宋史卷十五 本紀第十五 神宗二

熙寧三年(1070年)

  • 春正月癸丑、唐の李氏・周の柴氏の後を録用。乙卯、諸路の青苗銭の散布において抑配を禁じる詔。戊午、判尚書省張方平は陳州知事へ罷免。
  • 2月壬申、翰林学士司馬光を枢密副使としたが9度辞し、詔して敕誥を収め還した。甲戌、河州刺史瞎欺丁木征を金紫光禄大夫検校刑部尚書とした。乙酉、韓琦は河北安撫使を罷め大名府路安撫使へ。
  • 3月丙申、孫覚・呂公著・張戩・程顥・李常が上疏し新法を極言したが聞かれず。己亥、初めて策で進士を試し詩賦論の三題を罷めた。戊申、李常が青苗の斂散が実情に合わないと言い具さに析すよう詔があったが、翰林学士兼知通進銀台司范鎮は詔書を封還し不当としたため罷職・本官に坐された。壬子、礼部奏名進士・明経及第829人に賜物。乙卯、諸路に獄を留めぬよう詔。丙辰、試刑法および詳刑官を立てた。右正言孫覚は詔に反覆したとして広徳軍知事へ貶謫。
  • 夏4月癸亥、金明池に幸し水嬉を観て瓊林苑で宴射。丙寅、遼が耶律寛を遣わし同天節を賀した。丁卯、両浙転運司に度僧牒を給し民に粟の献納を募った。戊辰、御史中丞呂公著は潁州知事へ貶謫。己卯、趙抃は杭州知事を罷免。参知政事に韓絳。監察御史裏行程顥は京西路同提点刑獄へ罷免。壬午、右正言李常は滑州通判へ貶謫、監察御史裏行張戩は公安県知事へ貶謫、王子韶は上元県知事へ貶謫。癸未、侍御史知雑事陳襄は同修起居注へ罷免、程顥は鎮寧軍節度判官公事の簽書へ、前秀州軍事判官李定は太子中允監察御史裏行とした。
  • 5月癸巳、辺境の州郡には青苗銭を給しないよう詔。太白が昼に見えた。壬寅、司馬光に転対封事を詳定させる詔。甲辰、制置三司条例を罷め中書に帰す詔。辛亥、進士蘇丕に「安退処士」の号を賜った。壬子、入閤儀を罷めた。丁巳、審官院を東院とし別に西院を置く詔。
  • 6月癸酉、日に五色雲が現れた。丁丑、宗室の秦・魯・蔡・魏・燕・陳・越7王の後を公に封じた。戊寅、武成王廟の修繕を詔した。丙戌、知諫院胡宗愈は真州通判へ貶謫。
  • 秋7月辛卯、欧陽脩は蔡州知事へ徙った。壬辰、呂公弼は枢密使を罷め、太原府知事馮京を枢密副使とした。潞州に交子務を置いた。戊戌、雹が降った。癸丑、宗室の襲封制度を詳定。甲寅、三班院に主簿を置いた。
  • 8月戊午、看詳銀台司文字所を罷めた。丙寅、旱により囚を慮り、死罪以下をそれぞれ1等逓減し杖笞は釈放。衛州の旱により転運司に振恤・租賦の蠲免を命じた。戊寅、川陝・福建・広南の7路の官を転運司に定格で就任させる詔。張景憲らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。己卯、夏人が大順城を犯し、慶州知事李復圭は方略を授け環慶路鈐轄李信・慶州東路都巡検劉甫・監押种詠に出戦させたが兵少なく敗れ、復圭は信らが節制に違ったと誣告し信と劉甫・种詠を斬り獄死させた。同月、慶州巡検姚兕が夏人を荔原堡で破ったが、鈐轄郭慶・都監高敏はここで死んだ。
  • 9月戊子朔、中書に検正官を置いた。乙未、韓絳は罷め陝西宣撫使へ。己亥、初めて法官を試した。庚子、曾公亮は司空兼侍中・河陽三城節度使へ罷免。辛丑、馮京を参知政事、翰林学士呉充を枢密副使とした。乙巳、賢良方正および武挙を親策した。壬子、太白が昼に見えた。癸丑、東西府を作って執政を居らせた。司馬光は永興軍知事へ罷免。環慶で陣亡した義勇の余丁で刺すべき者を悉く免ずる詔。
  • 冬10月辛酉、延州は夏使を納めぬよう詔。甲子、木に氷がついた(雨木氷)。壬申、神御殿に朝謁。丙子、慶州知事李復圭は擅に兵を興し敗績、裨将李信・劉甫・种詠を死に誣告したことで御史に劾され保静軍節度副使に貶謫。戊寅、陳升之は母の喪により去位。乙酉、請場務内侍監当を罷める詔。
  • 11月戊子、河北の飢民で京西へ徙る者を振恤。己丑、節行の士21人を官とした。壬辰、陝西蕃部の貸糧を蠲免。癸卯、布衣王存に下班殿侍・三班差使宣撫司指揮使を授けた。甲辰、夏人が大順城を寇したが都監燕達らがこれを撃退。庚戌、升朝官は南郊赦の封贈父母を除き加恩転官を得ないとの詔。乙卯、韓絳に河東宣撫使を兼ねさせた。梓州路転運使韓璹らは興利除害の功により帛を賜った。
  • 12月己未、諸路更戍法を立て、旧来の他路の兵で雑戍していた者を還した。乙丑、保甲法を立てた。丁卯、韓絳・王安石をともに同中書門下平章事、王珪を参知政事とした。布衣陳知彦に進士出身、知県王輔に同進士出身を賜った。庚午、夏人が鎮戎軍三川砦を寇したが巡検趙普が伏兵で邀撃しこれを破った。丁丑、広南の摂官の俸を増した。戊寅、初めて免役法を行った。西蕃董氊に詔とともに衣帯・鞍馬を賜った。庚辰、王安石に三司令式の編修を提挙させた。壬午、遼が蕭遵道らを遣わし正旦を賀した。癸未、宋敏求に命官・使臣の過犯を詳定させた。この年、河北・陝西の旱飢を振り租を除いた。交阯が入貢し、広源・下渓州の蛮が来附した。

熙寧四年(1071年)

  • 春正月丁亥朔、視朝せず。己丑、种諤が夏兵を囉兀で襲い大いに破り、遂に囉兀を城とした。これより夏人は日々兵を聚め報復を図り、論者は諤が辺患を醸すとして不便とした。壬辰、王安石は天下の広恵倉田を鬻ぎ三路と京東常平倉の本とすることを請い許された。乙未、渝州の夷賊李光吉が叛き巡検李宗閔らが戦死したため、夔州路転運使孫構に討平させた。詳定大辟覆讞法を詔した。丁酉、太祖・太宗神御殿に朝謁。庚子、集禧観に幸し従臣に宴し、また大相国寺に幸し宣徳門に御して観灯。韓絳らが种諤の西界侵攻で斬獲が多いことを言上し、使を遣わし撫問した。乙巳、括牧地を停めた。丁未、京東・河北の賊盗重法を立てた。庚戌、永興軍の買塩鈔場を罷めた。甲寅、文徳殿朔望視朝の儀を定めた。
  • 2月丁巳朔、詩賦・明経諸科を罷め経義・論策で進士を試すこととし、京東西・陝西・河東・河北路に学官を置き教導させた。辛酉、青苗法を沮む吏を治める詔。戊辰、河北の民で食に乏しい者を振わせ、西界の戦死軍人を賻恤する詔。庚午、于闐国が朝貢。壬申、高密郡王頵を嘉王に進封。癸酉、審官院が定めた人材で赴くべき者を中書で察し引見する詔。甲戌、渝州の夷賊討伐の兵に特支銭を賜った。丁丑、雨を禱った。漳河などの役兵を増す詔。
  • 3月丁亥、夏人が撫寧堡を陥した。戊子、慶州の広鋭卒が叛いたが間もなく討平された。庚寅、諸路の学田を給し教官員を増す詔。辛卯、使を遣わし新法の奉行が不職である者を察させた。癸卯、河東・陝西路の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。軍事に緣り科役された民の租賦を蠲免。丙午、种諤は撫寧堡陥落の罪により汝州団練使・潭州安置に貶謫。丁未、韓絳は興師敗衂の罪により本官のまま鄧州知事へ。辛亥、唐の李氏の後を録用。
  • 夏4月丙辰朔、刑を恤む。辛酉、遼が蕭広らを遣わし同天節を賀した。壬戌、環慶都鈐轄幵贇に兵を率いて邠・涇・河中に屯し西夏に備えさせた。癸亥、陝西交子法を罷めた。癸酉、司馬光は西京留台を権判。种諤は再貶され賀州別駕。甲戌、司農寺に毎月諸路の雨雪状を進めさせる詔。丙子、使を遣わし宿・亳等州の災傷を按視し武備を修飭させた。壬午、進士の考課による転官を定めた。
  • 5月甲午、右諫議大夫呂晦が卒した。壬寅、富弼が西京での養疾を許された。丙午、高麗国が朝貢。辛亥、宗室率府副率以上で父母の喪または嫡孫承重にあたる者は解官・服喪させる詔。壬子、恩・冀等州の災傷を振恤し税を蠲免する詔。
  • 6月丁巳、河北の飢民で盗をなした者は死を減じ配流に処する。庚申、群臣が三たび尊号「紹天法古文武仁孝皇帝」を上表したが許されず。甲子、欧陽脩は太子少師として致仕。丙寅、囚を慮った。甲戌、富弼は青苗法を格したことにより汝州知事へ徙された。
  • 秋7月戊子、層檀国が朝貢。甲午、両浙の水災を振恤。乙未、死事した将校崔達子遇を録して三班奉職とした。丁酉、監察御史裏行劉摯は衡州塩倉監へ罷免、御史中丞楊繒は鄭州知事へ貶謫。庚子、宗室が祖宗の神御を祀ることを禁じる詔。丁未、唐・鄧に流民へ田を給する詔。
  • 8月癸丑朔、高麗が朝貢。使を遣わし陝西の差役新法と民間の利害を体量させた。甲寅、郡県で保甲が賊と闘い死傷した者に銭を給する詔。庚申、春秋三伝明経で士を取ることを復した。癸酉、楚建中らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。洮河安撫司を置き王韶に主らせた。
  • 9月丙戌、河が鄆州で決壊。辛卯、明堂で大饗し英宗を配し天下に大赦、内外の官はそれぞれ官秩を進めた。庚子、夏人が入貢。癸卯、選人の俸を増した。
  • 冬10月壬子朔、差役法を罷め民に銭を出させ役を募る法を立て、選人および任子の出官を試法とした。丙辰、枢密院に検詳官を置いた。戊辰、太学生の内外上舎法を立てた。丙子、罪人の配流で冬にあたる者は仲春に遣わすとの詔。
  • 11月壬午朔、賞功罰罪の懲勧すべき事は月ごとに天下に頒布する詔。甲申、逋租を蠲免する詔。丁亥、中太一宮を作った。壬寅、洪沢河を開き淮に達した。
  • 12月辛亥朔、国子監に銭4000緡を増賜する詔。戊午、夏の俘を帰した。己未、安定郡王従式が薨じた。甲子、越国公世清を会稽郡王に封じた。丙寅、諸路の廂軍を省いた。乙亥、崇義公柴詠が致仕し子若訥が襲封した。丙子、遼が耶律紀らを遣わし正旦を賀した。

熙寧五年(1072年)

  • 春正月己丑、降羌の帰国を聴す詔。己亥、太廟の時饗は宗室の使相以上に摂事させる詔。京城に邏卒を置き時政を謗議する者を察し罪した。
  • 2月壬子、亀茲が朝貢。両浙の水害に穀10万石を賜い振恤、あわせて民に水利興業を募った。壬戌、陝西の逓運銅錫を罷める詔。癸亥、太白が昼に見えた。丙寅、鄭州知事呂公弼を宣徽南院使、秦州判官龍図閣直学士蔡挺を枢密副使とした。
  • 3月甲午、李日尊が卒し、子乾德が嗣ぎ使を遣わし弔贈した。戊戌、富弼は司空として致仕し韓国公に進封。文武換官法を立てた。丙午、内蔵庫の銭で市易務を置いた。
  • 夏4月庚戌朔、殿前馬歩軍の春秋校試最法を立てた。乙卯、遼が耶律適らを遣わし同天節を賀した。己未、閑田を括して弓箭手を置いた。辛未、北京の決河を塞いだ。
  • 5月辛巳、古渭砦を安遠軍とし王韶に軍を兼知させ教閲法を行わせる詔。宗室で袒免親でない者に応挙を許した。庚寅、青唐大首領俞龍珂を西頭供奉官とし包順の姓名を賜った。壬辰、趙尚寛らが以前唐州を守り田を辟き水を疏じた功により官秩を増し天下を勧めた。丙午、太白が昼に見え、保馬法を行った。
  • 6月壬子、曾公亮は太傅として致仕。癸亥、四場で進士を試す詔。丙寅、京城門の銅魚符を作った。乙亥、武学を置いた。
  • 秋7月壬寅、初めて文臣に枢密都承旨を兼ねさせた。閏7月庚戌、中書検正官章惇を遣わし荊湖北路を察訪させた。入内供奉官以下で養子を持ちながら次子をさらに養い内侍とした者は斬に処す詔。
  • 8月甲申、太子少師致仕欧陽脩が薨じた。秦鳳路沿辺安撫王韶が武勝軍を復した。丁亥、欧陽脩の撰した五代史を求める詔。壬辰、武勝軍を鎮洮軍とした。癸巳、崔台符らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。乙未、侍従および諸路監司に才行ある者1人ずつを挙げさせる詔。甲辰、王韶が木征を鞏令城で破った。方田均税法を頒布。
  • 9月癸丑、宗室の文資への換官を試すことを許した。癸亥、初めて便殿で旬ごとに諸軍の武技を校べた。丙寅、少華山が崩れ、圧死者に銭を賜い貧者は官が葬祭した。淮南を東西路に分けた。
  • 冬10月戊戌、鎮洮軍を熙州鎮洮軍節度に昇格し熙河路を置いた。秦鳳の囚罪を1等減じた。
  • 11月癸丑、河州首領瞎薬らが降り内殿崇班・包約の姓名を賜った。丁卯、権監察御史裏行張英は荊南税監へ貶謫。壬申、陝西を永興・秦鳳路に分け6路経略司を置いた。章惇が梅山を開き安化県を置いた。
  • 12月丙子、荊湖溪洞へ亡命した者を赦す詔。丁丑、太原に弓箭手を置く詔。戊寅、寺観で聖祖および祖宗陵寝の神御を奉ずる者は役銭を免じる詔。温成廟を祠に改めた。壬午、陳升之を枢密使とした。癸未、土が雨のように降った。乙未、熙州の南北関および諸堡砦を築いた。己亥、遼が蕭瑜らを遣わし正旦を賀した。

熙寧六年(1073年)

  • 春正月辛亥、禧祖を太廟の始祖に復し感生帝に配し、順祖を夾室に祧した。2月辛卯、夏人が秦州を寇したが都巡検使劉惟吉がこれを破った。丙申、永昌陵上宮の東門で火災。王韶が河州を復し木征の妻子を獲た。壬寅、韓絳を大名府知事とした。
  • 3月己酉、熙河の死事将田瓊を賜贈し録その子3人・孫1人を録した。庚戌、進士を親策し経局を置いて王安石に提挙させた。辛亥、明経諸科を試した。丙辰、4月朔の日食にあたり丁巳から避殿・減膳し天下の囚罪を1等減じ流以下は釈放。己未、諸路に学宮を置いた。壬戌、奏名進士・諸科及第出身596人に賜物。甲子、交州が朝貢。丁卯、宰相が上表し復膳を請うたが許されず。詔して進士・諸科はともに明法を試して注官とした。戊辰、刑獄検法官を置いた。庚午、李日尊の子乾徳を交阯郡王に封じた。
  • 夏4月甲戌朔、日食があったが見えず。乙亥、御殿し膳を復した。西南龍蕃の諸夷が朝貢。律学を置いた。丁丑、遼が耶律寧らを遣わし同天節を賀した。甲午、斉・徐等州の保甲を定めた。戊戌、在京の吏禄を裁定した。
  • 5月癸卯朔、播州楊貴遷が子光震を遣わし朝貢、光震を三班奉職とした。戊申、雨を禱った。乙丑、京東路に行義ある士人を察させる詔。中書検正官熊本を遣わし瀘夷の措置にあたらせた。西京左藏庫副使景思忠らが遂州の夷囤を攻め焼いたが戦没し、その子昌符ら7人を録用、軍士の死者にはそれぞれ銭帛を賜った。辛未、西南龍蕃が朝貢。
  • 6月己亥、軍器監を置いた。秋7月乙巳、京西・淮南・両浙・江西・荊湖等6路にそれぞれ鋳銭監を置く詔。丙午、大食・陀婆離が朝貢。己酉、雨を禱った。甲寅、在京の囚で死罪以下を録し1等降し、杖罪は釈放。丁巳、沿辺の吏が熟戸を殺し賞を邀う者は戮する詔。乙丑、河北を東西路に分けた。丙寅、夜、西北で磑のような音がした。
  • 8月壬申朔、賈昌衡らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。甲申、簡州の歳貢の綿紬を罷めた。甲午、熙河・涇原の軍士に特支銭を賜った。戊戌、比閭族党の法を復した。
  • 9月壬寅、両浙に和糴倉を置き斂散法を立てた。戊申、水利を興す詔。辛亥、武挙を策した。戊午、岷州首領木令征がその城をもって降り、王韶が岷州に入った。丙寅、太白が斗を犯した。戊辰、雨を禱り獄を決する詔。
  • 冬10月辛未、章惇が懿・洽州の蛮を平定。辛巳、熙河・洮・岷・畳・宕等州を復したことにより紫宸殿に御し群臣の賀を受け、玉帯を解いて安石に賜った。甲申、景霊宮に朝献。丙戌、両浙・江淮の飢を振恤。壬辰、折二銭を行った。丁酉、使を遣わし熙河の戦骨を瘞めた。
  • 11月癸丑、中太一宮が成り天下の囚罪を1等減じ流以下は釈放。乙卯、親しく太一宮を祀った。丙寅、大雪、京畿に老弱で凍餒する者を収養させる詔。
  • 12月戊子、開封府の囚を決する詔。丙申、遼が耶律洞らを遣わし正旦を賀した。

熙寧七年(1074年)

  • 春正月辛亥、岷・洮等州を復した功を賞し西京左蔵庫使桑湜らはそれぞれ官を遷った。壬子、中太一宮に幸し従臣に宴し、また大相国寺に幸し宣徳門に御して観灯。乙卯、皇子俊を永国公に封じた。甲子、熊本が瀘夷を平定。
  • 2月辛未、于闐が朝貢。常平米を発して河陽の飢民を振恤。癸未、三司に天下の財用出入の数を毎年会計し報告させる詔。己丑、雨を禱った。辛卯、客省・引進・四方館・閤門使副等の員を置いた。乙未、河州知事景思立らが青宜結鬼章と踏白城で戦い敗死し、遼州を廃した。
  • 3月壬寅、木征・鬼章が岷州を寇したが高遵裕が包順らを遣わし撃退した。囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。癸卯、旱により避殿・減膳。乙巳、白虹が日を貫いた。丙午、使を遣わし諸路を分行して武士を熙河に募らせた。庚戌、熙河の死事者の家にそれぞれ銭を給する詔。両浙の増額預置紬絹を罷め諸路監司に留獄を察させた。癸丑、群臣が復膳を請うたが許されず。丙辰、遼が林牙蕭禧を遣わし河東の疆界を言い、太常少卿劉忱にこれを議させた。己未、方田法を行った。甲子、使を遼へ遣わし報聘した。乙丑、災異により直言を求める詔。
  • 夏4月癸酉、旱により方田を罷めたが、この日雨が降った。遼が耶律永寧らを遣わし同天節を賀した。乙亥、王韶が西蕃を結河川で破った。丙子、御殿し膳を復した。己卯、高遵裕を岷州団練使とした。甲申、辺兵の死事で子孫のない者にその親属へ終身廩を給する詔。乙酉、王韶が珂諾城を進築し蕃兵と連戦してこれを破り、首7000余級を斬り3万余帳を焼いた。木征は酋長80余人を率い軍門に降った。雹が降った。丙戌、王安石は罷め江寧府知事へ。韓絳を同中書門下平章事監修国史、翰林学士呂恵卿を参知政事とした。沅州を置いた。丁酉、王韶に木征とその家を闕下へ発せしめる詔。遼は枢密副使蕭素を遣わし代州境上で疆界を議した。
  • 5月戊戌朔、熙河路の囚罪を1等減じ流以下は釈放。辛丑、河州の蕃部の暴骸を瘞める詔。壬寅、雹が降った。癸卯、大雨雹。辛亥、賢良方正等の科を罷めた。乙丑、大雨水があり陝・平陸の2県を壊した。
  • 6月戊寅、洮州討伐の将士に特支銭を賜った。丁亥、渾儀浮漏を作った。広州で鳳凰が現れた。木征を栄州団練使とし趙思忠の姓名を賜った。秋7月癸卯、群臣が四たび尊号「紹天憲古文武仁孝皇帝」を上表したが許されず。癸亥、河北両路に蝗を捕らせる詔。また開封・淮南の提点・提挙司に蝗旱を検覆させ、米15万石で河北西路の災傷を振恤した。
  • 8月丁丑、環慶安撫司に度僧牒を賜い粟を募って漢蕃の飢民を振わせた。張芻らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。辛卯、淮南・開封府の来年春夫を免じ邢・洺等州の秋税を除放する詔。癸巳、南薫・安上門に場を置いた。集賢院学士宋敏求が編修閤門儀制を上呈。
  • 9月戊戌、時雨が降ったことにより河北・京西・陝西・淮南等路に耕作を勧めさせ、拘繋された者は釈放する詔。壬子、三司で火災。癸丑、京畿・河北・京東西路に37将を置いた。甲寅、枢密院に辺防を議させる詔。
  • 冬10月壬申、韓琦・富弼・文彦博・曾公亮に代北の事宜を条上させる詔。戊寅、浙西路提挙司に米を出させ常・潤州の飢を振わせた。庚辰、三司会計司を置き韓絳に提挙させた。辛巳、河北の災傷により州軍の文武官員を減じた。癸巳、常平米で淮南西路の飢民が掘った蝗種と交換させ、河北東路の流民を振恤。
  • 11月己未、天地を圜丘に祀り天下に大赦。12月丙寅、熙河・岷3州の官141員を省いた。丁卯、文武官に加恩。己丑、遼が耶律寧らを遣わし正旦を賀した。この年、高麗が入貢し、淯井の長寧夷十郡および武都夷が内附した。

熙寧八年(1075年)

  • 春正月庚子、蔡挺は判南京留司御史台へ罷免、馮京は亳州知事へ罷免。丙午、京東を東西路に分け、江南東路の上供米を割いて災傷州軍に均給。丁未、宣徳門に御して観灯。乙卯、出使する廷臣に至る所の吏治の能否を採らせる詔。木に氷がついた。戊午、所在の流民で帰業を願う者を州県が齎遣する詔。己未、洮西安撫司が旱により粥をつくり飢えた羌戸に食を給することを請うた。
  • 2月甲子、陝西の銭監を増し大銭を改鋳。癸酉、王安石を同中書門下平章事とした。戊寅、枢密副都承旨張誠一らに李靖の営陣法をもって殿前馬歩軍を教えさせた。乙酉、初めて河北戸馬法を行った。丙戌、京畿の土功を停めた(7年ぶり)。
  • 3月丁酉、潤州の飢を振恤。戊戌、河州知事鮮于師中が蕃学を置いて蕃酋の子弟を教えることを請い、田10頃を賜い年ごとに銭千緡を給し進士の解額を2人増すことを許された。庚子、遼の蕭禧が再び来て韓縝を河東へ遣わし会議させた。癸丑、知制誥沈括が報聘し、また常・潤の飢民を振恤。戊午、太白が昼に見えた。
  • 夏4月乙丑、将作監の冗官を減じる詔。丁卯、遼が耶律景熙らを遣わし同天節を賀した。乙亥、禧祖の禘祫を東嚮位で正した。戊寅、呉充を枢密使とした。壬午、湖南で江水が溢れた。閏4月乙未、陳升之は罷め鎮江軍節度使・判揚州へ。広源州の劉紀が邕州を寇したが帰化州の儂智会がこれを破った。壬寅、沈括が「奉元暦」を上呈。癸卯、宣徽北院使張方平を永興軍判官とし秦鳳路兵を4将に分けた。壬子、沂州民朱唐が前餘姚県主簿李逢の謀反を告げ、辞は右羽林大将軍世居および河中府観察推官徐革に連座した。御史中丞鄧綰・知諫院范百禄・御史徐禧に雑治させ、獄が具わり世居は死を賜り、逢・革らは伏誅。甲寅、趙普の後を録用。乙卯、西南蕃の五姓蛮に5年に1度の朝貢を詔した。
  • 5月辛酉朔、囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。甲子、環慶の兵を4将に分けた。丁丑、土や黄毛が雨のように降った。甲申、熙河路の蕃官殿直頓埋が謀叛したため伏誅。己丑、使を遣わし鄜延・環慶の飢を振わせた。
  • 6月乙未、日の上に五色雲が現れた。丙午、汴水を釃いて蔡河に入れ漕運を通じた。己酉、王安石の詩・書・周礼の義を学官に頒布。辛亥、安石を尚書左僕射兼門下侍郎とした。戊午、太師魏国公韓琦が薨じた。己未、琦を英宗廟庭に配饗した。
  • 秋7月甲子、処州で江水が溢れた。戊寅、太白が昼に見えた。戊子、涇原の兵を5将に分け韓縝に河東へ行き割地させた。8月庚寅朔、日食にあたったが雲陰で見えず。癸巳、民を募り蝗を捕らせ苗を損じた者に償い租を復した。丙申、謝景温らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。官戸の役銭を半減。開封府に発運司の淮南・江東・両浙の米価を体実させ、州県が存する上供米は100万石を超えず減直して民に斗銭を予えるは80を超えぬよう詔した。庚戌、韓絳は罷め、河北・京東の兵と監牧卒を発して都城を修めさせた。丁巳、大閲。
  • 9月庚申朔、王安石が国史の修めを兼ね、武挙絶倫法を立てた。冬10月庚寅、呂恵卿は陳州知事へ罷免。乙未、彗星が軫に出た。己亥、災異が数々見えることにより前殿に御さず常膳を減じ直言を求める詔。壬寅、天下に大赦し手実法を罷めた。丁未、彗星が見えなくなった。丙辰、御殿し膳を復した。
  • 11月戊寅、交阯が欽州を陥した。壬午、陝西蕃丁法を立てた。甲申、交阯が廉州を陥した。丙戌、渝州を南平軍と改めた。
  • 12月丙申、河を濬った。壬寅、翰林学士元絳を参知政事、龍図閣直学士曾孝寛を簽書枢密院事とした。辛亥、天章閣待制趙卨を安南道招討使、嘉州防禦使李憲を副とし交阯討伐にあたらせた。癸丑、遼が耶律世通らを遣わし正旦を賀した。甲寅、熙河路木宗域首領結彪が謀叛したが、熟羌日脚族青廝扒がその首を斬って献じ下班殿侍を授かった。

熙寧九年(1076年)

  • 春正月乙丑、木に氷がついた。戊辰、交阯が邕州を陥し知州蘇緘が死んだ。己卯、下渓州刺史彭師晏および天賜州が降った。庚辰、使を遣わし南嶽・南海を祭り南伐を告げた。辛巳、蘇緘に奉国軍節度使を贈り「忠勇」と諡し、その子子元を西頭供奉官閤門祗候とした。
  • 2月戊子、宣徽南院使郭逵を安南道招討使とし李憲を罷めて趙卨を副とした。占城・占臘に交阯を合撃するよう詔した。己丑、宗哥首領鬼章が五牟谷を寇したが蕃官藺氊訥支らが邀撃してこれを大破した。己亥、出師により春宴を罷めた。乙卯、雹が降った。丙辰朔、仁宗の婉容周氏を妃に進めた。辛酉、集英殿に御して進士を策し、欽・廉・邕3州の死事した家を恤み戦亡した士を瘞め賊が蹂躙した田の徴税を除いた。甲戌、進士・諸科及第出身596人に賜物。丁丑、広西進士徐伯祥を右侍禁とした。欽・廉・白州の巡検が宗哥首領鬼章の五牟谷侵寇に対し、熙河鈐轄韓存宝がこれを破った。庚辰、种諤を岷州知事とした。
  • 夏4月辛卯、遼が耶律庶幾らを遣わし同天節を賀した。乙未、遼主の母の喪により同天節の上寿を罷めた。戊戌、広済河の漕運を復した。癸卯、広南で亡没した士卒・百姓で賊に残破された者を転運安撫司に実情調査・振恤の議をさせる詔。甲辰、空名の告身を安南に付し招降と賞功に用いる詔。諸路に武勇を募り広西へ赴かせ、広西で死事した将士にそれぞれ官を贈った。丙午、王苑臣らを遣わし遼へ弔慰した。辛亥、茂州の夷が辺を寇し内副押班王中正に経制させた。甲寅、遼が耶律孝淳を遣わし国母の喪を告げ、帝は哀を発し成服し朝を輟すこと7日。
  • 5月丙辰朔、邕州沿辺州峒の首領で降る者を周く恤する詔。癸亥、諸医学生を試した。丙寅、両浙を東西路に分けた。丁卯、茂州を城とした。壬申、安南諸軍で嶺を過ぎて疾ある者を護治させる詔。丙子、大理国が朝貢。庚辰、静州下首領董整白らが降った。
  • 6月丁亥、安南の将吏に軍士の疾を月ごとに数上させる詔。己丑、綿州都監王慶・崔昭用・劉珪・左侍禁張乂が茂州を援け戦って死んだため、慶らの子には借職を、女は出嫁の夫に奉職を、白丁王禹錫ら2人にはその家に銭を賜った。辛卯、浜海の富民に蜑戸を養い外夷に誘われぬようさせる詔。己亥、囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。癸卯、水源等洞蛮主儂賀ら7人を定遠・寧遠将軍とした。
  • 秋7月丙辰、朱崖軍の黎賊黄嬰が入寇し広南西路に警備を厳にさせる詔。庚申、関以西で蝗蝻・虸蚄が生じた。壬戌、下渓州を築き会溪城と改名。癸亥、静州将楊文緒が蕃部と結び謀叛したが王中正がこれを斬り晒した。詔して広西で死事した官で子孫のない者は後継を立てることを許した。乙丑、今後大礼にあたり推恩する官は昭憲太后の族1人とする詔。この月、安南行営が桂州に次り、郭逵は鈐轄和斌らに水軍を督させ海を渉り広東より入らせ、諸軍は広南より入らせた。
  • 8月甲申朔、斉州監務左班殿直孫紀が賊に死んだためその子1人を三班借職とした。戊子、文彦博を太保兼侍中・行太原尹とした。己丑、程師孟らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。祠廟の鬻銭を罷めた。丁酉、北辺の民が穀粟を闌出することを禁じた。庚子、占城が朝貢。
  • 9月戊午、汴河を濬った。丙寅、都大制置河北河防水利司を罷める詔。己卯、遼が使を遣わし回謝、嶺南の死事した家を恤み将士の墓を表する詔。冬10月乙酉、太白が昼に見えた。乙未、東南諸路に新軍を教閲させる詔。丙午、王安石は罷め江寧府知事へ。呉充が国史監修を兼ね、王珪が集賢殿大学士としてともに同中書門下平章事、資政殿学士馮京が枢密院を知った。辛亥、沅州の帰明人戸の去年の秋税倚閣を除放。
  • 11月乙卯、広南東路に空名の告敕を賜い入銭を募り軍を助けさせた。辛酉、唐相魏徴の後および同州司士参軍道厳を録し流内銓は特に試を免じ注官とした。乙亥、安南行営将士の疾疫により同知太常礼院王存を遣わし南嶽に祈らせ、中使を遣わし祈福の道場を建てさせた。己卯、洮東安撫司が包順らが鬼章の兵を多移谷で破ったと言上。壬午、鬼章が岷州を寇したが知州种諤らが鉄城でこれを破った。
  • 12月丙戌、安南の偽観察使劉紀が降り司農丞に置かれた。庚寅、子傭が生まれた。丁酉、岷州界で鬼章の兵燹を経た者に銭を賜い脅従して帰る者はその罪を釈す詔。癸卯、郭逵が交阯を富良江で破り偽太子洪真を獲た。李乾徳は人を遣わし表を奉じ軍門に降り、逵は遂に班師した。丁未、遼が耶律運らを遣わし正旦を賀した。庚戌、鬼章・泠鶏朴の首を得た者に賞を詔し威戎軍を置いた。

熙寧十年(1077年)

  • 春正月乙丑、宣徳門に御して観灯。戊辰、仙韶院で火災、朝を視ず。己巳、白虹が日を貫いた。2月甲申、崇信軍節度使宗旦を同中書門下平章事とした。戊子、鬼章を破った种諤らの賞官を定めた。辛卯、日中に黒子があった。甲子、宗室の使相で10年に及ぶ者は磨勘を取旨せぬとの詔。丁酉、諸州に毎歳11月から3月まで老疾貧乏な者に粟を給する詔。
  • 己亥、王韶を洪州知事とした。丙午、広源・蘇茂等州を復したことにより群臣が上表し賀し、広州の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。行営諸軍に銭を賜い、征役に緣る民の家を恤み、広源州を順州とした。李乾徳の罪を赦し、郭逵を潭州判官、趙卨を桂州知事とした。己酉、交阯の降により広南東路・荊湖南路の繋囚をそれぞれ1等降し徒以下は釈放。
  • 3月辛未、囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。壬申、州県に蝗を捕らせる詔。夏4月辛巳、憲州を復置した。乙酉、遼が蕭儀らを遣わし同天節を賀した。癸巳、文州蕃賊が辺を寇したが州兵が撃退した。丁酉、熙河路の兵に特支銭を賜い戦死者に帛を賜い夏秋税を免じた。
  • 5月戊午、仁宗・英宗史の修めを詔した。甲戌、太白が昼に見えた。6月壬午、注輦国が朝貢。癸巳、王安石は使相のまま集禧観使となった。丁未、泯州鉄城堡を置いた。秋7月甲寅、雨を禱った。丁巳、諸路に毎歳県令の課績を上げさせる詔。辛酉、群臣が五たび尊号「奉天憲古文武仁孝皇帝」を上表したが許されず。乙亥、郭逵は安南失律により左衛将軍に貶謫。丙子、河が澶州曹村埽で決壊。
  • 8月壬寅、潭州に将を置き武臣1員を増す詔。蘇頌らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。甲辰、侍従・台諫・監司にそれぞれ文臣で才行ある者1人を挙げさせる詔。9月庚戌、河決で民田を害した所属州県に疏瀹させ税を蠲免し老幼疾病者を振わせる詔。乙卯、伝宣内批面諭の事で法守のないものはすべて中書・枢密の覆奏に従わせ、恩澤を祈り罪を免れようとする者は劾する詔。辛酉、鎮戎・徳順軍にそれぞれ都監1員を置く詔。癸酉、義倉を立てた。甲戌、宗樸が侍中を兼ね濮陽郡王に封ぜられた。
  • 冬10月戊寅朔、宗樸が薨じた。癸巳、昭化軍節度使宗誼を濮国公に封じ、濮王の子を次第に襲封奉祀させる詔。戊戌、太子太師張昪が卒した。11月庚午、西蕃邈川首領董氊の都首領素宜結鬼章を廓州刺史、阿令骨を松州刺史とした。甲戌、天地を圜丘に祀り天下に大赦。
  • 12月丁丑朔、占城国が馴象を献じた。壬午、翌年を元豊と改める詔。甲申、郊祀により文武官に加恩。丁亥、子傭を均国公に封じた。辛丑、遼が耶律孝淳らを遣わし正旦を賀した。

元豊元年(1078年)

  • 春正月乙卯、王安石を尚書左僕射・舒国公・集禧観使とした。戊午、郊廟礼儀の詳定を命じ、陳留の捧日・天武等軍の剰員を減じる詔。庚申、宣徳門に御して従臣に観灯させた。乙丑、太皇太后の病により駅を用い天下の医者を召した。閏1月辛巳、翰林侍読学士宝文閣学士提点中太一宮呂公著に端明殿学士を兼ねさせた。己丑、尚書令韓琦の贈は趙普の故事によるよう詔した。壬辰、樞密直学士孫固が同知枢密院事。己亥、太傅兼侍中曾公亮が薨じた。庚子、日中に黒子があった。癸卯、公亮を英宗廟庭に配饗した。
  • 2月庚戌、濮国公宗誼が薨じた。甲寅、邕州観察使宗暉を淮康軍節度使とし濮国公に封じた。戊辰、安南戦棹都監楊従先らを赦し功を論じ賞する詔。3月辛巳、囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。邇英閣に御し沈季長が周礼八法を進講。癸未、内外の文武官にそれぞれ武挙に応ずるに堪える者1人を挙げさせる詔。広南西路経略司が峒丁の教閲を請い許された。乙未、崇政殿に御して諸軍を閲した。辰・沅の猺賊が辺を寇したが州兵が撃退した。
  • 夏4月己酉、遼が耶律永寧らを遣わし同天節を賀した。丙辰、両浙路に提挙官を増置する詔。庚申、九経以外の書は界を出ることを禁じる詔。癸亥、太白が昼に見えた。乙丑、虢国公宗諤を予章郡王に封じた。戊辰、曹村の決河を塞ぎその埽を「霊平」と名づけた。
  • 5月甲戌朔、塞河の役で死んだ者の家に銭を賜った。乙亥、試中の刑法官を次第に推恩する詔。6月癸卯朔、日食があった。乙巳、霊平の功により苗師中らそれぞれ1官遷る詔。秋7月癸酉朔、西上閤門使忠州団練使韓存宝に瀘州納渓夷を経制させた。己亥、斉州に水災を予備させる詔。辛丑、夔州が甘露が降ったと言上。
  • 8月癸卯、西辺の将訥児温禄尊が謀反したため伏誅。丁未、河北の被水者の租を蠲免する詔。甲寅、黄履らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。戊午、韓絳を建雄軍節度使とした。己巳、浜・棣・滄3州の被水民に常平糧を貸す詔。庚午、青・斉・淄3州の流民に食を給する詔。
  • 9月癸酉、交阯が朝貢。癸未、李乾徳が広源等州の返還を乞う表を上げたが許されなかった。乙酉、端明殿学士呂公著・枢密直学士薛向をともに同知枢密院事とした。天地と配帝を祀るにはともに特牲を用いる詔。この月、武康軍で嘉禾が生じ、河中府で甘露が降った。
  • 冬10月庚戌、秋試諸軍の賞格を定めた。侍禁仵全が死事しその弟宣を録して三班借職とした。辛亥、韓存宝が瀘夷の後城13囤を破った。癸亥、于闐が朝貢。11月己丑、龍図閣直学士宋敏求らに正旦御殿儀注を詳定させた。癸巳、辰州の猺賊が叛いたため沅州の兵に討たせる詔。己亥、文武功臣号を罷めた。この月、梁県で嘉禾が生じた。
  • 12月丙午、日中に黒子があること12日に及んだ。辛亥、囚を録し死罪を1等減じ杖以下は釈放。丙辰、青州民王贇が父の讐を復したことにより死を免じ隣州に刺配する詔。戊午、大理寺獄を置いた。己未、都大提挙在京諸司庫務司を罷める詔。甲子、婉容邢氏を賢妃とし三司推勘公事官を罷め、軍器監勾当公事・審官東院・流内銓および将作監・三班院主簿・左右軍巡判官を減じる詔。丙寅、遼が耶律隆らを遣わし正旦を賀した。

元豊二年(1079年)

  • 春正月乙亥、岢嵐・火山軍の市馬を罷めた。丙子、高麗との交易法を立てる詔。壬午、容州管内観察使上柱国南陽郡開国公楊遂を寧遠軍節度使とした。癸未、沅州知事謝麟に猺賊の捕討を督させる詔。甲申、宣徳門に御して観灯。丁亥、経義論で宗室を試す詔。甲午、京兆府学教授蔣夔が十哲を孔子に従祀することを請い許された。辰州叙浦県に龍潭堡を置いた。この月、潁州・寿州で甘露が降った。
  • 2月甲寅、漢州の暴骸を瘞める詔。日中に黒子があった。乙卯、瀘州夷乞弟が辺を犯したため王光祖らに討たせる詔。丙辰、解塩の歳額を定める詔。乙丑、滄州が飢え倉粟を発して振恤。
  • 3月庚午朔、董氊が使を遣わし朝貢。辛未、畿内の寄菆の喪で帰る所のない者に地を給し官が瘞める詔。庚辰、礼部進士を親試。壬午、特奏名進士および武挙を試した。癸未、諸科明法を試した。董氊に緡銭・銀帛・対衣・金帯等の物を賜った。丙戌、雄州の両輸戸で南徙した者に復業を諭す詔。庚寅、汴・洛を疏じた。
  • 夏4月辛丑、金明池に幸し水嬉を観て瓊林苑で宴射。甲辰、遼が蕭晟らを遣わし同天節を賀した。丁巳、陳升之は検校太尉のまま同中書門下平章事・鎮江軍節度使・上柱国秀国公として致仕。己未、陳升之が卒した。癸亥、正旦御殿の儀を定めた。甲子、審刑院詳議・詳断官を増し刑部の校法官を罷める詔。この月、南康軍で甘露が降り眉州に瑞竹が生じた。
  • 5月丙子、順州の蛮が叛いたが峒兵が討平した。庚辰、濮安懿王の3夫人をともに王夫人と称し濮園に祔する詔。辛巳、太子太師致仕趙槩が集めた「諫林」を上呈。甲申、元絳は罷め亳州知事へ。乙酉、安南の軍で死事した孤寡に廩給する詔。戊子、御史中丞蔡確が参知政事。
  • 6月甲辰、広西で儂智春を捕斬しその妻子を献じた。戊申、蔡確に伝法宝録の編修を参定させる詔。癸丑、5路帥臣・副総管・軍臣僚にそれぞれ任将・大使臣に堪える者2人を挙げさせる詔。甲寅、清汴が成った。辛酉、鎮寧軍節度使魏国公宗懿を舒王に追封する詔。この月、南康軍で甘露が降り忠州で豆が雨のように降った。
  • 秋7月甲戌、張方平は太子少師として致仕。戊寅、朝会儀を詳定。己卯、中書に四方の詔獄を句考させる詔。庚辰、淮康軍節度使宗暉を同中書門下平章事とした。丁亥、郊廟礼儀を詳定。この月、陳州で芝草が生じ、南賔県で豆が雨のように降り、瓊州で甘露が降った。
  • 8月丙申朔、夏人が綏徳城を寇したが都監李浦がこれを破った。辛丑、涇原路の兵を11将に分けた。壬寅、八作司を東西の両司に復し監官にそれぞれ文臣1員・武臣2員を置いた。李清臣らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。甲寅、太学生舎を80斎に増し斎ごとに30人、外舎生2000人・内舎生300人とし、月に1度私試、歳に1度公試を行い、内舎生を補し間歳に1度舎試を行い上舎生を補する詔。潁州を順昌軍節度とした。この月、曹州で瑞穀が生じ河陽で芝草が生じた。
  • 9月癸未、順昌軍の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。甲申、西南龍蕃が朝貢。丁亥、集英殿で大宴。己丑、媫妤朱氏を昭容に進めた。壬辰、馬歩射格闘法を出し諸軍に頒布。甲午、西南羅蕃・方蕃が朝貢。
  • 冬10月丙申、西南石蕃が朝貢。癸卯、耤田令を置き水居船戸5戸から10戸で1甲とする詔。戊申、交阯が掠めた民を帰したことにより順州をこれに賜う詔。己酉、太皇太后が病み帝は視事せず。庚戌、景霊宮への朝謁を罷め輔臣に天地宗廟社稷に祈らせ天下の囚死罪を1等減じ流以下は釈放。乙卯、太皇太后が崩じた。戊午、太皇太后の園陵を山陵と改める詔。辛酉、群臣が七たび上表したことにより聴政を始め、王珪を山陵使とした。
  • 11月癸未、初めて崇政殿に御した。丁亥、土が雨のように降った。12月乙巳、御史中丞李定が国子監の敕式令ならびに学令、凡そ140条を上呈。丙午、御史六察を復置。庚申、遼が蕭寧らを遣わし正旦を賀した。この月、全州で芝草が生じ桂州で甘露が降った。