宋史巻三十四 本紀第三十四 孝宗二
乾道三年(1167年)
- 春正月甲辰、廷尉大理官に獄情を宰執に告げて刑の軽重を探ることを禁じる詔。庚戌、三省戸房国用司を置いた(国用が匱乏したため罷めていた江州屯駐軍馬を復留)。癸亥、銅銭過江の禁を罷め利州西路諸軍額を裁定。
- 2月壬申、国用司に月ごとに宮禁・百司官吏・三衙将士の請給の数を上らせる詔。癸酉、龍大淵を江東総管、曾覿を淮西総管に出した。甲戌、大淵は浙東、覿は福建に改めた。乙亥、成都・潼州路転運司の輪年銓試を罷め制置司に付した。辛已、端明殿學士虞允文を知樞密院事とした。癸未、雨雹。甲申、知陳州陳亨祖のために光州に廟を立て愍忠と名付けた。丙戌、武経龜鑑・孫子を鎮江都統戚方・建康都統劉源に賜った。癸已、淮東の山水砦を措置。丙申、太上皇太上皇后に従い玉津園に幸した。戊戌、直秘閣前廣東提刑石敦義が贓罪を犯し刺面・栁州配・籍家とされた。
- 3月甲辰、太上皇太上皇后に従い聚景園に幸した。辛亥、徳壽宮に詣り恭請、医官員額を裁定。丁已、四川宣撫司に千人を創招させその司の所在に屯駐させる詔。壬戌、伯母秀王夫人張氏が薨じた。
- 夏4月辛未、諸路州軍の逋負を蠲した。癸酉、秀王夫人のため後苑で服喪し百官が奉慰。丁丑、利州東西路を1つに併せた。戊寅、呉璘を知興元府・利州路安撫使・四川宣撫使とした。
- 5月癸夘、葉顒らが三祖下仙源積慶図及び太宗真宗玉牒・哲宗宝訓を上呈。甲寅、呉璘が薨じた。庚申、四川制置使汪応辰に宣撫司事を主管させ司を利州に移させ揚州城を修めた。壬戌、三衙官属を大減。
- 6月已已、汪応辰に利州路屯駐御前軍馬を権に節制させた。辛未、利州東西路を再び2つに分けた。甲戌、虞允文を資政殿大學士・四川宣撫使とした。乙亥、金は使いを遣わして被俘人を取ろうとし、民間にある俘者を還らせるが軍中の人及び叛亡者は預らない詔。戊寅、再び虞允文を知樞密院事兼宣撫使とし帝は自ら9事を書いて戒めた。淮西・江東の総領所の営田を罷め募人に耕佃させ、壮丁は各々本屯に還らせ癃老は請給を存留。
- 7月甲申、鎮江都統制戚方・武鋒軍都統制陳敏に各々清河口の戦守の策を上らせる詔。呉璘を信王に追封。丁亥、後省に致理検院典故を参致させる詔。辛夘、皇后夏氏が崩じた。泉州の水災を振わせた。
- 秋7月已亥、薦挙改官額を立てた。壬寅、皇太子疾により雑犯死罪囚を減じ流以下を釈す。乙已、皇太子が薨じ莊文と諡した。已酉、東宮医官杜揖は除名し昭州編管、まもなく瓊州に改めた。閏月辛未、諸軍に副都統制を再置し文字は都統制と連署、軍馬調発は都統制に従い違う者は奏劾すると詔。戚方が罷めた。癸酉、権に安恭皇后を臨安修吉寺に攢した。丁亥、戚方は節鉞を落とし信州に居住。
- 8月丁酉、内侍陳瑜・李宗回は戚方に交結し賂を受けた罪に連座し、瑜は除名・決杖・黥面・循州配、宗回は除名・筠州編管、方は果州團練副使・潭州安置に責め盗んだ庫金を籍して軍を犒った。甲寅、久雨により臨安府に繋囚を決させる命。丁已、葉顒らが罷めることを請うたが許さず、光濠廬三州・壽春府の賦を1年蠲した。戊午、官を遣わして滞獄を分決。壬戌、知建康府史正志に沿江水軍制置使を兼ねさせ、鹽官から鄂州までと沿海15州の水軍をすべてこれに隷させた。癸亥、給舎に考課旧法を討論させる詔。四川の旱により制置司に度牒400を賜い振済に備えた。
- 9月戊子、太白が昼に見えた。
- 冬10月乙未朔、占城が入貢。丁酉、唐瑑らを金に遣わして正旦を賀した。戊戌、真州城を修め、嗣濮王士輵を開府儀同三司とした。庚子、内外薦挙改官人の歳額を定めた。癸夘、帰正で借補された官資人が樞密院効士に充てられ指定州軍にいる者は官庫酒息で贍養され、罷免しない給を詔した。乙夘、金は蒲察莎魯窩らを遣わして会慶節を賀した。
- 11月丙寅、天地を圜丘で合祀し大赦。戊辰、雷。已已、武臣及び百官を戒飭する詔。癸酉、郊祀の雷により葉顒・魏杞をともに罷め、陳俊卿を參知政事、翰林學士劉珙を同知樞密院事とした。甲戌、蔣芾・陳俊卿は罷めるを請うたが許さなかった。丁丑、雷が非時であったので台諫侍従両省官に闕失を指陳させる詔。辛已、侍従両省台諫卿監郎官に郎官寺監丞・監司郡守に堪える者を挙げさせる詔。癸已、川路の馬船を罷めた。
- 12月丙申、六合城を増修。已亥、王瀹を遣わして金主の生辰を賀した。乙已、豐儲倉を置いて会子を増印。辛亥、呉益を太傅とした。庚申、金は徒单忠衞らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、両浙で水害、四川で旱害、江東西・湖南北路で蝗害があり振わせた。
乾道四年(1168年)
- 春正月戊辰、荆南義勇民兵を籍し衣甲を増給し農隙の日に番教させた。壬午、秦塤・秦堪の郊恩蔭補を奪った。癸未、雨雹。甲申、天竺寺に幸し玉津園に幸した。辛夘、呉益の郊恩蔭補を罷めた。壬辰、葉顒が薨じた。
- 2月甲午朔、福建路の売鈔塩を罷め転運司の歳発鈔塩銭15万緡を蠲した。四川宣撫使虞允文に四路漕臣を集め財賦の所入を会計させ対して兵額を立てさせる詔。丁酉、湖北安撫司に田を給し辰・沅・靖三州の刀弩手を募らせた。戊戌、和州鑄銭監を置いた。已亥、蔣芾を尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使兼制国用使、観文殿大學士史浩を四川制置使とし浩は辞して行かなかった。庚子、蔣芾に常朝賛拝不名を詔したが芾は辞し許された。乙已、王炎に出身を賜い簽書樞密院事とした。癸丑、五星がみな見えた。乙夘、雪雨雹。
- 3月庚午、敷文閣待制晁公武を四川安撫制置使とした。戊寅、贈果州團練使韓崇岳に廟を立て忠勇と名付け、宣州觀察使朱勇に廟を立て忠節と名付ける詔。已丑、四方に霧が塵のように下った。庚寅、楚州の壮丁社民の税役を蠲し、陳亨祖に愍節と諡した。
- 夏4月乙未、漢陽軍の収発馬監を置いた。官吏に公罪を犯していなければ引用併計案問することを得させない詔。已亥、郢州転般倉を置いた。癸夘、使いを遣わして卭・蜀二州の饑民の乱を撫めた。已酉、韓世忠を蘄王に追封。甲寅、蔣芾らが欽宗帝紀実録を上呈。丙辰、礼部員外郎李燾が著した『続通鑑長編』(建隆から治平までの108巻)を上呈。丁已、大使局に新旧暦を参用させる詔。戊午、牛を売って淮を過ぎる者を興販軍須の罪に論じる詔。この月、綿・漢等州の饑を振わせた。
- 5月癸亥、度牒千道を出し四川の科調を続けて減じた。乙丑、太白が昼に見えた。卭州安仁縣の荒旱で蠲放を失し饑民が擾乱したので守貳・縣令を降罷追停有差。甲申、趙鼎に忠簡と諡した。丙戌、乾道の新暦を行った。丁亥、饒信二州・建寧府の饑民が嘯聚したので官を遣わし振済措置。この月、西夏の任敬徳が使いを四川宣撫司に遣わし発兵して西番を攻めることを約した。
- 6月辛夘朔、太白が昼に経天。甲午、廣西の鈔塩を罷め官般官売法を復し転運司の鈔銭を歳19万緡減じその秋苗は科折させない詔。戊戌、諸路の逋負を蠲した(乾道元年2月分の和市折帛雑色銭)。辛丑、龍大淵の致仕を寧武軍節度使として辞めさせた。五星がみな見えた。癸夘、四川宣撫司に銭引100万を増印させ民間の預借銭に対償し卬蜀二州の夏税を蠲した。丁已、興化軍の布衣林彖を行在に召した。戊午、蔣芾は母の喪により位を去った。
- 秋7月壬戌、劉珙に參知政事を兼ねさせ、建寧府の布衣魏掞之を行在に召した。癸亥、徽州で大水。已已、沿江水軍制置司を罷めた。辛未、衢州で大水。戊寅、知衢州王悦は盛暑に雨を禱り蔬食減膳して憂勤し疾を致して死し、直龍圖閣を贈られた。丁亥、経総制の余剰銭21万緡を卭蜀州に樁留し振済に備えた。已丑、久雨のため延和殿で慮囚し臨安府三衙の死罪以下の囚を減じ杖以下を釈す。この月、西夏が間使を遣わした。
- 8月乙未、祈雨雪の法を諸路に頒布。已亥、五星がみな見えた。丁未、主管殿前司公事王琪は伝旨不実で擅に工役を興したため三官を降され放罷。庚戌、劉珙が罷め、辛亥に陳俊卿が罷政を請うたが許さなかった。
- 9月庚申、内外将佐升差審察法を立てた。庚午、太上皇に従い天竺寺に幸し品官子孫の名田を限った。この秋、闗外四州の営田官兵を罷め民を募って耕佃させた。
- 冬10月壬辰、鄭聞らを遣わして金に正旦を賀した。甲午、帰正人が金人を蔵匿することを禁じた。乙未、臣僚が「天下の事は必ず歴てのち知り、試してのち見える。県令となる者は必ず丞簿を経て、郡守となる者は必ず通判を経て、監司となる者は必ず郡守を経るべく皆等差がある。今より職事官吏局務官は必ず任満ちてのち外を求めることを許し、未だ親民の任を歴ていない者は州郡を擬させず且つ通判を授くべき」と言い詔してこれに従った。庚子、蔣芾は尚書左僕射に起復、陳俊卿を右僕射とし同中書門下平章事兼樞密使兼制国用使とした。甲辰、大閲。已酉、金は移刺神獨幹らを遣わして会慶節を賀した。庚戌、大風。
- 11月壬戌、知無為軍徐子寅を遣わし楚州の官田を措置し帰正忠義人を招集して耕させた。甲戌、盗賊の法を厳しくした。乙亥、峽州の布衣郭雍を行在に召した。壬申、両淮の帰正忠義で田産のある者は役を5年蠲した。癸未、岳陽軍節度使居広を永陽郡王に封じた。
- 12月丙申、胡元質らを遣わして金主の生辰を賀した。甲辰、魏掞之に同進士出身を賜い太学録とした。蔣芾の起復を辞めさせ許した。両浙・江東西路の明年の夏税・和市を半分減じた。甲寅、金は完顔仲仁らを遣わして明年の正旦を賀した。
乾道五年(1169年)
- 春正月甲戌、両淮の屯田を措置した。
- 2月已丑、太廟の季点法を厳しく申し渡す詔。乙未、楚州兵馬鈐轄羊滋に沿淮海の盗賊措置を専一に命じた(これより先、海州人時旺が衆数千を聚め帰順を請うたが旺はまもなく金人に獲られその徒で淮を渡って南に来る者が甚だ多かったため滋に弾圧させた)。戊戌、張浚に太師を贈り忠獻と諡した。壬寅、給事中梁克家を簽書樞密院事とした。癸夘、大風。甲辰、王炎を參知政事兼同知樞密院事とした。丙午、雨雹。辛亥、今より詔令は両省の書読を経ずして輙く行わず、給舎の駁正には連署しない詔。
- 3月丁已朔、廬・和二州の城の修繕を趣める詔。已已、成都府路民戸の歳輸対糴米脚銭35万緡を蠲した。乙亥、王炎を四川宣撫使とし仍お參知政事を兼ねさせ、虞允文を行在に召した。丙子、禮部進士鄭僑以下392人に及第出身を賜った。壬午、郭雍に沖晦處士の号を賜った。癸未、利州路諸州の営田官兵を罷め民を募って耕佃させた。
- 夏4月已丑、将作軍器少監を再置。壬辰、梁克家に參知政事を兼ねさせた。辛丑、福建路の貧民が子を生めば官が銭米を給する詔。庚戌、㐮陽府城を修めた。辛亥、衢・婺・饒・信四州の流民を振恤。
- 5月已已、帝は射弩の弦が断え目を傷め視朝せず、金は俘獲人を取ろうと牒したが、王抃は時旺の余党をことごとく遣り渡そうと議し、陳俊卿はいけないと持論し帝はこれに然りとした。
- 6月庚寅、太白が昼に見えた。戊戌、視朝を始めた。已酉、虞允文を樞密使とした。
- 秋7月乙丑、曾覿を召して入見させたが、陳俊卿及び虞允文はこれを罷めるよう請うたが許さず、覿は行在に至り俊卿・允文は再びその不可を言い、覿は浙東総管とする詔。
- 8月甲申朔、日食。已丑、陳俊卿を尚書左僕射、虞允文を尚書右僕射とし同中書門下平章事兼樞密使兼制国用使とした。辛亥、淮西路に小鐵銭を鑄させる命。
- 9月已未、淮東の屯田官兵を罷め民を募って耕佃させた。辛酉、淮東諸州に農隙の民丁教閲を詔した。甲子、侍従台諫に欽宗配饗の功臣を集議させる詔。壬申、大風。淮西安撫司参議官許子中に淮西の山水砦を措置させ帰正忠義人を招集し官田を耕墾させた。
- 冬10月乙酉、汪大猷らを遣わし金に正旦を賀した。戊子、温台二州の被水貧民を振わせ守臣監司の失職により降責。戊戌、大風。已亥、饒信二州に歳ごと上供米3万石を留めさせ振糶に備えさせた。癸夘、金は髙徳基らを遣わし会慶節を賀した。
- 11月癸丑朔、淮東万弩手を再置し神勁軍と名付けた。庚申、廣東水軍を増置。乙丑、孫瀇を右千牛衞大將軍とし明州定海縣水軍を御前水軍とした。丙寅、鄂州に岳飛の廟を立てた。已已、太白が昼に見えた。辛未、侍従台諫両省官に各々歳朝官以上で監司郡守に堪える才ある者3人を挙げさせる詔。壬申、成閔を慶逺軍節度使・鎮江諸軍都統制に復した。
- 12月已丑、司馬伋らを遣わして金主の生辰を賀した。辛夘、大風。丁酉、応城縣馬監を置き李顯忠を威武軍節度使に復した。乙已、成都府廣惠倉を再置。戊申、金は完顔毅らを遣わして明年の正旦を賀した。
乾道六年(1170年)
- 春正月癸丑、雅州の沙平蛮が辺を寇し碉門砦を焚いたので四川制置使晁公武が兵を調して討たせたが失利。乙夘、楚州城を修めた。丁已、強盗の旧法を復し4年11月の指揮を行わない。癸亥、初めて金字牌を四川宣撫司に降し辺備を奏させた。已丑、豐儲倉を増築。庚午、奉国軍承宣使知廬州郭振を武泰軍節度使とした。
- 2月乙酉、戸部侍郎2人に諸路の財賦を分領させる詔。丁亥、舒州同安監を再置し鐵銭を鑄させた。辛夘、王炎は人を遣わし沙平蛮に約して部落を稍捐じ辺税を与えた。丙申、廣西路に鈔塩法を復し行い通貨銭を歳40万緡増収し漕計に備えた。壬寅、大臣に役法を均しく厳限し田を抑え游手に農桑を務めさせる詔。已酉、応城縣孳生監を置いた。庚戌、曾覿を福州觀察使とし司農寺丞許子忠を遣わし淮西の鐵銭措置に赴かせた。
- 3月癸丑、三省の官の議を用い両淮守帥はその任を久しくし2年後にその能否を察して賞罰を行う。乙夘、樞密院吏額を114人裁減。丁已、歩軍司に権に3万5千人を額とすることを詔した。王抃に簽知閤門事を専一に措置し三衙揀選官兵とした。
- 4月庚申、彰国軍節度使大周仁を太尉に贈った。太上皇太上皇后に従い聚景園に幸した。乙丑、晁公武・王炎が不協により四川制置司を罷め宣撫司に帰した。辛未、太上皇太上皇后に従い再び聚景園に幸した。甲戌、三省吏額を74人裁減。戊寅、知紹興府史浩を検校少傅・保寧軍節度使とした。已夘、両淮州縣官はその繁簡でその任を易える詔。江浙荆湖両廣福建等路都大発運使を再置し新知成都府史正志をこれに充てた。
- 夏4月辛已朔、鑄銭司を罷め発運司に帰し、淮東総領所を淮西総領所に併合。敷文閣直學士張震を知成都府・本路安撫使とした。乙未、発運使史正志に銭200万を賜い均輸和糴の用に充てた。吏部尚書汪応辰は3度発運司を論じる疏を上げ、戊戌、応辰を知平江府とした。
- 5月甲寅、六部の吏額を150人裁減、その他百司三衙もこれに準じた。已未、陳俊卿・虞允文らが神宗・哲宗・徽宗・欽宗四朝会要と太上皇の玉牒を上呈。已已、陳俊卿は遣使の議合わずして罷め観文殿大學士・知福州とし行在から鎮江まで税を征する所を比近13所とした。甲戌、百官を戒飭する詔。丁丑、知潮州曾造が贓罪を犯し南雄州編管・籍家とした。戊寅、給舎台諌に言事させる詔。閏5月壬午、監司帥臣に守令の臧否を挙げさせ実を失えば清要官法を挙げるに依り罪を定める詔。甲申、諸州の上供綱目を季ごとに申告させ歳に校して殿最とした。戊子、范成大らを遣わし金に陵寝の地を求めさせ、あわせて受書の礼を更定するよう請わせた。辛夘、吏部侍郎陳良祐は祈請使を遣わすべきでない、辺釁を生じることを恐れると論じ、良祐は妄りに異論を生じ不忠不孝であるとして詔し放罷・筠州居住とした。癸已、環衞官の奉を増した。梁克家を參知政事兼同知樞密院事とした。壬寅、江東漕臣黄石は水災の州郡を按行しなかった罪で二官を降された。甲辰、辛次膺が薨じた。戊申、武臣提刑を再置。
- 6月壬子、卿監郎官の更迭補外の制を厳しくした。壬申、武学生を100人に増した。癸酉、蘄州蘄春監・黄州齊安監を置き鐵銭を鑄させた。この月、榮国公挺が東宮から外第に出居。
- 秋7月癸未、沙田蘆場の歳収租税60餘萬緡を左蔵南庫に入れる詔。丙戌、川廣監司郡守に任満で奏事を訖えてから調任させる詔。已丑、興国軍興国監を置いた。甲午、郎官に引対の後に職に供させる詔。辛丑、御前弓馬子弟所を再置し呉挺に兼提挙させ岳飛廟を忠烈と名付けた。
- 8月庚戌、虞允文は太子建立を早くすることを請うた。癸丑、詳定一司勑令所を再置。丙寅、閤門舎人10員を置いた。この月、虞允文が乾道勑令格式を上呈。
- 9月壬辰、蘇軾に文忠と諡した。辛丑、沅州の猺人が相讐殺したので守臣孫叔傑が兵を出したが失利、猺人が州城に迫り安撫司が諭解した。叔傑はまもなく罪に抵った。この月、范成大は金より至り、金は遷奉及び欽廟梓宮の帰還を許すも受書の礼は易えなかった。
- 冬10月已酉、孫攄を左千牛衞大將軍とした。丙辰、発運使に司を行在に置く詔、司馬朴に忠潔と諡した。辛酉、呂正已らを遣わし金に正旦を賀し、丁夘に金は耶律子敬らを遣わして会慶節を賀した。甲戌、起居舎人趙雄は局を置いて恢復を議すことを請い、詔して雄を中書舎人とした。
- 11月丁丑朔、軍器監1員を再置。壬午、天地を圜丘で合祀し大赦。乙未、神武中軍を再置し呉挺を都統制とした。曾覿を召し佑神觀を提挙させた。丁酉、光堯壽聖太上皇帝の尊号に光堯壽聖憲天体道を加え、壽聖太上皇后の尊号を壽聖明慈太上皇后とした。この月、趙雄らを遣わし金主の生辰を賀し、別函の書で受書の礼を更めることを請わせた。左藏南上庫を置いた。
- 12月戊申、大閲。甲子、江州廣寧監・臨江軍豐餘監・撫州裕国監を置き鐵銭を鑄させた。壬申、金は蒲察愿らを遣わして明年の正旦を賀した。癸酉、発運司を罷め史正志は奏課不実の責めで楚州團練副使・永州安置とされた。この歳、両浙・江東西・福建で水旱があった。
乾道七年(1171年)
- 春正月丙子、群臣を率い太上皇太上皇后に冊寶を徳壽宮に奉呈。庚辰、虞允文が再び太子建立を請い帝は允文に詔を擬させた。壬寅、三省に旬ごとに宣諭聖語及び時政記を同進させる命。この月、鑄銭司を再置。
- 2月癸丑、子惇を皇太子に立て大赦。慶王愷を雄武保寧軍節度使・判寧國府とし魏王に進封。丁已、皇太子宮の講読官を増置。庚申、会子庫を罷め戸部・内藏南庫に緡銭200万・銀90万両を賜い官兵の奉を増給。甲子、寺観の税役免除を禁じる詔。丁夘、太傅大寧郡王呉益が薨じた。壬申、大風。
- 3月乙亥朔、趙雄が金に至ったが金はその請を拒んだので水軍の訓練を詔した。丙子、恭王夫人李氏を皇太子妃に立てた。戊寅、侍衞馬軍司を建康の戍から徙した。已夘、劉珙を起復し同知樞密院事とし、明州觀察使知閤門事兼樞密都承旨張説を簽書樞密院事としたが、左司員外郎兼侍講張栻が説は執政に宜しくないと言った。乙酉、沿海州軍の私に銅銭を齎して海船に下すことを禁ずる法を立てた。丙戌、将作監を再置。殿中侍御史李処全が張説を辺戍に按行させ衆論を息めることを乞い、中書舎人范成大は詞を草さないことを乞うた。戊子、説は罷め安慶軍節度使・提舉萬壽觀とした。庚寅、使いを遣わし両淮の種麦を覈めた。丙申、大慶殿に御して皇太子を冊立、礼部侍郎鄭聞・工部侍郎胡銓・樞密院検詳文字李衡・秘書丞潘慈明はみな罷めたが、虞允文は銓を留めることを乞い寶文閣待制兼侍講とした。已亥、皇太子は紫宸殿に謝し宰相は百官を率い東宮に赴いて賀した。
- 夏4月戊申、曾覿を安徳軍承宣使とした。庚申、諸路に無額の銭物を増収し南上庫に輸せる詔。壬戌、太上皇太上皇后に従い聚景園に幸した。甲子、皇太子に臨安府を判じさせる詔。已已、侍従台諫両省官に刑獄銭穀及び智略吏能ある者各2人を挙げさせる詔。辛未、皇太子に臨安尹を領させる詔。
- 5月戊寅、淮東総領所を再置。丁亥、劉珙を起復し同知樞密院事・荆㐮宣撫使としたが珙は辞して拝せず。庚寅、金人は欽宗を鞏原に葬った。丁酉、廣西帥臣に南丹州の市馬を措置させる詔。この月、知閤門事王抃を遣わし荆㐮軍馬を点閲させた。
- 6月丙午、主管馬軍司公事李顯忠を再び太尉とした。已已、呉璘に武順と諡した。壬申、両淮の墾田は税賦を創増させない詔。
- 秋7月庚子、王炎を樞密使・四川宣撫使とした。
- 8月丙辰、両淮の民丁で民兵に充てる者の本名丁銭を輸さない詔。辛酉、㐮陽城を再修。
- 9月壬申朔、江西・湖南の旱により民を募って兵とした。甲申、太上皇太上皇后に従い東園に幸した。戊子、安定郡王令徳が薨じた。
- 冬10月丁未、紹興宗正行司を罷め恩平郡王璩を判西外宗正に改めた。已酉、莫濛らを遣わし金に正旦を賀した。壬戌、金は烏林答天錫らを遣わし会慶節を賀したが、天錫は帝に榻を降りて金主の起居を問うよう要め、虞允文は帝に内に還ることを請い、僉知閤門事王抃が天錫に明日会うよう諭すと天錫は沮んで退いた。癸亥、会慶節に金使は班に随い入見。
- 11月甲戌、集英殿に御して賢良方正能直言極諫科を策試し李垕を得た。戊寅、垕に制科出身を賜った。
- 12月丁未、翟紱らを遣わして金主の生辰を賀した。庚申、閤門舎人に文臣館閣に依り以次輪対させる詔。癸亥、太醫局を罷めた。丙寅、金は完顔宗寧らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、湖南・江東西路で旱があり振わせた。
乾道八年(1172年)
- 春正月庚午朔、乾道勑令格式を頒布。丁酉、景霊宮に朝献し天竺寺・玉津園に幸した。
- 2月乙已、尚書左右僕射同中書門下平章事を左右丞相と改める詔。丙午、六察の分隷に違戻あれば監察御史に事に随い実状を紏劾させる詔。戊申、姚憲らを遣わし金に尊号を賀させ受書のことを附請させた。辛亥、虞允文を左丞相、梁克家を右丞相とし並びに樞密使を兼ねさせた。癸丑、安慶軍節度使張説・吏部侍郎王之竒をともに簽書樞密院事とし、侍御史李衡・右正言王希呂は説が執政となるべきでないと交章論じたが取り上げられず、禮部侍郎兼直學士院周必大は答詔を草さず、権給事中莫済は録黄を封還した。詔してともに在外宮觀に与えた。丙辰、王希呂を逺小の監当に与えることを罷める詔でまもなく宮觀に与えた。丁已、李衡が罷め起居郎とした。丙寅、戸部尚書曾懐に出身を賜い參知政事とした。
- 3月戊子、侍中中書尚書令の員を省き左右丞相にその位を充てる詔。
- 夏4月庚子、禮部進士黄定以下389人に及第出身を賜った。已酉、殿中侍御史蕭之敏は虞允文の擅権不公を劾し、允文は罷政を請い許されたが翼日再び留められ之敏は江東刑獄提点に出された。甲子、両淮の官田を措置し徐子寅らが帰正人の授田を逃亡させた罪に連座して官を奪われた。乙丑、両淮の二税を再び1年蠲した。
- 5月戊子、福建の塩に鈔法を行った。丙申、宗室銓試法を立てた。
- 6月庚子、武徳郎令撎を金州觀察使とし安定郡王に封じた。壬寅、両淮の帰正人の撮収する課子を蠲し淮東巡尉で逸を縦し帰正戸口が淮を過ぎさせた者は官を奪う有差。壬子、監司薦挙員を省いた。
- 秋7月辛巳、淮西屯田官兵を罷め帰正人を募って耕佃させた。姚憲・曾覿が金より至り金人はその請を拒んだ。癸未、覿を武泰軍節度使とした。壬辰、雨雹。
- 9月戊辰、江西四監の鐵銭額を定めた。乙亥、王炎に都堂で治事させる詔。戊寅、虞允文を少保・武安軍節度使・四川宣撫使とし雍国公に封じた。已丑、允文の家廟祭器を賜った。壬辰、允文が入辞し帝は親征決策を諭し允文に治兵し報を竢たせた。
- 冬10月丁未、馮樽らを遣わし金に正旦を賀し、丙辰に金は夾谷清臣らを遣わして会慶節を賀した。諸路の職田の借用を罷めた。
- 11月辛未、江浙福建二廣湖南の官田8路を鬻ぐため官を遣わした。辛巳、四川諸州の教授田を復した。庚寅、知福州史浩を検校少傅に進めた。
- 12月戊戌、両淮の明年の租賦を蠲した。甲辰、京西に帰正人を招集し田を両淮のごとく授ける詔。甲寅、四川で武挙を試みた。丙辰、劉光世を安成郡王に追封。丁已、韓元吉らを遣わして金主の生辰を賀した。庚申、鑄銭司提点官2員を再置。辛酉、金は曹望之らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、隆興府・江・筠州・臨江・興国軍で大旱、四川で水害があった。
乾道九年(1173年)
- 春正月辛未、王之竒が罷め淮南安撫使、王炎が罷め観文殿大學士・提舉洞霄宮とした。乙亥、張説を同知樞密院事、戸部侍郎沈夏を簽書樞密院事とした。戊寅、官を遣わし両浙の営田及び没官田を鬻ぎ次に江東西・四川もこれに及ぼした。刑部尚書鄭聞を簽書樞密院事とした。乙酉、福建の塩に官賣法を復した。この月、両淮荆㐮の16事を措置し安撫転運司に諸州守臣が月ごとに具さに行った事を奏させ、なお臧否を審択して黜陟を議させる勑を出した。閏月戊申、久雨により大理三衙臨安府及び両浙州縣に繋囚を決させ雑犯死罪以下を一等減じ杖以下を釈す命。乙夘、廬州城を修めた。辛酉、大風、天竺寺・玉津園に幸した。
- 2月壬申、江西の旱傷5州の逋負米を蠲した。乙亥、青羗奴兒結が安静砦を寇し黎州推官黎商老が戦死。乙酉、榮国公挺が薨じ豫国公を追封。丁亥、蘇軾を特に太師に贈った。
- 3月甲午、北界との銀絹の博易を禁じた。戊申、太上皇太上皇后に従い聚景園に幸した。癸丑、進奏院を門下後省に再び隷させた。丙辰、淮南安撫司を再び東西路に分けた。
- 夏4月丁丑、武鋒軍軍額を裁定。已丑、皇太子が臨安尹の事を解いた。
- 5月壬辰朔、日食。已未、迪功郎朱熹は屡度詔しても起たなかったので特に宣教郎に改め台州崇道觀を主管させた。
- 6月甲戌、両淮荆㐮四川諸州が民戸馬を籍することを禁じた。已丑、監司守令を戒飭し農を勧めさせた。
- 秋7月壬寅、青羗奴兒結が降った。辛亥、吐蕃彌羗畜列が安静砦を陥し深く兵を入れ黎州守臣は卭部川蛮を誘って撃退させた。
- 8月丙子、水利の興修を詔した。癸未、荆鄂二軍を合わせて1つとし呉挺に都統制を充てた。
- 9月丙申、梁克家らが中興会要及び太上皇と皇帝の玉牒を上呈。庚子、盱眙軍に受書礼を泗州に牒して示させ金の生辰使に金使は従わなかった。冬10月甲子、留正らを遣わし金に正旦を賀した。右丞相梁克家は同知樞密院張説と使事の議が合わず去ることを求めた。辛未、克家が罷め観文殿大學士・知建寧府とした。壬申、矞雲が見えた。甲戌、曾懐を右丞相、張説を知樞密院事、鄭聞を參知政事、沈夏を同知樞密院事とした。庚辰、金は完顔㐮らを遣わし会慶節を賀した。丁亥、㐮らは入辞に際し別函で受書の礼を再申し虞允文に辺備を速めよと示した。
- 11月辛夘、樞密院の除授及び財賦事は中書門下省に関わらせるが辺機軍政は録送しない詔。戊戌、明年を淳熙元年と改める詔。
- 12月已未朔、沿邊諸軍にみだりに間探を遣わし叛亡を招納しないよう戒める詔。甲子、沈夏が罷めた。乙丑、御史中丞姚憲を簽書樞密院事とし韓彦直らを遣わして金主の生辰を賀した。辛未、交阯が入貢。癸酉、廣西の客鈔塩を罷め官般官賣法を復した。甲戌、使いを遣わし宜州の市馬を措置。乙亥、嗣濮王士輵・永陽郡王居広をともに少保とした。乙酉、金は完顔璋らを遣わして明年の正旦を賀したが受書礼の議が合わず、詔して改日を俟つとしたが太上皇の旨によりなお旧を聴すこととした。丁亥、璋らが入見した。この歳、浙東・江東西・湖北で旱があった。
淳熙元年(1174年)
- 春正月乙未、淮西の諸闗の林木伐採を禁じた。戊戌、坐倉糴米の賞を罷めた。庚子、両淮の将帥の権攝官を罷めた。丙午、両淮の耕牛を境外に出すことを禁じた。交阯が入貢したので国名を安南と賜い李天祚を南平王に封じた。
- 2月癸酉、虞允文が薨じた。辛已、郭浩のために金州に廟を立てた。3月戊子朔、寄禄官及び選人はともに左右の字を去る詔。丙申、鄭聞を資政殿大學士・四川宣撫使とした。戊申、玉津園に幸した。癸丑、金は梁肅らを遣わして計事に来た。
- 夏4月戊辰、太上皇に従い聚景園に幸した。壬申、桂陽軍の谿洞子弟が州学に入り聴読することを許した。乙亥、四川宣撫司に諸州の将兵を教閲させる詔。戊寅、張子顔らを遣わし金に報聘。已夘、姚憲を參知政事、戸部尚書葉衡を簽書樞密院事とした。
- 5月壬寅、鄭興裔が創めた検験格目を頒布。
- 6月丙辰朔、礼官に4祖廟を別に建て太祖を東嚮位に正すことを討論させる詔。戊午、興州都統制呉挺を定江軍節度使とした。癸酉、江陵府を荆南府に改めた。戊寅、曾懐が罷めた。癸未、姚憲が罷め、甲申にその端明殿學士を落とし宮觀を罷め、葉衡を參知政事とした。
- 秋7月丁亥、鄭聞に參知政事を兼ねさせ四川宣撫司を罷め、成都府路安撫使薛良朋を四川安撫制置使とした。戊子、廉吏を挙げる詔。壬辰、曾懐を右丞相とした。已酉、姚憲は南康軍に居住。
- 8月已未、張説が罷め太尉・提舉隆興府玉隆觀とし、徽猷閣學士楊倓を昭慶軍節度使・簽書樞密院事とした。
- 9月乙酉朔、曾覿に開府儀同三司を加えた。壬寅、玉津園に幸し宴射。乙已、宜州の市馬を罷めた。
- 冬10月辛酉、金銀出界の罪賞を立てた。壬戌、蔡洸を遣わし金に正旦を賀した。癸亥、積雨により中外に繋囚を決させる命。丙寅、鄭聞が薨じた。乙亥、金は完顔譲らを遣わして会慶節を賀した。戊寅、占城が入貢。辛已、林安府の民の身丁銭を再び3年蠲した。壬午、魏王愷に明州を判じさせ、郴州・桂陽軍の借貸の常平米を蠲した。
- 11月甲申朔、日食。戊戌、禮部侍郎龔茂良を參知政事、楊倓が罷め、葉衡に権知樞密院事を兼ねさせた。丙午、曾懐が罷めた。戊申、葉衡を右丞相兼樞密使とした。
- 12月丁已、吏部尚書李彦頴を簽書樞密院事とした。壬戌、呉琚らを遣わして金主の生辰を賀した。丙辰、鐵銭を罷め銅銭を鑄した。庚午、礼官に魏悼王襲封の復を論じさせる詔。壬申、葉衡らが真宗玉牒を上呈。金は劉仲誨らを遣わして明年の正旦を賀した。資政殿學士知江陵府沈夏に大學士を加え四川宣撫使に昇進させ、なお升に主帥の場務差を従わせ軍中に還らせた。新四川制置使范成大を改めて内制置使とした。
淳熙二年(1175年)
- 春正月癸已、前宰相梁克家・曾懐は堂除を擅改した罪に連坐し、克家は観文殿學士を落とし、懐は観文殿學士に降された。甲午、同安・蘄春監を廃した。丁未、両淮諸荘の帰正人の安業について徐子寅らに行賞有差。庚戌、諸軍の子弟を籍し背嵬軍とする詔。
- 3月丙申、太上皇の壽70に因み礼官に慶壽典礼を討論させる詔。乙已、武挙第一人は秉義に補し即ち諸軍計議官に堂除する詔。
- 夏4月乙夘、禮部進士詹騤以下426人に及第出身を賜った。已已、玉津園に幸した。この月、茶寇賴文政が湖北から湖南江西に転入し官軍が数度敗れたので江州都統皇甫倜に招討させた。
- 5月辛夘、宰相に朝政の闕失は士民みな献言を得ることを諭す詔。庚子、鄂州都統李川に兵を調して茶寇を捕えさせた。乙已、知縣を3年任とする詔。
- 6月庚戌朔、今より宰執侍従以下は外任を除いても功績なければ職名を除かず、外任人も労効なければ職を除かない詔。沈夏に同知樞密院事を兼ねさせた。辛酉、四川宣撫司を罷め倉部郎中辛棄疾を江西提刑とし諸軍を節制して茶寇を討捕させた。丁夘、左司諫湯邦彦の言を用い蔣芾・王炎の観文殿大學士を落とし、張説の節度使を落とした(芾は建昌軍、炎は袁州、説は撫州にそれぞれ居住)。戊辰、湖南江西の被寇州縣を振済した。この月、茶寇は湖南から広東を犯した。
- 秋7月辛丑、西方に星孛が現れた。
- 8月丙辰、江西総管賈和仲は茶寇を捕えて失律し除名・賀州編管。甲子、安南国王に印を賜った。丁夘、湖南江西の被寇州縣の租税を蠲した。丁丑、左司諫湯邦彦らを遣わし金に使し議を申した。
- 9月乙夘朔、湯邦彦は揚廬州・荆南㐮陽府・金州・興元府・興州を7路に分け、路ごとに文臣1人を安撫使として民を治め武臣1人を都総管として兵を治めさせ、3年後にその成果を視て誅賞を議することを請い従った。乙酉、淮南の水旱州縣を振恤。乙未、葉衡が罷めた。丁未、沈夏が罷め、趙鼎に太傅を贈りその爵邑を還し豐国公を追封。閏月丁已、李彦頴を參知政事、翰林學士王淮を簽書樞密院事とした。甲子、武臣が従軍する際に内職を帯びない詔。この月、辛棄疾は賴文政を誘って殺し茶寇を平定した。
- 冬10月戊寅朔、茶寇平定の功を賞し湖南江西広東の監帥に黜陟有差。庚辰、大風。壬午、徳壽宮に詣り光堯壽聖憲天体道太上皇帝に光堯壽聖憲天体道性仁誠徳経武緯文太上皇帝を尊号として加え、壽聖明慈太上皇后に壽聖齊明廣慈太上皇后を尊号として加えた。乙酉、謝廓然らを遣わし金に正旦を賀した。戊戌、金は完顔禧らを遣わして会慶節を賀した。
- 11月戊申朔、太上皇太上皇后に冊寶を徳壽宮に奉呈。庚戌、麗正門内で火事。癸丑、大風。戊午、提点坑冶王揖が羨餘10万緡を進めたが詔してこれを却けた。
- 12月辛巳、淳熙吏部七司法を頒布し張宗元らを遣わして金主の生辰を賀した。甲午、徳壽宮に朝し慶壽礼を行い大赦し文武官に父母の封を賞し諸軍に議放天下苗税3分の1を給したが、大臣が国用不足を言ったのでこれを止めた。丙申、強盗贓法を更定。甲辰、金は完顔迨らを遣わして明年の正旦を賀した。
淳熙三年(1176年)
- 春正月甲寅、常州の旱により逋負の半分を寛め贓の蔭補法を刪除。淮東の饑を振わせ貧民に種を貸す命。乙丑、帰正人を振恤。
- 2月壬午、両淮の教閲民兵の夏税を蠲した。癸未、伯圭を安徳軍節度使とした。甲申、四川監司帥守に命を聞けば告勑を待たずに官に赴かせる詔。韓世忠に忠武と諡した。この月、諸路の没官田の鬻を罷めた。
- 3月丙午朔、日食、霧により雲が見えず。辛亥、太上皇の日暦を徳壽宮に上呈。已未、六部編勑司を置いた。癸亥、報恩寺に幸し聚景園に幸した。已已、左藏四庫を併せて2つとした。辛未、四川制置司に歳ごと梁洋義士の材武ある者2人を選び樞密院に遣わせる詔。壬申、任子参選覆試法を立てた。
- 夏4月戊寅、侍従台諫両省官に歳ごと監司郡守を各5人挙げさせる詔。辛已、靖州の猺人が辺を寇し兵を遣わし討捕。丁亥、雨雹。已丑、葉衡を安徳軍節度副使・彬州安置に責めた。丁酉、湯邦彦は陳雷とともに使命を辱めたとして除名(邦彦は新州、雷は永州で編管)。已亥、諸路提刑に歳5月に囚を理させる詔。
- 5月癸丑、利州東西路を1つに併せた。安南国王李天祚が卒し戊午に使いを遣わして弔祭。壬申、太白が昼に見えた。
- 6月乙酉、四川の酒課47餘萬緡を減じた。甲午、朱熹は屡度詔しても起たなかったので特に秘書郎に命じたが熹は就かなかった。
- 秋7月乙丑、浙西の圍田を禁じた。
- 8月乙亥、王淮を同知樞密院事、礼部尚書趙雄を簽書樞密院事とし、6察官に庶務を紏察させ台綱を益々振わせその官を2官進めた。庚辰、太上皇が貴妃謝氏を皇后に立てることを詔した。壬午、久雨により中外に繋囚を決させる命。戊戌、靖州の猺寇が平定。
- 9月癸亥、今より公罪により死に至った者はその蔭補にその犯した所を具さに奏裁させ令とする詔。冬10月甲戌、久雨により中外に繋囚を決させる命。丙子、文徳殿に御して皇后を冊立。丁丑、臨安守臣に踰侈を厳禁させる命。庚辰、今より歉歳でなければ鬻爵を許さない詔。癸未、閻蒼舒らを遣わし金に正旦を賀した。壬辰、金は蒲察通らを遣わして会慶節を賀した。
- 11月癸丑、天地を圜丘で合祀し大赦。庚午、張子正らを遣わして金主の生辰を賀した。
- 12月已丑、黎州の蛮が辺を寇したが官軍が失利し蛮もまた遁走。甲午、職事官で補外された者に職を復させる旧例の詔。呉玠を涪王に追封。丁酉、鑄銭司の歳鑄額を15万緡と定めた。戊戌、金は劉珫らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、京西・湖北諸州・興元府・金洋州で旱、紹興府・台婺州で水害があり振わせた。
淳熙四年(1177年)
- 春正月戊申、今より内外諸軍を歳1度閲試させる詔。庚申、沿江諸軍に歳2度水戦を習わせる詔。丙寅、雨雹。丁夘、淳熙暦を頒布。
- 2月乙亥、太学に幸し先聖に祗謁し退いて敦化堂に御し国子祭酒林光に中庸を朝講させ、詔して武学に幸し武成王廟に謁した。監学官は秩を1等進め諸生には恩を推し帛を賜う有差。已夘、諸軍に未補官人を軍職に任じさせない詔。戊子、辺人が溪洞に逃げ入る際の告捕法を立てた。癸已、武臣が環衞官を授かる法を立てた。戊戌、新知荆南府胡元質を四川安撫制置使兼知成都府とした。
- 3月乙已、史浩を少保・観文殿大學士・醴泉觀使兼侍讀とし永国公に進封。已酉、龔茂良らが仁宗玉牒・徽宗実録・皇帝玉牒を上呈。庚戌、玉津園に幸し宴射。壬子、随・郢二州の饑民に米を貸し、李龍翰を安南国王に襲封させる詔。甲寅、韶州城を修めた。丙寅、聚景園に幸した。
- 夏4月甲戌、魏王愷を荆南集慶軍節度使とし江陵尹を行わせ明州の判は如故。乙亥、參知政事龔茂良は曾覿の従騎が道を避けなかったのを杖したが、戊寅に上奏し罷政を乞うも許さなかった。甲午、帰正官の子孫に田屋を給した。
- 5月庚子朔、佑聖觀に幸した。
- 6月丁丑、四川の和糴を罷めた。龔茂良が罷めた。已夘、王淮を參知政事とした。辛已、幸学の詔を頒布。癸未、蜀州を崇慶府に昇格。甲申、今より宰執が朝殿で旨を得た事は必ず覆奏してから行う詔。
- 秋7月辛丑、江上諸軍が戦馬を盗み替えることを禁じ、㐮陽の饑民を振わせた。壬寅、待補太学試法を立てた。戊申、御史台弾奏格を頒布。乙酉、臨川伯王雱の従祀を罷めた。癸丑、龔茂良は寧逺軍節度副使・英州安置に責め授けられた。甲寅、四川の蕃茶入りの禁を厳しく申し渡す。甲子、淳熙重修勑令格式を頒布。
- 8月辛已、耕牛が淮を過ぎることを禁じた。
- 9月丁酉朔、日食。已亥、海潮に壊された塘岸を修築させる命。辛丑、宰執以下の会慶節進奉を免じた。庚戌、礼官に開宝・政和の祀礼を定めさせる命。戊午、選徳殿で蹴踘を閲した。
- 冬10月丙子、久陰により中外に繋囚を決させる命。錢良臣らを遣わし金に正旦を賀した。丁丑、監司守臣に歳ごと武臣で知縣に堪える者各2人を挙げさせる詔。已夘、将士で智勇傑出する者は等を躐えて升差する詔。丁亥、金は完顔忠らを遣わして会慶節を賀した。
- 11月丁酉、両淮の帰正人を強勇軍とする詔。庚子、趙雄を同知樞密院事とした。壬戌、太白が昼に見えた。癸亥、趙思らを遣わして金主の生辰を賀した。
- 12月丁夘、四川が上した義士2人を試して官を与え遣わした。已已、薦挙事実格法を行う詔。乙亥、大閲。辛已、太平州民が貸した常平銭米を蠲した。壬辰、金は完顔炳らを遣わして明年の正旦を賀した。この歳、福州・建寧府・南劍州で水害があり振わせた。
宋史卷三十四