宋史卷三十六 本紀第三十六 光宗

出自と生い立ち

  • 光宗、諱は惇。孝宗の第三子。母は成穆皇后郭氏。紹興十七年(1147年)九月乙丑、藩邸で生まれた。紹興二十年に今の名を賜り、右監門衞率府副率から榮州刺史に転じた。
  • 孝宗即位後、鎮洮軍節度使・開府儀同三司に任じられ、恭王に封ぜられた。莊文太子(孝宗の長男)が薨じると、孝宗は英武な光宗を立太子したいと考えたが、次男でないことを理由にためらった。
  • 乾道六年(1170年)七月、太史が吉兆を奏し、丞相虞允文が立儲を早めるよう請うたが、孝宗は「儲位を正せば油断して学問を怠るおそれがある」として見送った。乾道七年正月、允文が再度請い、二月癸丑、光宗を皇太子に立て、弟の慶王愷を雄武保寧軍節度使・判寧國府・魏王に進封した。三月丁酉、皇太子冊を受け、四月甲子、判臨安府を命ぜられて尹事を領した。恭王時代から講官と学問を論じ、意表を出すことが多く、臨安府の政務にも精通していたため、孝宗はしばしばこれを称え、丞相趙雄に「太子は資質すぐれ、朕は常に学問への専念を戒めている」と語った。
  • 淳熙十四年(1187年)十月乙亥、髙宗が崩じ、十一月己亥、百官の大祥が終わると、孝宗は皇太子に庶務への参決を命じ、内東門司を議事堂とした。淳熙十五年二月戊戌、光宗は初めて議事堂に赴き、以後は隔日で輔臣と面会した。九月乙巳、朝殿ごとの侍立を命じられた。十一月、丞相周必大が辞去を願うと、孝宗は「病み疲れて太子に譲位したいが、卿はしばらく留まれ」と諭した。陳康伯家が紹興年間の伝位に関する御劄を上ると、孝宗は必大に典礼を検討させ、参知政事留正にも禅位の意を密かに伝えた。
  • 淳熙十六年(1189年)正月辛亥、孝宗は両府に、髙宗の三年の喪に倣って禅位したい旨を告げ、必大に詔草を進上させた。二月壬戌、孝宗は紫宸殿で内禅の礼を行い、光宗は再三固辞したのち即位した。丞相以下が百官を率いて祝賀し、光宗自ら重華宮に赴いて孝宗を太上皇(尊号「至尊壽皇聖帝」)、皇后を「壽成皇后」とし、元妃李氏を皇后に立てた。大赦を行い、百官の進秩・諸軍への恩賞・逋負の蠲免を命じた。

淳熙十六年(1189年)

  • 二月丙寅、光宗は群臣を率いて重華宮に朝賀し、翌日尊号を上るなど、頻繁に重華宮へ礼を行った。閤門舎人譙熙載・姜特立を知閤門事とし、五日に一度重華宮に朝することを定めた。皇太后を「壽聖皇太后」と尊称した。
  • 中書舎人羅點に台諫にふさわしい人物を推薦させ、葉適・呉鎰・孫逢吉・張體仁・馮震武・鄭湜・劉崇之・沈清臣の八人を上げさせた。周必大を少保、留正を正奉大夫に転じさせ、金へ即位を告げる使者(羅㸃ら)・弔祭使(諸葛廷瑞ら)・慶賀使(沈揆ら)を相次いで派遣した。
  • 史浩を太師、伯圭を少師、士歆を少傅、士峴を少保とするなど宗室・重臣に恩賞を加え、東宮の書籍を嘉王に賜った。四月、太廟・景靈宮に事あり、金の告即位使(徒単鎰ら)が来朝。五月、王藺を知樞密院事兼参知政事とし、周必大は観文殿大学士・判潭州に罷められたが留任を命じられ、旧官のまま醴泉觀使とされた。知閤門事姜特立は罷免された。
  • 閏五月、宦官陳源を郷里で自由に住まわせ、淳熙十四年以前の私負・十五年以後の利息と元本を免除した。趙雄を寧武軍節度使・開府儀同三司・衞國公とし、判江陵府とした。六月、明堂で髙宗を配祀することを詔し、趙雄は病重く資州に転任。七月、封事を上った倪恕らを昇進させ、金への賀使(謝深甫ら)を派遣。八月、恭州を重慶府に昇格。九月、金の賀使が重明節・即位を祝賀に来た。十月、樞密院の審察諸軍の制を廃止。十一月、明年を紹熙元年とすることを詔し、嘉王府を再置して黄裳を翊善とした。十二月、金は次年正旦の賀使を派遣した。

紹熙元年(1190年)

  • 春正月丙辰朔、光宗は群臣を率いて重華宮に寿聖皇太后・至尊壽皇聖帝・壽成皇后への冊寳を奉った。何澹の請により紹熙会計録を置いた。
  • 二月、殿中侍御史劉光祖が「道学は程氏の私言にあらず、是非を定め邪正を分けるべき」と上言し、これに従った。三月、秀王の襲封に園廟を置くことを詔し、趙普の後裔一人を安僖王の班に列した。夏四月、両淮の流民対策を詔し、伯圭を太保・嗣秀王とした。殿中侍御史劉光祖が呉端の帯御器械を論じて呉端は罷免された。禮部進士余復以下五百三十七人に及第出身を賜った。
  • 五月、趙雄は所挙の人物が賄賂に絡んだことから益川郡公に降封され、食邑千戸を削られた。呉端を浙西馬歩軍副總管とした。楚州城を修築。六月、金への賀使(丘崈ら)を派遣。秋七月、葛邲を参知政事、胡晉臣を簽書樞密院事とし、留正を左丞相、王藺を樞密院使とした。八月、任子の中銓吏部簾試法を立てた。九月、新暦の造立を詔し、劍州を隆慶府に昇格。冬十月、諸軍の額外制領以下官の設置を禁じ、諸軍帥に将才ある者の推薦を命じた。十一月、安南が入貢。潼川転運判官王溉が井戸重額銭十六万緡を代納した功で奨励された。十二月、王藺を罷めて葛邲を知樞密院事、胡晉臣を参知政事兼同知樞密院事とした。浦城の盗賊張海の乱を提点刑獄豐誼に討伐させた。

紹熙二年(1191年)

  • 春正月、両淮に義倉法を行うことを命じ、髙宗を万世不祧の廟とすることを詔した。二月、新暦を「会元」と名づけた。福建安撫使趙汝愚らは管内の盗発により降秩され、県令は追停となった。陰陽の失時・雷雪交作を理由に、侍従・臺諫らに時政の闕失を上言させ、京城貧民に米五万石を賑給し、皇后家廟の修造を一時罷めた。布衣余古が上書して極諫したため帝は怒り、筠州学へ送って読書させた。金の告哀使(完顔亶ら)が来朝。
  • 三月、監司郡守が贓罪を互いに送り合うことを禁じ、辺事は宰相と樞密院が共に議することを定めた。福建提点刑獄陳公亮・朱熹に漳・泉・汀三州の経界を措置させた。建寧府の雹害・温州の風雨で民居・田苗が甚大な被害を受けた。夏四月、侍従らに人材推薦を命じた。徽州の大火は二日で鎮火。五月、福州の水害。侍従・臺諫の輪対を許し、経筵翰苑官の随時召見を定めた。金州で大火。潼川崇慶二府大安石泉淮安三軍興利果合綿漢六州で大水。六月、監司の考課を郡守と同様にし、伯圭に判大宗正事を命じた。秋七月、故容州編管人髙登の官を復し、承務郎を贈った。両淮の私鋳鉄銭を会子百万緡で回収した。太醫局を再置。興州で大水、数千家が流失した。八月、何澹は継母の喪により離任。九月、金の賀使が重明節を祝賀。趙汝愚を吏部尚書に召した。職田の折変を禁じた。冬十月、経界を罷める詔を出し、福州の外城を築いた。十一月、安定郡王子彤が薨じた。髙宗に「受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝」の徽号を加えた。太廟に事あり、皇后李氏が皇貴妃を暴卒として殺したことが聞こえた。壬申、圜丘での合祭は大風雨で成らず中止となった。帝はこの変事に驚き感疾し、称賀を罷め楼にも上らず、以後朝を視ずとなった。十二月、荆門軍城を築き、帝は初めて輔臣と内殿で対面した。楚州の更戍兵を千五百人増やした。

紹熙三年(1192年)

  • 春正月、帝は疾により朝を視ず。秀州の上供米四万四千石を蠲免し、四川の鹽酒重額銭九十万緡を蠲免。度僧牒二百を出し淮東の鉄銭を回収した。夔路の転運使に漕計の融通を命じた。二月、両浙犒賞酒庫を戸部に隷させ、銭銀の淮を過ぐる禁を厳しくした。三月、天長県城を修築、帝の病は稍愈え延和殿で聴政を始めた。子濤を安定郡王とした。雅州の税場を罷め、峡州城を築いた。留正は辞位を請うたが許されなかった。宜州蛮寇が辺境を犯し、沙世堅を知宜州として討たせた。監司列薦法を復した。広東の増収鹽斤銭を罷めた。技藝補授の人が奏補することを禁じた。
  • 夏四月、四川の旱傷郡県を振恤した。丘崈を煥章閣直学士・四川安撫制置使とした。帝は重華宮に朝した。臨安の逋賦を蠲免。五月、帝は疾により朝を視ず。漢陽荆門軍復州で鉄銭を行わせた。両浙犒賞酒庫を諸州に隷させ、戸部郎官の提領を命じた。常徳府で大水。六月、風俗を戒飭し、士人の文の浮靡を禁じた。陳騤を同知樞密院事とした。金への賀使を派遣。四川の諸軍の西兵起用を罷めた。囚を慮り、郭師禹を少保とした。秋七月、沿辺の盗を諸州禁軍に編入した。監文思院常良孫が贓罪で海外に配され、周必大は誤った推挙により滎陽郡公に降封された。台州で水害。瀘州の騎射卒張信らが乱を起こし帥臣張孝芳を殺したが、軍士卞進・張昌がこれを撃殺した。嘉王府の講読官を二員増やし、揚州城を修築。八月、両淮に鉄銭交子を行わせた。西川財賦総領楊輔の奏で東西両川の畸零絹銭・激賞絹を蠲免し、以後例とした。九月、安徳府外城を修築。金の賀使を派遣。両淮民に桑の植栽を勧めた。冬十月、大禹陵廟・潭州城を修築。会慶節に丞相以下が重華宮に拝表称賀。十一月、襄陽府の水害貧民を振済し、蘄州の歳鋳銭を減じた。丞相以下が重華宮に拝表称賀し、羅點・尤袤・黄裳らが上疏して帝の重華宮朝賀を請い、趙汝愚も面対で請うたが、帝は皇后とともに重華宮に朝し、都人が大いに喜んだ。湖南北・京西・江西郡県の月椿・経総制銭を蠲免。十二月、壽皇聖帝に玉牒・聖政・会要を献上、留正を少保とした。是歳、江東京西湖北で水害。

紹熙四年(1193年)

  • 春正月、帝は重華宮に朝した。臨安府民の身丁銭を三年蠲免。二月、陳源を京の宮観に置くことを詔し、淮西の民の市牛銭を貸し、江陵の饑民に米七万石を振給した。皇孫が誕生。三月、帝は皇后とともに重華宮に朝した。葛邲を右丞相、胡晉臣を知樞密院事、陳騤を参知政事、趙汝愚を同知樞密院事とした。監察御史汪義端は趙汝愚の執政が祖宗の故事に反すると三度上奏したが取り上げられず、義端は罷免された。巢県城を修築。夏四月、四川沿辺郡県の官田の括売を罷めた。永州義保を復した。五月、禮部進士陳亮以下三百九十六人に及第出身を賜った。進士李僑年(五十四)が成都司戸参軍に任じられたが、俸禄が父母への孝養に足りぬとして一官を父母に回贈するよう乞い、帝はその志を嘉して本官致仕を特詔し、父母に初品官を封じた。淮西・紹興の大水で浙東総管姜特立を召したが、丞相留正が特立の不行を論じて辞相を乞うも許されず。太尉呉挺が卒し、四川制置使丘崈が財賦総領楊輔に安撫使を権摂させ、統制官李世廣に軍を管させた。
  • 六月、留正が出城して待罪し、江浙両淮荊湖の水害貧民を振済した。秘書省官(沈有開・李唐卿・范黼・彭龜年・王奭・葵幼学・顔棫・呉獵・項安世ら)が上疏して姜特立の召命撤回を請うた。金への賀使を派遣。淮馬を沿江諸軍に充てることを詔し、胡晉臣が薨じた。臨安の増民税銭を蠲免。秋七月、留正は再び姜特立の非を論じ待罪した。不雨を理由に諸路提刑に滞獄の審断を命じ、臨安府・三衙に繋囚の釈放を命じた。趙汝愚を知樞密院事、余端禮を同知樞密院事、陳源を内侍省押班とした。邕州左右両江の生口売買を禁じ、叙州の夷賊が辺を寇したため討平させた。八月、紹興の丁鹽茶租銭を蠲免し、郡県の官田売却を罷めた。三省に水旱の振恤を議させ、呉挺に少保を贈り、その子曦は喪を起して濠州團練使・帯御器械となった。江東浙西淮西の旱傷貧民を振済。九月、金の賀使が重明節を祝賀。侍従両省が重華宮への朝賀を請うたが聴かれなかった。壽聖皇太后に尊号「壽聖隆慈備福皇太后」を上った。金への賀使を派遣。帝が重華宮に朝しようとしたが皇后が止め、中書舎人陳傅良が裾を引いて諫めても聴かれなかった。侍従らが再三上疏した。冬十月、三衙諸軍を教練し、景靈宮に朝献したが夜に地震が二夜連続で起こった。祕書省官が三度上疏したが取り上げられず、雨土が降り、工部尚書趙彦逾らが会慶聖節の朝礼免除を上疏したが、壽皇は「秋涼以来相見を思っている」と応じた。会慶節に帝は疾により朝せず、丞相葛邲以下が重華宮に賀した。侍従が待罪し、嘉王府翊善黄裳が宦官楊舜卿の誅を請い、臺諫の張叔椿・章穎も罷黜を乞うた。太学生汪安仁ら二百十八人が上書したが取り上げられず。丞相以下が重華宮に奏事し、帝は重華宮への朝を試みるも再び疾で果たせず、丞相以下は罷政を請い、彭龜年は陳源の追放を請うたが、いずれも聴かれなかった。十一月、日中に黒子あり、侍従両省官が同班して奏事、太白昼見・地に毛生じ夜に赤雲白気あり。帝は重華宮に朝し都人が大いに喜んだ。右司郎官徐誼を城外に遣わして留正を召し、留正は正式に入朝して都堂の政務に復帰、姜特立は故官に復された。皇太后に冊寳を奉った。十二月、帝は重華宮に朝し、右司諫章穎が地震を理由に葛邲の罷免を十余度上疏したが取り上げられず。沿辺の守臣を三年任とすることを命じ、監司帥守は単独で薦士することを禁じた。趙雄が薨じ、四川の鹽合同場旧法を復し、江浙の流民を振済。金の賀使を派遣。

紹熙五年(1194年)(孝宗の崩御と光宗の内禅)

  • 春正月癸亥朔、帝は大慶殿で群臣の朝を受け、重華宮・慈福宮に朝賀し、淳熙十年の故事に倣って恩を推した。壽皇聖帝の不予(病)が生じた。二月、葛邲が罷免され、紹興の民の租税を寛めた。趙汝愚・余端禮は西帥人事を奏し不行を待罪した。三月、利州東西路を合一とした。壽成皇后の生辰は過宮上寿を免じた。
  • 夏四月、帝は玉津園に幸し、皇后・後宮も従った。壽皇聖帝は東園に幸した。史浩が薨じた。景靈宮に朝献。侍従が朝重華宮を請うたが、太学生程肖説らも上書。帝は癸丑日の朝を約したが疾で果たせず、待罪する官が百余人に及んだ。侍講黄裳・秘書少監孫逄吉らが再三上疏し、起居郎陳傅良は親王・執政・宗戚の一人を重華宮使に充てることを請うた。臺諫は宦官陳源・楊舜卿・林億年が両宮を離間したと弾劾して罷逐を求めた。
  • 五月、辰州の徭賊が辺を寇した。侍従が入対しようとしたが宰執に会えず重華宮に問疾したが引見されず、陳傅良は告勅を繳上して待罪した。壽皇聖帝の病が篤くなり丞相以下に天地宗廟社稷への分禱を命じた。丞相留正らは帝の侍疾を請い、陳傅良が裾を引いて福寧殿まで従ったが、久しくして泣いて出た。丞相以下は求退を退けられ、出城して待罪した。知閤門事韓侂胄は宣押入城を請い許された。史浩を会稽郡王に追封した。帝は再び重華宮に朝そうとしたが果たせず。壽皇聖帝の病により大赦を発し、権刑部尚書京鏜が入対して重華宮への朝を請うた。丞相以下が重華宮に問疾し、起居舎人彭龜年が奏事を請い、帝は嘉王府翊善黄裳・講読官沈有開・彭龜年の奏を容れて嘉王に重華宮での問疾を許し、壽皇はこれに感動した。
  • 六月、金への賀使を派遣。壽皇聖帝が崩じた(戊戌夜)。遺誥により重華宮を「慈福宮」と改め、壽成皇后のために宮後に殿を建てるとされた。重華宮の銭銀百万緡を内外の軍に賜った。先に丞相留正・知樞密院事趙汝愚・参知政事陳騤・同知樞密院事余端禮が壽皇の危篤を聞いて帝に朝重華宮を力請し、嘉王も泣いて請うたが聴かれなかった。壽皇崩御を聞き、丞相留正らは百官を率いて重華宮で遺誥を聴いた。丞相以下は重華宮での成礼を請い、金への告哀使(薛叔似ら)を派遣。丞相は百官を率いて喪次に赴き成服した。壽皇の大斂に際し嘉王が再び入奏、帝の疾癒えるを待って過宮の礼を行うとされた。丞相以下は皇太后の垂簾聴政を請うたが許されず、代行祭奠の礼を許された。帝の疾により内中での成服が許された。夜、白気が天を亘った。壽聖隆慈備福皇太后を太皇太后とし、壽成皇后を皇太后とした。金への遺留物致送使を派遣。
  • 秋七月、丞相留正は疾を称して罷政を乞い、そのまま逃げ帰った。先に留正らは嘉王の立太子を再三請い、帝もこれを許していたが、御筆で歴年の意向を進めようとした際、留正はそれを恐れて退こうと図った。太皇太后は、帝が疾のため喪を執れないとして、皇子嘉王に重華宮の素幄で皇帝に即位させ、帝(光宗)を「太上皇帝」、皇后を「壽仁太上皇后」として泰安宮に移御させた(=寧宗への内禅)。慶元元年(1195年)十一月戊戌、尊号「聖安壽仁太上皇帝」を上った。慶元六年(1200年)八月庚寅、太上皇帝は不予となり、辛卯、壽康宮で崩じた。年五十四。十一月丙寅、諡を「憲仁聖哲慈孝皇帝」、廟号を「光宗」とした。嘉泰三年(1203年)十一月壬申、「循道憲仁明功茂徳温文順武聖哲慈孝皇帝」の諡を加えた。

史論

贊にいう。光宗は幼くして誉れ高く、儒雅の士を用いたが、即位に及んでは権綱を総べ嬖幸を退け、賦を薄くし刑を緩めるなど、紹熙初政には見るべきものがあった。しかし宮闈の妬悍(皇后の嫉妬と横暴)を制することができず、驚き憂えて病を得てからは政治が日に暗くなり、孝養も怠るようになって、乾道・淳熙の業績は衰えてしまった。

宋史卷三十六