出自と即位
- 哲宗(諱は煦、初め傭)は神宗の第六子。母は欽聖皇后朱氏。熙寧9年(1076年)12月7日己丑、宮中で生まれ、赤光が室を照らした。初め傭と名づけられ、検校太尉・天平軍節度使・均国公を授かった。元豊5年(1082年)開府儀同三司・彰武軍節度使に遷り延平郡王に進封。
- 元豊7年(1084年)3月、神宗が集英殿で群臣に宴した際、王(傭)が侍立し天表粋温・進止中度であったため、宰相以下が再拝して賀した。元豊8年(1085年)2月、神宗が寝疾し、宰相王珪が早く儲を建て宗廟社稷のために計るよう乞い、また皇太后の権同聴政を奏請、神宗はこれを首肯した。
- 3月甲午朔、皇太后が福寧殿で垂簾し珪らに、皇子の性は荘重で学に従い穎悟であり、皇帝の服薬以来手ずから仏書を写して帝の福を祈っていると諭し、その書いた字を出して珪らに示すと極めて端謹であったため珪らは称賀し、遂に制を奉じて皇太子に立てた。初め太子宮中には常に赤光があったが、この時に至り光はさらに熾んで火のようであったという。
- 戊戌、神宗が崩じ、太子が皇帝に即位した。己亥、天下に大赦(常赦の対象外は除く)、群臣は官秩を進め賜賚し諸軍に及び、使を遣わし遼へ告哀。白虹が日を貫いた。庚子、皇太后を尊んで太皇太后とし、皇后を皇太后、徳妃朱氏を皇太妃とし、宰臣王珪を山陵使に任じた。甲寅、群臣が固く請うたことにより太皇太后との聴政を始めた。己未、叔の雍王顥・曹王頵に贊拝不名を賜い、中外に太皇太后の父遵甫の名を避けさせた。辺事のやや重い者は枢密院・三省が同議して進上する詔。
- 庚申、尚書左僕射郇国公王珪を岐国公に進封、顥を揚王、頵を荊王に進封しともに太保を加えた。弟の寧国公佶を遂寧郡王、儀国公佖を太寧郡王、成国公俁を咸寧郡王、和国公似を普寧郡王、高密郡王宗晟・漢東郡王宗瑗・華原郡王宗愈・安康郡王宗隠・建安郡王宗綽をともに開府儀同三司とした。太師潞国公文彦博を司徒、済陽郡王曹佾を太保、特進王安石を司空とし、他は官秩を進め致仕の服帯・銀帛をそれぞれ賜った。辛酉、顔子・孟子を孔子廟庭に配享する詔。
- 夏4月丙寅、初めて紫宸殿に御した。辛未、元豊6年以前の逋賦を蠲免。甲戌、李乾徳に同中書門下平章事、董氊に検校太尉を加えた。詔して、先皇帝(神宗)が19年在位し政事を建立して天下を潤したが、有司の奉行が失当で煩擾に陥ったり文具にとどまり実恵を布宣できなかったりしたことがあるので、中外に協心奉令して先帝の元元を恵安した意に称うよう申諭した。乙亥、太皇太后の生日を坤成節とする詔。丁丑、呂公著を召して侍読とし、樞密・中書に議事を通じさせ都堂で先帝の制に遵い官を遣わし諸路監司を察挙する法を詔した。庚辰、呂恵卿が兵を遣わし西界に入り6砦を破り首600余級を斬った。辛巳、使を遣わし先帝の遺留物を遼国に遺し即位を告げさせた。甲申、水部員外郎王諤が職に非ずして事を言ったことにより罰金。丙戌、蕃官高福が戦死したためその子孫を録した。丁亥、また旧年の逋賦を蠲免。
- 5月丙申、百官に朝政の闕失を言わせる詔。資政殿学士司馬光が闕に過ぎ入見。丁酉、群臣が12月7日を興竜節とすることを請うた。壬寅、熙・蘭・通遠軍を築き李憲・趙済に銀帛をそれぞれ賜った。甲辰、受命宝を作った。丙午、京師で地震。遼州を復置。庚戌、王珪が薨じ蔡確を山陵使に改命。丙辰、礼部奏名進士・諸科及第出身461人に賜物。戊午、蔡確を尚書左僕射兼門下侍郎、韓縝を尚書右僕射兼中書侍郎、章惇を知樞密院、司馬光を門下侍郎とした。
- 6月庚午、楚州の孝子徐積に絹米を賜った。丁亥、中外の臣庶に朝政の闕失・民間の疾苦を直言することを許す詔。秋7月戊戌、資政殿大学士呂公著を尚書左丞とした。府界3路の保甲の団教を罷める詔。丙午、遼人が弔祭に来た。丙辰、白虹が日を貫いた。吏部侍郎熊本が帰化した儂知会の異同を奏したことにより罰金、沅州を罷め堡砦を増修した。
- 8月乙丑、按察官が至る所で才能顕著な者は名をもって聞かせる詔。己巳、鎮江軍節度使韓絳を開府儀同三司に進めた。癸酉、使を遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。乙亥、供奉王英が葭蘆で戦死したためその子を録した。9月戊戌、神宗の諡「英文烈武聖孝皇帝」を天地宗廟社稷に告げた。己亥、宝冊を福寧殿に上げた。己酉、使を遣わし遼へ報謝した。
- 冬10月甲子、夏国が使を遣わし山陵を助ける馬を進めた。癸酉、唐の六典に倣い諫官を置く詔。丁丑、侍従にそれぞれ諫官2人を挙げさせ、監察御史は言事を兼ね殿中侍御史は察事を兼ねる詔。義倉を罷めた。己卯、民力を均寛することを詔し、有司が廃格に至れば監司・御史が糾劾する詔。河が大名で決壊。乙酉、神宗皇帝を永裕陵に葬った。丙戌、方田を罷め、夏国主の母の卒により使を遣わし弔祭した。
- 11月癸巳、強盗を按問し自首を挙げる者は減じない詔。丁酉、翼祖を祧し神宗を太廟に祔し廟楽を「大明之舞」とした。辛丑、両京・河陽の囚罪を1等減じ杖以下は釈放し、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。己酉、遼が使を遣わし即位を賀した。
- 12月壬戌、于闐が獅子を進めたが詔してこれを却した。経筵を開き魯論を講じ三朝宝訓を読み、太学の保任同罪法を罷めた。丙寅、夏人がその母の遺留物として馬・白駝を献じた。辛未、左僕射蔡確・右僕射韓縝はともに秩を遷り食邑を加え、揚王顥・荊王頵はともに太傅とした。壬申、章惇・司馬光らは官秩を進めた。甲戌、後苑西作院を罷めた。乙亥、執政・侍臣に講読させる詔。戊寅、増置した鋳銭監14を罷めた。乙酉、遼が蕭睦らを遣わし正旦を賀した。この年、日に五色雲が現れること6度、高麗・大食が入貢した。
元祐元年(1086年)
- 春正月庚寅朔、改元。丙子、在京の囚を録し死罪以下を1等減じ杖罪は釈放。丁未、高麗王への回賜の鞍馬・服帯・器幣を加える詔。陝西・河東の元豊4年以後軍興に緣り添置した官局を罷めた。丙辰、久旱により相国寺に幸し祈雨、神宗の原廟を立てた。戊午、甘露が降った。
- 2月辛酉、河が大名で決壊し民田を壊し食に窮する民が多いことにより安撫使韓絳に振わせる詔。乙丑、神宗実録を修めた。丁卯、左右侍従にそれぞれ監司に堪える者2人を挙げさせ、非人を挙げれば罰する詔。庚午、辺民が夏人と市をなすことを禁じた。辛未、董氊が卒し、その子阿里骨に河西軍節度使・邈川首領を襲がせた。庚辰、夏人が入貢。辛巳、刑部侍郎蹇周輔は塩法を変えたことにより落職。
- 閏2月庚寅、蔡確は罷め、司馬光を尚書左僕射門下侍郎とした。韓維・呂大防・孫永・范純仁に役法を詳定させる詔。壬辰、呂公著を門下侍郎とした。丙午、守尚書右丞李清臣を尚書左丞、試吏部尚書呂大防を尚書右丞とした。白虹が日を貫いた。丁未、群臣が太皇太后の宮を崇慶殿・崇慶と名づけ、皇太后の宮を隆祐殿・隆祐慈徽と名づけた。庚戌、于闐国王に服帯・器幣を賜った。辛亥、章惇が罷免。甲寅、侍従・御史・国子司業にそれぞれ経明行修で学官たり得る者2人を挙げさせる詔。乙卯、吏部尚書范純仁を同知樞密院事とした。丙辰、京城の暴骸を掩め、諸州の常平管勾官を罷めた。
- 3月辛未、堂差で選に衝いた者が已に注官された者を訴えることを禁じ訴理所を置き、熙寧以来罪を得た者に自言を許す詔。太学公試は司業・博士に主らせ春秋補試法のようにした。癸酉、開封府界提点刑獄を1員置いた。乙亥、熙河蘭会路経制財用司を罷めた。己卯、広済河輦運を復した。辛巳、民間の疾苦で寛恤を議すべきものは監司が具聞する詔。程頤を崇政殿説書とした。乙酉、職事官が帯職することを許した。
- 夏4月己丑、韓縝が罷免。辛卯、諸路の旱傷にその租を蠲免する詔。壬辰、旱により囚を慮った。癸巳、王安石が薨じた。辛丑、執政大臣にそれぞれ館閣たり得る者2人を挙げさせる詔。壬寅、呂公著を尚書右僕射兼中書侍郎、文彦博を平章軍国重事とした。乙巳、戸部に冗費を裁かせ令とする詔。李憲らは用兵失利により劉摯に劾され秩を貶され奉祠。辛亥、揚王顥・荊王頵をともに特に太尉に授けた。科挙にあたり升朝官にそれぞれ経明行修の士1人を挙げさせ登第の日に升甲を与え謁禁の制を罷める詔。誠州知事周士隆が渓洞の民1300余戸を撫納しことにより士隆に銀帛を賜った。癸丑、六曹郎官の員数を定めた。
- 5月丁巳朔、資政殿大学士韓維を門下侍郎とし諸路の重禄を罷め熙寧以前の旧制に復した。庚申、夏人が即位を賀しに来た。壬戌、侍従・台官・監司にそれぞれ県令1人を挙げさせる詔。戊辰、程頤に国子監条制の同修立を命じた。己巳、揚王・荊王の第に幸しその子9人に官を授けた。癸酉、左右天厩坊を復した。壬午、文彦博に宰相の上に班することを詔した。
- 6月甲辰、春秋博士を置いた。呂恵卿は落職され分司南京・蘇州居住。戊申、富弼を神宗廟庭に配享。庚戌、太白が昼に見えた。甲寅、風俗を正し紀綱を修め隠疵細故を理さないよう詔し、通利軍を復置。程頤が輔養君徳を論ずる上疏。
- 秋7月丁巳、検法官を置いた。辛酉、10科挙士法を設けた。劉恕が「資治通鑑」を同修していたが恩に沾わず卒したためその子に官を授ける詔。乙丑、夏国主秉常が卒した。庚午、夏国が使を遣わし坤成節を賀した。
- 8月辛卯、常平は旧法に依り青苗銭を罷める詔。壬辰、弟偲を祁国公に封じた。甲午、占城国が使を遣わし入貢。壬子、日の傍に五色雲があり、磁州の穀は隴と同穂であった。
- 9月丙辰朔、司馬光が薨じた。己未、景霊宮に朝献。辛酉、明堂で大享し神宗を配し天下に大赦。丁卯、試中書舎人蘇軾を翰林学士知制誥とした。己卯、張璪が罷免。
- 冬10月丙戌、衍聖公を奉聖公と改めた。庚寅、太白が昼に見えた。壬辰、夏人が告哀に来た。庚子、使を遣わし弔祭した。11月戊午、尚書左丞呂大防を中書侍郎、御史中丞劉摯を尚書右丞とした。乙亥、于闐国が使を遣わし入貢。庚辰、塩井の官渓銭を蠲免。
- 12月庚寅、服除の後は元豊3年の故事に依り群臣は尊号を上げない詔。戊戌、華州鄭県の小敷谷山が崩れた。戊申、冬温で雪がないことにより繋囚を決する詔。この年、河北・楚・海諸州で水害があった。
元祐二年(1087年)
- 春正月乙丑、秉常の子乾順を夏国主に封じた。戊辰、挙人の程試で主司は老荘列子の書を出題しない詔。辛巳、蘇轍・劉攽に神宗御製を編次させる詔。白虹が日を貫いた。
- 2月丁亥、左司諫朱光庭を河北へ遣わし被災民を振わせた。黔・戎・瀘等州の保甲を監司の歳閲から免じる詔。丁酉、于闐国に金帯・錦袍・器幣を加賜。己亥、吏部の選人の改官を毎年百人を額とする詔。辛丑、陝西・河東に策応牽制法を行う詔。この月、代州で地震。
- 3月壬戌、太皇太后が手詔でただ崇政殿で冊を受けるにとどめさせた。戊辰、中外の侍従に毎年郡それぞれ1人を挙げさせ、御史台に民俗の奢僭を察させる詔。夏人が使を遣わし入謝。癸酉、神宗の神御を景霊宮宣光殿に奉安。庚辰、内侍省供奉官以下を百人を額とする詔。
- 夏4月丙戌、交阯が入貢。丁亥、鬼章の子結齷齪が洮東を寇した。戊子、囚を慮った。己丑、太師文彦博に10日に1度都堂で議事させる詔。辛卯、冬夏の旱魃に海内で災を被った者を、広く避殿・減膳し責躬思過して消復を図る詔。丁酉、四方の牒訴で尚書に上がったもので冤抑の者は御史に分察させる詔。己亥、太皇太后は旱により冊礼を権に罷めた。癸卯、雨が降った。乙巳、徐州布衣陳師道を亳州司戸参軍とした。丁未、制科を復した。戊申、御殿し膳を復し、李清臣が罷免。
- 5月癸丑、夏人が南川砦を囲んだ。丁卯、劉摯を尚書左丞、兵部尚書王存を尚書右丞とした。壬申、于闐が入貢。丁丑、御史官に闕あれば中丞・御史・翰林学士・両省諫議大夫以上に雑挙させる詔。
- 6月辛丑、安燾を知樞密院事とした。壬寅、瓜のような星が文昌に出た。丙午、邈川首領結薬が降り三班奉職を授かった。秋7月辛亥、戸部に会計録を修めさせる詔。韓絳が司空として致仕。夏人が鎮戎軍を寇した。府界3路に保甲を教閲させ課利場務の虧額の科罰を復する詔。丙辰、諸州の数外歳貢を罷めた。戊午、遼の蕭徳崇らが坤成節を賀したことにより垂拱殿で曲宴し初めて楽を用いた。庚申、李乾徳を南平王に進封。辛酉、誠州を渠陽軍と改めた。辛未、韓維が罷免。
- 8月辛巳、程頤は経筵を罷め西京国子監の管勾を権同する。癸未、西蕃が洮河を寇し被害を受けた民に銭粟を給し死者にその家に帛を賜った。進納人の改官の旧法を復する詔。乙酉、呂大防を西京の神宗御容奉安礼儀使とした。庚寅、西南蕃が人を遣わし入貢。癸巳、夏国は政乱れ主が幼く強臣乙逋らが専権逆命していることにより諸路の帥臣に厳兵で備えさせる詔。庚子、西蕃首領心牟欽氊を銀州団練使、温渓心を瓜州団練使に授けた。辛丑、涇原が夏人が三川諸砦を寇したことを言い官軍がこれを破った。丁未、岷州行営将种誼が洮州を復し蕃酋鬼章青宜結を執らえた。
- 9月乙卯、太皇太后の冊宝を大慶殿で発した。丙辰、皇太后・皇太妃の冊宝を文徳殿で発した。己未、夏人が鎮戎軍を寇した。丁卯、私に金箔を造ることを禁じた。冬10月壬午、神宗御容を会聖宮および応天院に奉安。癸未、日に五色雲があった。戊子、景霊宮に恭謝。辛卯、西京の囚罪を1等減じ杖以下は釈放。己亥、西南龍張蕃が人を遣わし入貢。庚子、洮州復の功を論じ种誼らは秩を遷り銀絹をそれぞれ賜った。
- 11月丙辰、漣水軍を復置。庚申、鬼章を崇政殿で献じ、罪は死に当たるがその子と部属の帰還と自贖を聴した。乙亥、大雪甚だしく民が凍え多く死んだため振恤を加え、死んで親属のない者は官が瘞める詔。内殿承制の文資試換格を罷めた。丙子、囚を決した。12月乙酉、諸軍・貧民に銭を賜った。丙戌、興竜節に初めて紫宸殿で寿を上げた。己丑、大寒により集英殿の宴を罷めた。壬辰、兀征声延部族の老幼1万人が河を渡り南へ来たため使を遣わし食を廩し、声延に河北の地を失わぬよう諭させた。乙未、白虹が日を貫いた。壬寅、元祐勅令式を頒布。この冬、初めて汴口を閉じた。
元祐三年(1088年)
- 春正月己酉朔、朝を受けず。庚戌、広恵倉を復した。己未、景霊宮に朝献。庚申、雪が寒く京西の穀50余万石を出しその直を損じて民を紓した。辛酉、広南西路・朱崖軍に恩信を開示し生黎の悔過自新を許す詔。壬戌、上元の遊幸を罷めた。壬申、阿里骨が表を奉じ闕に詣り謝罪、辺将に出兵させず招納も罷める詔。甲戌、囚を決した。
- 2月甲申、金明池の橋殿の修理を罷めた。乙酉、徳音により囚罪を1等減じ徒以下は釈放し、工役を1年権に放し、流民の飢貧は量りて応副する詔。丙戌、河東の苦寒に戍兵を量り存恤する詔。癸巳、春宴を罷めた。乙未、白虹が日を貫いた。辛丑、太白が昼に見えた。乙巳、広東兵馬監童政が無辜を擅殺した罪により伏誅。
- 3月丙辰、韓絳が薨じた。丁巳、集英殿に御して進士を策した。戊午、武挙を策した。己巳、礼部奏名進士・諸科及第出身1122人に賜物。乙亥、夏人が徳静砦を寇したが将官張誠らがこれを破った。
- 夏4月戊寅、諸路の郡邑に役法の利害を具聞させる詔。辛巳、呂公著を司空同平章軍国事、呂大防を尚書左僕射兼門下侍郎、范純仁を尚書右僕射兼中書侍郎とした。壬午、観文殿学士孫固を門下侍郎、劉摯を中書侍郎、王存を尚書左丞、御史中丞胡宗愈を尚書右丞、戸部侍郎趙瞻を簽書枢密院事とした。癸巳、職事官の毎年昇陟人数を定める詔。丁酉、阿里骨が朝貢。庚子、天下の郡城に地里に応じ壮城兵額を置き他役を禁じる詔。
- 5月癸亥、漢東郡王宗瑗が薨じた。6月癸未、司諫・正言・殿中・監察御史は故事に倣い升朝官の通判資序を1年経た者をこれに任じる詔。辛丑、夏人が塞門砦を寇した。甲辰、五色雲が現れた。秋7月戊申、荊王頵が薨じた。戊辰、夜、東北方が明るく昼のようになり、俄かに赤気となり中に白気があり天を経った。辛未、太白が昼に見えた。癸酉、忠州が臨江塗井鎮で黒黍が雨のように降ったと言上。
- 8月戊寅、阿里骨が入貢。己卯、揚王顥を徐王に進封。辛巳、荊門軍を復置。丙戌、吏に断刑法を試すことを罷めた。丁酉、渠陽の蛮が入寇。辛丑、繋囚罪を1等降し杖以下は釈放。
- 9月庚申、宗室が内臣の家と婚姻することを禁じた。乙丑、阿里骨がまた職を遷り邑を加封され、観察使以上に永業田を給する詔。丁卯、集英殿に御して賢良方正能直言極諫科を策した。
- 冬10月丙戌、新創の諸堡砦を罷め渠陽軍を廃する詔。戊戌、南北宣徽院を復した。11月甲辰、吏部侍郎范百禄らを遣わし河を行かせた。丁卯、大食麻囉抜国が入貢。毎年10月に巡城兵に衣裘を給する詔。12月丁酉、渝州の猟人が小渓を寇した。壬寅、白虹が月を貫いた。閏12月癸卯朔、元祐式を頒布。甲辰、范鎮が鋳造の律度量・鐘磬等を定め上呈し礼部・太常に参定させた。戊申、宰執の賜予を減じた。庚申、六曹尚書権官を置いた。丙寅、吏部に六曹の重複した利害を詳定させ聞かせる詔。この年、三仏斉・于闐・西南蕃が入貢。天下の主戸は213万4733戸、口2853万3934人、客戸は615万4652戸、口362万9083人、大辟の断は2915人。
元祐四年(1089年)
- 春正月壬申朔、朝を受けず。群臣および遼使が東上閤門・内東門に詣り拝表して賀した。丙子、遼使を紫宸殿で宴した。甲申、夏人と通好したことにより辺将に事を生じさせない詔。2月甲辰、呂公著が薨じた。庚戌、白虹が日を貫いた。乙卯、夏人が封冊を謝しに来た。
- 3月己卯、渾天儀を作り、胡宗愈が罷免。丁亥、雨がないことにより春宴を罷めた。己丑、今後大礼にあたり尊号を上げない詔。辛卯、昼に流星が東方に出た。癸巳、囚を録した。乙未、瓊林苑・金明池への幸を罷めた。
- 夏4月乙巳、呂大防らが久旱により罷を求めたが許されず。丁未、曹佾が薨じた。戊申、大礼使および奏告執政加賜を罷めた。戊午、進士を4場で試す法を立てた。壬戌、京の牧地を弛めて民に与えた。
- 5月癸酉、今後侍読を3人を額とする詔。中丞李常・侍御史盛陶は蔡確の改官を論じなかった罪により坐した。辛巳、観文殿学士蔡確を光禄卿に貶めた。丁亥、また確を英州別駕・新州安置に貶めた。丁酉、于闐国が朝貢。
- 6月甲辰、范純仁・王存が罷免。丙午、趙瞻を同知樞密院事、戸部尚書韓忠彦を尚書左丞、翰林学士許将を尚書右丞とした。丁未、夏国が朝貢。癸丑、邈黎国般次泠移四林栗迷らが于闐国黒汗王とその国蕃王の表章を齎して朝貢。
- 秋7月丙子、外都水使者を復す詔。丁丑、遼国使蕭寅らが坤成節を賀し垂拱殿で曲宴した。庚辰、安燾が母の喪により去位。8月壬寅、郡守貳を四善三最で課し吏部に毎年監司の考察知州状を上げさせる詔。辛酉、太皇太后が今後明堂大礼で百官の拝表称賀を行わせない詔。
- 9月戊寅、垂拱殿で致斎。己卯、景霊宮に朝献。辛巳、明堂で大饗し天下に大赦、百官は加恩し士庶で高年90以上の者に賜賚。乙酉、韓縝・范純仁に器幣をそれぞれ加賜。乙未、先朝の文武七条を検挙し百官に遵守を戒諭。
- 冬10月辛丑、西南程蕃が入貢。丁未、龍蕃が入貢。戊申、翰林学士蘇轍が「神宗御集」を上呈し宝文閣に蔵した。癸丑、邇英殿に御し講官が三朝宝訓を進講。11月庚午、朝請大夫以下の進士を左、余を右とする勅。渓洞の彭儒武らが渓洞布を進めた。癸未、孫固を知樞密院事、劉摯を門下侍郎、吏部尚書傅堯兪を中書侍郎とした。乙酉、赤黄色の星があり尾跡が地を燭らした。
- 己丑、太皇太后が元日の賀礼を却け百官に拝表させた。庚寅、張惇が田を不法に買ったことにより降官。辛卯、発運・転運・提刑が妓楽宴会に預かる徒2年法を改定。12月庚子、遼使耶律らが興竜節を賀し垂拱殿で曲宴。癸丑、朝儀と二舞「威加四海」「化成天下」を更定。甲寅、鄜延等路の戍兵を減じ営に帰した。戊午、御史に闕あれば中丞・両省にそれぞれ2人を挙げさせる詔。この年、夏国・邈黎・大食麻囉抜国が入貢。
元祐五年(1090年)
- 春正月丁卯朔、大慶殿に御して視朝。丁丑、景霊宮に朝献。2月丁酉、諸州軍の通判の奏挙改官を罷めた。己亥、夏人が永楽で掠めた吏士149人を帰した。庚子、渓洞の人田忠進ら92人に検校官をそれぞれ加えた。辛丑、旱により黄河の修理を罷めた。癸卯、雨を嶽瀆に禱った。京城壕の浚渫を罷めた。丁未、天下の囚罪を減じ杖以下は釈放。庚戌、文彦博が太師として護国軍・山南西道節度等使を充し致仕、所司に礼を備え冊命させる詔。壬子、彦博が冊礼を免ぜられることを乞い許された。甲子、玉津園で文彦博に宴餞した。
- 3月丙寅朔、趙瞻が薨じた。丁卯、故孫覚の家に緡銭を賜い喪事に給させる詔。壬申、韓忠彦を同知樞密院事、翰林学士承旨蘇頌を尚書左丞とした。癸未、春宴を罷めた。壬辰、金明池・瓊林苑への幸を罷めた。
- 夏4月癸卯、鄭穆・王巌叟らに監察御史を同挙させる詔。甲辰、呂大防らが旱により退を求めたが許されず。丙午、孫固が薨じた。癸丑、講読官が経筵に留守2員を邇英閣で対を奏する詔。丁巳、旱により避殿・減膳する詔。
- 5月朔日、文徳殿に御して視朝。辛酉、保寧軍節度使馮京を検校司空とした。壬申、差役法に未備の点があれば王巌叟らに利害を具聞させる詔。乙亥、雨が降った。己卯、御殿し膳を復した。
- 6月辛丑、囚を録した。癸亥、昼に五色雲があった。7月壬申、涇原路経略司が、諸人が制に違い蕃部の田土を典買したことについて2頃50畝以下は免罪し弓箭手の刺出・馬買・辺備を出すことを許す詔。乙酉、夏人が疆界の分画を議しに来た。
- 9月丁丑、集賢院学士を復置する詔。冬10月癸巳、提挙修河司を罷めた。丁酉、定州の韓琦祠を祀典に載せる詔。12月辛卯朔、許将が罷免。安康郡王宗隠が薨じた。丙辰、禁軍を大閲し銀楪・匹帛を賜い転資を罷めた。この年、東北で旱、浙西で水害があった。宗室の子で授官された者44人、大辟の断4261人。高麗・于闐・龍蕃・三仏斉・阿里骨が入貢。
元祐六年(1091年)
- 春正月辛酉朔、朝を受けず。群臣および遼使が東上閤門・内東門に詣り拝表して賀した。癸酉、祭祀・遊幸に羔を用いない詔。2月辛卯、劉摯を尚書右僕射兼中書侍郎、龍図閣待制王巌叟を簽書樞密院事とした。癸巳、蘇轍を尚書右丞、宗室士俔を魏国公に追封した。庚子、払菻国が朝貢。丁丑、阿里骨の男溪邦彪籛を化外庭州団練使に授けた。
- 3月癸亥、呂大防が「神宗実録」を上呈。己巳、集英殿に御して進士を策した。庚午、武挙を策した。癸酉、御史中丞に殿中侍御史2人を挙げさせ、翰林学士から諫議大夫までにともに監察御史2人を挙げさせる詔。丙子、呂大防に右正議大夫を特授。壬午、礼部奏名進士・諸科及第出身957人に賜物。丁亥、金明池・瓊林苑への幸を罷めた。
- 夏4月乙未、通礼科を復置。丙申、刑を恤む詔。辛丑、大臣の堂除差遣は行能卓異でなければ軽授すべきでなく遺材を捜訪して擢任に備えるよう詔した。夏人が熙河・蘭・岷・鄜延路を寇した。壬寅、太白が昼に見えた。壬子、南平王李乾徳に袍帯・金帛・鞍馬を賜った。
- 5月己未朔、日食があり文徳殿の視朝を罷めた。庚辰、宗室女を娶り官を得た者は朝散大夫皇城使を超えない詔。丁亥、元祐勅令格を省き上げるのを従った。6月壬辰、囚を録した。甲辰、国史院に修撰官を置いた。乙卯、田思利を銀青光禄大夫とし渓洞都巡検を充させる詔。
- 秋7月癸亥、張方平を宣徽南院使・致仕に復した。乙丑、制置解塩使を復した。己卯、両浙の水災を振わせた。8月己丑、三省が皇后納入の六礼儀制を進めた。辛卯、御史台の臣僚で親が亡くなり10年葬らない者は条に依り弾奏を許し、また吏部に検察させる詔。己亥、宗正の属籍を「宗蕃慶系録」と改め、文武臣が京城門を出入りする際は職位・差遣・姓名・行き先を記させる詔。己酉、神宗宝訓を修めた。癸丑、鄜延路都監李儀らが旨に違い夜に兵を出し境界に入り夏人と戦って死んだため官を贈らず他の官も等を降す詔。乙卯、夏人が懐遠砦を寇した。
- 閏8月壬戌、陝西・河東諸路の辺備を厳飭した。甲子、太白が昼に見えた。庚午、御史中丞に殿中侍御史2人を挙げさせ、翰林学士・中書舎人・給事中に監察御史4人を挙げさせる詔。壬申、太子太保致仕張方平が宣徽使を辞そうとしたが許されなかった。甲申、刑部侍郎彭汝礪が執政と獄事を争いみずから貶逐を乞い禮部侍郎に改める詔。
- 9月丁亥、夏人が麟府2州を寇した。壬辰、州民で寇に掠められ廬舎を焼かれた者に銭帛を給し、稼を践まれた者は振わせ、牛を失った者は官が貸し市う詔。癸巳、集英殿に御して賢良方正能直言極諫科を策した。丁酉、御試の方正王普らはそれぞれ官を遷り、内庫の緡銭50万を毎年出して辺費に備える。甲辰、上清儲祥宮に幸した。壬子、宮が成り天下の囚罪を1等減じ杖以下は釈放。癸丑、執政官の謁禁法の行いが便でないことにより利害を陳述して禁じない詔。
- 冬10月丁卯、流星が昼に東北に出た。庚午、景霊宮に朝献しさらに国子監に幸し祭酒豊稷に3品服を賜い、監学官に帛をそれぞれ賜った。庚辰、諸宮院に小学を建てさせる詔。貴妃苗氏が薨じた。癸未、神宗御製を編修する官は秩を転じ賞を加え、京西提刑司に毎年20万緡を給し陵寝を奉じる詔。
- 11月乙酉朔、劉摯が罷免。壬辰、元祐観天暦を作った。尚書右丞蘇轍は罷め絳州知事へ。辛丑、傅堯兪が薨じた。12月戊辰、開封府で火災。壬申、范純仁は以前敵を禦いで策を失したことにより降官。この年、両浙で水害、定州で野蚕が繭をなした。高麗・交阯・三仏斉が入貢。
元祐七年(1092年)
- 春正月甲辰、遼使耶律迪が卒したことにより朝を輟すこと1日。乙巳、張誠一は父の墓を穿ち犀帯を取ったことにより左武衛将軍・提挙亳州明道宮に責授。2月丁卯、陝西・河東の辺要に城砦を進築・守禦させる詔。3月己亥、囚を録した。
- 夏4月己未、皇后孟氏を立てた。甲子、呂大防を皇后六礼使に命じた。甲戌、県令の課績を考察する法を立てた。5月戊戌、文徳殿に御して皇后を冊した。庚子、侍従官の転対を罷めた。丙午、王巌叟が罷め鄭州知事へ。大食が火浣布を進めた。
- 6月辛酉、呂大防を右光禄大夫、蘇頌を尚書右僕射兼中書侍郎、韓忠彦を知樞密院事、蘇轍を門下侍郎、翰林学士范百禄を中書侍郎、翰林学士梁燾を尚書左丞、御史中丞鄭雍を尚書右丞、戸部尚書劉奉世を簽書樞密院事とした。甲子、広文館の解額を置いた。戊辰、渾天儀像が成った。甲戌、日の傍に五色雲が現れた。
- 7月癸巳、神宗史を修め翰林侍講学士を復す詔。己酉、諸路安撫鈐轄司および西京・南京にそれぞれ資治通鑑1部を賜う詔。庚戌、宗室の緦麻以上の親は析居を禁じる詔。8月丙辰、監酒税務を罷め剰給賞法を増した。己未、西辺の諸将に厳備させ軽々しく出兵させない詔。乙亥、辺将に軍士を掊克しないよう戒める詔。以前交阯に陥った将吏蘇佐ら17人がみずから脱して帰ってきた。
- 9月戊戌、冬至の南郊は故事に依り皇地祗を設け、礼が終われば別に方沢の儀を議して聞かせる詔。己酉、永興軍・蘭州・鎮戎軍で地震。冬10月庚戌朔、環州で地震。丁巳、陝西に前代帝王の陵廟がある所は民5家を給し守陵戸とする詔。丁卯、夏人が環州を寇した。
- 11月辛巳、太白が昼に見えた。甲申、大中大夫以上に永業田を占めることを許す詔。丙戌、于闐が入貢。庚寅、帝が大慶殿で斎した。辛卯、景霊宮に朝献。壬辰、太廟に饗した。癸巳、天地を圜丘に祀り天下に大赦、群臣中外に加恩し、南京の榷酒を罷め、親の喪に罹った民の戸には差等に応じ徭を免じる詔。辛丑、徐王に剣履上殿を賜った。
- 12月辛亥、阿里骨・李乾徳に食邑・実封を加えた。甲子、飲福宴を罷めた。庚午、雪を祈った。この年、兗州仙源県で瑞穀が生じた。高麗・占城・西南蕃の龍氏・羅氏が入貢。
元祐八年(1093年)
- 春正月己卯朔、朝を受けず。甲申、蔡確が卒した。丁亥、邇英閣に御し宰臣を召して宝訓を読んだ。庚寅、范純仁を大中大夫に復す詔。壬辰、太乙宮に幸した。庚子、高麗が献じた「黄帝鍼経」を天下に頒布する詔。
- 2月己酉、西南蕃の龍氏に秩を遷し官を補す詔。辛亥、礼部尚書蘇軾が、高麗使が歴代史および冊府元亀等の書を買うことを乞ったことに対しその請を却けるべきと言ったが省臣がこれを許し、軾はさらに5害を疏陳し不可を極論、詔で既に買ったことのある書籍は聴すとされた。壬子、刑部に禁繋人数を分禁させず、瘐死数の多い者は尚書省に申さす詔。癸丑、太寧郡王以下を外学に就かせる詔。
- 3月甲申、蘇頌が罷免。辛卯、范百禄が罷免。庚子、御試の挙人にまた賦・詩・論の三題を試す詔。夏4月丁未朔、夏人が謝罪に来て蘭州を塞門砦と交換することを願ったが許されなかった。癸丑、刑を恤む詔。甲寅、范祖禹に先朝の故事に依りただ侍講のみを兼ねさせた。丁巳、南郊の天地合祭を罷め礼部の集官詳議を罷める詔。
- 5月癸未、蘄州羅田県を置いた。丁亥、二広の折二銭の鋳造を罷めた。己丑、囚を録した。辛卯、監察御史董敦逸・黄慶基は蘇軾・蘇轍を論じたことにより罷め湖北・福建転運判官へ。己亥、祁国公偲を開府儀同三司とした。
- 6月戊午、梁燾が罷免。壬戌、中書後省より上げられた元祐在京通用の条貫を省いた。秋7月丙子朔、観文殿大学士范純仁を尚書右僕射兼中書侍郎とした。戊寅、陝西沿辺の鉄銭・銅銭をすべて近地に還す令。
- 8月丁未、久雨により山川に禱った。辛酉、太皇太后の疾により帝は視事せず。壬戌、使を遣わし京東西・河南北・淮南の水災を按視させた。癸亥、京師の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。丁卯、嶽瀆・宮観・祠廟に禱った。戊辰、天下に大赦。庚午、陝西に小銅銭を再鋳する詔。辛未、天地宗廟社稷に禱った。乙亥、諸陵に禱った。
- 9月戊寅、太皇太后が崩じた。己卯、太皇太后の園陵を山陵とする詔。庚辰、使を遣わし遼へ告哀。甲申、呂大防を山陵使に命じた。壬辰、山陵修奉は倹約に従い諸道に妄りに進助することのないよう詔した。
- 冬10月戊申、群臣が7度上表し聴政を請うた。戊辰、徐王顥が解官・喪の付与を乞うたが許されなかった。庚午、内侍劉瑗ら6人を復した。11月丙子、初めて垂拱殿に御した。乙未、雪寒により京城の飢民を振わせた。壬寅、山陵を修奉する兵士に労を賜った。
- 12月乙巳、范純仁が罷を乞うたが許されなかった。甲寅、唐の六典に倣い官制を修めた。丁巳、遼人が使を遣わし弔祭し銭粟10万を出して流民を振わせた。己巳、太皇太后に「宣仁聖烈皇后」と諡した。この年、河が徳清軍に入り内黄口で決壊した。