出自と生い立ち
- 英宗、体乾応暦隆功盛徳憲文粛武睿聖宣孝皇帝、諱は曙。濮安懿王允譲の第十三子、母は仙游県君任氏。明道元年(1032年)正月三日、宣平坊第で生まれた。王(允譲)は夢に両龍が日とともに堕ちるのを衣で承ける夢を見、帝が生まれると赤光が室に満ち黄龍が光の中を游ぐのを見た者があったという。四歳で仁宗が宮中で養い、宝元二年(1039年)豫王が生まれたので濮邸に帰った。帝は天性篤孝で読書を好み燕嬉褻慢を為さず服御は儒者のように倹素で、常に朝服で教授に見え「師なり、あえて礼を為さぬわけにはいかない」と言った。当時呉王宮教呉克が宗室六箴を進上し、仁宗はこれを宗正に付し帝は屏風に書いて自戒とした。景祐三年(1036年)名を宗実と賜り左監門衛率府副率を授かり、累遷して右羽林軍大将軍宜州刺史となり、皇祐二年(1050年)右衛大将軍岳州団練使となった。嘉祐年間、宰相韓琦らが建儲を請うと、仁宗は「宗子には既に賢知で付託できる者がいる、卿らは憂えるな」と言った。当時帝は濮王の喪に服していたが、嘉祐六年(1061年)十月辛卯、秦州防禦使知宗正寺に起用され、帝は喪を終えるまで辞すことを四たび奏し許され、喪が終わると再び前の命が授けられたが再び辞した。嘉祐七年(1062年)八月、宗正を罷めることを許され再び岳州団練使となったが、戊寅、皇子に立てられ癸未に今の名(曙)に改められた。帝はこの詔を聞くとなお病を称して辞退を固くしたが、同判大宗正事安国公従古らが往いて旨を諭し、床を起きて入り、甲辰、清居殿に見え、以後日に二度朝し、あるいは宮中に入侍した。九月、斉州防禦使鉅鹿郡公に遷された。嘉祐八年(1063年)、仁宗が崩じた。
嘉祐八年(1063年)
- 夏四月壬申朔、皇后が遺詔を伝え帝に嗣皇帝位を命じ、百官が入哭し哀を尽くした。韓琦が遺制を宣し、帝は東楹に御して百官に見えた。癸酉、天下大赦、百官に爵一等を賜い諸軍を乾興の故事のように優賞し、王道恭を遣わし契丹に哀を告げた。帝が亮陰三年(喪に服し政事を執らぬこと)を望み韓琦に冢宰を摂させようとしたが宰臣が不可としこれを止めた。乙亥、帝が不予となり韓縝らを遣わし契丹に即位を告げ、丙子、皇后を皇太后と尊び、己卯、皇太后に聴政を請うことを詔し、壬午、皇太后が小殿に御し垂簾、宰臣が事を覆奏した。乙酉、受命宝を作り、丁亥、皇子右千牛衛将軍仲鍼を安州観察使光国公とした。熒惑が嘉祐七年八月庚辰から見えなかったが宰臣に祈禳を命じ、この月己丑、東方に見えた。庚子、京兆郡君高氏を皇后に立てた。五月戊午、富弼を樞密使とし、戊辰、初めて延和殿に御した。疾がまだ平らかでないため宰臣に天地・宗廟・社稷及び寺観で祈福させ、また岳瀆名山に禱らせた。六月辛卯、契丹が蕭福延らを遣わし祭弔に来た。秋七月壬子、初めて紫宸殿に御した。帝は六月癸酉から殿に御しておらず、これに至って初めて百官に見えた。癸亥、歳星昼見、乙丑、星数百が大小それぞれ西に流れ、戊辰、百官が大行皇帝の諡を南郊で請うた。八月癸巳、生日を寿聖節とした。九月辛亥、光国公仲鍼を忠武軍節度使同中書門下平章事淮南郡王とし名を頊と改め、戊午、仁宗の諡冊を福寧殿で上げた。冬十月甲午、仁宗を永昭陵に葬り、十一月丙午、太廟に祔し、大風霾があった。己酉、東西二京の罪囚を一等減じ、山陵役戸及び霊駕の経る民租を免じた。辛亥、契丹が蕭素らを遣わし即位を賀した。十一月己巳、初めて邇英閣に御し侍臣を召して経史を講読させ、乙亥、淮陽郡王頊が出閣した。この歳、于闐・西南蕃が来貢した。
治平元年(1064年)
- 正月丁酉朔、改元。戊戌、太白昼見、己亥、寿聖節に百官及び契丹使が紫宸殿で初めて寿を上げた。甲寅、知唐州趙尚寛が溝堰を修め戸口を増した功で一官を進め銭二十万を賜った。三月壬寅、秦悼王の冢を修め守護官を置くことを命じ、戊午、囚を録し、辛酉、雨土(黄砂)が降った。夏四月癸未、宮女百三十五人を放ち、甲午、相国・天清寺・醴泉観で雨を祈り諸軍に銭を差等をもって賜った。五月己亥、二股河を浚渫し、戊申、皇太后が政を還し、庚戌、初めて前後殿に日ごと御し、壬子、皇太后が聖旨を称し出入の儀衛は章献太后の故事のようにすること、内侍が須があれば聖旨を録して有司に付し覆奏の上ただちに行うことを詔した。丙辰、皇太后の宮殿の名を慈寿とし、己未、熒惑が太微上将を犯し、壬戌、病が愈えたことで宰臣に天地・宗廟・社稷及び宮観への謝を命じた。閏月戊辰、輔臣の爵を一等進め、六月己亥、淮陽郡王頊を潁王、祈国公顥を保寧軍節度使同中書門下平章事、東陽郡王鄠国公頵を左衛上将軍とし、宗室教授を増した。丁未、同知大宗正事一員を増し、辛亥、睦親・広親宅を作った。辛酉、太白昼見、壬戌、歳星昼見。八月甲辰、周世宗の後を録し、甲寅、太白が太微垣に入り、乙卯、兵部員外郎呂誨ら四人を賀契丹太后生辰正旦使、刑部郎中章岷ら四人を賀契丹主生辰正旦使とした。丙辰、内侍都知任守忠が不法の罪で保信軍節度副使に貶され蘄州に安置され、丁巳、上供米三万石をもって宿・亳二州の水災戸を振済した。九月丁卯、武挙を復し、庚午、夏国に使人を精選し彜章を紊させぬよう戒励することを詔した。冬十月丙申、中外近臣・監司に治行が素著で升擢に備え得る者二人を挙げさせることを詔した。十一月乙亥、陜西の戸三丁の一を科して刺し義勇軍とすること、凡そ十三万八千四百六十五人にそれぞれ銭二千を賜うことにしたが、諫官司馬光が累々と疏を上げて諫めたものの許されなかった。戊寅、内侍の養子令を復し、十二月乙巳、雨土が降り、丙辰、契丹が耶律烈らを遣わし寿聖節を賀し、蕭禧らが明年の正旦を賀した。この歳、畿内・宋・亳・陳・許・汝・蔡・唐・潁・曹・濮・済・単・濠・泗・廬・寿・楚・杭・宣・洪・鄂・施・渝州・光化・高郵軍で大水があり、使を遣わし行視・疏治・振恤しその賦租を蠲じた。西蕃瞎氈の子瞎欺米征が内附した。
治平二年(1065年)
- 正月甲戌、蔡州を振済し、二月甲辰、大風で昼が冥み、丁未、囚を録した。この月、礼部奏名進士明経諸科及第出身三百六十一人を賜った。三月己巳、明天暦を頒し、夏四月戊戌、濮安懿王を崇奉する典礼を議することを詔し、辛丑、監司・知州が歳ごとに吏を薦めるにあたり徒らに数を充てぬことを詔した。丙午、仁宗御容を景霊宮に安んじ、丁未、白気が西方に起こった。五月癸亥、名実を綜核して臣下を励むことを詔し、丙子、自今皇子及び宗室の属卑い者には検校師傅官を授けぬことを詔し、乙酉、宗室で王に封ぜられた者の子孫は爵を襲することを詔した。六月壬辰、囚を録し、己酉、尚書省に三省・御史台を集め濮安懿王の典礼を議させることを詔した。甲寅、尚書省の集議を罷め有司に博く典故を求めさせ経に合うことを務めさせ、官を遣わし契丹と疆界を定めさせた。
- 秋七月癸亥、富弼が罷め、丙寅、乗輿服御を減じることを詔し、丙子、宮女百八十人を放ち、丁丑、太白昼見、己卯、羣臣が五度尊号を上げたが許されなかった。庚辰、張昪が罷め文彦博を樞密使とした。八月庚寅、京師で大雨水があり、癸巳、被水の諸軍に米を賜い、官を遣わし軍民の水死者千五百八十人を視てその家に緡銭を賜い無主の者は葬祭した。乙未、水災により責躬乞言を詔した。当初、学士が詔を草する際「執政大臣はそれ天変を惕思せよ」と書いたが、帝はその後に「雨災は専ら朕の不徳を戒めるものであり『協徳交脩』と改めるべきだ」と書いた。己亥、水災により開楽宴を罷め、壬子、工部郎中蔡杭らを賀契丹生辰使、侍御史趙鼎らを賀契丹正旦使とした。乙卯、衮冕の制度を減じ、丙辰、陜西に壮城兵を置いた。九月壬戌、雨により大宴を罷め、己巳、災異・風俗により制挙人を策問し、壬午、太白が南斗を犯し、乙酉、久雨により使を遣わし岳瀆名山大川に祈らせた。冬十月乙巳、雨木氷が降り、十一月庚午、景霊宮に朝饗、辛未、太廟に饗し、壬申、南郊で事を行い天下大赦、皇太后に冊を上げ皇后に冊を上げ、斉州を興徳軍節度とした。辛巳、百官に加恩し、十二月辛亥、太白昼見。この歳、蒋波・繡雲龍賜等州が来貢した。
治平三年(1066年)
- 正月丙辰朔、契丹が使者耶律仲達らを遣わし正旦を賀し、戊午、契丹が使者蕭惟輔らを遣わし寿聖節を賀した。丙寅、降聖院に幸して神御殿に謁し、癸酉、契丹が国号を改めて遼とした。己卯、温州で火災があり民屋一万四千間を焼き死者五千人に及んだ。丁丑、皇太后が書を下し中書門下に、濮安懿王を前代の故事のように封じ、王夫人王氏・韓氏・任氏は皇帝が親と称してよいこと、濮安懿王を尊んで皇と、夫人を后とするかについては慈訓に遵い塋を園とし守衛の吏を置き、園に廟を立て王の子孫に祠事を主らせることとした皇太后の旨のとおり詔した。辛巳、臣民が濮安懿王の諱を避けることを詔し、王の子宗懿を濮国公とした。壬午、御史呂誨・范純仁・呂大防を黜けた。二月乙酉朔、白虹が日を貫いた。三月庚申、彗星が晨に室に現れ、辛酉、諫官傅堯兪、御史趙鼎・趙瞻を黜けた。戊辰、帝が親しく囚を録し、庚午、彗星により正殿を避け膳を減じ、辛未、呂誨らを黜けたことを内外に詔した。癸酉、災異により責躬し、転運使に獄訟・調役の利病の大なるものを察し聞かせることを詔した。辛巳、彗星が晨に昴に現れ太白のごとく長さ丈五尺、壬午、孛星が畢に現れ月のようであった。夏四月丙午、有司に管轄地の左道淫祀及び賊殺善良で令に奉じぬ者を察させ罪を赦さぬことを詔した。五月甲子、知雑御史・観察使以上の歳挙人を罷め、乙丑、彗星が張に至り没した。戊辰、帝が宰相に「朕は公らと日ごと治道を論じたい。中書で常務に定制ある者は有司に付し行わせよ」と語った。六月己酉、囚を録した。
- 秋七月乙丑、濮王の子孫及び魯王の孫の爵を一等進めた。八月庚午、傅卞らを遣わし遼主の生辰を賀し、張師顔らが正旦を賀した。九月壬子朔日食があり、癸亥、待制・諫官・朝官・少卿・郎中の遷選歳月補員格を定め、庚辰、妃嬪・公主以下が薦服の親の夫を薦めるのを禁じた。冬十月壬午朔、仙游県君任氏の墳域を園とし、乙酉、両日に一度邇英閣に御することを詔し、丁亥、礼部に三歳一貢挙を詔した。甲午、宰臣・参知政事に才行ある士で館職を試みることができる者各五人を挙げさせることを詔した。十一月戊午、帝が不予となり大慶殿で禱り、己未、宰相が初めて奏事した。辛酉、天下の囚死罪を一等降し流罪以下を釈放した。十二月乙未、宰相が天地・宗廟・社稷に祈り、壬寅、潁王頊を皇太子に立て、癸卯、天下大赦、文武官の子で父の後を為す者に勲一転を賜った。遼が蕭靖らを遣わし正旦・寿聖節を賀した。この歳、使を遣わし違約数寇を理由に夏国を責め、諒祚が方物を献じ罪を謝した。
治平四年(1067年)
- 正月庚戌朔、羣臣が「体乾膺暦文武聖孝皇帝」の尊号を上げ、天下の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放、大風霾があった。辛亥、京師の逋麹銭を蠲じ、丁巳、帝が福寧殿で崩じた。寿三十六、諡を憲文粛武宣孝皇帝、廟号を英宗とした。
英宗の人となり
- 帝は睦親宅にいた頃から孝徳が著名であった。濮安懿王が薨じた際、身に着けた服玩物を諸子に分けたが、帝が得た分はすべて王府の旧人で葬儀の後に去っていく者たちに与えた。宗室の中に金帯を借りて銅帯に取り替えて返した者があり、主吏がこれを告げると、帝は「まことに私の帯である」と言って受け取った。殿侍が犀帯を鬻いで銭三十万を得たのちこれを亡くしたが、帝もまた咎めなかった。当初、皇子に推される話を辞退していた頃、潭王宮教授周孟陽が奏を作らせられたが、孟陽が勧戒すべき点を述べるとすぐに謝して拝礼し、十余度奏しても許されなかった。ようやく召に応じるに際して舎人を戒めて「わが舎を謹んで守れ。上に適嗣が定まれば私は帰る」と言った。皇子となってからも慎静恭黙で為すところが無いようであったが、天下は暗にその聖徳あることを知った。即位すると常に近臣に命じる際も必ず官名で呼び姓名を呼ばなかった。大臣が従容としてこれを言うと、帝は「朕は宮中にあっても小臣に命じる際、いまだ嘗て姓名で呼んだことはない」と言った。ある日、神宗に語って「国家の旧制では士大夫の子で帝女に尚(めあわせ)す者はみな行を升げて舅姑の尊を避けるが、これは義として甚だ無理がある。朕は嘗てこれを思い寝ても覚めても不平であった。どうして富貴のゆえに人倫・長幼の序を屈げてよかろうか。有司に詔してこれを革めさせるべきだ」と言ったが、病に会って果たさなかった。神宗がこの事を述べたものである。
史論
- 賛にいう。昔の人が「天の命ずるところ、人はこれに違うことができない」と言ったのは、まことにその通りである。英宗は明哲の資をもって継統の命を受け、心を執って固く辞し、まるで終身そのままでいるかのようであったが、ついに帝位に就いた。これは天命でなくして何であろうか。政に臨むに及んでは、臣下が奏があれば必ず朝廷の故事と古の治にふさわしいものを問い、裁決あるごとにみな羣臣の意表に出た。疾病のために大いに為すところを成し得なかったとはいえ、百世の下に高風を欽仰し至徳を詠嘆させるのは、なんと盛んなことであろうか。あの隋の晋王広、唐の魏王泰が神器を窺覦し矯揉して嫡を奪い禍の原を啓いたのとは、まことに何たる心の違いであろうか、まことに何たる心の違いであろうか。