宋史巻三十五 本紀第三十五 孝宗三

淳熙五年(1178年)

  • 春正月辛丑、侍御史謝廓然が程頥・王安石の説を有司が士を取る基準に用いないよう戒めることを乞い従った。癸夘、特旨で臣僚及び寺観の科徭を免じることを罷めた。庚戌、大風。已未、侍従台諫両省官に考課法を集議させる詔。
  • 2月已已、州縣丁税司を置いた。辛未、武臣呈試法を厳しく申し渡す。二廣に摂官人が獄を治めることを禁じる詔。丁丑、解塩が京西界に入ることを禁じた。甲申、土が雨のように降った。庚寅、威州の蛮が辺を寇し討ってこれを降した。
  • 3月丁未、李彦頴が罷め、辰・沅・澧・靖四州の刀弩手に田を給した。壬子、史浩を右丞相とした。丁已、玉津園に幸した。已未、王淮を知樞密院事、趙雄を參知政事とした。この春、黎州の蛮が降を出した。
  • 夏4月乙丑朔、葉衡に任便居住を詔した。丙寅、礼部尚書范成大を參知政事とした。辛未、知紹興府張津が羨餘40萬緡を進め民の輸す和買身丁の半分に代える詔を出した。禮部進士姚穎以下417人に及第出身を賜った。丁丑、土が雨のように降った。已夘、起思は使を奉じて礼に叶わなかったとして起居舎人を罷め二官を降された。丁亥、後省に中外の言う利病で成法に戻らぬ者を選んで聞かせる命。
  • 5月庚子、武学国子員を置いた。丁未、臨安府城を修めた。諸路州軍に属縣に羨餘を進めることを求めることを禁じた。
  • 6月庚午、百官及び諸監司に請托を求めないよう戒める。乙亥、范成大が罷めた。癸未、京西・湖北の商人が牛馬を負って茶を出境させれば死罪と詔した。甲申、翰林學士・諫議大夫・給事中・中書舎人・侍御史に各々御史に堪える者2人を挙げさせ、給事中錢良臣を簽書樞密院事とした。已丑、諸州の私に税場を置くことを罷め四川の茶課15万餘緡を減じた。庚寅、大理寺の贓錢3万9千餘緡を蠲した。
  • 閏6月丙申、強霓・強震に官を贈り西和州に廟を立てて旌忠と名付けた。丁酉、四川総領の会子額を限った。戊戌、興州都統司の営田官兵を罷め民を募って耕佃させた。已亥、利州東西路を再び2つに分けた。壬寅、鎮江・建康府転般倉を置いた。龔茂良が英州で卒した。乙已、魏王愷を永興成徳軍節度使・雍州牧とし明州の判はもと通り。庚戌、秀州の民の折帛銭を蠲した。
  • 秋7月甲子、太尉提舉萬壽觀李顯忠が薨じた。癸未、砂毛銭を禁じた。丁亥、豊作を機に沿江に米160萬石を糴わせ辺儲を広める詔。
  • 8月甲午、諸路監司に部内の民税を重価で強折輸銭させないよう戒め制科の旧法を復す詔。丁酉、闗外四州に民兵を増募し忠勇軍とする詔。戊午、銓試を5場、呈試を4場に増した。
  • 9月甲子、廣西の賣塩の賞罰を定めた。壬申、秘書省に幸した。戊寅、岳飛に武穆と諡した。
  • 冬10月戊戌、史浩らが三祖下第六世仙源類譜・仁宗玉牒を上呈。庚子、宇文价らを遣わし金に正旦を賀した。辛亥、金は張九思らを遣わして会慶節を賀した。乙夘、奉国軍節度使殿前都指揮使王友直は募兵で民を擾したので武寧軍承宣使に降し軍職を罷め統制以下を奪官有差、軍民で讙呶する者は大理寺に執送して鞫した。戊午、孫右千牛衞大將軍擴を明州觀察使とし英国公に封じた。
  • 11月丙寅、軍民の喧閧する者はみな軍法に従う詔。史浩が「民は軍法をもって律すべきでない」と言い聴かれなかった。王友直は再び宜州觀察使に降し信州に居住、浩は罷政を請う。甲戌、浩が罷め少傅に還り旧節を充ね醴泉觀使兼侍讀とした。乙亥、錢良臣を參知政事とした。丁丑、趙雄を右丞相、王淮を樞密使とした。戊寅、両川の禁卒千人を成都府雄辺軍とした。庚辰、監司互察法を復した。
  • 12月庚寅朔、新定薦挙式を頒布。辛夘、錢沖之らを遣わして金主の生辰を賀した。丁酉、興元都統司の営田官兵を罷め民を募って耕佃させた。辛丑、同安・蘄春監を復した。丙午、両淮の銅銭を禁じ再び鐵銭を行う。丙辰、金は烏延察らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、階州・福建興化軍で水害、通・泰・楚州・髙郵軍で田鼠が禾を傷め、三佛齊国が入貢。

淳熙六年(1179年)

  • 春正月戊辰、淮東の饑民を振わせた。庚午、内侍省合同憑由司を復置。壬申、夔州路の上供金銀を蠲した。丁丑、雨雹。辛已、光州中渡榷場を復置。
  • 2月已丑朔、佑聖觀に幸し史浩・曾覿を召して酒を賜った。壬辰、錢良臣は失挙贓吏の罪で三官を奪われた。丙申、前の宰執侍従で已見利便あれば時ならず聞かせる詔。辛丑、武臣関升蔭補法を立てた。丙午、逃軍が強盗を犯した場合は貸すことを擬しない詔。癸丑、州縣に義役を撓さない命。乙夘、今より帰正官は親ら部に赴いて官を授かり冒濫を革める詔。丁已、特奏名試法を裁定。
  • 3月庚申、聚景園に幸した。丙寅、趙鼎・岳飛の子孫を録し京秩を賜った。已已、郴州の賊陳峒らが連・道州・桂陽軍の諸縣を破ったので湖南帥臣に討捕させた。廣西義倉を置いた。辛未、淮東の饑民を再び振わせた。壬申、雨雹。丁丑、諸道転運使を戒励する詔。庚辰、玉津園に幸した。
  • 夏5月壬戌、宗室換官法を裁定。庚午、四川の塩課10万緡を蠲した。乙亥、郴の寇が平定。癸未、㐮陽の帰正忠義人に田を給した。
  • 6月甲午、豊儲倉を建てた。丙申、特奏名は知縣・縣令に授けない詔。戊戌、郴州の運糧丁夫の今年の役銭を半分蠲した。辛亥、廣西の妖賊李接が鬱林州を破り守臣李端卿は城を棄て遁走、まもなく化州を囲んだので経略司に討捕させた(端卿は除名・勒停・梅州編管)。
  • 秋7月癸亥、郴州の降寇を籍し荆鄂軍に隷させた。戊辰、隆興以来の寛恤詔令を諸路に頒布し趙雄らが会要を上呈。乙亥、諸軍で5口以上には緡銭を増給する詔。癸未、太白が昼に見え経天。
  • 8月庚寅、諸路監司帥守の便宜行事を罷めた。壬寅、知楚州翟畋は淮を過ぎて事を生じたので五官を奪われ筠州に居住。
  • 9月辛未、天地を明堂で合祭し大赦。癸未、福建・二廣に塩を売るときは旧額を擅に増やさせない詔。
  • 冬10月乙酉朔、連州の被寇民の租税を蠲した。辛夘、陳峴らを遣わし金に正旦を賀した。丙申、太学の両優釈褐は殿試第二人の恩例を与える詔。庚子、四川に当三の大銭を行い再び四川の塩課17万餘緡を蠲した。辛丑、紹興府民の逋賦5万餘緡を除いた。乙已、金は蒲察鼎壽らを遣わして会慶節を賀した。戊申、廣西の妖賊が平定。
  • 11月乙夘朔、帝は自ら数百言の論を著し用人の弊、誅賞の法にまで深く原を及ぼし宰執に都堂で従臣に示させる命。辛酉、宗子試法を裁定。戊寅、金州管内安撫司を罷めた。壬午、宗室で出身のある者に考試及び教授官に注することを与える詔。癸未、傅淇らを遣わして金主の生辰を賀した。
  • 12月丙戌、重修淳熙勑令格式を頒布。丙申、百司省記法を修めた。已亥、今より贓吏を鞫した後、たとえ原貸されても失入で獄官を坐罪しない詔。庚戌、金は耶律慥らを遣わして明年の正旦を賀した。辛亥、臨安府の征税を1年蠲した。この歳、温州・台州で水害、和州で旱害があった。

淳熙七年(1180年)

  • 春正月甲子、廣西諸州の歳賣塩数を減じた。乙丑、劉焞は李接を平定した功により集英殿脩撰に擢され将佐幕属吏士は官を進め磨勘の年を減じられた有差。已夘、京西州軍にみな鐵銭及び会子を用いさせ民戸の銅銭は鐵銭あるいは会子で償わせ2月を過ぎて輸めなければ告賞を許す詔。庚辰、淮東の民が貸した常平銭米を蠲した。
  • 2月癸未朔、初めて廣南煙瘴諸州に医官を置いた。丙戌、皇太子宮小学教授を再置。辛夘、魏王愷が薨じた。乙未、廣西の兵校500人を提刑司に隷させる詔。戊戌、瓜洲孳生馬監を罷めた。已亥、湖南の樁積米10万石を出し永・邵・郴三州で振糶。甲辰、利州路の守貳・縣令に営田を兼領させた。乙已、改官員は歳に80人を過ぎないよう限る。子棟を宜州觀察使・安定郡王に封じた。
  • 3月壬戌、賢良方正能直言極諫の者を挙げさせる詔。庚午、太上皇太上皇后を迎え翠寒堂で宴す。乙亥、内外官の薦挙員を減じた。丁丑、臨安府民の身丁銭を再び3年蠲した。諸州に軍籍の闕を招補させ今より歳ごと常とする詔。
  • 夏4月甲申、聚景園に幸した。丙戌、趙雄らが仁宗・哲宗玉牒を上呈。戊子、明州の積欠諸司銭15万緡を除いた。辛夘、沿邊の帰正人が官田を占用することの賦役を再び3年免じた。甲辰、黎州5部落が盤佗砦を犯し兵馬都監髙晃が綿潼大軍3千人でこれと戦うも敗走、蛮人は深く入って大掠して去った。已酉、廕補・武挙・宗室小使臣に3年の喪を行わせる命。
  • 5月戊辰、吏部尚書周必大を參知政事、刑部尚書謝廓然を簽書樞密院事とした。袁州分宜縣の大水によりその税を捐じた。戊寅、舒・蘄二州に鑄銭を歳45万貫を額とする詔。已夘、書坊が擅に書籍を刻すことの禁を厳しく申し渡す。庚辰、特奏名で年60の者は縣尉に注しない詔。
  • 6月丙戌、特進観文殿大學士判建康府陳俊卿を少保とした。壬辰、5部落が再び黎州を犯し制置司鈐轄成光延が戦敗し官軍の死者は甚だ多く、提点刑獄権州事折知常は城を棄て遁走。甲午、制置司は兵を益し都大提挙茶馬呉総を遣わしこれを平定に赴かせた。壬寅、試刑法官に経義を増試させる詔。
  • 秋7月癸丑、二廣帥臣監司に部内の守臣の臧否を察させ聞かせる詔。丁夘、旱により繋囚を決させ群臣を分かって山川に雨を禱らせた。壬申、廣西提刑司を鬱林州に移した。
  • 8月癸未、黎州の官吏が蕃商の物を買うことを禁じた。甲申、雨を禱ってまだ応じないことにより輔臣に職事官以上に実封で言事させることを諭した。この夕、雨が降った。丁酉、湖南飛虎軍を置いた。戊戌、雨。甲辰、5部落が再び黎州の砦を犯すも興州左軍統領王去悪がこれを拒退、折知常は重く賂して蛮に納欵させた。
  • 9月癸亥、今より常朝には丞相の名を称さない詔。甲子、樞密使にもこれに準じさせる命。乙丑、知縣は成資してはじめて監司の薦挙を聴す詔。壬申、諸路に糴を遏めることを禁じた。癸酉、省記法を淳熙重修百司法と名付けた。
  • 冬10月丙戌、限田の太寛による民役の煩重を、台諫給舎に戸部の長貳と同じく詳議させ聞かせる詔。戊子、葉宏らを遣わし金に正旦を賀した。乙未、黎州5部落が馬を進め降を乞い詔してその献馬を却け互市を許した。庚子、金は李佾らを遣わして会慶節を賀した。
  • 11月癸丑、辺吏に江西の淮を過ぎた饑民を存恤させる詔。丁已、淮南諸司州郡が民に酒を抑配することを禁じた。辛酉、両淮州軍の二税を1年蠲した。癸亥、黎州戍軍伍進らが乱を起こし折知常は遁走、王去悪は進らを誘って誅した。壬申、南康軍の旱により検放した所の余苗米1万石を出し軍糧に充てる詔。癸酉、蓋経らを遣わして金主の生辰を賀した。
  • 12月庚寅、趙雄らが神宗・哲宗・徽宗・欽宗四朝国史志を上呈。壬辰、四川制置使胡元質は蕃部への備えを怠りその猖獗を致した罪で二官を奪われ罷めた。丙申、嗣濮王士輵が薨じた。戊戌、新除成都府路提点刑獄禄東之に四川制置司の応庫錢貼進禁潭道等州の官賣塩を権行させた。甲辰、宗室命継法を立てた。

淳熙八年(1181年)

  • 夏4月癸丑、湖南諸州の城を修めた。丙辰、臨安の疫により医官を分けて軍民を診視させた。庚申、再び強盗を諸軍の重役に配隷させた。丁夘、安定郡王子棟が薨じた。癸酉、郴州・宜章・桂陽軍臨武縣に学を立て峒民の子弟を教養した。
  • 5月戊寅、監司守令に農桑の勧課をもって賞罰とする詔。壬午、諸路転運司に民間の経界簿籍の補葺を趣めさせる詔。辛夘、久雨により京畿及び両浙の囚の罪を一等減じ杖以下を釈し貧民に稲種の銭を貸した。壬寅、史浩を少師とした。
  • 6月已酉、殿前司・平江府の牧馬草場2万畝を放ち民の漁採を聴す詔。戊午、淳熙7年の諸路旱傷の検放米137萬石・銭2006萬緡を除いた。辛酉、諸路の坊場監官を罷め民に承買させた。戊辰、史浩は薛叔似・楊簡・陸九淵・陳謙・葉適・袁燮・越善譽ら16人を薦め、詔してみな都堂に赴かせ審察した。
  • 7月癸未、許浦水軍を再び殿前司に隷させた。永陽郡王居広が薨じ永王を追封。辛未、監司守臣で荒政を修挙した16人を賞し、雨ふらぬにより繋囚を決した。壬辰、紹興で大水、秀・婺州・平江府の米を出して振糶した。丁酉、厳州で水害、被災の家には和買を蠲し3等以上の戸は半分減じる詔。辛丑、范質の後を録した。
  • 8月丙午、旱により招軍を罷めた。庚戌、趙雄が罷めた。壬子、紹興府諸縣の夏税和市折帛身丁銭絹の類は名色を截日にさせず住催させる詔。癸丑、王淮を右丞相兼樞密使とした。

  • 営塞措置・沿江守備検視した。戊寅、巡幸の期を展べる詔。辛次膺が罷めた。已夘、李顯忠は清逺軍節度副使・筠州安置に責め授けられた。辛已、浙西副都総管李寳に御營統制官を兼ねさせ浙西海道措置を命じた。甲申、右諫議大夫王大寶が入対し移蹕を論じ、敷文閣學士虞允文を兵部尚書兼湖北京西宣諭使とした。戊子、宮人30人を放ち、蕭琦を検校少保・河北招撫使とした。

  • 秋7月庚寅朔、虞允文を湖北京西制置使とした。癸已、湯思退を尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使、李顯忠を再び果州團練副使・潭州安置とした。乙未、宿州棄軍の将佐を奪官・貶竄有差。丙申、太白が昼に見え経天。江淮宣撫司の便宜行事を罷めた。乙已、旱蝗星変により侍従台諌両省官に時政の闕失を条上させる詔。丁未、李顯忠の侵欺した官銭を徴すが金銀はその家を籍せず免じる詔。乙夘、省部寺監官吏を裁減。戊午、岳飛の田宅を給還した。
  • 8月丙寅、張浚が再び江淮軍馬を都督。庚午、劉寳に淮東招撫使を兼ねさせた。丙子、飛蝗・風水の災いにより避殿減膳、諸路の職田借用の令を罷めた。戊寅、金の紇石烈志寧は再び海泗唐鄧四州の地及び歳幣を書をもって求めた。癸未、龍大淵を再び知閤門事、曾覿を同知閤門事とした。丙戌、淮西安撫司幹辦公事盧仲賢らを遣わし書を金帥府に齎させ四州を差減歳幣で許さず諸将に兵人を境外に遣わさせないことを戒めた。
  • 9月已酉、地震。甲寅、謝廓然を同知樞密院事とした。丙辰、後殿の幄次を延和殿と改めた。已未、観文殿大學士新四川制置使趙雄を知瀘州とした。戊辰、言者は今より歉歳に経費が虧けたときの蠲減は戸部に実を据えて聞かせ督趣を得ず已に蠲閣した数から従わせることを請い従い、諸路の補葺経界簿籍を罷めた。
  • 9月庚辰、諸路提挙司に民に麦種を貸させる命。辛已、錢良臣が罷めた。庚寅、謝廓然に兼権參知政事とした。
  • 冬10月已酉、施師点らを遣わし金に正旦を賀した。辛酉、黎州の戦殁将士403人を録した。甲子、金は完顔実らを遣わして会慶節を賀した。災傷州縣に民を諭して振糶させる詔。
  • 11月甲戌、旱傷により喜雪宴を罷めた。戊寅、富陽・新城・銭塘の夏税を蠲した。庚寅、前池州守趙粹中は誤って逓卒を斬り汪青は職を落とされ、詔して青の家に衣糧15年を給した。辛夘、両省侍従台諫に各々知る所を挙げさせ行在から鎮江府への運河を浚わせる詔。丁酉、燕世良を遣わして金主の生辰を賀した。已亥、臨安府及び厳州の饑民を振わせた。
  • 12月癸夘朔、徽・饒二州の民の流亡が多いことにより守臣を罷め南庫銭30万緡を出し新浙東提挙常平朱熹に振糶させた。丁未、諸州の営造を禁じた。戊申、劉安世に忠定と諡した。辛亥、諸路旱傷州軍の明年の身丁銭物を蠲した。甲寅、雨雹。度僧牒をもって閩廣の民に米を入れさせることを募った。丙辰、縣令で荒政を修挙できた者があれば監司郡守に名を聞かせる詔。甲子、朱熹の社倉法を諸路に下した。戊辰、金は魏貞吉らを遣わして明年の正旦を賀した(進書儀を争執したことにより帝は内に還り王抃を遣わして諭旨、貞吉はまもなく書を奉じて入見)。この月、廣東安撫鞏湘は潮の賊沈師を誘って降させ誅した。この歳、江浙・両淮・京西・湖北・潼川・夔州等路で水旱が相継ぎ廩を発き租を蠲し使いを遣わして按視し民で江北に流入する者は所在にこれを振業させた。

淳熙九年(1182年)

  • 春正月甲戌、四孟の朝献は分けて3日を用いること在京の故事の如くにする詔。丁丑、両淮の戍兵を歳1度更す。癸未、樞密都承旨王抃を在外宮觀に罷め、諸軍の承受を罷め樞密院文書の関録を両省旧法に復し文臣を都承旨とした。戊子、廣南の米を行在に糴わせた。庚寅、江浙両淮の旱傷州縣に民に稲種を貸し計度が足りなければ樽積銭を貸す詔。
  • 2月庚戌、使いを遣わして二廣の塩法の利害を訪問。戊辰、四川制置司は叙州の賊大波浪を獲たと言上した。
  • 3月辛未朔、佑聖觀に幸し忠・萬・恭・涪四州を振済させる詔。癸未、鎮江を振済。壬辰、使いを遣わし淮南・江浙を按視・振済。甲午、諸路の寄招軍兵を罷め3年就いて軍子弟を揀び闕を補った。
  • 夏4月甲辰、今より盗が発した所は親ら帥守監司が論罰に臨み平定に労ある者は賞を議する詔。乙夘、諸路提刑に文武臣通じて1員を置く詔。癸亥、帝は陸贄の奏議を覧て講読官に「今日の政は徳宗の弊のようなものがあることを恐れる。卿らは条陳して上げよ、隠すことなかれ」と諭した。
  • 5月癸酉、孫柄を右千牛衞大將軍とした。丙子、輔臣に監司郡守を択ぶには必ず才行を先にさせる詔。
  • 6月壬寅、侍従台諫に操脩端亮風力彊明で監司に充てられる者1・2人を各々挙げさせる詔。甲寅、犒賞庫の酒課22万餘緡を蠲した。汀・漳二州の民で沈師に蹂躙された者はその賦を除いた。丁已、臨安府の貧民に棺瘞銭を給した。戊午、謝廓然が薨じた。庚申、太白が昼に見え、臨安府で蝗があり守臣に焚瘞を急がせる詔。甲子、太白が昼に見え経天。
  • 秋7月甲戌、江西の常平義倉及び樽管米40万石を諸司に付し振糶に予備させた。辛已、南庫銭30万緡を出し浙東提挙朱熹に付して振糶に備えさせた。壬辰、資政殿學士李彦頴を參知政事とし、所儲和糴米140萬石を発し淳熙8年の振済の数を沿江屯駐諸州に樽管させる詔。
  • 8月已亥朔、紹興の民戸で去歳すでに夏税を納めて減ずべき者は30萬緡を今年の数に理させる詔。庚子、皇后・内命婦の蔭補数を減じ文武臣が郊に遇い奏薦する員を立て致仕遺表恩沢は旧法の3分の1を損する限りとした。淮東・浙西で蝗。壬子、諸州の官による捕蝗の罰を定めた。乙夘、荒政修挙の監司守臣を再び賞した。
  • 9月已已朔、諸路の科買軍器物料を3年罷めた。庚午、王淮を左丞相、梁克家を右丞相とした。丙子、子彤を容州觀察使とし安定郡王に封じた。辛已、明堂で大享し大赦。乙酉、銭引10萬緡を瀘州に賜い振糶に備えた。辛夘、伯圭を滎陽郡王に封じ、旱により恭・合・渠・昌州の今年の酒課を減じた。癸已、太白が昼に見えた。乙未、蕃舶が金銀を販易することを禁ずる令を著した。
  • 冬10月戊戌朔、王藺らを遣わし金に正旦を賀した。丙午、軍器所の招軍を罷めた。辛亥、四川沿辺の支径を塞いだ。戊午、金は完顔宗回らを遣わして会慶節を賀した。甲子、諸路旱傷州軍の淳熙7・8年の逋賦を蠲し県官緡銭を出して戸部に償わせた。
  • 11月戊辰朔、臣庶の家の婦人の飾りが僭擬することを禁じた。庚午、夔路の饑を振わせた。乙酉、進奏院で火事。丙戌、賈選らを遣わして金主の生辰を賀した。戊子、大風。
  • 12月已亥、二廣の官による賣塩法を更め客鈔を復し行い緡銭40万を出して漕計の闕に備えた。癸亥、金は孛术魯正らを遣わして明年の正旦を賀した。

淳熙十年(1183年)

  • 春正月丁丑、給事中施師点を簽書樞密院事とした。州縣に蝗を掘らせる命。甲申、李彦頴が罷めた。乙酉、二廣提挙塩事に宮互措置塩事を命じた。丙戌、施師点に兼権參知政事。丁亥、終身宮観人に子を奏することを得させない詔。已丑、廣南の官による鬻塩法を罷める詔。壬辰、江東・浙西の寄招鎮江諸軍を3年罷めた。
  • 2月癸夘、提挙徳壽宮陳源が罪あり建寧府に竄せられまもなく郴州に移り家貲を籍没、徳壽宮に進納。
  • 3月戊辰、李燾が続資治通鑑長編687巻を上呈。辛未、有司に第七界会子の造りを請わせた。辛已、四川の和糴を3年免じた。癸未、玉津園に幸した。戊子、四川に類試自今16人取1人と詔した。已丑、詐って災傷を称え籍産する法を除いた。癸已、銓試旧法を復し試雑文を罷めた。
  • 夏4月丙申、臨安府民の丁身銭を再び3年蠲した。已亥、湖南・廣西に溪洞の径路を堙塞させる命。
  • 5月丙寅、皇太子宮小学教授を1員増した。甲戌、潭州飛虎軍を江陵都統司に隷させた。戊寅、聚景園に幸した。辛夘、㐮陽の水渠を疏らせその渠傍の地を屯田とする詔、まもなく民間の侵耕する者に就いてこれを給する詔を出し、舒州宿松監を廃した。
  • 6月戊戌、監察御史陳賈が偽学の禁を請うた。乙已、昭州の歳貢の金を罷めた。已未、諸路監司帥臣に歳ごと廉吏を挙げさせる詔。庚申、贓吏の禁を厳しくした。
  • 秋7月乙丑、雨ふらぬにより繋囚を決した。丙寅、明慶寺に幸し雨を禱った。甲戌、夏秋の旱により避殿減膳、侍従台諫両省卿監郎官館職に各々朝政の闕失を陳べさせ群臣を分けて天地宗廟社稷山川に雨を禱らせた。左丞相王淮らは旱により罷めることを乞うも許さなかった。丁丑、災傷州縣の淳熙8年の欠税を除く詔。甲申、雨。已丑、御殿を復膳。
  • 8月戊申、施師点に參知政事兼同知樞密院事、御史中丞黄洽を參知政事とした。庚戌、史浩を太保・魏国公致仕とした。庚申、左藏南庫を戸部に隷させた。
  • 9月乙丑、長溪・寧徳縣で大水。丙寅、盗販解塩の法を厳しくした。丁丑、佑聖觀に幸した。壬午、諸州の逋負内藏庫銭60万緡を蠲した。乙酉、余端禮らを遣わし金に正旦を賀した。丁亥、内郡での鐵銭の行使を禁じた。
  • 冬10月乙未、両浙の義役は民の便に従う詔。壬子、金は完顔方らを遣わして会慶節を賀した。
  • 11月壬戌朔、日食。乙丑、会子を降し両淮の銅銭を収めた。甲戌、龍山に幸し大閲し玉津園に幸した。閏月壬寅、安南の献象を却ける詔。丁已、陳居仁らを遣わして金主の生辰を賀した。
  • 12月丙子、徳壽宮に朝し太上皇后の慶壽礼を行い太上皇の故事のように推恩した。丁亥、金は完顔婆盧火らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、福・漳・台・信・吉州で水害、京西・金・澧州・南平・荆門・興国・廣徳軍・江陵・建康・鎮江・紹興府で旱害があった。

淳熙十一年(1184年)

  • 春正月辛夘朔、土が雨のように降った。辛丑、安化蛮蒙光漸らが宜州の思立砦を犯し廣西兵馬鈐轄沙世堅が出兵して討ちこれを獲た。丙午、江東西路諸監司の義役差役は民の便に従う詔。甲寅、土が雨のように降った。
  • 2月甲申、両淮・京西・湖北の万弩手は今在家で閲習させ毎州歳に材武の者1・2人を上らせて試し官を授くことを四川の義士の制のように許す詔。
  • 3月辛夘、刑部・御史台に季ごと仲月に囚徒を録させる詔。癸已、利路三都統呉挺・郭鈞・彭杲に出師進取の利害を密奏させ金に備え、金州管内安撫司を再置。甲午、上津・潮陽の旱によりその税を蠲した。辛丑、秀州御馬院莊を罷めその侵地を民に還した。丁未、淮民が温・処州の戸口を招くことを禁じ職田官田の8年逋租を除いた。庚戌、御試策で軍民の利害に及ぶ者は考官が裒類して聞かせる詔。辛亥、史浩が入謝し内殿で宴を賜った。
  • 夏4月甲子、興元義勝軍を㐮陽に移戍した。戊辰、禮部進士衞涇以下394人に及第出身を賜った。癸未、紹興申明刑統を再頒布。
  • 5月戊子朔、崇徳等16縣の小民の淳熙10年欠税14万緡を蠲した。癸夘、刑部大理寺に刺配法の減を議させる命。甲寅、緡銭30万を出し四川の久戍将士を犒った。乙夘、太白が昼に見えた。
  • 6月戊午朔、諸道総領に偏裨で将帥に堪える者を挙げさせる詔。庚申、周必大を樞密使とした。壬戌、詔して在内の尚書侍郎・両省諫議大夫以上・御史中丞・学士待制、在外の守臣監司に科挙年分に限らず各々賢良方正能直言極諫1人を挙げさせた。已夘、諸州に歳ごと稲種を買い農民の闕に備えさせる詔。
  • 秋7月癸夘、浙東の敗闕坊場の酒課を蠲減した。癸丑、浙西・江東の水害により諸州の遏糴を禁じた。甲寅、黎州要衝の城を築いた。
  • 8月庚申、章森を遣わし金に正旦を賀した。
  • 9月丁亥、諸路の添差官に今より創置しない詔。乙已、殿前軍子弟に権に一度刺収することを許す詔。甲寅、四川の酒課を再び68餘萬緡減じた。
  • 冬10月甲子、初めて改官人が贓を犯した罪を挙げた場合は挙主を二官降す命を出した。乙丑、王信らを遣わして金主の生辰を賀した。庚午、諸州の増収税銭を禁じた。丙子、金は張大節らを遣わして会慶節を賀した。盱眙軍は金人牒を得て上京の地が寒いため来歳の正旦・生辰の人使を1年権止すると言った。壬午、忠義の廟を立てる者に両淮漕臣が繕治するよう詔した。
  • 11月壬寅、福建の民が私に兵器を有することを禁じた。癸夘、廣西諸州に歳計10万緡を助けた。甲寅、峽州に歳時に処士郭雍を存問させた。
  • 12月丁已、湖南府城を修めた。已夘、監司州縣に常賦の外みだりに民から取らないよう戒める詔。この歳、江東・浙西諸州で水害、福建・廣東・吉・贛州・建昌軍・興元府・金洋・西和州で旱害があった。

淳熙十二年(1185年)

  • 春正月已丑、交阯の塩が省地に入ることを禁じた。壬辰、四川制置使留正は人を遣わし青羗奴兒結を誘って殺した。戊戌、日中に黒子があった。戊申、任伯雨に忠敏と諡した。庚戌、日中に再び黒子があった。
  • 2月辛酉、雨雹。乙亥、諸軍額外制領将佐を罷めた。庚辰、黎州防辺義勇を置いた。
  • 3月乙酉、孫擴を安慶軍節度使に進め平陽郡王に封じた。辛夘、渤海楽を習うことを禁じた。辛亥、侍従台諫両省総領管軍官に各々都副統制に堪える者1・2人を挙げさせる命。癸丑、税場の高等累賞法を除いた。
  • 夏4月甲子、聚景園に幸した。戊辰、淳熙寛恤詔令を頒布。丙子、故遼の大石林牙が夏人に道を仮り金を伐つとの諜言があり、密かに呉挺に留正と議させた詔。已夘、玉津園に幸した。
  • 5月庚寅、地震。辛夘、福州で地震し帥臣趙汝愚に守令を察し兵官を択んで盗賊に備えさせる詔。
  • 6月乙夘、淮東彊勇軍効用効士法を立てた。壬戌、諸軍の逋欠営運銭を除いた。丁丑、浙東帥臣監司が時をもって諸州の臧否を上げなければ一官を奪う詔。戊寅、太白が昼に見えた。
  • 秋7月丁酉、太白が昼に見え経天。壬寅、二廣の試摂官は銓試の例のようにその半分を取る詔。甲辰、淮西の屯田の鹵莽により総領軍帥漕臣守臣を奪官有差。
  • 8月癸亥、太上皇の壽80により有司に慶壽礼を議させる詔。乙丑、戸部給舎台諫に官民戸役法を詳議させ聞かせる詔。
  • 9月甲申、二廣監司以下の到罷酬賞法を復した。丙戌、潮州・台州の被水の家を恤する詔。庚寅、王信らを遣わし金に正旦を賀した。丁丑、諸路総領軍帥漕臣守臣に歳ごと屯田の収める所の数を上げさせる詔。
  • 冬10月辛亥、太上皇に光堯壽聖憲天体道性仁誠徳経武緯文紹業興統明謨盛烈太上皇帝の尊号を、太上皇后に聖壽齊明廣慈備徳太上皇后の尊号を加えた。甲寅、施・黔州の経制無額銭を蠲し侍従に各々宗室2・3人を挙げさせる命。癸亥、諸路の臧否は3月終に、四川・二廣は5月終に上げさせる詔。
  • 11月丁亥、鄂州で大火。戊子、雷。壬辰、章森らを遣わして金主の生辰を賀した。辛丑、天地を圜丘で合祀し大赦。
  • 12月庚戌朔、群臣を率い太上皇太上皇后に冊寶を徳壽宮に奉呈し紹興33年の故事のように推恩した。甲子、知福州趙汝愚を四川制置使とした。丙子、金は僕射守忠らを遣わして明年の正旦を賀した。

淳熙十三年(1186年)

  • 春正月庚辰朔、群臣を率い徳壽宮に慶壽礼を行い大赦、文武臣僚はみな3年の磨勘とし貧民の丁身銭の半分を免じ110餘萬緡、内外諸軍の犒賜は合わせて160萬緡とした。癸已、史浩は太傅を罷め陳俊卿を少師、嗣濮王士歆を少保とした。庚子、昭慶軍節度使士峴を開府儀同三司とした。
  • 2月甲寅、強盗2度以上は従犯であっても死罪に論じる詔。庚申、帰正で添差任満の人で軍に従うべき才芸ある者を挙げさせる詔。
  • 3月丁酉、職事官の改官は歳額80員の外を許す詔。廣南東西塩事司を1つに合わせた。甲辰、玉津園に幸した。
  • 夏4月辛亥、呉挺に夏人との結約を詔した。戊辰、四川の和糴軍糧を再び3年蠲した。辛未、聚景園に幸した。
  • 5月癸未、日中に黒子があった。甲申、非泛補官及び7色補官人で曽て在朝の侍従を任じたことがない者は品秩が高くても役を免じない詔。丙申、沖晦處士郭雍に頤正先生の号を賜い、官を遣わして問い雍の言いたいことを具さに録して上呈させた。
  • 秋7月壬辰、内外諸軍の主帥に各々統制に堪える者2・3人を挙げさせる詔。壬寅、胡銓に忠簡と諡した。閏月丙午朔、雨雹。戊申、敷文閣學士留正を簽書樞密院事とした。已酉、施師点は同知樞密院事を兼ねることを免ずるよう乞い許した。已未、五星がみな伏した。
  • 8月乙亥朔、日月五星が軫に聚った。丙子、故相曾懐が奏補を鬻いだ罪により観文殿大學士を落とし追奪。壬午、新たに江陵城を築き成った。
  • 9月乙已、偽造した会子は経て行用したものはみな死刑と処する詔。この月、李獻らを遣わし金に正旦を賀した。
  • 冬10月甲戌朔、福州で火事。甲午、金は完顔老らを遣わして会慶節を賀した。
  • 11月戊午、四川制置司に馬政を通知させ水渠の民が占める荒田の租を量収させる詔。庚申、張叔椿らを遣わして金主の生辰を賀した。甲子、王淮らが仁宗・英宗玉牒、神宗・哲宗・徽宗・欽宗四朝国史列伝・皇帝会要を上呈。丙寅、梁克家が罷め観文殿大學士・醴泉觀使兼侍讀とした。辛未、百司の吏額を裁定。
  • 12月丙子、思州の田氏が買い納めた黔州民の省地を献じたのでその直を償う詔。辛已、汀州の塩価を歳1万緡減じた。甲午、陳俊卿が薨じた。乙未、臨安府城内外の貧乏老疾の民を振わせた。戊戌、大理寺の獄が空した。已亥、金は耶律子元らを遣わして明年の正旦を賀した。辛丑、軍士に雪寒銭を再び賜った。この歳、利州路で饑、江西諸州で旱があった。

淳熙十四年(1187年)

  • 春正月癸亥、四川の樽積米を出し金・洋州及び闗外四州の饑民に貸済した。
  • 2月丁亥、周必大を右丞相、戊子に施師点を知樞密院事とした。
  • 3月甲子、玉津園に幸した。
  • 夏4月已夘、諸路上供の殿最を考させる籍を置いた。戊子、禮部進士王容以下435人に及第出身を賜った。
  • 5月乙已、成都で火事。已酉、官を遣わし汀州の経界を措置。
  • 6月戊寅、久旱により画龍祈雨法を頒布。甲申、太一宮・明慶寺に幸し雨を禱った。丁亥、梁克家が薨じた。庚寅、臨安府で火事。辛夘、太白が昼に見えた。癸已、王淮らは旱により罷めることを求めるも許さず、詔して衡州に炎帝陵廟を葺かせた。已亥、両浙路の囚の罪を1等減じ杖以下を釈す。
  • 秋7月辛丑、戸部の上供殿最を罷めた。丙午、群臣に時政の闕失及び当今の急務を陳べさせる詔。丁未、旱により汀州の経界を罷めた。已酉、監司に州縣の弊事・民間の疾苦を条上させる詔。辛亥、避殿減膳徹楽。癸丑、検正都司に群臣の封事で可行なものを詳しく見て聞かせる命。省部漕臣に已に蠲した逋欠を催理する者は台諫に覚察させ秀州の経総制糴本銭を権に半年減じる詔。丙辰、臨安府に蝗を捕えさせ民を募って米を輸し振済し紹興の新科の下戸の今年の和市布帛2万8千匹を除いた。辛酉、江西・湖南の饑に度僧牒を給し鬻いで米を糴い振糶に備えさせた。戊辰、雨、給舎に監司の条する所の弊事を詳しく見させる命。
  • 8月辛未、留正を參知政事兼同知樞密院事とした。丙戌、夔路の酬賞法を復した。
  • 9月癸夘、太上皇が不豫。乙已、徳壽宮に詣り疾を問うた。丙午、萬鍾らを遣わし金に正旦を賀した。已未、徳壽宮に詣り疾を問うた。乙丑、増収した水渠の民田租を罷めた。丙寅、官軍の私負を除いた。
  • 冬10月辛未、太上皇の不豫により大赦。壬申、徳壽宮に詣り疾を問うた。癸酉、群臣を分けて天地宗廟社稷に禱らせた。甲戌、太上皇がまだ常膳を御していないので来日は視朝せず宰執が内殿で奏事するとした。乙亥、徳壽宮に詣り侍疾し、太上皇(髙宗)が徳壽殿で崩じた。遺誥により太上皇后は皇太后と改称し、皇太后の旨を奉じ奉国軍承宣使甘昇に太上皇の喪事を主管させた。丙子、韋璞らを金への告哀使とした。戊寅、滎陽郡王伯圭を攢宮總䕶使とし、翰林學士洪邁が大行皇帝の廟号は祖と称すべきと言い、詔して有司に集議させ聞かせた。已夘、皇太后を尊ぶ詔。辛已、詔して曰く「大行太上皇帝が奄かに至養を棄てられ、朕は当に衰服三年すべきだが、群臣は易月の令に遵うことを自ら請う。有司に儀制を討論させ聞くべし」と。甲申、礼官顔師魯らの言を用い、大行太上皇帝は徽宗の正統を上継ぐので廟号は宗と称すこととした。乙酉、百官が5度上表し帝の内に還っての聴政を請うた。丙戌、詔して小祥を過ぎるのを俟って請いに勉め従うとした。戊子、帝は衰絰のまま素輦に御して内に還り、顔師魯らを金国遺留国信使に充てた。
  • 11月已丑、金は田彦臯らを遣わして会慶節を賀したが入見を免じその書幣を却けた。甲午、徳壽宮に詣り、これより7日ごとにみなこのようにした。戊戌朔、徳壽宮に詣り、これより朔望ごとにみなこのようにした。已亥、大行太上皇帝の大祥、これより帝は白布の巾袍で延和殿に御し徳壽宮に詣るに衰絰して杖するのは初めの如くとした。皇太子惇に庶務を参決させる詔。庚子、皇太子は3度庶務の参決を辞したが許されなかった。辛丑、徳壽宮に詣り禫祭し百官が服を釈いた。甲辰、群臣が3度上表し御殿聴政を請い、詔して祔廟を過ぎるのを俟つとした。戊申、胡晉臣らを遣わして金主の生辰を賀した。辛亥、冬至に徳壽宮に詣った。甲寅、西南方に赤気が日に随って入った。乙夘、雷。戊午、皇太子に議事堂で庶務を参決させ、在内の寺監・在外の守臣以下は宰執と同じく除授を経てから奏させる詔。
  • 12月庚午、大理寺の獄が空した。壬午、東北方に赤気が日に随って出た。癸已、金は完顔崇安らを遣わして明年の正旦を賀した際、垂拱殿の東楹の素幄で会い、詔して礼物は殿に入れず有司に付した。この歳、両浙・江西・淮西・福建で旱があり振わせた。

淳熙十五年(1188年)

  • 春正月丁酉朔、徳壽宮の几筵に詣り礼を行った。戊戌、皇太子が初めて議事堂で庶務を決した。辛丑、左右補闕拾遺を再置。乙已、諸州軍の会慶節進奉を2年免ずる詔。今より内殿に御すれば皇太子に侍立させる詔。庚申、施師点が罷めた。甲子、黄洽を知樞密院事、吏部尚書蕭燧を參知政事とした。
  • 2月丁亥、金は満察克忠らを遣わして弔祭し、徳壽殿で礼を行い次いで東楹の素幄で帝に見えた。癸已、京鏜らを遣わし金に報謝。
  • 3月庚子、王淮らが大行太上皇に聖神武文憲孝皇帝と諡し廟号は髙宗と上呈。乙已、髙宗の謚冊寶を徳壽殿に上呈、また懿節皇后を憲節と改謚し冊寶を別廟本室に上呈。丁未、右丞相周必大が太傅を摂し節を持って梓宮を導いた。癸丑、洪邁の議を用い、呂頤浩・趙鼎・韓世忠・張俊を髙宗廟庭に配饗し、吏部侍郎章森は張浚・岳飛を用いることを乞い、秘書少監楊萬里は浚を用いることを乞うたがともに取り上げられなかった。丙寅、髙宗を永思陵に権攢した。
  • 夏4月壬申、帝は親ら虞主を迎える礼を行い、これより7虞・8虞・9虞・卒哭・奉辞はみなこのようにした。乙亥、洪邁・楊萬里をともに郡に予える詔。甲申、礼官尤袤の請を用い群臣に配享臣僚を再集議させる詔。丙戌、髙宗の神主を太廟に祔した。詔して曰く「朕は比ごろ衰絰3年を令せんとしたが群臣は屡度殿に御して易服を請い、それゆえ布素で内殿を視事し、詔して祔廟を過ぎるのを俟って請いに勉め従うとしたが、典礼を稽するに心は実に未だ安からず、行ってこれを終制とすることは近古に叶う。まさに至意を体し復た請うことなかれ」と。已丑、臨安・紹興府の囚の罪を1等減じ杖以下を釈し攢宮の役に縁る民の賦を蠲す詔。庚寅、御史冷世光の言を用い配享の再議を罷め、皇太后は旨あって車駕は月4度徳壽宮に詣ること旧礼の如くとした。
  • 5月已亥、王淮が罷めた。乙已、帝は薛叔似の言を用い王淮を罷めた上で叔似らに諭して曰く「卿らの官は拾遺補闕を名とし紏劾を任とせず、今奏する所はまさに弾撃に類する。甚だ官を設け名を命ずる意ではない。自ら警しむべきである」と。丁已、髙宗実録を修めさせる詔。已未、祈門縣で大水。壬戌、後殿に初めて御した。詔して歳ごと銭5万6千餘緡を出し廣東12州の折納米価銭を減じた。
  • 6月丁夘、雨雹。戊辰、勑令所を罷めた。已已、伯圭を少傅・帯御器械とし夏執中を奉国軍節度使とした。癸酉、新江西提点刑獄朱熹を兵部郎官としたが、熹は疾により就職せず、侍郎林栗が熹の慢命を劾し熹は祠を奉ずることを乞い、太常博士葉適は栗が王淮・鄭丙・陳賈の説を襲い道学の名目をもって妄りに正人を廃すると論じ、詔して熹を再び江西に赴かせたが熹は力めて辞し赴かなかった。庚寅、熒惑が太微を犯した。
  • 秋7月戊戌、髙宗廟楽を大勲、舞を大徳と名付けた。已未、兵部侍郎林栗を出した。壬戌、恩平郡王璩が薨じ信王を追封。
  • 8月甲子朔、日食。
  • 9月庚子、夜、南方に赤黄気が大内を覆った。辛丑、明堂で大饗し太祖・太宗を配して大赦。癸夘、試補医官法を更めた。已酉、鄭僑らを遣わし金に正旦を賀した。甲寅、皇太后の宮名を慈福とした。
  • 冬10月癸未、金は王克温らを遣わして会慶節を賀し、垂拱殿東楹で会った。甲申、会慶節に北使百官に東上閤門に詣り拝表起居させ入賀を免じる詔。已丑、諸州の科買軍器物料を再び3年罷めた。
  • 11月庚子、煥章閣を建て髙宗の御集を蔵し何澹を遣わして金主の生辰を賀した。甲辰、百官の輪対を3奏を過ぎないよう詔した。
  • 12月丙寅、龔茂良を資政殿學士に追復。壬午、朱熹に西太一宮の主管兼崇政殿説書を命じたが辞して至らず。戊子、金は田彦臯らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、江西・湖北・両淮・建寧府・徽州で水害があった。

淳熙十六年(1189年)

  • 春正月癸已、金主雍が殂しその孫璟が立った。甲午、孫柄を嘉国公に封じた。丙申、黄洽が罷めた。已亥、周必大を左丞相、留正を右丞相、蕭燧に兼権知樞密院事、禮部尚書王藺を參知政事、刑部尚書葛邲を同知樞密院事とした。乙已、蕭燧が罷めた。丙午、皇太后が慈福宮に移御した。戊申、昭慶軍承宣使郭師禹を保大軍節度使とした。辛亥、帝は2府にはじめて旬日に内禅を行う旨を諭し周必大に留身の詔草を呈させた。丙辰、拘催銭物所を罷め、二廣に官般官賣塩法を復した。已未、徳壽宮を重華宮と改め、李綱に忠定と諡した。
  • 2月辛酉朔、日食。壬戌、伝位皇太子の詔を下し、この日皇太子が皇帝位に即いた。帝は素服して重華宮に駕した。辛未、至尊壽皇聖帝、皇后は壽成皇后の尊号を上呈。紹熙5年(1194年)5月壬戌、壽皇聖帝が不豫となり、6月戊戌、重華殿で崩じた。年68。10月丙辰、哲文神武成孝皇帝と謚し廟号は孝宗とした。11月乙夘、永阜陵に権攢。12月甲戌、太廟に祔した。慶元3年(1197年)11月辛丑、紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝と加謚。

史論

贊にいう。髙宗は公天下の心をもって太祖の後を選んで立て、孝宗の賢を得た。聡明英毅で卓然として南渡の諸帝の第一と称すべく、まことに難きことであった。即位の初め、恢復に鋭く志したが符離で不意の失利があり、髙宗の命に重ねて違わず軽々しく出師しなかった。また金の世宗の立に値い金国は平治して乗ずべき隙がなかった。しかし表称・書改・臣を姪と称し歳幣を減じて隣好を定めたことで、金人は宋を易る心がこの時にはすでに前日と異なりつつあった。それゆえ世宗は常に群臣を戒めて銭穀を積み辺備を謹むよう命じ、「吾は宋人の和が終には恃むに足らないことを恐れる」と言ったが、これもまた帝がまさに為すあらんとするのを忌んだのである。天は南北の兵を厭い民生を休めようとしたため、帝の用兵の意は遂げられず終わった。しかし古来、人君が外藩から起ち大統を継いで宮庭の孝を尽くせた者は、帝のようにその間父子が怡愉として長寿を同じく享けた者は他にない。喪を終えること3年、なお群臣の請けを却けてこれを力行した。宋の廟号でいえば仁宗の「仁」、孝宗の「孝」はその名に恥じない、その名に恥じないというべきである。

宋史卷三十五