出自と生い立ち
- 神宗(諱は頊、のち改諱)は英宗の長子。母は宣仁聖烈皇后高氏。慶暦8年(1048年)4月戊寅、濮王宮で生まれた。誕生時、祥光が室を照らし群鼠が五色の気を吐いて雲となったという瑞祥が伝えられる。同年8月に仲鍼と名づけられ、率府副率を授かり、三たび遷って右千牛衛将軍に至った。
- 嘉祐8年(1063年)、英宗に従って慶寧宮に入り住んだ。かつて神人に抱かれて天に登る夢を見たと伝えられる。英宗の即位に伴い安州観察使を授かり安国公に封ぜられた。同年5月壬戌、東宮で経を受けた。
- 頊は容貌に常度があり、天性学を好み、日が暮れるまで問いを重ねて食事を忘れるほどであった。英宗はしばしば内侍に止めさせたという。大暑でも扇を用いず、侍講王陶が侍る際は弟の顥を率いて拝礼した。9月、忠武軍節度使・同中書門下平章事に加えられ淮陽郡王に封ぜられ、諱を改めた。
- 治平元年(1064年)6月、潁王に進封。治平3年(1066年)3月、故相向敏中の孫女を夫人に納れた。同年10月、英宗が病むと、頊は仁宗の故事に倣い2日に1度邇英閣に御して講読を行い人心を安んずるよう請うた。12月壬寅、皇太子に立てられた。
治平四年(1067年)
- 正月丁巳、英宗が崩じ、帝(神宗)が即位した。戊午、天下に大赦(常赦の対象外の罪は除く)。馮行已を遣わし遼へ告哀。己未、皇太后を尊んで太皇太后とし、皇后を皇太后とした。宰相韓琦を山陵使に任じ、辛酉、孫坦らを遣わし遼へ即位を告げ、大行皇帝の詔をもって夏国主および西蕃唃厮囉に賜物をした。丙寅、群臣が三たび上表し、初めて迎陽門の幄殿で聴政。先帝の病を診た内医で不謹慎な者は貶謫。東平郡王允弼・襄陽郡王允良に朔望の朝見を命じ、喪を終えた呉奎を枢密副使に復した。
- 戊辰、韓琦を守司空兼侍中、曾公亮を門下侍郎兼吏部尚書・英国公、文彦博を尚書左僕射検校司徒兼中書令、富弼を武寧軍節度使・鄭国公、曹佾を昭慶軍節度使検校太傅、張昪を河陽三城節度使、宗諤を同中書門下平章事・集慶軍節度使検校尚書左僕射、欧陽脩・趙槩をともに尚書左丞兼参知政事、陳升之を戸部侍郎、呂公弼を刑部侍郎に任じ、允弼・允良はともに守太保を加えた。弟の東陽郡王顥は昌王に、鄠国公頵は楽安郡王に進封され、群臣もそれぞれ官秩を進めた。
- 2月乙酉、初めて紫宸殿に御し向氏を皇后に立てた。丁亥、入内内侍省と皇城司の合同覆奏を条文どおり行わせた。戊子、交阯郡王李日尊を南平王に進封し、邈川首領董氊に検校太保を加えた。山陵の用度は三司・転運司に委ね民を煩わさぬよう詔した。医官院に御脈を診るに堪える者6人を試させた。庚寅、4月10日を同天節と定めた。辛卯、白虹が日を貫いた。壬辰、公主が降嫁する際は舅姑に見える礼を行うよう詔した。甲辰、西蕃首領拽羅鉢・鳩令結の2人が蕃部300余帳を誘って夏国に投じたため、これを捕らえて斬り晒した。
- 3月壬子、曹佾に検校太尉兼侍中を加え、礼部進士及第出身461人に賜物。甲寅、陝西宣撫使郭逵が蕃部党令征らを討ち平定。昌王顥に歳ごとの公使銭万緡の半分を給した。丙辰、昌王顥・楽安郡王頵が解官・服喪を願い出たが許されず。癸亥、入内内侍省官で既に寿聖節の任子を受けた者は同天節の推薦を停止するよう詔した。壬申、欧陽脩は亳州の知州へ。癸酉、呉奎は参知政事を罷免。乙亥、允良が薨じた。
- 閏3月癸未、太白が昼に見えた。甲申、夏国主諒祚が使を遣わして謝罪。辛卯、斉・密・登・華・頒・耀・鄜・絳・潤・婺・海・宿・饒・歙・吉・建・汀・潮の18州の知州、慶・渭・秦・延4州の通判の人選はすべて中書に委ね、恩例による奏授を認めないと詔した。乙未、張昪は太子太師として致仕。庚子、直言を求める詔。御史中丞王陶が知県資序の者を御史裏行に挙げることを願い出て許された。癸卯、王安石が江寧府の知府として出た。甲辰、諸路の帥臣・副総管の移易は慶暦の故事によるよう詔した。乙巳、農繁期にあたり監司が州県に事を省き民力を勧め、食に窮する民には振恤するよう戒めさせた。
- 夏4月庚戌、大行皇帝(英宗)の諡号を南郊に請うた。辛酉、内外から上がった封事を張方平・司馬光に詳定させるよう詔した。丙寅、囚を録し、御史中丞王陶・侍御史呉申・呂景が大臣を過度に毀損したとして、陶は陳州に出され、申・景はそれぞれ銅20斤の罰を受けた。呉奎は青州の知州に罷免され、使者を遣わし陝西・河北・京東・京西路を巡行させて安撫させた。壬申、奎は復位し、州郡の歳貢の飲食果薬を罷めた。癸酉、陝西・河東の経略転運司に、老病・怯懦な主兵の臣僚を察して報告させた。
- 5月辛巳、久しい旱に宰臣に雨を祈らせた。乙巳、宝文閣が成り学士・直学・待制の官を置いた。6月己酉、遼が蕭餘慶らを遣わし弔祭に来た。己未、河北の流民を振恤。辛未、徭役の利病を知り寛減を議し得る官吏があれば奏上するよう詔した。乙亥、中書・枢密の細務は有司に帰せしめる詔。
- 秋7月庚辰、富民と妃嬪家との婚姻により官を得た者を糾察させる詔。甲申、石蕃が朝貢。己丑、尚書戸部郎中趙抃・刑部郎中陳薦に中外の封事を詳定させた。辛卯、英宗の諡号「憲文粛武宣孝皇帝」を天地宗廟社稷に告げた。壬辰、宝冊を福寧殿に上げた。丙午、文州曲水県令宇文之邵が得失を指摘する上書。
- 8月丁未朔、太白が昼に見えた。戊午、西夏との和市を復した。己巳、京師で地震。癸酉、英宗を永厚陵に葬った。
- 9月丁丑、諸路の逃田の税額を減じる詔。壬午、僖祖および文懿皇后を祧遷。乙酉、英宗の神主を太廟に祔し、楽を「大英之舞」とした。戊子、両京畿内・鄭・孟州の囚罪を1等減じ、山陵の役に就いた民の賦を蠲免。辛卯、顥を岐王に、頵を高密郡王に徙封し、富弼を尚書左僕射とした。孫思恭らを遼へ遣わし報謝と生辰・正旦の賀を兼ねさせた。壬辰、周世宗の従曽孫貽廓を録して三班奉職とした。甲午、遼が耶律好謀らを遣わし即位を賀した。戊戌、王安石を翰林学士とした。辛丑、韓琦は司徒・鎮安武勝軍節度使・判相州として罷免。呉奎・陳升之は枢密副使を罷免。呂公弼を枢密使、張方平・趙抃をともに参知政事、邵亢を枢密副使とした。壬寅、曾公亮を尚書左僕射、文彦博を司空とした。潮州で地震。癸卯、権御史中丞司馬光を翰林学士とした。
- 冬10月丙午、漳・泉の諸州で地震。丁未、富弼は罷免され河陽の知事へ。戊申、建州・邵武・興化軍で地震。己酉、初めて邇英閣に御し侍臣に経史を講読させた。右諫議大夫権御史中丞滕甫に諸路監司の課績を考えさせた。張方平は父の喪により去位。庚戌、陝西転運司に度僧牒を給し霜旱の州県のため穀を糴わせた。癸丑、翰林学士・御史中丞・侍御史知雑事に、御史たるに堪える材2人ずつを挙げさせた。将作監主簿常秩を闕下に召す詔。甲寅、資治通鑑の序を製し司馬光に賜った。癸酉、青澗城の知事种諤が綏州を復した。
- 11月丁丑、近臣に才行あり任使すべき者1人を挙げさせる詔。戊寅、直言を求める詔。丙戌、二府に各々知る所を挙げさせる詔。丁亥、考課院に諸州が上げた県令の治状を詳定させた。戊子、宰臣に分けて雪を祈らせ、河東の交城県に馬監を置いた。庚寅、近臣が官を挙げて不当を経て3回劾されれば中書が別に取旨するよう詔した。乙未、内外の文武官に材徳行能ある者を挙げさせる詔。
- 12月丙辰、西南龍蕃が朝貢。辛酉、翌年の日食が正旦にあたるため乙丑から避殿・減膳し朝賀を罷める詔。壬戌、起居日に転対官2人を増す詔。丙寅、州県の吏が姦により獄を多くし瘐死者が多いことを詔し、歳末にその死者の多寡で罪を制する令を著した。己巳、遼が蕭傑らを遣わし正旦を賀した。
熙寧元年(1068年)
- 春正月甲戌朔、日食があり改元を詔した(熙寧と改元)。丁丑、旱により天下の囚罪を1等減じ杖以下は釈放。壬午、州県に暴露した骸を掩埋させる詔。丁亥、宰臣曾公亮らに闕失を極言させた。庚寅、御殿し膳を復した。壬辰、寺観に幸し雨を祈った。丙申、趙槩は徐州知事へ罷免、三司使唐介は参知政事に。丁酉、英宗実録の編修を詔した。壬寅、太学生を100人増した。
- 2月辛亥、諸路に毎季雨雪を上奏させる令。乙卯、孔若蒙が衍聖公を襲封。壬戌、河東の飢民に粟を貸した。
- 3月庚辰、夏主諒祚が卒し、使を遣わして告哀。丙戌、刑を恤む詔。戊子、太皇太后の慶寿宮・皇太后の宝慈宮を作った。丁酉、簡州で木が連理し、潭州で毛雨が降った。
- 夏4月乙巳、翰林学士王安石に順を越えて対を許す詔。戊申、宰臣に雨を祈らせ、枢密直学士李参を尚書右丞・判西京留守司御史台とした。辛亥、同天節に群臣と遼使が初めて紫宸殿で寿を上げた。
- 5月甲戌、飢民を募り廂軍に補した。庚辰、両制・国子監に諸王宮の学官を挙げさせる詔。戊戌、慶成軍を廃した。
- 6月癸卯、唐の魏徴・狄仁傑の後を録用。丁未、占城が朝貢。辛亥、諸路に水利を興させる詔。乙亥、河が棗彊県で決壊。丙寅、司馬光・滕甫に国用を裁定させた。
- 秋7月癸酉、謀殺しすでに傷つけた案件で自首を挙げた者は謀殺より2等減じる詔。乙亥、秦州に新築した大甘谷口砦を甘谷城と名づけた。丁丑、諸路の帥臣・監司および両制知雑御史以上に、武勇謀略ある三班使臣2名ずつを挙げさせる詔。布衣王安国に進士及第を賜った。己卯、群臣が三たび上表し「奉元憲道文武仁孝」の号を上るを請うたが許されず。陳升之を枢密院事に。濮州雷沢県の尭陵に守戸を給した。壬午、恩・冀州の河決に、水死した家に緡銭を、下戸に粟を賜った。甲申、京師で地震。乙酉、また震え大雨。辛卯、河朔の地震が大きかったため沿辺安撫司および雄州刺史に遼人の動静を候わせ報告させた。圧死者に緡銭を賜い、京師でまた地震。壬辰、御史中丞滕甫・知制誥呉充を遣わし河北を安撫させた。癸巳、深州が水に溢れた。甲午、河北路の囚罪を1等減じた。丁酉、河北安撫司に空名の誥敕を賜い民に粟の献納を募った。己亥、回鶻が朝貢。
- 8月壬寅、京東西路に河北の流民を存恤させる詔。京師で地震。甲辰、また震えた。乙卯、河東および鄜延路転運司に空名の誥敕を賜い民に粟の献納を募り辺を実たさせた。甲子、中書門下に近い属で年長の者1人を王に就かせるよう詔した。丙寅、宗諤の平章事を罷めた。丁卯、張宗益らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。
- 9月辛未、太祖の曽孫舒国公従式を安定郡王に進封。丁亥、后妃・臣僚の薦奏による推恩を減じた。戊子、莫州で地震があり雷のような音がした。丁酉、三司に宗室の月料・嫁娶・生日・郊礼の給賜を裁定させた。
- 冬10月辛丑、天下の繋囚に衣食薪炭を給した。乙卯、奉宸庫の珠を出して河北で馬を買わせた。戊辰、金を用いた服飾を禁じた。
- 11月癸酉、太白が昼に見えた。癸未、宰臣に雪を祈らせた。丙戌、太廟に朝饗し、郊宮で斎み、青城の後苑を廃した。丁亥、天地を圜丘に祀り天下に大赦、群臣は官秩を進めた。乙未、京師および莫州で地震。
- 12月己亥朔、宰臣に雪を祈らせた。癸卯、瀛州で大きな地震。庚戌、夏国主秉常に、塞門・安遠の2砦の納付を許し綏州を帰す詔を賜った。辛亥、唐の段秀実の後を録用。癸丑、郊廟社稷に雪を祈った。庚申、汝州知事富弼を集禧観使とし駅を乗って闕下に赴くよう詔した。壬戌、雪。甲子、遼が耶律公質らを遣わし正旦を賀した。
熙寧二年(1069年)
- 春正月丙午、英宗の神御を景霊宮英徳殿に奉安。
- 2月己亥、富弼を同中書門下平章事とした。庚子、王安石を参知政事とし、翰林学士呂公著に英宗実録を修めさせた。乙巳、帝は災変により正殿を避け膳を減じ楽を徹した。甲子、陳升之・王安石が三司条例を創置し新法を議行した(新法の始まり)。
- 3月乙酉、漕運・塩鉄などの官にそれぞれ財用の利害を具申させる詔。丙戌、宰臣に雨を祈らせた。戊子、秉常が誓表を上げ塞門・安遠の2砦を納め綏州を乞い、これを許した。乙未、旱により囚を慮った。
- 夏4月丁酉朔、群臣が再び尊号を上表したが許されず。戊戌、内外の土木工事を省いた。壬寅、遼が耶律昌らを遣わし同天節を賀した。丁未、唐介が薨じ、帝はその喪に臨んだ。戊申、宰臣富弼・曾公亮が旱により待罪を上表したが許されず。癸丑、曾公亮を西京の仁宗・英宗御容奉安礼儀使とした。丁巳、使を諸路に遣わし農田水利・賦役を察させた。戊午、外任の大使臣で70歳以上の者は監司の体量により致仕を直除し、子孫への推恩を与えないとした。甲子、御殿し膳を復し、河北の帰業流民の夏税を免じた。
- 5月辛未、紫宸殿で宴し初めて楽を用いた。己卯、河北の役兵に特支銭を賜った。癸未、翰林学士鄭獬は杭州知事へ罷免、宣徽北院使王拱辰は応天府の判官へ罷免、知制誥銭公輔は江寧府知事へ罷免。丁亥、仁宗・英宗の御容を会聖宮および応天院に奉安。甲午、西京の囚罪を1等減じた。台州の民延賛ら9人、いずれも百歳以上でともに本州の助教を授かった。
- 6月丁巳、右諫議大夫御史中丞呂誨が王安石を論じたことで鄧州知事へ罷免。翰林学士呂公著を御史中丞とした。龍図閣直学士張掞に勲臣子孫の録用の編排を兼ねさせた。壬戌、太白が昼に見えた。
- 秋7月乙丑朔、日食にあたったが雲陰で見えず。庚午、御史中丞に推直官および権御史たり得る者を挙げさせる詔。甲戌、東平郡王允弼が薨じた。辛巳、淮・浙・江・湖6路の均輸法を立てた。壬午、水害を被った州軍を振恤し竹木税・酒課を蠲免。癸未、今後文臣が右職に換わるには実際に謀勇の績効があってこそ取旨するとの詔。甲申、日の下に五色雲が現れた。己丑、韓琦が仁宗実録を、曾公亮が英宗実録を上呈。
- 8月癸卯、侍御史劉琦は処州塩酒務監へ、御史裏行銭顗は衢州塩税監へ、いずれも王安石を論じたことによる貶謫。乙巳、殿中侍御史孫昌齢は新法を論じ蘄州通判へ貶謫。丙午、同修起居注范純仁は言事が安石に多く逆らったとして同知諫院を罷免。戊申、河が東へ流路を変え、夏国が旧蕃儀に従うよう請いこれを許した。己酉、范純仁は河中府知事へ。甲寅、神御殿に朝した。辛酉、秘書省著作佐郎程顥・王子韶をともに太子中允権監察御史裏行とした。壬戌、侍御史知雑事劉述が刑部同判の丁諷の刑名の敕を受けてすぐ下さなかった罪により述は江州知事へ貶謫、諷は復州通判へ貶謫。審刑院詳議官王師元は許遵が論じた刑名を不当と言ったことにより安州税監へ貶謫。
- 9月甲子朔、交州が朝貢。乙丑、古勿峒の効順首領儂智会を右千牛衛大将軍とした。丁卯、常平給斂法を立てた。戊辰、内庫の緡銭百万を出して河北の常平粟を糴わせた。丁丑、孫固らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。辛卯、奉慈殿を廃した。壬辰、秘書省著作佐郎呂恵卿を太子中允崇政殿説書とした。
- 冬10月丙申、富弼は武寧軍節度使・判亳州へ罷免。曾公亮・陳升之はともに同中書門下平章事。綏州を築くにあたり郭逵に将を選び守具を置かせた。逵は趙卨を遣わし夏人から納められた安遠・塞門の2砦の地界を確定させたが、夏人は当初の盟を破ったため卨は2砦と引き換えずに綏州を築くことを請い、綏徳城と改名した。戊戌、蕃官礼賓使折継世を忠州刺史、左監門衛将軍嵬名山を供備庫使とし趙懐順の姓名を賜った。丙辰、御史の請対は直ちに閣門より上殿することを許す詔。戊午、宗諤が平章事に復した。己未、夏人が封冊を謝しに来た。辛酉、楊承信の曽孫立・田重進の曽孫章を録して三班借職とした。
- 11月乙丑、韓絳に三司条例を制置させた。甲戌、祖宗の後で世襲・補外官の者は袒免親でなければ賜名授官を罷めるとの詔。丙子、諸路の提刑武臣を罷め農田水利の約束を頒布。壬午、邇英閣に御して聴講し汴口の役兵に銭を賜った。己丑、天下の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。
- 閏11月庚子、御河を濬った。壬子、交子務を置いた。この月、諸路に常平広恵倉を提挙し農田水利・差役の事を管勾する官を差した。
- 12月癸亥朔、后妃・公主・臣僚への推恩をまた減じた。癸酉、失入死罪の法を増した。丙戌、三京留司御史台・国子監および宮観官を増し卿監・監司・知州の老いた者を処遇させた。戊子、遼が蕭惟禧を遣わし正旦を賀した。この年、交州が朝貢した。