宋史卷二十二 本紀第二十二 徽宗四
宣和元年(1119年)
- 春正月戊申朔、日下に五色の雲が現れる。壬子、建安郡王樞を粛王、文安郡王杞を景王に進封し並びに太保とする。乙卯、仏を改め大覚金僊、餘は僊人大士、僧は徳士とし服飾を改め姓氏を称させ、寺を宮、院を観、女冠を女道、尼を女徳と改める詔。丁巳、金人の使者李善慶が来る。趙有開を遣わし報聘に赴かせたが登州で還る。戊午、余深を太宰兼門下侍郎、王黼を特進少宰兼中書侍郎とする。乙丑、湟州を楽州と改称。癸酉、子棟を温国公、姪有㳟を永寧郡王に封じる。乙亥、籍田に躬耕し裕民局を罷める。二月庚辰、改元し宣和殿を保和殿と改称。戊戌、鄧洵武を少保とする。三月庚戌、蔡京らが安州で得た商鼎六器を進める。己未、馮熙載を中書侍郎、范致虚を尚書左丞、翰林学士張邦昌を尚書右丞とする。天下の宮観道士は監司郡県官と客礼で相見える詔。童貫が知熙州劉法を遣わし統安城を攻めさせたが夏人の伏兵に撃たれ法は敗死し震武軍が包囲される。甲子、知登州宗澤が神霄宮の建立に不虔として除名編管。辛未、上舎生五十四人に及第を賜う。甲戌、皇后が親蚕。
- 夏四月丙子朔、日食。庚寅、童貫が鄜延環慶の兵で夏人を大破し三城を平定。己亥、陝西河東路を曲赦。辛丑、輔臣の官一等を進める。五月丙午朔、竜形の物が京師の民家に見える。丁未、徳士は並びに道学への入学を許す(道士法に依る)詔。丙辰、震武で夏人を破る。壬申、御製九星二十八宿朝元冠服図を班す。甲戌、囚を慮る。この月、大水があり都城の西北を犯し赤気が天に亘る。六月壬午、西辺の武臣経略使を文臣に改める詔。甲申、荘周を微妙元通真君、列禦寇を致虚観妙真君に封じ配享の冊命を行う詔、混元皇帝に仍せる。己亥、夏国が使者を遣わし款を納れ六路の罷兵を詔す。秋七月甲寅、童貫を太傅とする。八月戊寅、諸路の未方田処に方量均定の租課を令する詔。丁酉、神霄宮成により天下に徳音を降す。范致虚が母憂により去位。九月甲辰朔、蔡京を保和新殿に燕す。辛酉、明堂で大饗す。癸亥、道徳院に幸し金芝を観て遂に蔡京第に幸す。丁卯、淮康軍節度使蔡攸を開府儀同三司とする。
- 冬十月甲戌、紹述熙豊政事の書を天下に布告する。十一月癸丑、景霊宮に朝献。甲寅、太廟に饗す。乙卯、圜丘で昊天上帝を祀り天下を赦す。甲子、東南諸路の水災を監司郡守に悉心振救させる詔。戊辰、淮甸の旱饑により監察御史を遣わし察訪。張邦昌を尚書左丞、翰林学士王安中を尚書右丞とする。この時、朱勔が花石綱で上に媚び東南が騒動、太学生鄧肅が詩を進め諷諫、詔して田里に放帰させる。十二月甲戌、京東東路の盗賊竊発を東西路提刑に督捕させる詔。辛卯、大雨雹。丙申、帝がしばしば微行することを正字曹輔が上書して極論し郴州に編管。この歳、京西で饑饉、淮東で大旱、官を遣わし賑済。嵐州で黄河が清む。邢州を信徳、陳州を淮寧、襄州を襄陽、慶州を慶陽、安州を徳安、鄆州を東平、趙州を慶元府、瀘州を瀘川、睦州を建徳、岳州を岳陽、寧州を興寧、宜州を慶遠、光州を光山、均州を武当軍と改称。
宣和二年(1120年)
- 春正月癸亥、蔡確を汝南郡王に追封。甲子、道学を罷める。二月乙亥、趙良嗣を遣わし金国に使する。唐恪が罷免。庚辰、寧遠軍節度使梁子美を開府儀同三司とする。戊子、淮南の流民を所在で贍給し還らせる詔。甲午、哲宗史の別修を詔す。三月壬寅、上舎生二十一人に及第を賜う。乙卯、熙河蘭湟路を熙河蘭廓路と改称。夏四月丙子、江西・広東両界の羣盗嘯聚により武臣提刑路分都監各一員を添置する詔。五月庚子朔、淑妃劉氏を貴妃とする。己酉、日中に黒子。丁巳、方沢で地を祭り諸路に徳音を降す。布衣朱夢説が宦寺の権重に過ぎることを上書して論じ池州に編管。戊辰、文行才術ある宗室を大宗正司に上聞させる詔。六月癸酉、開封府に飢民の賑済を詔す。丁丑、太白が昼に見える。戊寅、蔡京が致仕し朔望に朝す。辛巳、今後元豊法制を勝手に改めることを大不恭として論じる詔。丙戌、三省枢密院の額外吏職を並びに裁汰し妄言惑衆稽違詔令の者は重く論じる詔。諸司の総轄提点の類で元豊法にないものは並びに罷める詔。丁亥、寺院の額を復す。甲午、礼制局と修書五十八所を罷める。秋七月壬子、文臣の起復を罷める。己未、医算学を罷める。丙寅、子穂を英国公に封じる。八月庚辰、医官の額を減じる詔。乙未、監司が挙げた守令が不当な人物であったり法を廃して挙げなかった場合は廉訪使者に封じさせる詔。
- 九月壬寅、金人が勃菫らを遣わし来る。乙巳、徳士を僧に復す。辛亥、明堂で大饗す。丙辰、馬政を遣わし金国に使する。癸亥、余深に少傅を加え童貫第に幸す。冬十月戊辰朔、日食。河東節度使梁師成を太尉とする。建徳軍清渓の妖賊方臘が反し譚稹に討たせる。十一月己亥、余深が罷免され少傅のまま鎮西軍節度使知福州とする。庚戌、王黼を少保太宰兼門下侍郎とする。己未、両浙都監蔡遵・顔坦が方臘と戦い死す。十二月丁亥、譚稹を両浙制置使とし童貫を江淮荊浙宣撫使として方臘を討伐させる。己丑、少傅鄭居中に枢密院を権領させる。庚寅、両浙の民の疾苦を訪ねさせる詔。この月、方臘が建徳を陥し歙州を陥す。東南将郭師中が戦死。杭州が陥落し知州趙震が遁走、廉訪使者趙約は賊を詬りて死す。この歳、淮南で旱、夏国・真臘が入貢。
宣和三年(1121年)
- 春正月壬寅、鄧洵武が卒す。戊午、安康郡王栩を太保とし済王に進封、鎮国公模を開府儀同三司とし楽安郡王に進封する。己未、淮南江東福建にそれぞれ武臣提刑一員を添置する詔。辛酉、蘇杭州の造作局及び御前綱運を罷める。乙丑、西北兵の更戍を罷め木石彩色等の場務を罷める。この月、方臘が婺州を陥し衢州を陥す、守臣彭汝方が死す。二月庚午、趙震が杭州を棄てた罪により吉陽軍に貶される。方田を罷める。甲戌、方臘への招撫を詔す。乙酉、天下の三舎及び宗学辟雍・諸路提挙学事官を罷める。癸巳、天下を赦す。この月、方臘が処州を陥し、淮南の盗宋江らが淮陽軍を犯し将を遣わし討捕、また京東江北を犯し楚海州界に入るが知州張叔夜が招降。三月丁未、集英殿で進士を策す。庚申、礼部奏名進士及第出身六百三十人を賜う。夏四月丙寅、貴妃劉氏が薨去。甲戌、清渓令陳光が賊の発した縣内を棄てた罪で伏誅。庚寅、忠州防禦使辛興宗が方臘を清渓で擒える。両浙江東の被賊州県に給復三年を詔す。癸巳、汝州で牛が麒麟を生む。
- 五月戊戌、鄭居中に枢密院を領させる。己亥、杭・越・江寧の守臣は並びに安撫使を帯びさせる詔。甲辰、貴妃劉氏を皇后に追冊し明節の諡を賜う。睦州建徳軍を厳州、遂安軍歙州を徽州と改称。丙午、金人が再び曷魯らを遣わし来る。戊申、興寧軍節度使劉宗元を開府儀同三司とする。癸亥、三省に台諫の背公を糾覚させ譴責を上旨させる詔。陳過庭・張汝霖が御前使喚免除・歳進花果の乞いを王黼に劾されて竄貶。閏月丙寅、諸州の曹掾官を減じる。辛未、医官額を立てる。甲戌、応奉司を復し王黼及び内侍梁師成にこれを領させる。戊寅、囚を慮る。六月、河が恩州清河埽で決壊。秋七月丁卯、温・処等八州を振恤。丁亥、純滋等十二州を廃す。戊子、童貫らが方臘を俘え献じる。この月、洛陽京畿で黒眚が人や犬の如く夜に出て小児を掠め食う訛言があり二歳で息む。八月甲辰、両浙江東福建淮南路を曲赦。乙巳、童貫を太師とし譚稹に節度を加える。丁未、明節皇后の神主を別廟に祔す。丙辰、方臘が伏誅。九月丙寅、王黼を少傅、鄭居中を少師とする。庚午、執政官一等を進める。辛未、明堂で大饗す。冬十月甲寅、贓吏の獄具は決断し貸さぬよう詔す。童貫が再び陝西両河宣撫を領す。
- 十一月丁丑、馮熙載が罷免、張邦昌を中書侍郎、王安中を尚書左丞、翰林学士承旨李邦彦を尚書右丞とする。辛巳、子桐を儀国公に封じる。壬午、張商英が卒す。十二月辛卯朔、日中に黒子。壬子、広平郡王構を康王、楽安郡王模を祁王に並びに太保に進封。この歳、諸路で蝗害。
宣和四年(1122年)
- 春正月丁卯、蔡攸を少保、梁師成を開府儀同三司とする。癸酉、金人が遼の中京を破り遼主が北走。二月丙申、旱により広聖宮に祈禱し即日雨が降る。癸卯、雹。丙午、呉国公植を開府儀同三司とし信都郡王に進封。三月辛酉、秘書省に幸し遂に太学に幸す、秘書少監翁彦深・王時雍、国子祭酒韋寿隆、司業権邦彦に館職学官諸生への恩賜を賜うに差あり。丙子、遼人が燕王淳を立て帝とする。金人が来て夾攻を約す。童貫を河北河東路宣撫使とし辺に屯兵させ幽燕を招諭させる。夏四月丙午、補完校正文籍局を置き三館の書を録す。宣和楼及び太清楼秘閣を置き、郡県に遺書を訪ねさせる詔。五月壬戌、高俅を開府儀同三司とする。丁卯、子柄を昌国公に封じる。甲戌、嗣濮王仲御が薨去。乙亥、蔡攸を河北河東宣撫副使とする。庚辰、常徳軍節度使譚稹を太尉とする。童貫が雄州に至り都統制种師道らに分道進兵させる。癸未、遼人が前軍統制楊可世を蘭溝甸で撃破。乙酉、開府儀同三司江夏郡王仲爰を嗣濮王とする。丙戌、囚を慮る。楊可世が遼将蕭幹と白溝で戦い敗績。丁亥、辛興宗が範村で敗れる。六月己丑、种師道が退いて雄州を保つ。遼人が追撃して城下に至り帝は兵敗を聞いて甚だ懼れ班師を詔す。壬寅、王黼を少師とする。この月、遼の燕王淳が死し蕭幹らがその妻蕭氏を立てる。
- 秋七月己未、貴妃崔氏を庶人に廃す。壬午、王黼が耶律淳の死により再び童貫・蔡攸に治兵させ、河陽三城節度使劉延慶を都統制とする。甲申、种師道が右衛将軍致仕に責授、和詵は散官安置。九月戊午、朝散郎宋昭が上書して北伐を諫め、王黼これを大いに悪みて除名勒停広南編管を詔す。己未、金人が徒孤且烏歇らを遣わし師期を議す。辛酉、明堂で大饗す。己巳、高麗国王王悞が薨去、路允迪を遣わし弔す。癸(甲)戌、趙良嗣を遣わし金国に報聘。己卯、遼将郭薬師らが涿・易二州を以て来降。冬十月庚寅、燕京を燕山府と改称、涿易八州は並びに賜名。癸巳、劉延慶が郭薬師と統兵し雄州を出発。戊戌、復した州県を曲赦。己亥、耶律淳の妻蕭氏が表を上げ臣を称し款を納れる。甲辰、師が涿州に次する。己酉、郭薬師が高世宣・楊可世らと燕を襲い蕭幹が兵を率い入援、薬師らはしばしば敗れ皆馬を棄て城を縋って出て死傷が半ばを過ぎる。癸丑、蔡攸を少傅とし燕山府を判せる。甲寅、劉延慶が盧溝河から営を焼き夜に遁走、衆軍が潰え、蕭幹が涿水まで追い還る。十一月丙辰朔、新璽を行う。戊辰、景霊宮に朝献。己巳、太廟に饗す。庚午、圜丘で昊天上帝を祀り天下を赦す。
- 東南の官吏で先に寇盗に縁り貶責された者は次第に移放し、上書邪上等人には特に磨勘を与える。戊寅、金人が李靖らを遣わし山前六州を許すと言い、彰徳軍節度使鄭詳を太尉とする。十二月丁亥、郭薬師が蕭幹を永清県で破る。戊子、趙良嗣を遣わし金国に報聘。庚寅、郭薬師を武泰軍節度使とする。辛卯、金人が燕に入り蕭氏が出奔。壬辰、使者を遣わし献捷。乙未、監司は陛対を経ぬまま之任することを許さぬ詔。丙申、劉延慶を率府率に貶め筠州に安置。壬寅、植を莘王に進封。
宣和五年(1123年)
- 春正月戊午、金人が李靖を遣わし許された六州の代租銭を議す。己未、趙良嗣を遣わし西京等州を求めて報聘。辛酉、王安中を慶遠軍節度使河北河東燕山府路宣撫使知燕山府とする。甲申、富弼の後裔を録する。二月乙酉朔、李邦彦を尚書左丞、翰林学士趙野を尚書右丞とする。丙戌、金人が議未合により橋梁を断ち舎を焼く。丁酉、雍国公朴を華原郡王、徐国公棣を高平郡王に並びに進封し開府儀同三司とする。三月乙卯、金人が再び寧朮割らを遣わし来る。己未、盧益を遣わし報聘し皆その約に如う。夏四月癸巳、金人が楊璞を遣わし誓書及び燕京・涿易檀順景薊州を以て来帰す。庚子、童貫・蔡攸が燕に入る。時に燕の職官・富民・金帛子女は先に金人にすべて掠取されていた。乙巳、童貫が燕城の撫定を表奏。庚戌、河北河東燕雲路を曲赦しこの日班師。五月己未、燕雲収復により王黼に玉帯を賜う。庚申、王黼を太傅、鄭居中を太保とし宰執官二等を進める。辛酉、王黼が三省事を総治する。癸亥、童貫が節鉞を落とし徐豫国公に進封、蔡攸を少師とする。乙丑、正位三公は本班節鉞を帯び他職を領する者も旧の如く班著を為すことを法とする詔。癸酉、方沢で地を祭る。この月、金人が朔武蔚三州を許し金主阿骨打が殂じ弟呉乞買が立つ。六月乙酉、郭薬師に検校少傅を加える。丙戌、遼人張覚が平州を以て来附。己丑、仲爰が薨去。乙未、今後、内外宗室は並びに姓を称さぬ詔。丁酉、安国軍節度使仲理を開府儀同三司とし嗣濮王に進封。己亥、囚を慮る。戊申、鄭居中が卒す。辛亥、蔡攸に枢密院を領させる。
- 秋七月戊午、梁師成を少保とする。己未、童貫を致仕させ起復し譚稹を河北河東燕山府路宣撫使とする。庚午、太傅楚国公王黼らが継天興道敷文成武睿明皇帝の尊号を上げようとしたが不允、元祐学術を禁じる。八月辛巳朔、日食が予告も見えず。辛丑、王安中に復燕雲碑を作らせる詔。壬寅、太白が昼に見える。この月、蕭幹が景州・薊州を破り燕山を寇掠、郭薬師がこれを破り幹は間もなくその部下に殺され首を京師に伝える。九月辛酉、明堂で大饗す。冬十月乙酉、木に雨氷が付く。壬寅、諸路の提挙常平の不職の者を罷める。十一月乙卯、鄭紳を太師とする。丙寅、王黼第に幸し芝を観る。諸路漕臣で上供の銭物が不足の坐で貶秩される者二十二人。丁卯、王安中・譚稹に並びに検校少傅を加え、郭薬師を太尉華原郡王とする。朴が薨去。壬申、王黼の子弟親属に推恩あり差あり。この月、金人が平州を取り張覚が燕山に走る。金人がこれを索めるに甚だ急、王安中に縊殺させその首を函し送らせる詔。十一月己巳、金人が高居慶らを遣わし正旦を賀す。戊申、高平郡王棣を太保とし徐王に進封。この歳、秦鳳で旱、河北京東淮南で饑饉、官を遣わし賑済。
宣和六年(1124年)
- 春正月乙卯、金主のため輟朝する。戊午、書芸所を置く。癸亥、蕭幹の首を太社に蔵す。戊寅、連南夫を遣わし金国を弔祭する。二月丁亥、冀国公㮙を開府儀同三司とし河間郡王に進封、韶州防禦使令盪を婺州観察使とし安定郡王に封じる。己亥、籍田に躬耕。丙午、今後、台閣寺監監司郡守開封府曹官を歴ぬ者は郎官卿監となれぬよう詔す。李邦彦が父憂により去位。三月己酉朔、銭景臻を少師とする。金人が糧を求めるも与えず。閏月辛巳、皇后が親蚕。庚子、集英殿で進士を策す。夏四月癸丑、礼部奏名進士及第出身八百五人を賜う。丁巳、李邦彦が起復。五月壬寅、囚を慮る。癸卯、金人が使者を遣わし嗣位を告げる。六月壬子、収復した燕雲以来の京東両河の民が調度に困窮しているため、京西淮浙江湖四川閩広に免夫銭を納めさせ期を両月とし違う者は軍法に従わせる詔。秋七月戊子、許亢宗を遣わし金国の嗣位を賀す。丁酉、御筆断罪に係る事は尚書省への陳訴改正を許さぬ詔。壬寅、宗室后妃戚里宰執の家も概ね免夫銭を敷す詔。甲辰、璣衡所を置く。八月乙卯、譚稹が太尉を落とし宣撫使を罷め、童貫が致仕を落とし枢密院を領してこれに代わる。丁巳、溢機堡を安羌城とする。壬戌、燕雲復地により天下を赦す。九月乙亥、白時中を特進太宰兼門下侍郎、李邦彦を少宰兼中書侍郎とする。蔡攸が節鉞を落とす。辛巳、明堂で大饗す。丁亥、趙野を尚書左丞、翰林学士承旨宇文粋中を尚書右丞、開封尹蔡懋を同知枢密院事とする。庚寅、艮嶽万寿峰に金芝が産したことにより壽岳と改名。
- 庚子、金人が富謨弼らを遣わし遺留物を献じる。冬十月庚午、蘇黄の文を収蔵習用する者はすべて焚毀し犯す者は大不恭として論じる詔。癸酉、内外官は並びに三年を一任とし治績著しい者は再任を永式とする詔。十一月丙子、王黼が致仕し太白が昼に見える。乙酉、応奉司を罷める。丙戌、尚書省に講議局を置く。壬辰、監司に治績ある県令を選び保奏し都堂に召し審察録用させる(三人を過ぎぬ)詔。十二月甲辰朔、蔡京が講議司を領し百官に元豊法制の遵行を詔す。丁未、内外侍従以上にそれぞれ知る所の二人を挙げさせる詔。癸亥、蔡京が致仕を落とし三省事を領す。この歳、河北山東で盗が起こり内侍梁方平にこれを討たせる。京師・河東・陝西で地大いに震う。両河京東西・浙西で水害、環慶邠寧涇原で流徙、所在に振恤を命じる。夏国・高麗・于闐・羅殿が入貢。
宣和七年(1125年)
- 春正月癸酉朔、両河京西の流民で盗となった者を赦し復一年を給する詔。癸巳、諸路提挙常平官の属で罪あり黜けるべき者は名聞させ三省に已廃の法を修めさせる詔。二月甲辰、鋳銭監を復置し御史に贓吏を察させる詔。己酉、木に雨氷が付く。庚戌、京師の運米五十万斛を燕山に至らせ工部侍郎孟揆に親往措置させる詔。己巳、広国公栻を南康郡王、福国公榛を平陽郡王に並びに進封し開府儀同三司とする。壬申、京東転運副使李孝昌が招安した羣盗張万僊ら五万余人に補官犒賜を賜う。三月癸酉朔、雹。甲申、知海州銭伯言が招降した山東の寇賈進ら十万人に補官を賜う。丙戌、恵国公楧を開府儀同三司とし建安郡王に進封。夏四月丙辰、京東河北路に徳音を降す。庚申、蔡京が再び致仕。州県の免行銭を復す。戊辰、元豊の官制を行い尚書令の名を復すが虚として授けず、三公は但だ階官として三省事を領さぬ詔。五月壬午、子樅を潤国公に封じる。丁亥、諸路の帥臣に才略ある将校を、監司に政績ある守令を毎歳各三人挙げさせる詔。六月辛丑朔、宗室に姓を復させる詔。丙午、童貫を広陽郡王に封じる。戊申、臣僚が内侍と往来することを罪とする詔。辛亥、囚を慮る。己未、蔡攸を太保とする。癸亥、吏職雑流出身の人が改換を陳請することを禁じる詔。乙丑、六尚の歳貢物を減じる。秋七月庚午朔、士庶が天・王・君・聖を名字とすることを禁じ壬戌日には輔臣に焚香させる詔。甲戌、河間郡王㮙を太保とし沂王に進封。この月、河東の義勝軍が叛き熙河河東路で地震。
- 九月辛巳、明堂で大饗す。壬辰、金人が遼主を擒えたことを李孝和らを遣わし来告し慶う。この月、河東で粘罕が雲中に至ったことを報じ、童貫に再び宣撫させ、狐が御榻に升って坐る怪事があった。冬十月辛亥、曾布に文粛の諡を賜う。戊午、京畿の和糴を罷める。十一月庚午、無出身待制以上で年三十に及び歴任十歳を通じた者のみ任子を許す詔。乙亥、使者を遣わし金国に慶を回す。甲申、景霊宮に朝献。乙酉、太廟に饗す。丙戌、圜丘で昊天上帝を祀り天下を赦す。庚寅、保静軍節度使种師道を河東河北路制置使とする。十二月乙巳、童貫が太原より京師に遁げ帰る。己酉、中山が奏し金人幹離不・粘罕が両道に分かれ攻め入り、郭薬師が燕山を以て叛し北辺の諸郡が皆陥り忻・代等州も陥って太原府を囲む。太常少卿傅察が使を奉じ屈せず死す。丙辰、浙江諸路の花石綱・延福宮西城租課及び内外製造局を罷める。金兵が中山府を犯し詹度がこれを禦す。戊午、皇太子桓が開封牧となる。蕃衍北宅の修築を罷め諸王子を十位に分居させる。己未、罪己の詔を下し中外に直言極諫させ、郡邑に勤王の師を率いさせ草澤の異才で竒計や使疆外に堪える者を募る。道官を罷め、大晟府・行幸局・西城及び諸局所管の緡銭を悉く有司に付す。保和殿大学士宇文虚中を河北東路宣諭使とする。庚申、内禅を詔し皇太子が皇帝位に即く。帝を教主道君太上皇帝とし竜徳宮に居らせる。皇后を太上皇后とする。
靖康元年正月己巳、亳州太清宮に詣で恭謝の礼を行い、遂に鎮江府に幸す。四月己亥、京師に還る。明年二月丁卯、金人が帝を脅して北行させる。紹興五年四月甲子、五国城で崩じる、年五十四。七年九月甲子、凶問が江南に至り、遥かに聖文仁徳顕孝皇帝の尊諡を上げ廟号を徽宗とする。十二年八月乙酉、梓宮が臨安に還る。十月丙寅、権りに永祐陵に攢する。十二月丁卯、太廟第十一室に祔す。十二年正月己亥、体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝の尊号を加える。
史論
- 賛して曰く、宋の中葉の禍は章惇・蔡京が首悪であり、趙良嗣がその厲階である。しかし哲宗の崩御の際、徽宗がまだ立たぬうちに章惇は「軽佻にして天下の君主たり得ぬ」と言った。遼の天祚が亡ぶ際、張覚が平州を挙げて帰順したのを、趙良嗣は「これを納れれば金への失信となり必ず外侮を招く」とした。もしこの二人の計が行われ、宋が徽宗を立てず張覚を納れなかったなら、金がいかに強くとも宋を伐つ端緒はなかったであろう。これによって事変の兆しは小人でさえ知り得るのに、君子でも制し得ぬことがあると知れる。徽宗が国を失った由縁を跡づければ、晋の恵帝の愚でも孫皓の暴でもなく、また曹操・司馬の簒奪の類でもない。ただ自らの私智小慧を恃み、心を一偏に用いて正士を疎斥し姦諛に狎近した。かくて蔡京は儇薄巧佞の資でその驕奢淫佚の志を済し、虚無を溺信して遊観を崇飾し民力を困竭させた。君臣は逸豫を相い誕謾怠棄して国政をなおざりにし日々無稽であった。童貫が用事するに及んでまた佳兵勤遠して禍を稔らせ乱を速めた。ついに国破れ身辱められ、後晋の石重貴と科を同じくした。どうして数のせいに委ねられようか。昔、西周の新造の邦にあって召公はなお武王に、無益を作して有益を害せず、異物を貴ばず用物を賤しまぬよう告げた。まして宣和・政和は宋が熙豊・紹聖の椓喪の余を承け、徽宗はさらにこの二事の弊を躬ら蹈んだのである。古より人君で物に玩んで志を喪い欲を縦にして度を敗る者で亡びぬ者はまれであり、徽宗は甚だしかった。ゆえに特に著してこれを戒めとする。