出自と生い立ち
- 欽宗(恭文順徳仁孝皇帝)、諱は桓、徽宗皇帝の長子。母は恭顕皇后王氏。元符三年(1100年)四月己酉、坤寧殿に生まれる。初名は亶、韓国公に封じられ、翌年六月に京兆郡王に進封。崇寧元年二月甲午、烜と改名、十一月丁亥にまた今名に改める。大観二年正月、定王に進封。政和元年三月、資善堂で講学。三年正月、太保を加える。四年二月癸酉、文徳殿で冠す。五年二月乙巳、皇太子に立てられ天下を大赦。丁巳、太廟に謁し、金輅に乗り鹵簿を設けること至道・天禧の故事の如くし宮僚の参謁も皆臣と称するよう詔されたが、いずれも辞退した。六年六月癸未、妃朱氏を納れる。宣和七年十二月戊午、開封牧を除せられる。庚申、徽宗が皇太子に嗣位を詔し自ら道君皇帝と称する。太子を趣し禁中に入れ御服を被せると太子は泣涕して固辞し、疾を得てもなお固辞したが許されず、辛酉に皇帝位に即く。垂拱殿で群臣に見えるこの日、日に五色の暈が現れ赤黄の珥を挟み重日が相い蕩摩した。しばらくして道君皇帝を竜徳宮に出居させ、皇帝(欽宗)は擷景園に出居した。
靖康元年(1126年)
- 少宰李邦彦を竜徳宮使、太保領枢密院事蔡攸を門下侍郎とし呉敏を副とする。この時、金人が既に分道して境を犯していた。壬戌、大逆反叛以下の罪を赦し百官の秩一等を進め諸軍を賞す。妃朱氏を皇后に立てる。太子詹事耿南仲を簽書枢密院事とする。癸亥、太傅燕王・越王が入朝しても趨らず賛拝でも名を呼ばぬことを詔す。三省枢密院以外の旨は有司は行わぬよう詔す。甲子、斡離不が信徳府を陥し粘罕が太原を囲む。京東・淮西・浙に募兵入衛を詔す。太学生陳東らが蔡京・童貫・王黼・梁師成・李彦・朱勔の罪を上書し「六賊」として誅を請う。丙寅、道君皇帝に教主道君太上皇帝、皇后に道君太上皇后の尊号を上げ、改元を詔す。
- 靖康元年春正月丁卯朔、群臣の朝賀を受け竜徳宮に退いて道君皇帝を賀す。中外臣庶に実封で得失を言わせる詔。金人が相州を破る。戊辰、濬州を破り威武軍節度使梁方平の師が潰え、河北河東路制置副使何灌が滑州に退保。己巳、灌が奔還し金人が河を済る。親征を詔し道君皇帝の東廵を計り、領枢密院事蔡攸を行宮使、尚書左丞宇文粋中を副とする。今後の除授黜陟恩数は祖宗の旧制に参酌するよう詔し、内外官司局所百五処を罷めて後苑のみ留めて竜徳宮に奉じさせる。門下侍郎呉敏を知枢密院事、吏部尚書李梲を同知枢密院事とし、太傅致仕王黼を崇信軍節度副使に貶し永州に安置、翊衛大夫安徳軍承宣使李彦に死を賜いその家を籍没、寧遠軍節度使朱勔を田里に放帰する。帝は親征を欲したが李綱を留守とし李梲を副に、給事中王寓が親征を諫めこれを罷める。庚午、道君皇帝が亳州に至る、百姓の多くが潜遁し宰相は帝を襄鄧に出そうとしたが李綱がこれを諫止し綱を尚書右丞とする。
- 辛未、李綱を親征行営使、侍衛親軍馬軍都指揮使曹曚を副とし、太宰兼門下侍郎白時中が罷免、李邦彦を太宰兼門下侍郎、中書侍郎張邦昌を少宰兼中書侍郎、尚書左丞趙野を門下侍郎、翰林学士承旨王孝迪を中書侍郎、同知枢密院事蔡懋を尚書左丞とする。壬申、金人が河を渡り諸道兵に入援を督す詔。癸酉、両省枢密院の官制を元豊の故事に一遵する詔。金人が京師を犯すため尚書駕部員外郎鄭望之・親衛大夫康州防禦使高世則を金軍に使わし、従官に膽勇ある武臣を挙げさせる詔。この夜、金人が宣澤門を攻め李綱がこれを禦し百余級を斬獲、朝に至り金人が退く。甲戌、金人が呉孝民を遣わし和議を議し李梲を金軍に使わす。金人がまた蕭三宝奴・耶律忠・張愿恭を遣わし来る。吏部尚書唐恪を同知枢密院事とする。乙亥、金人が通津・景陽等門を攻め李綱が卯から酉まで督戦し数千級を斬首、何灌が戦死。李梲が蕭三宝奴・耶律忠・王汭と共に来て金帛数千万を索め太原・中山・河間三鎮の割譲及び宰相・親王の質を求め、乃ち師を退ける。丙子、正殿を避け常膳を減じ金銀を括借し倡優家財を籍する。庚辰、張邦昌に康王構を副えて金軍に使わす。金国と称して大字を加える詔。
- 辛巳、道君皇帝が鎮江に幸す、兵部尚書路允迪を簽書枢密院事とする。金人が陽武を陥し知県事蒋興祖が死す。壬午、大風が石を吹き終日止まず、子諶を大寧郡王に封じる。甲申、廉訪使者官を省き、鈔旁定貼銭及び諸州免行銭を罷め、諸路の贍学戸絶田産は常平司に帰す詔。統制官馬忠が京西の募兵で金人を順天門外に撃破。乙酉、路允迪が黏罕の軍に平陽府河東で使し、将劉嗣初が城を挙げて叛く。丁亥、靖難軍節度使河北河東路制置使种師道に涇原秦鳳兵を督させ入援、師道を同知枢密院事とし京畿河北河東宣撫使として四方の勤王兵及び前後軍を統べさせる。庚寅、盗が王黼を雍丘で殺す。癸巳、大霧四塞。乙未、少保淮南節度使梁師成を彰化軍節度副使に貶し、八角鎮に至ったところで死を賜う。
- 二月丁酉朔、都総制姚平仲に夜襲を命じるが克たず奔る。戊戌、李綱を罷め金人に謝し親征行営司を廃す。金人が再び和議を来議。庚子、駙馬都尉曹晟を金軍に使わす。辛丑、資政殿大学士宇文虚中知東上閤門事王俅を遣わし三鎮の地の割譲を許す。太学諸生陳東らと都民数万人が伏闕上書し李綱・种師道の復用を請い、李邦彦らが綱を疾んで功を成すのを恐れ罷したのは金人の計に堕ちるものと言う。李邦彦の入朝に衆がその罪を数え呉敏を罵り、呉敏が伝宣しても衆は退かず登聞鼓を撾ち山呼が地を動かし、殿帥王宗濋が変を生じることを恐れ奏上しこれに従う。耿南仲が衆に「已に旨を得て綱を宣した」と号すると、内侍朱拱之が綱の宣を遅らせたため衆に臠に磔にされ内侍数十人も殺される。乃ち綱を右丞・京城防禦使に復す。壬寅、范仲淹に魏国公を追封、司馬光に太師、張商英に太保を贈り元祐党籍学術の禁を除く。士民が内侍を殺した首謀を誅し、伏闕上書を禁じ、民に与えられる苑囿宮観を廃する詔。金人が王汭を遣わし来る。癸卯、粛王樞を金軍に使わす、観文殿学士大名尹徐処仁を中書侍郎、宇文虚中を簽書枢密院事、蔡懋が罷免。乙巳、宇文虚中・王俅が再び金軍に使す。康王が金軍から至り、金人が韓光裔を遣わし辞を告げ遂に師を退ける。京師の戒厳解ける。丙午、康王構を太傅静江奉寧軍節度使とし明堂朔布政官を省く。丁未、日に両珥。戊申、天下を赦す。士民に今後庶事は祖宗の旧制に遵うよう詔し蠧国害民の事を一切寝罷する。己酉、宰執の神霄玉清万寿宮使兼帯及び殿中監符宝郎を罷め、祖宗の故事に依り軍心ある武臣を同知簽書枢密院、辺将で威望ある者を三衙に選ぶ詔。金人の和議に応じ嘗て金に附いて本朝に帰った官民をそれぞれ本郷国に還す詔。
- 庚戌、李邦彦が罷免、張邦昌を太宰兼門下侍郎、呉敏を少宰兼中書侍郎、李綱を知枢密院事、耿南仲を尚書左丞、李梲を尚書右丞とする。辛亥、監察御史に祖宗法の如く言事させる詔。宇文粋中が罷免され江寧府知事とする。癸丑、种師道が罷免され中太一宮使、陳瓘に右諫議大夫を贈る。甲寅、太師致仕蔡京を秘書監に貶し南京に分司、太師広陽郡王童貫を左衛上将軍、太保領枢密院事蔡攸を太中大夫提挙亳州明道宮とする。先に粘罕が賂を求めて大臣に人を遣わしたが、勤王兵が大集していたためその使者を拘え余覩と結約してこれを図ろうとした。ここに至り粘罕が怒って太原を攻めるも克たず、兵を分けて南北関を趣くと権威勝軍李植が城を挙げて降る。乙卯、隆徳府が陥り知府張確・通判趙伯臻・司録張彦遹が死す。丙辰、流星二つが現れる。己未、遙郡承宣使で功ある者は今後正任刺史に除せられる詔。辛酉、梁方平が河津を棄てた罪で伏誅、王孝迪が罷免。給事中王雲・侍衛親軍馬軍都指揮使曹曚を金国に使わし、鎮洮軍節度使中太乙宮使种師道を河南河東路宣諭使、保静軍節度使前副都指揮使姚古を制置使とする。乙丑、御殿し膳を復す。丙寅、陝西河東に哀痛の詔を下す。この月、金人が沢州の高平を犯し知州高世由が犒いに往きこれを去らせる。
- 三月丁卯朔、徽猷閣待制宋煥を遣わし道君皇帝行宮に表を奉じる。侍従に事を言わせる詔。三省枢密院からの旨でなければ諸司は奉行せぬ詔。川路の毎歳募人による軍民遺骸の掩埋を罷め四郊に祭を致す使者を遣わす。戊辰、李梲が罷免され鴻慶宮使。己巳、張邦昌が罷免され中太一宮使、徐処仁を太宰兼門下侍郎、唐恪を中書侍郎、翰林学士何㮚を尚書右丞、御史中丞許翰を同知枢密院事とする。庚午、宇文虚中が罷免され青州知事。癸酉、景霊東宮で恭謝の礼を行い、趙野を道君皇帝行宮奉迎使とする。甲戌、景霊西宮及び建隆観で恭謝。乙亥、陽徳観・凝祥池・中太乙宮・佑神観・相国寺に詣でる。丙子、擷景園を寧徳宮と改称、司馬光の後裔を録する。己卯、燕王俁・越王偲を太師とする。壬午、金人が盟に叛いて深入したことを詔で言い、李邦彦の許地の使、李梲・李鄴・鄭望之が悉く罷黜される。また种師道・姚古・种師中に三鎮の援助、陵寝の守塞を命じる。癸未、李綱を遣わし道君皇帝を南京に迎えさせ、徐処仁を礼儀使とし、殿中侍御史李擢・左司諫李会が罷免。
- 乙酉、道君皇帝を宜春苑に迎え太后を寧徳宮に入居させる。丙戌、知中山府詹度を資政殿大学士、知太原府張孝純・知河間府陳遘を並びに資政殿学士、知沢州高世由を直竜図閣とし、城守の労を賞す。丁亥、寧徳宮に朝し、扈従の行宮官吏に還京の日を待って優加の賞典を除く詔。有罪の人で公議に迫られ已に行遣した者以外は台諫に前事の糾言を復させぬ詔。庚寅、粛王樞を太傅とし、姚古が隆徳府を復す。辛卯、威勝軍を復す。壬辰、太保景王杞・済王栩を太傅とする。流星が紫微垣に出る。甲午、康王構を集慶建雄軍節度使、尚書戸部侍郎銭蓋を陝西制置使とする。陳東を初品官に命じ同進士出身を賜うも辞して拝さず、朱勔の家を籍する。乙未、金に帰朝する官民の未発遣の者を止めさせる詔。丙申、蔡京を崇信軍節度副使に貶する。この春、夏人が天徳・雲内・武州及び河東八館を取る。夏四月戊戌、夏人が鎮威城を陥し攝知城事朱昭が死す。己亥、太上皇帝を都門に迎える。壬寅、竜徳宮に朝す。癸卯、子諶を皇太子に立て、耿南仲を門下侍郎とする。乙巳、春秋博士を置く。戊申、尚書省に詳議司を置き祖宗の法を討論させる。己酉、乾竜節、群臣が紫宸殿で上寿。庚戌、趙野が罷免。壬子、金人が賈霆・冉企弓を遣わし来る。癸丑、太師沂国公鄭紳を楽平郡王に封じる。童貫を昭化軍節度副使に貶し郴州に安置し、宰執の俸給を三分の一、支賜を半分減じる。開経筵を詔し、吏部に庶官を稽考させる。
- 楊戩・李彦の公田、王黼・朱勔の応奉、童貫の西北の師、孟昌齢の河防の役、夔蜀湖南の開疆、関陝河東の改幣及び近習が引いた献頌で殿試に赴かせた流の得た爵賞は悉くこれを奪う。甲寅、种師道に太尉同知枢密院事河北河東路宣撫使を加える。乙卯、今後の仮日は特坐し百司は休務せぬ詔。丙辰、姦言で金人が復至すると恐動する居民を告げる者に賞を詔す。戊午、南康郡王栻を和王、平陽郡王榛を信王に進封。己未、詩賦取士を復し荘老及び王安石の字説を禁じる。壬戌、台諫官の親擢及び宰執に薦挙させぬ詔を著し、政和以来の道官処士先生の封贈奏補等の勅書を追す。甲子、在京監察御史・在外監司郡守及び路分鈐轄以上に辺任の経験や武勇統衆出戦の能ある者各二員を挙げさせる詔。東兵正将占沆が交城県で金人と戦い死す。乙丑、三衙及び諸路帥司に各それぞれ諳練辺事智勇過人及び豪俊竒傑で衆に推服される統制将領堪能者各五名を挙げさせる詔。蔡攸を節度副使に貶し安置、朱勔を循州に安置する。
- 五月丙寅朔、竜徳宮に朝し提挙官に日々太上皇帝の起居平安を具さしめる詔。丁卯、財穀で軍を佐ける者があれば有司に名聞させ推恩に差ある詔。少傅鎮西軍節度余深を特進観文殿大学士とする。戊辰、王安石の孔子廟庭配享を罷める。庚午、少傅安武軍節度使銭景臻・鎮安軍節度使開府儀同三司劉宗元を並びに左金吾衛上将軍、保信軍節度使劉敷・武成軍節度使劉敏・嚮徳軍節度使張楙・岳陽軍節度使王舜臣・応道軍節度使朱孝孫・瀘川軍節度使銭忱を並びに右金吾衛上将軍とする。この日、寒。辛未、申錮の禁を詔し、無出身待制以上で年三十に及び歴任実十年に通じる者のみ任子を得る。監察御史余応求が事に言及して大臣に迎合した罪で衛州知事に貶される。甲戌、河北路を曲赦。乙亥、申銷金の禁。丁丑、倹約を以て天下に先んじ冗を澄まし貪を汰し民の害を除くを詔し、監司郡県に奉行させる事十六件を授ける。姚古の軍が威勝に至り粘罕が将に至ると聞き衆が驚潰、河東が大いに振るう。河北河東路制置副使种師中が金人と楡次で戦い死す。己卯、外任官職田を一年借りる。開府儀同三司高俅が卒す。辛巳、太官の日進膳を損じ高俅の官を追削する。
- 甲申、詳議司を罷める。己丑、河東経略安撫使張孝純を検校少保武当軍節度使とする。壬辰、天下に武芸兵書を習う者を挙げさせる詔。乙未、姚古に太原の援助を詔す。六月丙申朔、道君皇帝の還朝により紫宸殿で群臣の朝賀を受け、諫官に闕失を極論させる詔。戊戌、中外に文武官で将帥に堪える者を挙げさせる。時に太原の囲みが急で群臣は三鎮の地を割こうとしたが李綱がこれを沮み、乃ち李綱を种師道に代え宣撫使として太原を援けさせる。辛丑、資政殿学士劉韐を宣撫副使、陝西制置司都統制解潜を制置副使とする。太白が歳星を犯す。壬寅、鄆国公楃を安康郡王、韓国公楗を広平郡王に並びに封じ開府儀同三司とし、今日の政令は惟だ上皇の詔書を遵奉し祖宗の故事を修復すること、群臣庶士も孔孟の正道を講じ王安石の旧説の不当を察して朕の志を羽翼し中興を済すべしと詔す。癸卯、侍衛親軍馬軍副都指揮使鎮西軍承宣使王稟を建武軍節度使とし太原堅守の功を録する。甲辰、路允迪が罷免され醴泉観使。乙巳、左司諫陳公輔が言事に責められ合州酒務に監される。壬子、天狗が地に墜ち雷の如き声。癸丑、囚を慮る。丙辰、太白熒惑歳鎮四星が張に合す。辛酉、都水将作監の承授内侍官を罷め、熙河都統制焦安節が不法に坐し李綱がこれを斬る。壬戌、姚古が擁兵逗遛の罪に坐し節度副使に貶し広州に安置、彗星が紫微垣に出る。
- 秋七月乙丑朔、元符上書邪等の禁を除く。宋昭が政和中に上書して遼への攻撃を諫め連州に貶されていた。庚午、都堂に赴くよう詔す。乙亥、蔡京を儋州に、蔡攸を雷州に、童貫を吉陽軍に安置する。己卯、河北河東陝西路の借した職田を免除。乙酉、蔡京の子孫二十三人は已に遠地に竄されているが赦に遇っても量移を許さぬ詔。この日、京が潭州で死す。丁亥、侍従官に宣仁聖烈皇后の謗史の改修を共議させる。辛卯、監察御史張澂を遣わし童貫を誅し、広西転運副使李昇之に趙良嗣を誅させ並びにその子孫を海南に竄する。壬辰、侍御史李光遠が言事に坐し監当に貶される。この月、解潜が金人と南関で戦い敗績、劉韐が遼州から兵を引き金人と戦い敗績。
- 八月甲午朔、陳瓘の後裔を録する。丙申、再び种師道に宣撫使を命じ辺を巡らせ李綱を召還。庚子、彗星の出現により避殿減膳を詔し従臣に民間の疾苦を具さしめる。河東察訪使張灝が金人と文水で戦い敗績。辛丑、民の疾苦十七事を悉く除くよう求める詔。丁未、斡離不が再び広信軍・保州を攻めるが克たず遂に真定を犯す。戊申、都統制張思正らが夜に金人を文水県で襲い破る。己酉、再び戦い師が潰え死者数万、思正は汾州に奔り、都統制折可求の師は子夏山で潰え、威勝・隆徳・汾晋・沢絳の民が皆河を渡って南に奔り州県は空になる。金人が勝に乗じ太原を攻める。張庭堅の後裔を録する。乙卯、徽猷閣待制王雲・閤門宣賛舎人馬識遠を金国に使わし、秘書著作佐郎劉岑・太常博士李若水を分けて金軍に使わし和議を議す。戊午、許翰が罷免され亳州知事。己未、太宰徐処仁が罷免され東平知事、少宰呉敏が罷免され揚州知事。唐恪を少宰兼中書侍郎、何㮚を中書侍郎、礼部尚書陳過庭を尚書右丞、開封尹聶昌を同知枢密院事、御史中丞李回を簽書枢密院事とする。庚申、王雲を金軍に遣わし三鎮の賦税割譲を許す。この月、福州で軍が乱れ知州事柳庭俊を殺す。
- 九月丙寅、金人が太原を陥し安撫使張孝純・副都総管王稟・通判方笈が皆死す。辛未、呉敏を崇信軍節度副使に貶し涪州に安置、蔡攸を万安軍に移し間もなく弟の翛及び朱勔と共に死を賜う。乙亥、編修勅令所に靖康以前の蔡京が乞うた御筆手詔で祖宗法に参し今行われるものを取り删修して書を成させる詔。丁丑、礼部尚書王㝢を尚書左丞とする。戊寅、赤気が日に随う。李綱が罷免され揚州知事。壬午、童貫の首を都市に梟す。癸未、布衣尹焞に和靖処士を賜う。甲申、日に両珥背気。丙戌、三京及び鄧州に都総管府を建て四道の兵を分総させる。庚寅、知大名府趙野を北道都総管、知河南府王襄を西道都総管、知鄧州張叔夜を南道都総管、知応天府胡直孺を東道都総管とし、李綱の洞霄宮提挙を罷める。辛卯、給事中黄鍔を遣わし海道より金国に使わし和議を議す。この月、夏人が西安州を陥す。
- 冬十月癸巳朔、御殿し膳を復す。李綱を保静軍節度副使に貶し建昌軍に安置。丁酉、金人が真定を陥し都鈐轄劉竧が死す、流星が杯の如し。戊戌、金人が楊天吉・王汭を遣わし来る。庚子、日に青赤黄戴気。金人が汾州を陥し知州張充戬・兵馬都監賈亶が死す。また平定軍を攻める。辛丑、哀痛の詔を下し河北河東都路帥臣に檄を伝え所部が便宜行事を得るようにする。壬寅、天寧節、群臣が竜徳宮に詣で上寿。甲辰、蔡京・王黼・童貫の薦めた人を用いる詔。丙午、従官を尚書省に集め三鎮割譲を議し种師道を召還。丁未、礼部尚書馮澥を知枢密院事とする。己酉、砲飛山営を閲す。庚戌、范訥を寧武軍節度使河北河東路宣撫使とする。遼の故将小䩴䩮が麟州建寧砦を攻陥し知砦楊震が死す。壬子、太常礼官に金主尊号を集議させる詔。尚書左丞王㝢を康王の副として斡離不軍に使わすが㝢は辞す。乙卯、木に雨氷が付く。丙辰、金人が平陽府を陥し、また威勝・隆徳・沢州を陥す。丁巳、高麗が入貢、明州から表を進めさせその使者を還す。戊午、王㝢を単州団練副使に貶し馮澥に代行させる。庚申、日に両珥及び背気。侍御史胡舜陟が中山への援軍を請うも聴かれず。辛酉、种師道が薨去。
- 十一月丙寅、夏人が懐徳軍を陥し知軍事劉銓・通判杜翊世が死す。籍譚稹家。戊辰、康王が金軍に至らずに還る。馮澥が罷免。己巳、百官に三鎮の棄守を集議させる。庚午、河北河東京畿の清野を詔し流民に官舎寺観の占用を許す。辛未、流星が杯の如し。壬申、京師の民が浮言で相動じることを禁じる。癸酉、右諫議大夫范宗尹が棄地を首議した罪で罷免。金人が河外に至り宣撫副使折彦質が十二万の師で拒む。甲戌、師が潰え金人が河を済り、知河陽燕瑛西京留守王襄が城を棄てて遁走。乙亥、刑部尚書王雲を康王の副として斡離不軍に使わし三鎮の割譲及び袞冕車輅の奉上、その主を皇叔と尊び尊号を上げることを許す。丙子、金人が河を渡り折彦質の兵が尽く潰え、提刑許高の兵が洛口で潰える。金人が来て河北地を尽く得たいと言う。京師戒厳。資政殿学士馮澥及び李若水を粘罕軍に遣わす。丁丑、何㮚が罷免、尚書左丞陳過庭を尚書侍郎、兵部尚書孫傅を尚書右丞とする。成忠郎郭京に選六甲正兵所を領させる、簽書枢密院事李回が万騎で防河するも衆が潰えて帰る。この日、京城門を塞ぐ。戊寅、竜徳宮の婉容韋氏を賢妃に進める。康王構を安国安武軍節度使とし清野を罷める。辛巳、知懐州霍安国を徽猷閣待制、通判林淵を直徽猷閣とし守禦の功を賞す。壬午、斡離不が楊天吉・王汭・勃菫撒離栂を遣わし来る、耿南仲を斡離不軍に、聶昌を粘罕軍に使わし河を画して境とすることを許す。康王が磁州に至る。
- 州人が王雲を殺し王の行を止めさせ、王は還って相州に戻る。甲申、尚書右丞孫傅を同知枢密院事、御史中丞曹輔を簽書枢密院事とする。京兆府路安撫使范致虚を陝西五路宣撫使とし勤王兵を督入援させる。乙酉、斡離不軍が城下に至り蝋書を間行させ関を出て召兵する、また康王及び河北守将の来援を約すが多くが邏兵に獲られる。丁亥、大風が屋を発し木を折る、李回が罷免。戊子、金人が通津門を攻め范瓊が兵を出しその砦を焼く。己丑、南道総管張叔夜が兵を率い勤王し玉津園に至る、叔夜を延康殿学士とする。斡離不が劉晏を遣わし来る。庚寅、東壁に幸し軍を労い、三省長官の名は悉く元豊の旧制に依るよう詔し開封府を領させる、何㮚を門下侍郎とする。閏月壬辰朔、金人が善利門を攻め統制姚仲友がこれを禦し竒兵が乱を作し使臣王宗濋を殺すが数十人を斬りて定まる。唐恪が都人に撃たれそうになったため去を求めて罷免され中太一宮使、門下侍郎何㮚を尚書左僕射兼中書侍郎とする。劉韐が軍を棄て降した罪に坐し五官を降し祠に予る。癸巳、京師が苦寒となり日者の言を用いて土牛を借り春を迎える。朱伯友が鄭州を棄てた罪に坐し三官を降される。西道総管王襄が西京を棄てて去り、知沢州高世由が城を挙げて金に降る。燕瑛が河陽を棄てようとし乱兵に殺される。河東の諸郡は降るか破れるかしてほとんど尽きる。都民が東壁統制官辛亢宗を殺し民が城に乗じ保甲に代わる。
- 黏罕軍が城下に至る。甲午、時に雨雪が交わり降る、帝は甲を被り城に登り御膳を士卒に賜い火飯に易えて進める、人皆感激して流涕す。金人が通津門を攻め数百人が城を縋って禦し、その砲架五両・鵞車二両を焼く。李綱を資政殿大学士に召し開封府を領させる。金人が懐州を陥し霍安国・林淵及びその鈐轄張彭年・都監趙士詝・張諶が皆死す。乙未、金人が青城に入り朝陽門を攻める。馮澥が金人蕭慶・楊真誥と共に来る。丙申、帝が宣化門に幸し障泥をつけて馬に乗り泥淖の中を行くと民は皆感泣する。張叔夜がしばしば戦い功あり、帝が安上門に至り召見して資政殿学士を拝命させる。金人が胡直孺を執え拱州も陥す。丁酉、赤気が天に亘る、馮澥を尚書左丞とする。戊戌、殿前副都指揮使王宗濋が城下で金人と戦い統制官高師旦が死す。庚子、資政殿学士張叔夜を簽書枢密院事とする。金人が宣化門を攻め姚仲友がこれを禦す。辛丑、金人が南壁を攻め殺傷相当。壬寅、河北守臣に軍民兵を悉く起こし倍道で入援させる詔。癸卯、金人が南壁を攻め張叔夜・范瓊が兵を分けて襲い、遥かに金兵が奔還するのを見て自ら相蹈藉し氷の裂けた隍に溺死する者千数を数えた。甲辰、大雨雪、金人が亳州を陥し間使を遣わし諸道兵に勤王を召させる。乙巳、大寒で士卒は噤戦して兵を執れず僵仆する者もあり、帝は禁中で徒跣して晴を祈るが勤王兵は至らず城中の兵で使える者は衛士三万のみでも十のうち五六を失っていた。
- 金人の攻城が急となり丙午、木に雨氷が付く。丁未、初めて正殿を避ける。己酉、馮澥・曹輔を宗室仲温・士&KR2520;と共に金軍に遣わし和を請い、康王を天下兵馬大元帥とし速やかに兵を領し入衛させる詔。辛亥、金人が来て和議し親王の出盟を要す。壬子、金人が通津・宣化門を攻め、范瓊が千人で出戦するが河を渡り氷が裂けて没する者五百余人、これより士気がいよいよ挫ける。甲寅、大風が北から起こり俄かに大雨雪が連日夜止まず。乙卯、金人が再び劉晏を遣わし親王・宰相の出盟を趣す。丙辰、妖人郭京が六甲法を用い守禦の人を悉く城下に降させ大いに宣化門を開いて金人を攻めさせるが兵は大敗、京は下城して法を作すと託し余兵を引いて遁走、金兵が城に登り衆は皆披靡する。金人が南薫諸門を焼き姚仲友が乱兵に死す。宦者黄経が自ら火に赴いて死し、統制官何慶言・陳克礼・中書舎人高振が力戦しその家人と共に皆害を被る。秦元が保甲を領し関を斬って遁げ京城が陥落。衛士が都亭駅に入り劉晏を執え殺す。丁巳、道君皇帝・寧徳皇后を延福宮に迎え入居させ、何㮚及び済王栩を金軍に使わす。戊午、何㮚が入って金人が上皇の郊外への出御を要すると言うと、帝は「上皇は驚憂して疾となる、朕が自ら親往すべし」と言う。乙卯からの雪がこの日晴れる、夜に白気が太微に出て彗星が見える。庚申、日が赤く火の如く光無し。辛酉、帝が青城に幸す。
- 十二月壬戌朔、帝が青城に在り、蕭慶が尚書省に入居する。この日、康王が相州に大元帥府を開く。癸亥、帝が青城より至る。甲子、金帛を大索する。丙寅、陳過庭・劉韐を両河に遣わし割地を使す。辛未、京師の米価を定め糴を勧め民を振わせる。癸酉、行門指揮使蒋宣・李福を斬る。乙未、康王が北京に赴く。丙子、尚書省で火災。庚辰、雹。癸未、大雪、寒により民に紫筠館の花木を伐って薪とすることを許す。庚寅、康王が東平に赴く。
靖康二年(1127年)
- 春正月辛卯朔、済王栩・景王杞に金軍への賀を命じ、金人も使者を遣わし賀を入れる。壬辰、金人が康王の召還を趣し、聶昌・耿南仲・陳過庭を遣わし両河の地を割かせるが、民は堅守して詔に奉じず数月に累んで石州のみを得る。甲午、両河の民に開門出降を詔す。乙未、大星が建星西南に出て濁没に流入する。丁酉、木に両氷。己亥、陰曀の風が迅く発し夜に西北の陰雲中に火光の如きものが現れる。庚子、金人が金銀を急に索め、何㮚・李若水が帝に軍中への親往を勧めこれに従い、太子に監国させて行く。乙巳、梁師成の家を籍する。丙午、劉韐が金軍で自経する。太学生徐揆が上書して守門を乞い帝の還闕を請うが金人が軍中に取って揆は抗論して殺される。夜、金人が神衛営を劫す。丁未、大霧四塞、金人が含輝門を下し剽掠し五岳観を焼く。二月辛酉朔、帝が青城に在り自ら金軍の如し、都人が出迎う。丙寅、金人が南薫門の路を塹り人心が大いに恐れる、間もなく金人が異姓の推立を令す。孫傅が慟哭して趙氏の擁立を乞うが許されず。丁卯、金人が上皇の青城行きを要し、内侍鄧述の具える諸王孫の名を尽く軍中に取る。辛未、金人が上皇を偪り皇后・皇太子を青城に召し入れる。庚辰、康王が済州に赴く。癸未、観文殿大学士唐恪が薬を仰いで自殺。乙酉、金人が金の収括未足のため戸部尚書梅執礼・侍郎陳知質・刑部侍郎程振・給事中安扶を殺す。三月辛卯朔、帝が青城に在り。丁酉、金人が張邦昌を楚帝に立てる。庚子、金人が宗室を取り来ることを求め開封尹徐秉哲が民に結保し匿すことを禁じる。丁巳、金人が上皇を脅して北行させる。
- 夏四月庚申朔、大風が石を吹き木を折り金人が帝及び皇后・皇太子を北に連れ帰る。凡そ法駕鹵簿・皇后以下の車輅鹵簿冠服・礼器・法物・大楽・教坊楽器・祭器・八宝九鼎・圭璧渾天儀・銅人刻漏・古器・景霊宮供器・太清楼秘閣三館書・天下州府図及び官吏内人内侍・技芸工匠娼優・府庫蓄積が一空にされる。辛酉、北風が大いに起こり苦寒。五月庚寅朔、康王が南京で即位、遥かに孝慈淵聖皇帝の尊号を上げる。紹興三十一年五月辛卯、帝が崩ずる。問いが至るは七月己丑、恭文順徳仁孝皇帝の尊諡を上げ廟号を欽宗とする。三十二年閏二月戊寅、太廟に祔す。
史論
- 賛して曰く、帝は東宮に在って失徳が見られず、践阼するに及んでも声技音楽の好みが一切無かった。靖康の初政では王黼・朱勔らの罪を正して竄殛できたため、金人は帝の内禅を聞いて甲を卷いて北に旆を還す意があったという。惜しむらくは乱勢が已に成って救薬すべくもなく、君臣が相い視て同力協謀して斯の難を済すこともできず、惴惴として講和にも遑がなく、ついに父子が淪胥し社稷が蕪茀するに至った。帝がここに至ったのは、蓋し巽懦で義を知らざる者であったからであろうか。享国の日は浅かったが受けた禍は至って深く、その所以を考えれば真に悼むべきことである、真に悼むべきことである。