転じた、これも血祥である。壬子夜、西北方に天を覆う赤気が現れ十数条の練のような白気を貫き北斗・文昌・紫微を犯し東南から散った。紹興7年正月乙酉夜、北方に赤気が夜明けまで現れ、辛卯斗牛の間に火のような赤気、11月癸卯南方に赤気が現れ東北がすべて赤雲となり日没から甲夜まで続いた。8年9月甲申、赤気が紫微垣に現れた。18年8月丁亥・9月甲寅、いずれも火のような赤気が現れた。20年11月、建昌軍新城県永安村で大風雪の夜半、数百千人が行き来し語り笑い歌い泣くような雑多な声が聞こえたが、突如厳寒に閉ざされ咫尺も判別できなくなり、翌朝雪の中に人畜鳥獣の足跡と血の汚れが十余里にわたり山に入って消えていた。27年3月乙酉、赤気が紫微垣に現れ、7月壬申赤気が日とともに沈み、10月壬寅火のような赤気が現れた。30年2月壬申も同様。32年春、淮水が溢れた中に凝血のような赤気が現れた。隆興2年11月庚寅、日没後に赤雲が続いた。乾道元年8月壬午、赤気が天中に現れ日没から甲夜まで続いた。6年10月庚午、赤気が日とともに現れ、11月丁丑赤雲が日没とともに甲夜まで続いた。7年7月壬寅、10月乙巳・丙午にも同様。淳熙3年8月丁酉・戊戌、いずれも赤気が日の出入りとともに現れた。13年、行都の民家で地中から血が湧き出し人の衣を汚した。14年11月癸丑・甲寅、赤気が日の出入りとともに現れた。紹興3年春(紹熙の誤記か)、潼州路で久しく旱が続き日月星がすべて赤気を帯びた。4年11月甲戌、赤雲が夜に現れ白気が交じった。慶元6年10月、赤気が夜に天を横切った。嘉泰4年2月庚辰夜、赤雲に白気が交じり東北の天を貫き、8日後国に大火があり占者はこれを火祥とした。嘉定6年10月乙卯、赤気が日とともに現れ、11月辛卯も同様。端平3年7月甲申、天から血の雨が降った。宝祐2年、蜀で血の雨が降った。
火の怪異
- 開宝7年6月、棣州で空から火が城北に落ち龍のような物が現れた(詳細は前巻の五行一下参照)。端拱元年9月、瀘州の塩井が枯れ、匠の劉晩が入って調べたところ雷のような音とともに火焔が突出し劉晩は傷を負った。建炎元年正月辛卯夜、西北の陰雪の中に火光のようなものが現れた。紹興32年、建昌軍新城県の巨室の箱の中に時折火光が現れ衣帛の半分以上を焼いたが箱自体は焼けなかった、これも火の妖異に近いとされる。