宋史卷六十二 志第十五 五行一(水下)

雪(大雪・氷雪の異変)

  • 建隆3年春、延・寧の二州で雪が1尺積もり、溝洫が再び凍り草木が花をつけず、丹州では雪2尺。太平興国7年3月、宣州で霜雪が桑と稼を害す。雍熙2年冬、南康軍で大雨雪により江水が凍り重い荷を載せられるほどになった。端拱元年閏5月、鄆州で風雪が麦を害す。淳化3年9月、京兆府で大雪により苗稼を害す。4年2月、商州で大雪により多数凍死。咸平4年3月丁丑、京師及び近畿諸州で雪により桑を損なう。天禧元年11月、京師で大雪、厳寒で多数凍死し道に凍死体があったため中使に命じて四郊に埋葬させた。2年正月、永州で大雪が6昼夜止まず、江陵の溪魚もみな凍死。慶暦3年12月丁巳、大雨雪。皇祐4年12月已丑、雪が予定通り降らなかったため皇帝は自らの過ちとして節食し、輔臣を見るたびに憂色を示し、龎籍らは陰陽を調えられなかった罪として辞任を願い出たが、皇帝は「これは朕が天を感じさせられず民に恵みを及ぼせなかったためで、卿らの過ちではない」と答え、その夕方雪が降った。至和元年正月、京師で大雪、貧しい民に凍死者多数。嘉祐元年正月甲寅朔、大慶殿で朝賀を受けるため前夜に儀仗を整えたが大雨雪により宮の架構が折れ、皇帝は風眩を感じて式を早めて終えた。壬午、大雨雪により泥がすべて凍り、都の民に寒さと飢えで死ぬ者が多数。元祐2年冬、京師で大雪が数か月続き春まで止まず、長い曇天と寒さのため上元節の遊幸を取りやめ徳音を諸道に降した。8年11月、京師で大雪、流民多数。元符2年正月甲辰朔、大慶殿での朝賀が雪のため中止。政和3年11月、大雨雪が10余日続き平地で8尺余、氷で道が滑り馬が進めず百官に輿での参内を命じ、飛鳥も多く死んだ。7年12月、大雪、内外の乞食や孤児老人を収容するよう詔した。靖康元年閏11月、大雪が3尺積もり止まず天地が暗くなり、雪の前に陰雲の中に数寸の雪糸が垂れることもあった。2年正月丁酉、大雪で天候厳寒、地面は鏡のように凍り立つこともできなかった。この月乙卯、皇帝は青城におり大雪数尺、多数凍死。建炎3年6月、寒し。紹興元年2月寒食の日に雪。5年2月乙巳、雨雪。6年2月癸卯、雪。13年3月癸丑、雨雪。17年2月丙申、雪。18年2月癸卯、雪。28年3月丙寅、雨雪。29年2月戊戌、大雪。31年正月戊子、大雨雪が己亥まで続き、禁旅の塁舎で圧死者あり。乾道元年2月、大雪、3月にも暴寒により苗稼を損なう。2年春、大雨寒が3月まで続き蚕麦を損なう、2月丙申雪。4年2月癸丑、大雪。5年2月戊子、雪。6年5月、大風雨寒により稼を害す。7年2月丙辰、雨雪。淳熙12年、淮水が氷結し流れが断たれ、この冬大雪が12月から翌年正月まで続き、雪・霰・雹・雨が入り混じり氷が尺余に固まり数日解けず、台州では雪が丈余積もり凍死者多数。16年4月戊子、天水県で大雨雪により麦を害す。紹熙元年3月、寒さが立夏まで残り、12月建寧府で大雪が数尺積もり、査源洞の賊張海が挙兵し民が山に逃げ込み凍死者多数。2年正月、行都で大雪が積もり凍り河氷が尺余、寒さ厳しく、この春雷雪が相次ぎ凍雨が1か月続いた。4年2月已未、雪。慶元5年2月庚午、雪。6年2月乙酉、雪、5月には暑気がなく秋のように涼しかった。開禧3年2月戊申、雪。嘉定元年2月甲寅、雪。4年2月丙子、雪。6年2月丁亥、雪、6月には暑さがなく夜は寒かった。9年2月乙酉・丙申、雪。10年2月庚申・壬戌、雪。17年3月癸丑、雪。宝慶元年4月辛卯、雪。紹定4年2月已巳、雨雪。6年3月壬子、雨雪。端平元年2月癸酉、雨雪。2年3月乙未、雨雪。嘉熙2年2月乙未、雨雪。淳祐6年2月壬申、雨雪。宝祐元年2月壬子、雨雪。2年3月戊子、雨雪。6年2月、雨雪。開慶元年2月庚辰、雨雪。景定5年2月辛亥、雨雪。

霜(降霜による被害)

  • 建隆3年春、厭次県で霜が降り桑を枯らし民が養蚕できず。淳化3年3月、商州で霜花により作物が全滅。景徳4年7月、渭州瓦亭砦で早霜により稼を害す。大中祥符9年12月、大名・澶・相州で霜害稼。至和2年、河東で春から霜が降り桑を枯らす。紹興7年2月庚申、霜が桑と稼を害す。淳熙16年7月、階・成(底本「城」、成の誤りか)・鳳・泗・和州で霜がほぼ稼を全滅させる。紹熙3年9月丁未、和州で連続3日隕霜により稼を害し、この月淮西の郡国の稼もみな被害。嘉熙元年3月、霜。

雹(雹害)

  • 建隆元年10月、臨清県で雨雹により稼を害す。2年7月、義川・雲岩の二県で大雨雹。4年7月、海州で風雹。乾徳2年4月、陽武県で雨雹、宋州寧陵県で風雨雹により民田を害す、6月潞州で風雹、7月同州郃陽県で雨雹により稼を害す、8月膚施県で風雹により民田を害す。3年4月、尉氏・扶溝の二県で風雹により民田桑棗の8〜9割が損害。開宝2年、風雹により夏の苗を害す。太平興国2年6月、景城県で雨雹、7月永定県で大風雹により稼を害す。5年4月、冠氏・安豊の二県で風雹。7年5月、蕪湖県で雨雹により稼を害す、8月相州で風雹により民田を害す。端拱元年3月、霸州で大雨雹により麦苗を害す、閏5月潤州で雨雹により麦を害す。淳化元年6月、許州で大風雹により軍営民舎1156区を破壊、魚台県で風雹により稼を害す。至道2年11月、代州で風雹により田稼を害す。咸平元年9月、定州北平等県で風雹により稼を害す。3年4月丁巳、京師で雨雹、飛鳥が落ちるほど。6年4月甲申、京師で暴雨雹、弾丸大。大中祥符3年、京師で雨雹。5年8月丙辰、京師で雨雹。天禧元年9月、鎮戎軍彭城砦で風雹により民田800余畝を害す。天聖元年5月丙辰、大雨雹。2年7月壬午、大雨雹。6年、京師で雨雹。嘉祐4年4月丙戌、雷とともに雨雹。熙寧元年秋、鄜州で雨雹。3年7月、7年4月・5月に京師で雨雹。8年夏、鄜州・涇州で雨雹。9年2月、京師で雨雹。10年夏、鄜州で雨雹、秦州で大雨雹。紹聖2年10月辛未、西南方に雷鳴の後大雨雹。4年閏2月癸卯、京師で辰から申の刻まで雨雹。建中靖国元年2月丙申、京師で雨雹。5年(崇寧か)辛酉、京師で大雨雹。崇寧3年10月辛丑、京師で雨雹。大観元年10月已已、3年5月戊申、京師で大雨雹。政和7年6月、京師で大雨雹、大きさは拳ほどまたは升器ほどで、しばらくして止んだ。宣和4年2月癸卯、京師で雨雹。4年3月朔、雨雹。靖康元年12月已卯・庚辰、京師で雨雹。建炎3年8月甲戌、大雨雹。紹興元年2月壬辰、高宗が越州にいた折に雨雹雷震。2年2月丙子、臨安府で大雨雹。3年正月、雨雹雷震。4年3月已未、大雨雹により稼を害す。5年閏月乙巳朔、雨雹の後雪、10月丁未夜秀州華亭県で大風電雨雹、荔枝の実ほどの大きさで舟を壊し屋を覆す、12月戊辰雨雹。7年2月癸丑、雨雹(前日雷、翌日雪)、癸丑また雹。8年6月丙辰、大雨雹。9年2月甲戌、雨雹により麦を害す、12月辛未雨雹。10年2月辛亥、大雨雹、12月庚辰雨雹。11年正月辛酉、雨雹。13年2月甲子、雨雹により麦を害す、5月戊午夜雹、7月庚午・壬申雹害稼、11月已未雨雹。17年正月庚辰、雨雹、5月丙寅また雹。21年3月已卯、雹により禾麦を害す。28年4月辛亥、雨雹。29年2月戊戌、雹により麦を損なう。隆興元年3月丙申夜、雨雹。2年3月丁丑、雹と霰が同時に降り、4月庚午雹、6月雨雹、7月丁未雨雹、10月辛卯雨雹、12月已亥雨雪と雹、閏月雨雹。乾道元年2月庚寅夜、雹。2年10月辛卯、雨雹、2月壬午雪・癸未雹(原文順序のまま)。4年正月癸未夜、霰まじりの雹、2月丁酉・癸丑雨雹、乙卯雹の後雪。5年2月丙午、雹により麦を損なう。6年2月壬午、同様。8年7月壬辰、雨雹。淳熙3年4月丁亥、雨雹、癸巳天台・臨海の二県で大風雹により麦を害す。4年正月、建康府で雨雹、5月丙寅雨雹。5年、建康府で雨雹が2度。6年正月丁丑、雹により麦を害す、3月壬申夜大雨雹。8年12月甲寅、雨雹。12年2月辛酉夜、雨雹。13年閏月丙午、雨雹。15年2月丁亥、雨雪と雹、6月丁卯雨雹。16年2月已卯、雹の後雨。紹熙元年2月丙申、雪、丁酉雹。2年正月戊寅、大雨雹雷電、2月庚辰大雪が数日続き、庚寅朔建寧府で大風雨雹により屋が倒れ人を殺す、3月癸酉大風雨雹が桃李の実ほどの大きさで平地に1尺積もり廬舎5000余家を破壊し禾麻蔬果すべて損なう、瑞安県も同様で屋を壊し人を殺す被害が特に甚だしい、秋祐川県で大風雹により粟麦を害す。慶元3年2月戊辰、雪、已巳雹、4月乙丑雨雹が杯ほどの大きさで瓦を破り燕雀を殺す。嘉泰元年3月丙寅、雨雹が3日続く、5月丁丑雨雹、7月癸亥大雨と雹。2年4月庚寅、雨雹により稼を害す、6月庚子大風雹と寒さ。4年正月壬辰、雪と雹。開禧2年正月已酉、雹と雷。嘉定元年閏月壬申、雨雹により稼を害す。2年3月乙未、雨雹。6年夏、江浙の郡県で多く雨雹により稼を害す。15年9月癸丑、大震と雨雹。16年秋、雨雹。紹定元年5月丁酉、雨雹。5年9月壬寅、雨雹。6年3月丙辰、大雨雹。端平2年5月乙未、雹。3年6月庚戌、雨雹。嘉熙元年2月壬辰、雨雹。淳祐2年4月壬申、雨雹。8年2月壬辰、雨雹、3月乙丑雨雹。9年正月、雨雹。宝祐3年5月、嘉定府で大雨雹。開慶元年5月辛亥、雨雹。景定元年2月庚申、雨雹。

雷(雷震・雷鳴の異変)

  • 建隆4年4月癸巳、宿州で晴天にもかかわらず雷霆が暴発し軍校傅韜が震死、同夜半に京師開封県署で雷が起こり役夫劉延嗣・万進が震死したが劉延嗣はしばらくして蘇生し、体中を焦がしていた。乾徳2年正月辛巳、京師の西南方で雷霆と稲光、5月戊寅大名府で大雨雷により蔵書が焼失。4年7月、海州で雷震により刺史庁の吏が被害、刺史梁彦超が傷を負う。開宝7年6月、易州で雷震により耀武軍士8人が死亡。8年8月、卭州延貴鎮で雷震により民費貴とその子4人が死亡。太平興国2年7月、景城県で雷震により牛商・馮異が死亡。端拱2年8月、興化軍民劉政が雷震死、胸に「大不孝」の文字が現れた。淳化3年7月、泗州で大風雨により僧伽塔の柱に雷震。至道元年3月甲戌、雷が音を発せず、司天監趙昭に問うと「占書によれば雷が音を発しないのは寛政の徴である」と答えた、7月泗州で大風雨雷震により僧伽塔と鐘楼が破壊。咸平元年正月戊寅、京師の西北方で雷電、11月瀛州・順安軍で東北方に雷。3年冬、黄州で西北方に雷震、盛夏のようであった、12月真定府で東南方に雷。4年10月乙巳、京師の西南方で雷電、閏12月大名府で雷。6年11月甲午、京師で暴雷震、司天が「国家が号令を発しても民に及んでいないためであろう」と奏上し、時の議論で改元・大赦とし、宰相に命じて条目を広め民の苦を除くよう詔した。景徳3年9月丙寅夕、京師で大震雷。大中祥符元年正月癸未、京師の西北方に雷、5年12月已巳京師の西北方に雷電、9年5月殿中の張信が南海への祝版奉呈の駅伝途上、唐州で震死。嘉祐4年4月丙戌、大震雷雨雹。慶暦6年5月、雷雹と地震。紹聖3年10月15日、西南方に雷鳴の後雨雹。大観3年10月戊子、大雷雹の後雨。建炎4年正月已未、雷。皇帝が温州章安鎮に船で滞在中、高宗は「雷声が甚だ厳しいのは、前史では君主が弱く臣下が強く、四夷の兵を制せられない兆しとされる」と宰臣に語り、この夕方に金軍が明州を攻略、壬戌また雷。紹興5年9月戊寅、雷、10月丁巳雷。6年10月丙午、雷。9年9月甲午・10月丁卯、雷。11年11月已酉、雷。15年10月辛卯・12月甲寅、雷。16年、温州で大雷電により龍翔寺で6人震死。18年閏月甲戌、雷。19年10月甲寅、雷。31年2月辛未、南安軍で大雷電により大庾県で4人震死、11月辛未夜震雷、12月癸酉雷。22年12月戊寅・已卯、雷。26年12月甲子、雷。27年9月癸未、雷。31年正月丁丑、雷。乾道3年11月丙寅、雷雨のため郊祀ができず、戊辰日南至(冬至)に大震雷。8年9月乙酉、雷。9年閏月癸卯、雷。淳熙9年9月壬午、雷。12年11月戊子・12月丁丑、雷。13年正月已丑、雷(35日後に雪)。14年11月乙卯、雷。16年7月乙丑、大雷震により太室斎殿東の鴟吻を破壊。紹熙元年9月辛酉、雷、11月壬午日南至の郊祀で風雨が大いに至り帝は震え恐れ病を得た。4年11月已卯日南至、辛巳雷。5年10月癸巳、大雷電。慶元2年正月戊子、雷、11月雷。3年10月癸亥、雷。6年9月已未、雷。嘉泰2年正月已巳、雷。3年正月、雷。4年正月辛卯、雷。開禧2年正月、雪と雷、9月雷。3年10月辛未・癸酉、雷。嘉定2年9月戊子、雷。3年正月、雷、10月壬申雷、8月辛丑・9月辛酉雷。4年9月、雷。5年7月戊辰、雷雨により太室の鴟吻に震。10月丁酉、雷。6年閏月壬辰、雷震電、乙未未明に重ねて雷。7年9月癸亥、雷。8年9月丙寅、雷。11年9月辛巳、明堂祭祀の大赦の日に震雷。14年10月庚午、雷。15年9月癸丑、雷。16年9月乙卯・12月壬辰、雷。17年9月丁亥、雷。宝慶2年9月庚申・10月辛丑、雷。紹定2年9月庚辰、雷。5年9月壬寅、雷。端平2年12月辛亥、雷。3年9月庚午、雷(この月明堂祭祀で大雨震電)、10月戊戌雷。嘉熙元年9月丁巳、雷。2年9月已酉・10月庚戌、雷。淳祐元年12月丙寅、雷。2年9月已丑、雷。3年3月丙辰、雷。10年11月壬午、雷。12年12月丁丑、雷。宝祐3年9月、雷。開慶元年10月乙酉、雷。景定2年10月戊戌、雷電、已亥雷電。咸淳4年閏月丁已・9月庚申、雷。9年10月癸亥・12月丙辰壬戌、雷。
  • なお、雲がないのに雷が鳴る異変もたびたび記録される。建炎(原文「七年」とあるが当時建炎年号は4年までのため疑わしい)5月、汴京で雲なくして雷。紹興30年10月壬戌、昼漏半ば(正午頃)雲なくして雷、癸亥も日中に雲なくして雷。淳熙14年6月甲申未明、太乙宮で雨乞いの最中、皇帝が輿に乗る前に宮中から大音が発し和寧門にまで達し、人馬が驚き踏み合い、巾や履物を失う者もあった。

魚孽(魚にまつわる異変)

  • 至道元年12月、広州で大魚が海水を叩いて跳ね出し死んだ、長さ6丈3尺、高さ1丈余。政和7年、雨中に2尾の魚が殿中省庁の屋根に落ちた。宣和2年3月、内裏で真っ赤な色の魚が出て蔡京らは史館に納めるよう願い拝表して賀した。紹興18年、漳浦県崇照塩場の海岸に連日巨魚が現れ、高さ数丈、肉を数百車分切り取り、眼をえぐった際に体が転じ隣の船まで覆した、また漁人が長さ2丈余、重さ数千斤の魚を捕らえ、腹を割くと人骨や皮膚・毛髪がそのままの姿で残っていた。24年4月、海鹽県の海洋に巨大な鰍がおり群れの小魚を従え歌うような声を発しながら岸に上がり砂上に伏し、なお鰭を揺らし跳ね上げ、その高さは県門と同じほどであった。乾道6年、行都の北闕に鮎魚が現れ、色は黒く腹の下から人の手のようなものが両側に5本ずつ出ていた。7年11月丁亥、洞庭湖で巨大な黿(すっぽん)が砂を這い舟を圧し、身の幅も長さも1丈余、舟に上がり首と足で重みをかけて艦を水没させた。淳熙13年2月庚申、銭塘龍山の江岸に象ほどの大魚が現れ、潮の満ち引きとともに現れては消えた。16年6月甲辰、銭塘の江辺の住民が5色の魚を得た、頭は鯽(フナ)で身は鯉、民は夢でこの魚を得たと偽って言ったが手にすると跳ね、話が伝わり有司はこれを放させた。慶元3年2月、饒州景徳鎮の漁人が魚を得た、尾が赤く鯉の鱗をもち頭が普通の魚と異なり、鎮の老人はこれを不祥とし、紹興2年にも同様の魚が出て後に水災があったと語ったが、実際にこの年5月に鎮で大水があり、いずれも魚の妖異とされた。嘉定17年、海が壊れ畿県の塩官の地数十里が被害を受けたが、これに先立ち巨魚が海岸を横切り、民がこれを切って食べ、海の被害はあわせて6年続いて治まった。

蝗(蝗害)

  • 建隆元年7月、澶州で蝗。2年5月、范県で蝗。3年7月、深州で蝻(幼蝗)が発生。4年6月、澶・濮・曹・絳等州で蝗、7月懐州で蝗発生。乾徳2年4月、相州で蝻が桑を食い、5月昭慶県で蝗が東西40里南北20里に広がり、この時期河北・河南・陝西の諸州で蝗発生。3年7月、諸路で蝗。開宝2年8月、冀・磁の二州で蝗。太平興国2年閏7月、衛州で蝻発生。6年7月、河南府・宋州で蝗。7年4月、北陽県で蝻発生したが飛鳥が食い尽くし、滑州でも蝻発生、この月大名府・陝州・陳州で蝗、7月陽穀県で蝻発生。雍熙3年7月、鄄城県で蛾と蝗が自然死。淳化元年7月、淄・澶・濮州・乾寧軍で蝗、滄州で蝗蝻が苗を食い、棣州で飛蝗が北から飛来し稼を害す。3年6月甲申、京師で蝗が発生し東北から西南に飛び、空を覆い日を遮った、7月真・許・滄・沂・蔡・汝・商・兖・単等州及び淮陽軍・平定・彭城軍で蝗蛾が草にすがって自然死。至道2年6月、亳州・宿・密州で蝗発生し苗を食う、7月長葛・陽翟の二県で蝻が苗を食い、歴城・長清等県で蝗発生。3年7月、単州で蝻発生。景徳2年6月、京東の諸州で蝻発生。3年8月、徳・博で蝝(蝗の幼虫)発生。4年9月、宛邱・東阿・須城の三県で蝗。大中祥符2年5月、雄州で蝻が苗を食い、3年6月開封府尉氏県で蝻発生、4年6月祥符県で蝗、7月河南府及び京東で蝗が苗葉を食い、8月開封府祥符・咸平・中牟・陳留・雍邱・封邱の6県で蝗、9年6月京畿・京東西・河北路で蝗蝻が相次いで発生し郊野を覆い民田をほぼ食い尽くし公私廬舎に入り込み、7月辛亥京師を過ぎて群飛し空を覆い江淮南から河東まで及んだが霜の寒さでようやく死滅。天禧元年2月、開封府・京東西・河北・河東・陝西・両浙・荊湖の130州軍で蝗蝻が再発、多くは前年に蟄伏していたもので、和州の蝗は稲粒のような細かい卵を産み、6月江淮で大風により蝗が多数江海に吹き飛ばされたり草木にすがって死んだりした。2年4月、江陰軍で蝻発生。天聖5年7月丙午、邢・洺州で蝗、甲寅趙州で蝗、11月丁酉朔京兆府で旱と蝗。6年5月乙卯、河北・京東で蝗。景祐元年6月、開封府・淄州で蝗、諸路で民を募って蝗の卵を万余石掘らせた。宝元2年6月癸酉、曹・濮・単の三州で蝗。4年、淮南で旱と蝗、この年京師でも飛蝗が空を覆った。皇祐5年、建康府で蝗。熙寧元年、秀州で蝗。5年、河北で大蝗。6年4月、河北諸路で蝗、この年江寧府に江北から飛蝗が飛来。7年夏、開封府界及び河北路で蝗、7月咸平県で八哥(ムクドリ)が蝗を食う。8年8月、淮西で蝗、陳・潁州で野を覆う。9年夏、開封府畿・京東・河北・陝西で蝗。元豊4年6月、河北で蝗、秋開封府界で蝗。5年夏、また蝗。6年夏、また蝗、5月沂州で蝗。元符元年8月、高郵軍で蝗が草にすがって死ぬ。崇寧元年夏、開封府界・京東・河北・淮南等路で蝗。2年、諸路で蝗、有司に命じて酺祭(虫害を鎮める祭)を行わせた。3年・4年、連年大蝗、山東及び府界・河北から飛来し空を覆い日を遮った。宣和3年、諸路で蝗。5年、蝗。建炎2年6月、京師・淮甸で大蝗、8月庚午長吏に命じて酺祭を行わせた。紹興29年7月、盱眙軍・楚州の境30里で蝗が風に落ちたが風がやむと再び飛んで淮北に戻った。32年6月、江東・淮南北の郡県で蝗が湖州境に飛来し風雨のような音を立て、癸巳から7月丙申まで畿県に広がり餘杭・仁和・銭塘すべて蝗となり、丙午蝗が京城に入り、8月山東で大蝗、癸丑酺祭の礼式を頒布。隆興元年7月、大蝗、8月壬申癸酉飛蝗が都を過ぎ空を覆い日を遮り、徽・宣・湖の三州及び浙東の郡県で稼を害し、京東でも大蝗、襄・随が特に甚だしく民は食に窮した。2年夏、餘杭県で蝗。乾道元年6月、淮西で蝗、憲臣姚岳は蝗を瑞祥として賀そうとした佞臣として貢死(罷免処分)となった。淳熙3年8月、淮北の飛蝗が楚州・盱眙軍の境に入り風雷のような音を立てたが大雨に遭い死滅し稼への被害は免れた。9年6月、全椒・歴陽・烏江県で蝗、乙卯飛蝗が都を過ぎ大雨に遭い仁和県境に落ち、7月淮甸で大蝗、真・揚・泰州で蝗5000斛余を穴埋めして駆除し、他郡では1日数十車を捕らえ、群飛して江を渡り鎮江府境に落ち稼を害した。10年6月、蝗の子孫が淮浙に残り稼を害す。14年7月、仁和県で蝗。紹熙2年7月、高郵県で蝗が泰州にまで及ぶ。5年8月、楚・和州で蝗。嘉定2年、浙西諸県で大蝗、丹陽から武進に入り煙霧のように空を覆い、亘る範囲が10余里に及び、常州の3県で8000余石を捕らえ、湖州の長興でも数百石を捕らえ、このとき浙東の近郡でも蝗が発生。開禧3年夏秋、久しく旱が続き大蝗が群飛し空を覆い、浙西の豆粟がすべて蝗に食い尽くされた。嘉定元年5月、浙江で大蝗、6月乙酉圜丘・方沢で祭を行い酺祭も併せて行い、7月また酺祭を行い酺式を郡県に頒布、2年4月また蝗、5月丁酉諸郡に命じて酺祀を行わせ、6月辛未飛蝗が畿県に入る、3年臨安府で蝗、7年6月浙郡で蝗、8年4月飛蝗が淮を越えて南下し江淮の郡で蝗が禾苗山林草木をすべて食い尽くし、乙卯飛蝗が畿県に入り、已亥酺祭を行い蝗のある郡には式の通り祭を行わせ、夏から秋にかけて諸道で蝗を捕らえた量は千百石を数え、飢えた民が競って捕らえ官は粟でこれを買い取った。9年5月、浙東で蝗、丁已諸郡に酺祭を命じ、この年飢饉となり官は粟で蝗を買い取り千百斛に及んだ。10年4月、楚州で蝗。紹定3年、福建で蝗。端平元年5月、当塗県で蝗。嘉熙4年、建康府で蝗。淳祐2年5月、両淮で蝗。景定3年8月、両浙で蝗。

豕禍(豚にまつわる異変)

  • 紹興10年春、野生の豚が海州の市に入り市民がこれを刺殺した、当時州はすでに陥落しており、夏に鎮江軍帥王勝がこれを攻め取ったが、翌年その郡が金に属することになったため民をすべて空にした。乾道6年、南雄州の民家で豚が数頭の子豚を産み、いずれも頭が他の獣の形をしていた。慶元初、楽平県の民家で豚が子豚を産み南雄と同様であったが、さらに他の獣の蹄を備えていた。3年4月、餘干県の民家で豚が8頭の子豚を産み、うち2頭は鹿の姿であった。古田県では豚が嬰児を食う異変もあった。

黒眚・黒気の異変

  • 淳化3年6月、黒風により昼が暗くなった。景祐4年7月、丈余の黒気が畢宿の下に現れた。康定元年、黒風により昼が暗くなった。元豊末、寝殿の上に夜な夜な席ほどの大きさの物が現れるようになり、神宗が崩御、元符末にもたびたび現れ哲宗が崩御した。大観年間には次第に昼間にも現れるようになり、政和元年以後は特に活発になり、人の話し声を聞くと現れ、まず家屋が倒れるような音がしてから、その姿は丈余ほどで亀に似て金色の目を持ち、動くとカタカタと音を立て、黒気が漂う下では人がぼんやりとしか見えず、気の及ぶ所には血の匂いが四方に散り、刃物も通じなかった。時に人の姿や驢馬の姿にも変わり、春から夏にかけて昼夜を問わず出現したが冬にはめったに現れず、多くは後宮の宮人の居所や内殿の裏に出没し、常態化していたため人々もさほど恐れなくなっていたが、宣和末には出現が少なくなりやがて乱が起こった。政和3年夏、宰臣何執中が北郊で祭祀を行った際、斎宮から数丈の黒気が現れ壇を巡り、人が灯燭を持って通る近くまで迫り、やがて壇に達し、礼が終わる頃に消えた。宣和年間、洛陽府畿間に人のような、あるいは犬のようにうずくまる黒い物が現れ、眉目も判然とせず、初めは夜に幼児をさらって食い、後には白昼でも人家に入り込み被害が続いたため「黒漢」と呼ばれ、力のある者は夜に槍棒で自衛し、これに乗じて人を騙る者もいた。この現象は2年ほど続いた後に治まったが、やがて北伐の事が起こり金軍による禍が生じた。3年春、日に眚(暗い異変)が生じ青黒く光を失い、内部が金属を溶かして沸くように動き、日の傍らに水波のような黒気が旋回し、日暮れにようやく止んだ。建炎3年2月甲寅、日の出時に2条の黒気が人の形をなして日を挟み、巳の刻になって散った。乾道4年春、舒州で黒い米が降り、鉄のように堅く割ると芯まで黒かった。淳熙11年2月、臨安府新城県深浦で夜通し黒い水が降った。16年6月、行都の銭塘門を開くと黒風が入り砂石を巻き上げた。慶元元年、徽州黄山の民家の古井戸から風雨の夜に黒気が波のように噴き出した。

泉池の異変(水色・光・塩の異)

  • 咸平元年5月、撫州の王羲之の墨池の水の色が雲のように黒く変わった。大中祥符元年5月丁丑、泰山の王母池の水が紅紫色に変わった。4年2月已未、河中府宝鼎県の瀵泉に燭の炎のような光が4〜5筋現れ雷のような音を立てた。3年8月、解州の塩池(紫泉場)の隣2里ほどでは種を蒔かずとも自然に塩が生じ、その味が特に良かったため屯田員外郎何敏中を池廟に遣わし祭らせた、8月東池では水が自然に半分ほど塩となり、純白で塊状に結晶し普段と異なる美しさであったため、祀汾陰経度制置使陳堯叟が続けて4700斤を献上し近臣・列校に分け与えられた。紹興14年、楽平県河衝里の田数十百頃で、田の水が何かに吸い寄せられるように一箇所に集まり、堤防もないのに平地より数尺高く直立したまま南に流れ、程氏の家の井戸水も数尺高く上がり長虹のように曲がりくねり、雷のような音を立てて壁を貫き楼を壊し、2つの水流が杉墩でぶつかりしばらく先を争った後、約10刻でそれぞれ元の状態に戻った。

霧(濃霧・昏暗の異変)

  • 天聖4年10月甲午、昏霧が四方を塞いだ。靖康元年正月丁未、霧気が四方を塞ぎ向かい合っても見えないほどであった。建炎2年11月甲子、北京で大霧が四方を塞ぎ、その夕方に城が陥落した。3年3月、車駕は温州から出航し乙丑松門に至った際、海上に白霧が立ち昼が暗くなり、6月には長らく曇天が続いた。4年3月乙丑、四方に霧が塵のように降った。紹興3年正月から陰晦が続き陽光が現れない日が40余日続いた。5年正月甲申、霧気が昏く塞がり、7月劉豫が明堂を破壊した後、天地が晦冥となる日が何日も続いた。7年、靄気が日を覆った。8年3月甲寅、昼が暗く日の光がなく陰霧が四方を塞ぎ、乙卯昼夜雲気が濁り、4月には長雨がようやく止んだが靄霧が四方を塞ぎ昼も光がなかった。隆興元年5月丙午朔、霧が四方を塞ぐ。2年6月、陰りが1か月続いた。乾道2年11月、久しく陰り。5年正月甲申、昼から夕方まで暗い。6年5月連陰、6月に日が青白く光がなかった。淳熙6年12月乙丑、昼が暗い。13年正月丁亥、同様。慶元2年2月已卯、昼が暗く四方が霞んだ。3年2月丁卯、昼が暗く霧が四方を塞いだ。6年11月辛卯、嘉定3年正月丙午、10年正月乙未、13年3月壬辰、いずれも昼が暗かった。

虹(虹の異変)

  • 建炎4年3月辛亥、白虹が日を貫いた。紹興8年3月辛巳、白虹が天に架かった。27年2月壬寅、白虹が日を貫いた。30年12月辛酉、日の西に曲がった虹が現れた。乾道3年10月丙申、虹が現れた。淳熙元年10月戊寅、日の東に白虹が現れた。2年10月庚辰、虹が現れた。5年10月丁巳、日の東に曲がった虹が現れた。慶元元年正月丙辰、白虹が日を貫いた。嘉泰3年7月壬午、同様。4年11月、虹が現れた。嘉定11年2月丙辰、白虹が日を貫いた。嘉熙3年10月乙丑、虹が現れた。4年2月辛丑、白虹が日を貫いた。淳祐10年12月丁已、虹が現れた。宝祐5年10月、虹が現れた。

龍蛇孽(龍・蛇の妖異)

  • 太祖が周の世宗に従い淮南に遠征していた折、江亭で戦った際に龍が水中から太祖に向かって跳ね上がったことがあった。乾徳5年夏、京師で雨中に黒龍が雲間にその尾を見せ西北から東南に向かった、これは大水の兆しとされ、翌年州府24か所で水害により田廬が破壊された。開宝6年4月、単父県の民王美の家の井戸から龍が起こり、暴雨により廬舎と一族を流失させ、旧鎮の廨舎350余区も破壊、大木もみな折れた。7年6月、棣州の空から火が城北門楼に落ち、東柱に龍の形をした金色の物が抱きつき足の長さは3尺ほど、その気は非常に生臭く、翌朝見ると壁に煙の痕と爪跡が36箇所残っていた。大中祥符2年8月、無為軍の役所で数尺の青蛇が現れた。宣和元年夏、雨が昼夜数日続いた後晴れた折、開封県前の茶店の榻の下に犬ほどの大きさの異物がうずくまっているのが見つかり、よく見ると身長は6〜7尺、体色は蒼黒く頭は驢馬に似て両頬は魚の顎のようで色は緑、頂には非常に長い角が生え途中で二又に分かれ、牛のような声で鳴き世に描かれる龍の姿とそっくりであった。近くの軍器作坊の兵卒たちが見物に来て共にこれを殺して食べたが、まもなく京師で大水があり「龍が復讐した」との噂が広まった。紹興初、朱勝非が江州の太守として赴任する途中梁山を過ぎた際、数寸ほどの小さな龍が舟に入り込んだ、赤い背に緑の腹、白い尾、黒い爪を持ち目に光があり、これも龍の妖異とされた。行都柴垜橋の旌忠廟では庭に3匹の蛇が出没し、大きいものは1尺余、四角い鱗に金色で頭と背に金銭のような模様があり、晴れた日には数百匹が芭蕉の間で変化するように現れたが、廟が移転すると蛇の妖異も絶えた。11年4月、衡山県浄居巌で長さ2丈、体周り数尺の黒い方形の模様の蛇が震死し、山水が大いに至った。これに先立ち山の気が夜ごとに暗くなっていたが蛇が死ぬとようやく明るくなった。25年6月、湖口県で赤龍が水中を山のように横切り、寒風怒濤により舟数十艘が覆り兵卒数十人が溺死した。30年春、宜黄県で丞の役所に大蛇が現れ長さ2丈、捕らえて数里外に放したがすぐにまた戻ってくることを4回繰り返した。乾道5年7月乙亥、武寧県で2頭の龍が復塘村で闘い大雷雨となり、龍は逃げ去ったが車輪ほどの大きさの珠を落とし牧童がこれを拾った、以後連年水害が続いた。

馬禍(馬にまつわる異変)

  • 太平興国3年、霊州が献上した官馬の駒に2つの距(蹄の突起)があった。雍熙2年、䖍州の吏李祚の家の馬が距のある駒を産んだ。4年、鄜州直羅県の民高英の家の馬が前脚2本が牛のような形の駒を産んだ。端拱2年夏、夏州の民程眞の家の馬が2頭の駒を産んだ。大中祥符9年12月、大名の監馬が赤色で肉の尾を持ち鬣のない駒を産んだ。宣和5年、馬が2本の角(長さ3寸)と4足に距を持つ子を産み、この時期北方で用兵中であった。紹興8年、広西の海岸に馬のような姿で鬣が丹色の海獣が現れ夜に民家に入り込んで人々に殺されたが、翌日海が氾濫し村百余家が水没した、これも馬の妖異に近いとされる。5年、広西で買い入れた馬が全て疫病で死んだ。淳熙6年12月、宕昌西の馬・金州の馬がともに大疫。12年、黎・雅州が献上した馬に角があり長さ2寸で、『京房易伝』に「臣が上位の政を乱すとその凶兆は馬に角が生じることで表れ、賢士が用いられない兆しである」とある。紹興元年2月丙申、右丞相留正が乗馬で早朝出仕する途中、馬が急死した、これも馬の妖異とされる。嘉定5年正月、史彌遠が東宮に賀に赴く途中馬が驚き自身が落馬し衣服・頭巾が破れ額をわずかに傷めたが、これも留正の一件と同様の事とされた。

人痾(人体の異形・多胎の記録)

  • 建隆元年、雄州帰義軍の民劉進の妻が三つ子の男児を産んだ。2年、孟州の民孟福、定州の民孟公礼らの妻がそれぞれ三つ子の男児を産んだ。3年、斉州・晋州で大旱があり民家に「魃」(旱の妖)のような異形の子が多く生まれ、龍岡県の民林嗣の妻、京師龍捷軍卒宜超の妻がそれぞれ三つ子の男児を産んだ。乾徳3年、江陵府の民劉暉の妻が三つ子の男児を産んだ。4年、安州驍健軍卒趙遠の妻が三つ子の男児を産んだ。5年、光州の民高与、徳州の民趙嗣、乾寧軍卒王進の妻がそれぞれ三つ子の男児を産んだ。開宝元年、沂州の民王政、澶州の民謝興の妻が三つ子の男児を産んだ。2年、閬州の民孫延広、開州の民董遠の妻が三つ子の男児を産んだ。7年、青城県の王宥の妻、河南府の民劉元の妻が三つ子の男児を産んだ。太平興国2年、邢州招収軍卒李遇、汝州帰化軍卒魚覇、常州の民謝祚の妻が三つ子の男児を産み、晋原県の民楊万の妻も三つ子の男児を産んだ。7年、澶州龍衛軍卒靳興、晋州の民鄭彦福の妻が三つ子の男児を産み、汾州の民鄭訓の妻が三つ子の女児を産み、鴈門県の民劉習の妻が四つ子の男児を産み、滑州帰化軍卒安旺の妻が男児2人女児1人を産んだ。8年、揚州順化軍卒俞釗、温州の民李遇、栄州の民李祚の妻が三つ子の男児を産んだ。9年、揚子県の民の妻が生んだ男児は全身に半寸ほどの毛が生え、顔は長く頭頂が高く烏のような眉で眉毛が濃く生え際にも毛が2筋あり、柔らかく長い眉、紫の唇に赤い耳、大きな鼻は西域の僧に似ており、3歳になって図に描いて献上された。雍熙2年、奉新県の民何靖の妻が三つ子の男児を産んだ。3年、魯山県の民張美、相州林慮県の民張欽の妻が三つ子の男児を産んだ。4年、晋原県の民周承暉、固始県の民楊昇の妻が三つ子の男児を産んだ。端拱元年、祁州の民馮遇の妻が三つ子の男児を産んだ。2年、斉州の民徐美、并州の民侯遠、常州の卒徐流の妻が三つ子の男児を産んだ。淳化元年正月、河陽県の民王斌、新息県の民李珪の妻が三つ子の男児を産み、8月汾州悉達院の僧智厳の頭に3寸の角が生えた。2年、晋陵県の民黄釗、南充県の民彭公覇、龍陽県の民周信、王屋県の民李清、臨清県の民国忠、鄰水県の吏謝元昇、奉化県の卒朱旺の妻が三つ子の男児を産み、瀛州の民胡立、邢州の民高徳の妻も三つ子の男児を産んだ。4年、邯鄲県の民鄭安、河間県の民王希輦、安州の民宋和の妻が三つ子の男児を産んだ。5年、雍丘県の営卒盛泰の妻が三つ子の男児を産んだ。至道元年、保州の敵軍校李深、宋城県の民王洽、臨淮県の民賀用、永清県の民董美、鄄城県の民馬方の妻が三つ子の男児を産んだ。2年、安豊県の民王構、伊陽県の民張寿、成都県の民彭操の妻が三つ子の男児を産んだ。3年、汾州の民趙演、沂州の民李嗣、南劍州の民劉相、饒安県の民睦鸞、衛州宣武軍卒李筠の妻が三つ子の男児を産んだ。咸平元年、台州永安県の王旺、澶州静戎軍卒鄭穂の妻が三つ子の男児を産み、莘県の民懐梁、獲嘉県の民王貴、永康県の民羅彦瑫、温県の民楊栄、毗陵県の民魏吉の妻も三つ子の男児を産んだ。3年、睢県の民朱進、鄆州武威軍卒徐遶、深州の民彭遠の妻が三つ子の男児を産んだ。4年、望都県の民郭瑩、邕州澄海軍卒梁済の妻が三つ子の男児を産んだ。5年、夏津県の民趙替の妻が三つ子の男児を産んだ。6年、石城県の民劉詵、堂邑県の民戴玉の妻が三つ子の男児を産み、平郷県の民郭譲の妻が四つ子の男児を産んだ。景徳元年、南昌県の民李総の妻が三つ子の男児を産んだ。2年、奉新県の民魏勇の妻が三つ子の男児を産んだ。4年、八作司の匠趙栄、南頓県の民任登老、棗強県の民張緒の妻がそれぞれ三つ子の男児を産んだ。大中祥符元年、高郵軍の民王言の妻が四つ子の男児を産んだ。2年、崞県の民張留、清平軍の民楊泉の妻が三つ子の男児を産んだ。3年、獲嘉県の民馮可の妻が三つ子の男児を産み、宋城県の民李悔の妻が男児2人女児1人を産んだ。4年、河池県の民馮守欽の妻が三つ子の男児を産んだ。7年、大名府宣勇軍卒徐璘、賛皇県の民李釗の妻が三つ子の男児を産み、銅鞮県の民李謙、宋城県の民白徳、霍邱県の民朱璘、平涼県の民焦思順の妻も三つ子の男児を産んだ。8年、河南府の民宋再興、真陽県の民周元、歴亭県の民田用侯言、霍邱県の民王忠杜戩、濛陽県の民衛志聡、定州驍武軍卒張吉、雍邱県懐勇軍卒黄進の妻が三つ子の男児を産み、永嘉県の民張保の妻が四つ子の男児を産んだ。9年、曹州雄勇軍卒聶徳、瀛州の民劉元、灃州の民張貴、広州の民劉吉の妻が三つ子の男児を産んだ。天禧元年、連江県の民陳覇の妻が三つ子の男児を産んだ。3年、銭塘県の民謝文信、遂安県の民李承遇の妻が三つ子の男児を産んだ。4年、孝感県の民杜明、平恩県の民劉順の妻が三つ子の男児を産み、7月耒陽県の民張中の妻が三つ子の男児を産み、その額には方寸余の白い痣があり白髪が生えていた。天聖から治平年間まで、婦人が四つ子の男児を産んだ例が2件、三つ子の男児が44件、男児2人女児1人が1件記録された。熙寧元年から元豊7年までの間、郡邑の民家で三つ子を産んだ例が84件、四つ子が1件、男児2人女児1人が1件。元豊8年から元符2年までは三つ子が18件、四つ子が2件、男児2人女児1人が1件。元符3年から靖康までは三つ子が19件、四つ子が1件記録され、旧史ではこれを人民が繁栄する証としている。宣和6年、都城で青果売りの男子が妊娠し子を産んだが、産婆5人が対応できずようやく7人目で無事出産し逃げ去った。豊楽楼の酒保朱氏の子の妻は40歳ほどで楚州の人であったが、6〜7寸の長さの髭が突然生え、清らかで美しく、まさに男子のようであったため、特に詔して女道士に任じられた。紹興3年、建康府桐林湾の婦人が肉の角と歯を持つ子を産み、この年人々に鱗や毛のある子が多く生まれた。20年8月、真符県の民家で一度に三つ子の男児が生まれた。隆興元年、建康の民が行都に流寓中、その妻が2つの頭と羽毛のある子を産んだ。乾道元年、衡湘の間で虎に変化する人がいるとされ、餘杭県の婦人が青い体色で毛が生え2本の肉角のある子を産み、さらに2家の婦人も同様の子を産んだが、いずれも体がつながり両面が向き合っており、3家の距離はわずか1〜2里であった。潮州城西の婦人は妊娠期間が過ぎてから指ほどの大きさで五体すべて備わった子を100余体産み、それらは蠕動していた。淳熙10年、番易南郷の婦人が肘にそれぞれ2本ずつ腕のある子を産み、成長すると6本の腕を同時に動かせるようになった。13年、行都で死後14日で生き返った人があり、11月辛未鄧家巷の婦人が3つの肉塊を産み、うち1つは目と口が横向きであった。14年6月、臨安府浦頭の婦人が子を産むとすぐに話し始め4日で4尺伸びた。紹熙元年3月癸酉、行都の市中で人々が夜に殺人騒ぎに驚き逃げ惑い長らく静まらなかった、この年崑山県で石を採る工人が山の崩壊に巻き込まれ、3年後別の工人が隣の山で石を採っていた際にその声に呼び応える声があり、掘り出してみるとその妻が「長く閉じ込められ突然の風に肌が裂けるようだ」と喜びの言葉を発した後、まもなく声が微かになり黙し、石人と化していたが姿は生きていたときのままであった。慶元元年、楽平県の民の婦人が尾のある子を産み、永州の民は頭に角、脇に肉の翼のある子を産んだ。2年7月、進賢県の婦人も同様の子を産み、さらに顔に3つ目があった。嘉定4年4月、鎮江府後軍の妻が1つの体に2つの頭と4本の腕を持つ子を産んだ。

疫(疫病の記録)

  • 淳化5年6月、京師で疫病が流行し太医を遣わし薬で救った。至道2年、江南で連年疫病が多発。大観3年、江東で疫病。建炎元年3月、金軍が汴京を包囲した際、城中で疫病により死者がほぼ半数に達した。紹興元年6月、浙西で大疫、平江府以北で流れる死体が数えきれず、秋冬紹興府で連年大疫が続き、官は粥や薬を施した者を募り100人以上救った者を僧に度す褒賞を与えた。3年2月、永州で疫病。6年、四川で疫病。16年夏、行都で疫病。26年夏、行都でまた疫病、高宗は柴胡で薬を作らせ多くの人を救った。隆興2年冬、淮甸の流民2〜30万が乱を避けて江南に入り山谷に草舎を結んだが、風雨に晒され凍餓と疫病で半数が死に、生き残った者もわずかで、この年浙の飢民にも疫病が多かった。乾道元年、行都及び紹興府で飢民に大疫が流行し浙東西も同様。6年春、暖冬のため疫病が発生。8年夏、行都の民に疫病が流行し秋まで続き、江西の飢民にも大疫、隆興府の民は水害の後も疫病で多数死亡。淳熙4年、真州で大疫。8年、行都で大疫により禁旅に多数死者、寧国府の民の疫死も多かった。14年春、都の民・禁旅に大疫、浙西の郡国も疫病。16年、潭州で疫病。紹興2年春(紹熙の誤記か)、涪州で疫病により数千人死亡。3年、資・栄の二州で大疫。慶元元年、行都で疫病。2年5月、行都で疫病。3年3月、行都及び淮浙の郡県で疫病。嘉泰3年5月、行都で疫病。嘉定元年夏、淮甸で大疫、官は骸骨を埋葬した者200人以上を僧に度す褒賞を与え、この年浙の民も疫病。2年夏、都の民に疫病で死者多数、淮の民で江南に流れた者は飢えと暑さが重なり多くが疫死。3年4月、都の民に疫病死者多数。4年2月、同様。15年、贛州で疫病。16年、永・道の二州で疫病。徳祐元年6月庚子、この日四城の民が移動する際に疫病で死んだ者が数えきれず、天寧寺で死者が特に多かった。2年閏3月、数か月間城中に疫気が薫蒸し病死者は数え切れなかった。

天鳴(原因不明の天の音)

  • 熙寧元年7月戊子夜、西南の雲間から風と水が激しくぶつかるような音がして四方に広がった、これは民の労苦と兵乱の兆しとされた。6年7月丙寅夜、西北の雲間から物を磨るような音がし、これは百姓の労苦の兆しとされた。7年7月庚子夜、西北で天鳴があり、驚き憂うべき事の兆しとされた。紹興21年8月乙亥、天から雷のような音がして東南に4日間響き渡った。開禧元年6月壬寅、天鳴があった。

隕石(星の落下)

  • 天禧3年正月晦、沈邱県の民駱新田が震動を聞き、まもなく隕石が地中7尺ほどに落ちた。淳熙16年3月壬寅、楚州宝応県に隕石が落ち、散って火のように臭気を放った。慶元3年6月辛未、黄巌県で大石が落下、雷雨が甚だしく山水が湧き出した。