大中祥符四年(1011年)
- 正月、祀事に汾陰行幸の準備。汾陰の后土を祀る儀を習わせ、丁亥に汾陰に赴いて啓聖院の太宗神御殿・普安院の元德皇后聖容を謁した。天書再降の日(六月六日)を天貺節と定めた。天書を奉じて京師を発する日、黄気・五色雲・紫気などの瑞祥が現れたと記す。判河陽張齊賢が氾水頓で拝謁し、陳堯叟が白鹿を献じた。訾村で諸陵を望拝し、慈澗頓で耕民に茶を賜った。
- 二月、扈駕の諸軍に緡銭を賜い、華州が芝草を献じ、東京の獄が空となった。潼関を出て渭河を渡り、近臣に西嶽を祠らせた。河中府を経て寶鼎縣の奉祗宮に至り、后土地祗を祀った夜、月に重輪が現れたと記す。開元寺に幸して大寧宮を作った。甘州回鶻・蒲端・三麻蘭・勿巡・蒲婆・大食国・吐蕃諸族が来貢し、大赦を行った。文武官の遷秩・恩叙を定め、寶鼎縣を慶成軍とし、建隆以来の佐命の功臣・公主・将相の墓所に祭を致した。天下に三日の酺を賜い、羣臣を穆清殿に宴し、父老に酒食・衣幣を賜った。汾隂配饗銘・河瀆四海賛を作らせた。草澤の李瀆・劉㢲を召したが疾を理由に辞し、㢲に大理評事を授けた。
- 三月、寧王元偓に服帯・鞍馬を加賜し、華州で雲台観に幸し、宣澤亭で宴して隠士鄭隱・李寧を召し茶果・束帛を賜った。閿郷縣で道士柴又玄に無為の要を問い、虢州の父老を湖城行宮で宴した。陜州で草澤魏野を召したが疾で至らず、西京に至り河北縁辺の工役を罷めた。上清宮・崇法院に幸し、呂䝉正の第に移幸して服御・金幣を賜った。大明殿で大宴し、経歴した歴代帝王の祠廟の修葺を命じた。五鳳楼に御して観酺し、朝陵にあたり西京から鞏縣まで奏楽を停めさせ、扈従の者が田稼を踏むのを禁じた。西京を発って安陵・永昌の諸陵を謁し、列子廟に幸して潘孝子の墓を表彰した。
- 夏四月、汾陰から還り、元偁の宮に幸して疾を視た。駙馬都尉李遵勗は峡路鈐轄として乱を起こした夷人王羣体らを勝手に処刑した罪により均州団練副使に落とされたが、異俗ゆえに死を免じ配隷とした。含光殿で大宴し、種放が終南に帰るのを餞した。王旦に右僕射を加え、元佐を太尉とし、元偓を相王に進封した。元偓の宮に幸して疾を視、尚書省を修め、王欽若を吏部尚書、陳堯叟を戸部尚書、馮拯を工部尚書に加えた。
- 五月、張齊賢を左僕射とし、許国公呂䝉正が薨じた。交阯郡王李公蘊に同平章事を加え、廬・宿・泗等州で麦が自生したと奏された。北宅に幸して徳存の疾を視、京兆の旱に振済を命じ、州城に孔子廟を置かせ、五嶽の帝号を上げて奉神述を作らせた。死罪以下の囚を降等・釈放し、六月、太白昼見、亳州で二龍が現れ、徳存が卒した。江淮南の水災を安撫させた。
- 秋七月、閩浙・荆湖・広南の歳丁銭四十五万を除き、韓国・呉国・隋国の長公主を衛国・楚国・越国長公主に進封した。眉・昌等州で地震があり、濱・棣州の水災田租を蠲じ、江・洪・筠・袁で江水が漲り民田を没した。
- 八月、太白昼見、南宮に幸して惟敘の疾を視、畬田の租を除いた。青州の孤老・惸独の民に帛を賜い、惟敘が卒した。唐の長孫無忌・叚秀実らの子孫に授官し、刑政・辺防を言う文武官に対を賜った。甘州回紇可汗夜落紇が表を奉じて来朝した。
- 九月、御製大中祥符頌を大承天祥符門に刻ませ、河が通利軍で決壊し州城・田廬を傷つけたため粟を発して振済した。涇原鈐轄曹瑋の建議で籠竿川の熟戸蕃部の閒田に募兵を置き、太乙宮に幸して晴を祈った。向敏中らを五嶽奉冊使とし、乾元殿で観酺した。
- 冬十月、朝元殿で五嶽の冊を発し、江淮の塩酒価を定めるにあたり有司が歳課の減少を懸念すると、帝は「民の便を優先すべきで歳入は顧みない」と答えた。十一月、占城国が獅子を貢し、服勤詞学経明行修の貢挙人を試した。十二月、楚・泰州の潮害の租を復し、溺人に銭粟を賜った。この歳、西涼府・夏・交州・甘州の諸溪峒蛮が来貢し、畿内で蝗、河北・陜西・剣南が饑え、吉州・臨江軍で江水が溢れ民田舎を害し、兗州で虸蚄虫の害は無かった。
大中祥符五年(1012年)
- 正月、処州処士周啓明に粟帛を賜い、雨木氷が降った。元偁の宮に幸して疾を視、河が棣州で決壊した。二月、貢挙人の公罪を贖として聴し、官吏に濱・棣州の水災農民の安撫を命じた。三月、礼部挙人を御試し、峒酋田仕瓊らが溪布を貢した。王旦らに特進功臣を加え、濱・棣州の民が入城市する税を一年免じた。
- 夏四月、向敏中を平章事とし、有司が茶を法に違い販ぐ者の連坐告発を請うたが、帝は「利をもって俗を敗るは国体でない」と許さなかった。通・泰・楚州の塩亭戸の積負丁額課塩を除いた。五月、江淮・両浙の旱に占城稲種を給し民に植えさせ、修儀劉氏を徳妃に進封した。棣州の租十分の三を免じ、金華殿の産麦を近臣に賜った。六月、杭州草沢林逋に粟帛を賜い、常参官が幕職州県官を挙げて京官に充てることを詔した。邵武軍の水害者に銭粟を賜った。
- 秋七月、保康門を作り、八月朔日食があり、周太祖の葬・冠剣地の樵採を禁じた。張齊賢が司空致仕となり、樞密直学士を六員に限置し、淮南の旱に運河水を減らし民田を灌漑、租限を寛にし、民を流亡させた州県官吏を罪した。五嶽観を作った。九月、張齊賢が入対し、延安橋・大相国寺・上清宮に幸し宜春苑で射を行った。澄海三指揮を嶺北州郡に徙し、王欽若・陳堯叟を並んで樞密使同平章事、丁謂を戸部侍郎参知政事とした。
- 冬十月、故鄆王・兗王の宮に幸し、延恩殿の道場で九天司命天尊が降ったとし、大赦して致仕官に全俸を賜った。崇儒術論を国学に刻石させ、閏月、聖祖の尊号を上げ、太廟に謝し、先天降聖節(五日休沐輟刑)を立てた。聖祖母の懿号を加え太廟六室の尊諡とし、羣臣が「崇文広武感天尊道応眞佑徳上聖欽明仁孝皇帝」の尊号を上げた。舒州で得た瑞石に「誌公記」の文があったといい、景霊宮太極観を寿邱に建てた。安軍で聖像を鋳た際に龍が雲中に現れたとし、御製の配享楽章・二舞名(文は発祥流慶、武は降真観徳)を作らせた。
- 十一月、朝元殿で玉皇を親祀し、王旦に門下侍郎、向敏中に中書侍郎、楚王元佐に太師、相王元偓に太傅、舒王元偁に太保を加え、内外官に加恩、玉清昭応宮使を置き王旦を任じた。汴水発願文を作り、允言の朝参を許し、珍禽異獣の献上を罷めた。十二月、景福殿使を置き、景霊宮を作った。京師大寒に官炭四十万を市直半減で鬻ぎ貧民を救い、玄聖文宣王の諡を至聖文宣王と改めた。溪峒張文喬ら八百人が来朝し、知天雄軍寇凖の獄が空となり奨を詔した。泗州の飢を賑し、天慶等節日の民の軽罪を釈し、徳妃劉氏を皇后に立てた。この歳、交州・甘州・西涼府・溪峒蛮が来貢し、京城・河北・淮南の饑に穀を減価で鬻ぎ流民を済った。
大中祥符六年(1013年)
- 正月、朝元殿で朝を受け、司天監が五星同色を言上、配隷法十二条を減じ、内臣が出使して民政に預ることを禁じた。京師に五日の酺を賜い、衛国・楚国・越国長公主三人を徐国・邠国・宿国に進封した。淑儀・淑容・順儀・順容・婉儀・婉容を昭儀の上に、司宮令を尚書の上に置き、媫妤楊氏を婉儀、貴人戴氏を修儀、美人曹氏を媫妤とした。宗正寺に帝籍を玉牒とすることを詔した。
- 二月、観酺し、泰州が海陵の草中に聖米を生じ饑を済えると言上した。三月、沙門島流人の軽罪者を近地に徙し、安軍で玉皇・聖祖・太祖・太宗の尊像を鋳終え、丁謂を迎奉使とした。夏四月、淮南の饑民に粥を給し麦の登熟で止めた。太白昼見、元偁の宮に幸して疾を視、諸州の死罪疑わしき者を詳審して聞くことを詔した。五月、伎術官で未升朝の者に緋紫を賜っても魚を佩びぬことを詔した。聖像が至り、聖像の経る郡邑の死罪繋囚を減じ、安軍を眞州に昇格、聖像を玉清宮に安んじ、諸陵に奏告した。
- 六月、惟和が卒し、趙州で黒龍が現れ、寿州が紫茎金芝を献じた。安軍で雨河が溢れ兵民が溺死、振済させた。翰林学士陳彭年らに三司編勅を刪定させ、諸州の黄帝祠廟を崇飾した。秋七月、上清宮の道場で香合中に龍を得たとし、中書門下が元徳皇后の祔廟を表請、行配祔礼を行った。天下に農器の税を課さぬよう詔し、亳州の官吏父老三千三百人が太清宮への謁を請うた。
- 八月、来春の親謁亳州太清宮を詔し、丁謂を奉祀経度制置使とし、太清宮五里内の樵採を禁じ、太上老君を混元上徳皇帝に加号し礼儀院を置いた。九月、元偁の宮に幸して疾を視、玉宸殿で占城稲を種えて百官に示した。冬十月、元徳皇后が祔廟し、亳州太清宮の枯檜が再生、眞源縣で菽麦が再実したとした。玉清昭応宮に謁し、歩虚詞を道門に付し、降聖節に先天節と同じ会を賜った。
- 十一月、元偁の宮に幸して疾を視、御史台に九経諸史を賜い、亳州判の丁謂が芝草三万七千本を献じた。龜兹が遣使来貢した。十二月朔日食があり、涇原鈐轄曹瑋が原州界を討ち藏族の違命者を捕らえたと言上、回鶻が遣使来貢した。天書扶侍使趙安仁らが天書車輅・鼓吹・儀仗を奉り朝元殿に献じ、玉清昭応宮・太廟に告げた。開宝寺・上清宮・太一宮に幸し、戎瀘蛮の寇が平らいだ。この歳、西蕃・高州蛮・龜兹が来貢した。
大中祥符七年(1014年)
- 正月、囚を慮り、車駕が天書を奉じて京師を発ち、奉元宮で亳州判丁謂が白鹿一・芝九万五千本を献じた。王旦が混元上徳皇帝の冊宝を上呈し、太清宮に朝謁、天書を輅に升せる際に雨雪がたちまち晴れ、法駕が進むと佳気が満ち、夜に月重輪が現れたとした。先天観・広霊洞霄宮に幸し、亳州と車駕の経る地の流罪以下を曲赦、亳州を集慶軍節度に昇格させ歳賦十分の二を減じ、奉元宮を明道宮と改めた。太史が含誉星を言上、均慶楼で三日の酺を賜い、頓遞で民田を侵した所に二年の復を給し、南京歸徳殿を建て境内・京畿・車駕の経る地の流罪以下を赦し、太祖幕府の元勲僚旧・逮事した常参官を進秩、子孫への授官を聴し、鴻慶宮を作った。
- 二月、襄邑縣で皇子が来朝し、夏州趙徳明が遣使して行闕に朝貢、亳州から至り天地壇に非執事の妄りな臨席を斬罪とし、太廟に饗し、天地を恭謝して天下大赦、益州で大鉄銭を鋳た。三月、淯井監に城を築き、雄州の甲仗庫で火事、宰相王旦・向敏中・楚王元佐・相王元偓・舒王元偁・栄王元儼に樞密使同平章事を加え、翔鸞閣で宴し、儀州の饑に粟を発して振済、諸州観察使に刺史を兼ねさせた。
- 夏四月、元偁の宮に幸して疾を視、皇子を慶国公に封じ、青州の民趙嵩(110歳)を存問した。西涼府厮鐸督が遣使来貢し、淮南諸州の民租十分の二を賜い、河南府の獄が空となり鳩が戸に巣くい二雛を生んだとした。帰義軍留後曹賢順を帰義軍節度使とし、舒王元偁が薨じた。五月、王旦を兗州景霊宮朝修使とし、また天書刻玉使とした。涇原言に葉施族の大首領艶般が族を率い帰順したとある。
- 六月、黄帝の名号を斥用する文字を禁じ、眉州通判董栄の受賄鬻獄・長安知縣王文亀の酗酒濫刑をともに荒裔に投じた。州県官吏に罪を決するにあたり法を超えぬよう戒め、婉儀楊氏を淑妃に封じた。樞密使王欽若が罷めて吏部尚書、陳堯叟が戸部尚書、寇凖を樞密使同平章事とした。棣州の水流で帰業した民に三年の復を給した。
- 秋七月、交州李公蘊が鶴柘蛮を敗り献捷、太白昼見、同州観察使王嗣宗・内客省使曹利用をともに樞密副使とした。八月、景霊宮使を置き向敏中を任じ、江淮両浙の被災民租を除き、楊光習が擅に領兵し砦を出た罪と軍中で司馬張従吉を謀殺したと誣告した罪で鄧州に配隷した。河東沿辺将士に皮裘・氈襪を給し、河が澶州で決壊、内臣に太祖太宗の聖像を鴻慶宮に安んじさせ、嶺南戍兵の代還日に装銭五百を給することを詔した。
- 九月、含誉星が再現、玉皇の聖号を「太上開天執符御歴含真体道玉皇大天帝」と上げ、服勤詞学経明行修の挙人を御試し、五嶽観に幸した。冬十一月、濱州で河が溢れ、玉清昭応宮が成り諸路の流罪以下の繋囚を減罪、王旦に司空修宮使を加え、乾元門で観酺した。十二月朔日、日食予測が当らず、王欽若ら五人に刑典に詳しく辺務を任せられる京朝幕職州縣官二人を挙げさせ、川峡閩広の転運提点刑獄官に属吏の貪墨慘刻を察させた。元符観を作り、契丹使蕭延寧らが帰国を辞し、楚王元佐に尚書令、相王元偓に太尉、栄王元儼に中書令・忠武軍節度使、魏咸信に同平章事を加えた。この歳、夏州・西涼府・高麗・女眞が来貢し、淮南・江浙の饑民租を除いた。天下の戸は九百五万五千七百二十九、口は二千百九十七万六千九百六十五であった。
大中祥符八年(1015年)
- 正月朔、玉清昭応宮に謁し表を奉じて玉皇大天帝の聖号を尊上、刻玉天書を寶符閣に安んじ、崇徳殿で賀を受け、十悪・枉法贓・殺人以外の罪を天下大赦、文武官の三年満期を有司が考課、環州縁辺の卒に薪水銭を賜い、清衛二指揮を置き宮観に奉じ、皇女が入道、棣州城を徙し、王欽若らに供奉官から殿直までの武幹者一人を挙げさせた。
- 二月、泗州の周憲(105歳)に束帛を賜い、宗正寺で火事、唃厮囉が立って名馬を貢し、元佐を天策上将軍興元牧とし劔履上殿・詔書不名を賜った。使を淮浙路に巡撫させ、進士六挙・諸科九挙者の奏名を許した。
- 三月、元偓の宮に幸して疾を視、宗室を宴し苑中で射を行い、礼部貢挙人を御試した。夏四月、宰相に五臣論を賜い、寇凖を武勝軍節度使同平章事、王欽若・陳堯叟を樞密使同平章事とし、徳彜が卒した。栄王元儼の宮が火災で殿閣内庫に及び、直言を求め、丁謂を大内修葺使とし、王膺が応詔の言事が乖繆として貶された。
- 五月、栄王元儼が罷めて武信軍節度使・端王に降封、熒惑が軒轅を犯すとし、内侍省黄門を廃し金飾服器を禁じ、宮人百八十四人を放った。六月朔日食、諸州に御製七条を刻石させ、惟忠が卒した。閏月、天下を赦し、王欽若が彤管懿範を上呈した。七月、諸州の牛疫に一年の牛税を免じ、王嗣宗を大同軍節度使とし、相王元偓の新宮に幸したが宮城火災で諸王の宮を外に徙すことを詔した。瑞聖園に幸して稼を観、水心殿で宴射した。
- 八月、大理少卿閻允恭・開封判官韓允が枉獄の罪で除名された。九月、京兆・河中府・陜・同・華・虢等州の貧民に麦種を貸し、注輦国が土物・珍珠衫帽を貢し、唃厮囉が数十万を集め夏人討伐を請うた。宗室を後苑で宴射し、注輦使に袍服・牲酒を賜った。冬十月、王欽若が聖祖先天紀を上呈し、回鶻呵羅らが来貢した。十一月、相王元偓に中書令を加え、端王元儼を彭王に進封、高麗使と東女眞が来貢した。十二月、皇子が冠し、侍禁楊承吉が西蕃使から還り地理図を進めた。太子(慶国公)を壽春郡王に封じた。この歳、占城・宗哥族・西蕃首領が来貢し、坊州で大雨河溢、陜西が饑饉であった。
大中祥符九年(1016年)
- 正月、会霊観使を置き丁謂を任じ刑部尚書を加え、張士遜・崔遵度を壽春郡王友とした。二月、王旦らが両朝国史を上呈、旦に守司徒を加え修史官以下を進秩、皇子就学の所を資善堂と名づけ、延州蕃部の饑に辺穀を貸した。三月、雷州の無名商税銭を除き、秦州曹瑋が蕃境を撫捍して宜を得たと嘉し、王欽若が寶文統録を上呈、西蕃宗哥族李立遵を保順軍節度使とし、廉能の官を挙げることを詔し、修玉牒官を置いた。著作佐郎高清が贓賄の罪で沙門島に配された。
- 夏四月、周伯星が現れ、天下に酺を賜い延州蕃族の饑を振済、陳堯叟の第に幸して疾を視、唐の宰相元稹の七世孫を台州司馬とした。五月、邠寧環慶部署王守斌の言に夏州蕃騎千五百が慶州を寇し内属蕃部が撃走したとある。南宮に幸して惟憲の疾を視、惟憲が卒し、毛尸等三族の蕃官馮移埋が属を率い帰順した。天下死罪の繋囚を流罪以下釈放とした。
- 六月、向敏中を宮観慶成使とし、左天廐草場が火災、太白昼見、会霊観に幸して祝禧殿で宴した。京畿で蝗害。秋七月、撫水蛮が宜州を寇し、広南西路の便宜掩撃を許し、京師新城を増築、開封府祥符縣で蝗の死屍が数里に及び、京城工役を停め、畿内の蝗に郡県を戒め、京城の楽を一月禁じ、太乙宮・天清寺に幸した。
- 八月、秦州曹瑋が伏羌砦蕃部の厮雞波が宗哥族と結び乱を起こしたので族帳を討ったと言上、玉皇聖号冊文を制し、陳堯叟を右僕射とした。旱により秋宴を罷め、尊号冊宝の五回の上表に従った。九月、雄・霸河が溢れ、丁謂を平江軍節度使、陳彭年・王曾・張知白を並んで参知政事とし、丁謂・曹瑋が宗哥・唃厮囉の蕃部を伏羌砦で撃破し首千余級を斬ったと言上。不雨で重陽宴を罷め、利州で棧閣が水漂した。諸路に蝗を捕らせ、旱蝗が雨を得たので稼を務め諸営造を罷めることを詔した。
- 冬、諸路に貢瑞物を禁じ、青州の飛蝗が海に赴き死んで海岸に百余里積もった。民の私廩を出して貧乏を振済する者三千石から八千石まで助教・文学の秩を授けた。十月、王欽若が翊聖保徳眞君伝を上呈、馮拯らに殿直以上の武幹者一人を挙げさせ、直龍図閣を置いた。十一月、会霊観に甘露が降り、河陜諸路の州で禁軍五百人を簡び、河西節度使石普が妄言災異の罪で除名し賀州に流した。唐の裴度の孫坦を鄭州助教とした。この歳、西蕃宗哥族・卭部山後蛮・夏州・甘州が来貢し、諸州で隕霜害稼・水災があり使を遣わし振恤し租を除いた。
天禧元年(1017年)
- 正月朔、改元し玉清昭応宮に詣で玉皇大天帝の宝冊・衮服を薦献、聖祖の宝冊を上げ、太廟諡冊を上げ六室に享し、南郊で天地に謝し天下大赦、天安殿で冊号を受けた。宰相が天書を天安殿で読み、玉清昭応宮に幸して欽承宝訓述を作り羣臣に示した。四月朔日を天祥節とし、王旦を兗州太極観奉上冊寶使とした。二月、州郡の常平倉から振災、正陽門に御して観酺、諫官・御史各六員を置き毎月一員が急務を奏事できるようにした。
- 王旦に太保中書侍郎平章事、向敏中に吏部尚書、楚王元佐に雍州牧、相王元偓に尚書令兼中書令・徐王、彭王元儼に太保・壽春郡王禎兼中書令、王欽若に右僕射、趙徳明に太傅を加え、中外官に恩を加えた。京朝官の考課・改秩を行い、宗室子の授官の制を定め、李公蘊を南平郡王に進封、秦州神武軍が宗哥族馬波叱臘らを野吳谷で破った。陳彭年が卒した。三月、不雨で四海に禱り、上巳宴を罷め、潮州の逋塩三百七十万余を免じ、淖糜を作り懐衛の流民を済った。
- 夏四月、陳堯叟が卒し、邵州の野竹が実を生じ饑を食った。五月、流民の安恤を詔し、王旦を太尉侍中とし五日一入中書としたが旦は懇辞して拝さなかった。太祖聖容を西京応天院に奉じ向敏中を礼儀使とし、諸路の蝗食苗に内臣を分けて捕らせ安撫させた。六月、西京の死罪繋囚を減罪し、父老八十歳以上に茶帛を賜い課役を除いた。昇州後湖の租銭五十余万を除き民に溉田を聴し、陜西・江淮南の蝗は自死したと言上。後漢高祖陵を盗掘した罪を論じ守土官吏を劾し、王克譲に礼をもって治葬させ、劉筠に祭告させ、前代帝王陵寝の樵採の禁を諸州に申した。大食国の蕃客税を半減し、龜兹国使張復延らが玉勒鞍馬を貢した。王旦が崇政殿で対した。
- 秋七月、霖雨で朝を放ち、魏咸信の第に幸して疾を視、咸信が卒した。八月、王欽若を左僕射兼中書侍郎平章事、向敏中に右僕射兼門下侍郎を加え、王旦が便殿で対し、京城の禁圍草地を民に耕牧を聴し、狨の採取を禁じ、牛税を一年免じた。九月、参知政事王曾を礼部侍郎、李迪を参知政事、馬知節を知樞密院事、曹利用・任中正・周起を並んで知樞密院事とし、王旦の第に幸して疾を視、蝗で秋宴を罷め、王旦が薨じた。汴渠で溺れた者の救助に賞や官銭を給することを詔し、衛士に騎射を教えた。
- 冬十月、閤門が審官三班院流内銓の後殿日の公事を両司を過ぎぬよう詔し、諸州の非時の災沴を聞かせずば論罪、京東の上貢物を罷め、壽春郡王と王友張士遜らに詩を賜った。十一月、曲宴の日は後殿の視事を輟むことを詔し、曹瑋が鬼留家族を平らげ、淮浙荆湖に放生池を治め漁採を禁じ、太一宮に幸して大雪を見、帝が「雪は豊稔の兆だが民力を慮り播種を失わせぬよう」宰相に諭した。契丹使耶律凖が承天節を賀に来、高麗使徐訥が女眞首領を率い崇政殿で対し方物を献じた。十二月、京城の雪寒に貧民へ粥を給し死者を瘞め、京城工役を罷め、厳寒で朝を放ち、逋負を放し繋囚を釈し、女眞国人の帰国に装銭を給し、高麗使徐訥に瑞聖園で射を賜った。陜西縁辺の穀鬻を課税せぬこと、汴河の流尸を瘞めることを詔した。この歳、三仏斉・龜兹国が来貢し、諸路の蝗民饑・鎮戎軍の風雹害稼に廩を発して振済し租賦を蠲じ種糧を貸した。
天禧二年(1018年)
- 正月、真遊殿で芝草が生じ、河北・京東の饑を振済、壽春郡王に恤民歌を賜い、王欽若らが天禧大礼記四十巻を上呈、京東官吏に饑民の安撫を諭し、諸路に淖糜での振済を命じた。二月、甘州が来貢し、壽春郡王に太保を加え昇王に進封、常参官で御史に堪える者を挙げさせ、右正言劉爗の請で言事の升殿を許した。京西の饑を振済、徐王元偓の宮に幸して疾を視た。三月、京城を修め、貧民の糧種を先貸して収めぬこととした。
- 夏四月、飛山雄武教場に幸し従臣将士を宴賜、天下の死罪を減じ流罪以下を釈放。閏月、辰州が下溪州蛮を討ち首六十余級を斬り千余人を降した。戸部尚書馮拯らに幕職令録で京官に堪える者各二人を挙げさせ、馬知節を彰徳軍留後とし、京師に霊泉が湧き飲む者の病が癒えたので祥源観を作った。
- 五月、徐王元偓の宮に幸して疾を視、長吏に孝弟力田の者を恤ませ、徐王元偓が薨じた。下溪州蛮彭儒猛の罪を釈し、西京で妖言があり民が恐れた。六月、三班使臣で七年を経た者の考課遷秩を詔し、諸州の上佐文学参軍で十年謫降した者の還郷を聴し、帽妖の訛言で京師の民が夜に呌譟、邪法を為したという耿槩らを棄市、彗星が北斗魁に出現。
- 秋七月、星変により天下を赦し流罪以下を減等、羈管十年以上の左降官を京師に還す、京朝官の丁憂七年未改秩の者を聞かせることを詔した。彗星が没した。八月、羣臣が皇太子の擁立を請い従い、下溪州彭儒猛が掠奪した漢人・生口・器甲を納め袍帯を賜い、皇子昇王を皇太子に立て天下大赦、宗室に加恩、羣臣に勲一転を賜った。黎州山後両林百蛮都王李阿善が遣使来貢し、彭王元儼を通王に進封、李迪を太子賓客に兼ねさせ、元良箴を作り皇太子に賜った。楚王元佐に興元牧を加え、徐国・邠国・宿国長公主を福国・建国・鄂国に進封した。畎索河水を金水河に入れることを詔し、徳雍・徳文・惟政を諸州防禦使、允成・允升・允寧を諸州団練使とした。
- 九月、皇太子を冊立し、外戍諸軍に物を全給することを詔し、乾元門で観酺した。冬十月、玉宸殿に御し近臣と占城稲の刈り取りを観、安福殿で宴した。十二月、張旻を武寧軍節度使同平章事とした。この歳、占城国・甘州・溪峒・黎州山後蛮が来貢し、陜西の旱を振済、江隂軍の蝻害は無かった。
天禧三年(1019年)
- 正月、貢挙人郭&KR0876;らが崇政殿で謁見、&KR0876;が喪を冒して赴挙した罪で典謁に詰問させ引咎、三挙禁じられた。二月、河南府で地震があった。三月朔日食があり、呂夷簡を遣わし陜・亳の民の訛言を体訪させ、礼部貢挙人を御試、翰林学士工部尚書銭惟演らが知挙失実の罪で一官降格、潁州の隕石から出る泉を飲むと病が癒えたとされた。
- 夏四月、西上閤門使高継勲が馬の交易で価を虧いた罪で削官。五月、大食国が来貢し、左諫議大夫戚綸が上を訕った罪で岳州副使に貶され、囚を慮った。六月、淮南漕渠の三堰を廃して浚渫、王欽若が太子太保となり、河が滑州で決壊、寇凖を中書侍郎兼吏部尚書平章事、丁謂を吏部尚書参知政事とした。
- 滑州の決河が澶・濮・鄆・斉・徐の境に氾濫し、使を遣わし溺者を救い家を恤した。秋七月、曹璨が卒し、羣臣が「体元御極感天尊道応眞寶運文徳武功上聖欽明仁孝皇帝」の尊号を上呈した。八月、天下を大赦し道釈童行を普度、滑州で龍が現れ河が決壊、太白昼見、慶州で亡命していた熟戸委乞らが帰順、京東西・河北の水災を撫恤した。
- 九月、慶州骨咩大門等族が帰附し、高麗貢使の溺死者を中官に存問させた。冬十一月、景霊宮に謁し太廟に饗し圜丘で天地を祀り天下大赦、両任五考無責罰者に身言書判を試させ、天安殿で尊号冊を受けた。十二月、富州蛮酋向光沢が納土を表したが却下、向敏中に左僕射中書侍郎兼礼部尚書平章事、寇凖に右僕射を加え、通王元儼を涇王に進封、曹利用・丁謂を並んで樞密使とし百官に加恩、任中正・周起を並んで樞密副使とした。この歳、高麗・女眞が来貢し、江浙・利州路の饑を振済した。
天禧四年(1020年)
- 正月、華州観察使曹瑋を鎮国軍留後僉樞密院事とし、揚州運河を開き、元符観に幸し、処士魏野に著作郎を贈り家に粟帛を賜った。二月、帝が不予(不豫)となり、淮南・江浙・利州の饑民を安撫させ、滑州の決河を塞いだ。唐鄧八州の常平倉を発して貧民を振済した。
- 三月、淄州の民饑に牛糧を貸し、蕃部に粟を振済、川陜の致仕官に本貫への帰還を聴し、川広の挙人の定額を拘らぬこと、益梓の民饑を振済、向敏中が薨じた。夏四月、大風で昼が晦み、江南転運使を東西路に分け、前定陶縣尉麻士瑶を青州で杖殺した。五月、秦隴の饑に粟を発して振済。
- 六月、寇凖を太子太傅萊国公とし、河が滑州で決壊、礼部奏名挙人九十三人を御試した。秋七月、太白昼見、京城が大雨で廬舎の大半が壊れ、李迪を吏部侍郎兼太子少傅平章事、馮拯を樞密使吏部尚書同平章事とし、霖雨で営舎が壊れた諸軍に緡銭を賜い、丁謂を平章事、曹利用を同平章事とし、入内副都知周懐政が誅に伏し、太子太傅寇凖が太常卿に降授され、翰林学士盛度・樞密直学士王曙がともに罷職した。
- 八月、永興軍都巡検使朱能が中使を殺し反した。任中正・王曾をともに参知政事とし、利䕫路に常平倉を置き、朱能が自殺、寇凖は道州司馬に貶され、諸軍に器幣を賜い、入内押班鄭志誠が朱能に交わった罪で両任を削られ房州に配隷。
- 九月、近臣に常参官を、諸路転運・勧農使に堪京官知縣者各二人を、知制誥知雑御史直龍図閣に堪御史者一人を挙げさせ、崇徳殿に御して視事を始め、朱能の党で死流の者は数十人に及んだ。久雨で朝を放ち、給事中朱巽・工部郎中梅詢が朱能の姦を察せなかった罪で謫官。
- 十月、天下を赦し、永興軍を安撫、京城の酺を賜い、依唐制で双日は視事せぬこと、正陽門に幸して観酺、帝の不予が快方に向かい人情大いに悦んだ。王欽若を資政殿大学士とし、水災州縣の秋租を減じ、皇子・宗室・近臣を玉宸殿で稲を観て宴した。十一月、龍図閣で近臣と御製文詞を観、帝が「政務の暇に翰墨を娯しむ」と語り、丁謂の請で御製を刻板宣布、七百二十二巻を宰臣に付した。丁謂に門下侍郎兼太子太傅、李迪に中書侍郎兼尚書左丞を加えたが、迪と謂が帝前で忿争、謂は戸部尚書、迪は戸部侍郎に罷められた。任中正・王曾・銭惟演をともに太子賓客、張士遜・林特をともに太子詹事、晏殊を太子左庶子とし、丁謂に中書視事の続行を詔した。
- 甲午、自今軍国の大事は帝が親決し、余は皇太子が宰相・樞密使らと参議して行うことを詔し、太子は上表して陳謝したが許されず、丁謂に太子少師、馮拯に少傅、曹利用に少保を兼ねさせた。自今羣臣は五日ごとに長春殿で起居し、余は隻日に承明殿で視朝することを詔した。丁謂らが天章閣を作り御集を安んじることを請うた。十二月、皇太子が親政し、内臣の伝旨は覆奏を要すと詔した。龜兹・甘州回鶻が遣使来貢し、王欽若に司空を加え、資善堂で議事し張景宗に皇太子への侍を命じ、王欽若を山南東道節度使同平章事とした。閏月、唃厮囉の辺患に陳堯叟らを巡撫させ、京城の穀貴に常平倉を発して減価、帝が不予で力を尽くし承明殿に御し、宰相に手書を賜い儲貳(皇太子)輔導の意を諭した。この歳、京西・陜西・江淮・荆湖の諸州は豊作であった。
天禧五年(1021年)
- 正月、帝の病が愈え啓聖院に幸し、天下の死罪を降し流罪以下を釈し、京東の水災を撫恤、張士遜を樞密副使とし、承明殿で近臣を宴した。二月、審刑院が天下に断獄無きことを言上、天下に酺を賜い、孔子四十七世孫聖祐に文宣公を襲封させた。
- 三月、正陽門に御して観酺、京東西の水災民租十分の五を賜い、丁謂に司空、馮拯に左僕射、曹利用に右僕射、任中正に工部尚書を加えた。夏四月、客星が軒轅に出現。五月、囚を慮り天下の死罪を降した。六月、太白昼見。秋七月朔日食があり、景霊宮萬壽殿を新作した。八月、熒惑が南斗を犯し、九月、唃厮囉が降を請うた。
- 冬十月、京東西・淮浙の被災民租を蠲じ、漢唐の故事により五日ごとに一受朝し慶会に遇えば皇太子が押班することとした。十一月、王欽若が山南東道節度使として擅に赴闕した罪で司農卿分司南京に降された。この歳、高麗が遣使来貢し、京東・河北・両川・荆湖は豊作であった。
乾興元年(1022年)
- 正月朔、改元し、東華門に御して観灯、秀州の水災民租を蠲じた。二月、天下を大赦し、「応天尊道欽明仁孝皇帝」の尊号を上げ、蘇湖秀州の民饑に廩粟を貸した。丁謂を晋国公、馮拯を魏国公、曹利用を韓国公に封じ、徐州の貧民を振済することを詔した。寝殿で宰相に対したが帝の不予が増し、山川神祗に禱った。
- 戊午、帝が大漸となり、皇太子は柩前で即皇帝位せよとの遺詔を残し、皇后を尊んで皇太后とし軍国事を権に処分させ、淑妃を皇太妃とした。帝はこの日、延慶殿で崩じた。年五十五、在位二十六年。十月已酉、永定陵に葬り、已未、太廟に祔した。天聖二年十一月、諡を「文明武定章聖元孝皇帝」とし廟号を眞宗とした。慶暦七年、諡に「膺符稽古神功譲徳」を加え「膺符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」とした。
史論
- 賛にいう。眞宗は英悟の主であった。その即位の初め、宰相李沆はその聡明さゆえに多く事を作すのを慮り、しばしば災異を奏して奢侈の心を杜いだが、これは見識あってのことであった。ところが澶淵の盟の後、封禅が行われ祥瑞が相次ぎ天書が屡々降り、これを迎え奉る一国の君臣の様子はまるで病狂のようで、まことに怪しむべきことである。後日『遼史』を修めて契丹の故俗を見て、初めて『宋史』の微言(隠された真意)を推し量ることができた。宋は太祖の幽州の敗以来、用兵を忌み言うようになった。契丹はその主を天と称し、その后を地と称し、一年に幾度も天を祭り、狩猟して手ずから飛雁・鴇を捕らえては自ら地に投げ、みな「天の賜」と称して祭告し誇耀した。思うに宋の諸臣は契丹のこの習俗を知り、また自国の君主に厭兵の意があるのを見て、神道設教(神秘的な事象で教化する)の説を進め、これを借りて敵(契丹)の耳目を動かし、その窺覦の志を潜かに消すことを望んだのであろう。しかし敵を制するために本(軍備・国力)を修めることを思わず、かえって契丹の真似をしたのは、策としても末技であった。仁宗の代に至り天書を山陵に殉葬したのは、ああ、賢明なことであった。