宋名臣言行錄外集卷七十一 張栻

張栻(字は敬夫、号は南軒先生、諡は宣公、魏国忠献公・張浚の嗣子、?–淳熙七年、享年四十八)。胡宏に師事し義利の弁別を核とする学問を築き、父・張浚の軍務を補佐しつつ孝宗に対金政策と君心修養を説いた。朱熹・呂祖謙と並ぶ南宋道学の重鎮。

年表(2件)

出自と経歴

  • 張栻、字は敬夫、号は南軒先生、諡は宣公。魏国忠献公・張浚の嗣子で、蔭により承務郎に補せられた。紹興年間、忠献が出督(軍を統べる)を命じられ奏上して公を機宜に充て、軍事のことで入見すると孝宗はその才を異とし直秘閣に任じた。
  • 父の喪に服し長沙にいたとき盗賊が郴・桂に起こり、帥守の劉珙が公に対策を尋ねた。朝廷に戻ると公の学行志業を極言する者があり吏部員外郎兼侍講となり、まもなく左司員外郎として袁州の知事となった。
  • 淳熙改元、家居を数年続けたが、皇帝が公を思い禁職に任じ静江の経畧を統治させた。治績が聞こえ詔により承事郎に転じ直宝文閣に進んだ。再任五年、秘閣修撰・湖北運副に任じられ、江陵の知事を兼ねてすぐに本路の閑職を求めたが叶わぬうちに病が重くなり、瀕死の際に手ずから遺表を草してこれを書き終えると息絶えた。詔が下って右文殿修撰・武夷冲佑観の提挙に任じられたときにはすでに拝命が間に合わなかった。淳熙七年二月、享年四十八であった。嘉泰年間に諡を賜った。

幼少期の資質と学問

  • 生まれつき優れた資質があり、聡明で早熟であったため父・忠献はこれを愛し、幼少より教える内容はすべて忠孝仁義の実践に基づくものだった。長じて胡宏(仁仲)の門に往って程氏の学を学ぶよう命ぜられた。胡宏は一目で公が大器であると見抜き、孔門の論仁の親切な要旨を伝えた。公は退いて思索し会得するところがあり、書簡で質すと胡宏は「聖門に人あり、わが道は幸いなるかな」と応えた。
  • 公はこれによりますます自ら奮励し、古の聖賢を目標に定めて『希顔録』一篇を作り、朝夕これを読み自ら戒めた。学識はすでに深く遠かったが、なお自ら満足せず四方に友を求めてなお至らざるところを求め、玩索講評・践行体験を十年余り続け、その学識はさらに深遠になると同時に、簡易平実の境地に達し、天下の理が心目の間に瞭然として現れるようになり、それを実践せずにいられない境地に至った。だからこそ勇をもって決断し力をもって行い、堅く道を守って君父への忠孝を篤くし、一に道義に依って世を終えるまで忘れなかった。これは強いて努めたものではなく自然に至った境地であった。

父・張浚の軍務を補佐

  • 孝宗が即位すると仇敵を討伐し神州を回復することを己の任と定め、忠献公(張浚)を都督諸軍事に起用した。忠献は公を機宜文字の書記に任じるよう奏上し、公は時にわずか三十歳で、内には秘密の謀議を助け外には軍務に参与し、朝夕慎み深く、君父の責任を己の憂いとした。人に知られない苦労も多かった。
  • あるとき軍事のことで入見した際、公は「陛下が上は宗社の仇を思い下は中原の民の苦しみを憐れみ、心に恐れながら振興を思われるのは天理の存するところである。願わくは陛下がこの心を怠らず、賢者に親しみ古を稽え広めていけば、今日の功を必ず成すのみならず、千古の因循の弊も改まるであろう」と進言し、孝宗はこれに感心した。

父の死後の上疏――和戦をめぐる建言

  • 忠献が入朝して宰相の任にあった頃、孝宗はしばしば独り公を召して方略を問い、上皇(高宗)も対面して労い金帯を賜って寵遇した。忠献が辞職すると公も罷免されて帰郷し、当路の者は兵を罷めて金と和した。金はこの隙に乗じて兵を淮甸に入れ、中外は大いに震撼したが、朝廷の決断は定まらず、諸将に敵に向かって兵を動かすなという勅が下された。
  • ちょうど忠献が世を去った直後、公は喪に服しながら疏を草し、「わが国と金人とは義として天を同じくできない仇敵である。かつて縞素(喪服)をもって出師を詔したが、玉帛(和議)の使者も絶えず後を追っていた。ゆえに和戦の念が胸中に混在し、至誠惻怛の心が天人の間に感格することがなかった。これが事がしばしば敗れ功が成らなかった理由である。今、群小に誤られてこの有様になったが、これを鑑として深く察し、我が胸中に一片の惑いもないようにしたうえで、内外に明詔して公に賞罰を行い軍民の憤りを晴らすべきだ。これこそ敵を破る一つの奇策である。しかも破敵の後はますますこの心を堅くし、和議を口にせず専ら自強に努め、たとえ挫折しても撓まず、この心を純一に上下に貫徹させれば、歳月はかかっても功が成らないことがあろうか」と論じた。

厳州知事就任時の上言

  • 厳州の知事となり陛辞(辞職の挨拶)した際、時の宰相はもっぱら恢復(中原回復)を口実に己の身の保身を図り、その手段はいずれも正道から外れていた。宰相は公の日頃の論が自分と合致すると思い込み、何度も使いを送って親しみを示したが公は応じなかった。
  • 公は孝宗に「先王の治世が事を建て功を立てられたのは、その胸中の誠が天人の心に感格し隔てがなかったからだ。今、計画には苦労しているのに事功が立たないのは、日々の思念や言動の間に私意の発が誠を害しているからではないか。これを克服して去り、内心を洞然として濁りのないものにすれば、義を見ることは精妙、義を守ることは堅固となり、天人の応は間もなく現れよう。しかし中原の地を回復するには、まず我が民の心を得ることが必要で、それには民の力を尽くさせず民の財を傷めないことに尽きる」と論じた。

金の情勢をめぐる孝宗との問答

  • 宰相が金の勢力の衰えを大言して陵寝の恨みを名目に開戦を主張し、備えのなさを憂えて出兵を求める士大夫を退けていた。公は孝宗に見えると、孝宗が「卿は金人の事情を知っているか」と問い、公は「知りません」と答えた。孝宗が「金は連年の飢饉で盗賊が四方に起こっている」と言うと、公は「金の事情は存じませんが、わが国境内の事情は詳しく存じております。近年、諸道は歳々飢え民は貧しく、国家の兵は弱く財は乏しく、大小の臣はみな誕謾(いい加減)で頼りになりません。仮に彼が本当に攻めやすいとしても、我が方がそれに乗じる力があるか懸念いたします」と答え、孝宗はしばらく黙り込んだ。

陵寝回復論への意見

  • 公は続けて、「陵寝が隔絶していることは臣子として忍びない至痛だが、名分を正し義に依って天討を行うことができないまま、へりくだった言葉と厚い礼で回復を求めようとするのは屈辱がはなはだしい。異論者はこれを憂えているが、大義の所在を知らないとはいえ、必勝の形がまだ見えていないことを見抜いて憂えているのかもしれない。必勝の形は常に事前の備えが定まった時にあるのであって、両陣の決戦の日にあるのではない。今の計としては、まず哀痛の詔を下して復讐の義を明らかにし、金との使節往来を絶ち、徳を修め政を立て賢を用い民を養い、将帥を選び兵を練り、内外の政策を通貫させ、進戦退守を一つの事として実を治め虚文としないことだ。必勝の形が隠然と目に見えれば、三尺の童子も奮い立って先を争うだろう。異論も過剰な憂いも無用になるはずだ」と論じ、孝宗は感嘆し「以前にはこのような議論を聞いたことがなかった」と称えた。

天についての問答

  • ある日の奏事で孝宗が「天」について問うと、公は「蒼々たるものをただちに天とみなしてはいけません。視聴言動の間に求めるべきです。一念が正しければそれが上帝の鑑観、上帝はあなたを見ておられる、その心は上帝の心のうちにある、ということです。一念が正しくなければそれが上帝の震怒です」と答えた。

臨終

  • 公は病に伏し、微かに詠じて「瑟を捨てて立つのは、君に事える忠を敢えて忘れないためだ。缶を鼓して歌うのは、終わりに順う理を尽くすためだ」と言った。病が重くなり、劉珙(定叟)が教えを求めると、公は「朝廷の官爵より、あの一人の友(自分自身を指す)を愛せよ」と答え、力を振り絞って「蟬の脱皮のように人欲の私を脱し、春の融けるように天理の妙を得よ」と語った。
  • 死に臨んで自ら遺表を作り、「再世にわたる恩を蒙り、一心に国に報いようとしましたが、大命がここに至り、その道を尽くすすべもございません。それでもなお微かな誠を抑えることができません。伏して願わくは陛下、君子に親しみ小人を遠ざけ、私の好悪を絶って天下の公論を信任し、永く四海を清め大図を固めてくださいますよう。臣が死する日は、なお生きる年と変わりません」と記した。この遺表が届いたとき、邸吏は庶僚の身分では上呈できないとして却下し、公の没後四日を経てようやく孝宗の耳に入った。

人柄

  • 公は坦蕩明白で表裏なく、理を究めることに精しく道を信じることに篤かった。過ちを聞くことを楽しみとし義に従うことに勇敢で、奮励明決、少しの滞りも吝みもなかった。病に伏し死に瀕してもなお天理と人欲の間について口ずさむのをやめなかったことから、平生の姿勢が窺える。それゆえ徳は日に新たになり業は日に広がり、その論説と行動に表れるところに上下ともに信頼を寄せた。小人がその好悪の私意で一時的に妨げることはあっても、長く続く公論はこれを覆い隠すことができなかった。

教育と施政

  • 公が人を教えるときは必ずまず義利の区別を明らかにさせ、その上で理を明らかにし敬を持してその極みに至らせた。剖析は精明で、傾け尽くして両端を極めてから止めた。知事となった郡では必ず学校を整え、静江では特に暇な日に諸生を召して倦むことなく語り、庭に事を訴えに来る民にも事ごとに教え諭し、孝悌忠信・睦婣任恤の道を丁寧に説いた。世俗の鬼神・仏老の説は退けたが、社稷・山川・古の聖賢の祭祀については謹んで行い、法令になくても義によって興し、水旱の祈祷は必ず応験があった。

著述

  • 生涯の著作では『論語説』が最も完成度が高く、『洙泗言仁』『諸葛忠武侯伝』も完成した。『書』『詩』『孟子』『太極図説』『経世編年』の類はさらに改訂しようとしたが未完に終わった。しかしその要諦を提示して後学を開き道に迷わせなかった功績は大きい。公は常に「学問は義利の弁別より先のものはない。義とは本心が当然なすべきことであって、自らやめられないものであり、何かのためにするものではない。何かのためにするものはすべて人欲の私であって天理の存するところではない」と語った。これは前の聖賢がまだ言い尽くしていなかったことを広げるものであり、性善・養気の説と軌を一にするものと言えよう。

人物総評(朱子「行状」より)

  • 靖康の変以来、国家の禍は極まり、身を顧みずその責任を果たそうとした臣は数少なかったが、公の孝と忠、判断の明晰さ、思慮の周到さに並ぶ者はいなかった。天寿は長くなく事業を全うできなかったが、その志義の偉大さは死してなお止まず、鬼神に問うても偽りがないと言えるだろう(朱熹「行状」による)。

朱熹との問答・評言

  • 「朝廷で対策を述べるときは率直に言うべきだ。士人が初めて君に見えるとき、これが第一歩であり、ここで欺けばあらゆる場面で欺くことになる。まず立ち位置を正しく定めるべきだ」と語った。
  • 「天下の事で最も大きいのは、賢者がなすべきことをなさなければ、小人がその隙に乗じて代わってなすということだ。これが天下の禍の起こる所以である。本朝の熙寧・元豊の初め、役法や科挙や冗官の改革が必要だったとき、神宗は改革を志したが老臣たちがみな不可としたため神宗は不満を抱き、王安石が『可能だ』と言うと必ず改めることになり、小人がこれに乗じて政を用い、天下の禍が始まった」と論じた。
  • 「東漢の滅亡は党錮の禁が招いたと言われるが、実は東漢に数君子がいなければもっと早く滅んでいただろう。衰弱した病人が丹薬を服んで死ねば丹薬のせいにされるが、実は丹薬のおかげで数日の命が延びたのであって、服まなければもっと早く死んでいたはずだ」と語った。
  • 鄭自明への書簡では「天理は窮めがたく資質は頼みがたい。人を論じるのが巧みな者は自分を省みるのが疎かであり、直言に慣れた者はその言葉に弊が多い」と述べた。
  • 「経書を読むには心を平らかにし気を穏やかにして味わうべきで、意気込みすぎると正理を妨げる。肝心なのは持敬にある。専一な工夫を積み重ねれば自然に体察の力がつく。ただ言葉の上で苦しく考えるだけでは足りない」と説いた。
  • 朱熹は公への書簡で「あなたの心のありようは概ね荘重沈密だが、その表現には露骨で含蓄に欠けるところがある。これはおそらく涵養本原の工夫がまだ至っていないためで、これでは事を慮る際に視聴が十分でなく思慮が詳しくないのではと懸念する。近年の文章は節奏条理を欠き、学ぶ者にまだ至っていない理を語ることも多い。これは小さな病だが、小さなところがこうならば大きなところも推して知るべきだ。この言葉を深く省み、朝夕点検してその萌芽を絶ち、志を定め慮を精しくすれば、上下ともに信服し、事を為すにも労力半ばで功は倍になるだろう」と忠告し、さらに「事の失敗を人が指摘すればすぐ改めるべきだが、その本末を子細に見極めてから従うべきだ。以前、一人の言葉で施策を決め、また一人の言葉でこれを罷めるということが多く見られたが、それは軽率に過ぎる。従うことが軽率であれば守ることも固くならない」と諭した。

画像への賛と哭辞

  • 朱熹は公の画像に賛して「仁義の端を広げて六合を覆うほどにし、善利の判断を秋毫を分かつほど厳密にした。君を助ける功に懸命に努め、父の労を継ぐことに汲々とし、道を任じる勇気は雄々しく、志を立てることは卓抜であった。知る者はその春風沂水の楽を識り、知らない者は湖海の一豪傑と見た」と讃えた。
  • 公の死を悼む哭辞では、「公の家は忠孝を伝え、学は精微を極めた。外には軍民の望みを集め、内には学者の依り所となった。民を治めるに寛、君に事えるに敬、正大光明にして表裏相映じた。臨終に際してまず忠を尽くす言葉を残し賔佐を召して訣別し、符節を委ねて事を告げたのは、まさに『正を得て斃る』というべきもので、史魚(正直の士)の風があった」と述べた。
  • また「わたしと兄(張栻)とは志を同じくし心を通わせ、時に対面で論じ、時に書簡でやり取りし、意見が食い違うこともあれば一致することもあり、十数年の往復を経てついに帰するところを一にした」と回想し、身分・出自の違いを超えて互いに切磋琢磨した交誼を述べた。

呂祖謙(東萊)の哭辞

  • 呂祖謙は「昔、厳陵で郡の文学として公に仕え、意気投合して以来一紀(十二年)の間、面談や書簡で議論を重ねた。公の議論が綱領を挙げ明白厳正で回りくどさや偏りがないと知ってからは、心から敬服し、終生離れず仕えたいと願った」と述べ、自らの性格の訥弁さや強直さを公との交わりの中で自然に発揮できたことを回想し、「公が生きていれば、公の天下万民を思う心を広げてどれほどの福を天下にもたらしたか計り知れない。しかし公はすでに亡くなった。ただ公が親に事え君に事え師に事えたその心はいまだ死んでいない」と結んだ。

朱熹による文集の序と人物評

  • 朱熹は公の文集の序で「公は幼少より家庭にあって忠孝の伝統を身につけ、さらに胡宏(五峯)の門に学んでその帰趨を会得した。心中に黙して契るところは他人の窺い知れないものであったが、その論説に表れる義利の分別の精緻さは前哲がまだ言い尽くしていないものであった。事業に表せば大綱から細部まで一貫して功利の混じることがなかった。それゆえ家で道を論じれば四方の学者が争って向かい、朝廷では経筵に侍り藩鎮を治めれば天子もその言葉と治績を評価し重用しようとしたが、不幸にも敬夫は死んでしまった」と述べ、「敬夫は天資が高く道を聞くのが早く、その学識はすでに一世に名をなすに足りたが、決してそれで自ら満足することはなかった。近年はますます経を窮め友と会し日々自らを省みて実践に照らし、年数の足りなさを意に介さないほど熱心だった。それゆえその学は日に新たで窮まりなく、言語文字に表れるところも初めは高遠を極めたが、ついには平実に帰した」と評した。
  • 朱熹はさらに、「敬夫の見識は卓然として及びがたいところがあるが、その天資明敏さゆえに段階を経ずに悟りに至ったため、時に人と語るとき過度に高遠に流れることがあった」「敬夫は聡明だが道理を仔細に見ないところがある」「敬夫は人の話を聞いてすぐ改める点で及びがたい」「敬夫は見識が高いが事に耐える力に欠け、呂祖謙(伯恭)は事に耐える力はあるがそれが弊になることがある」「敬夫の見識は純粋で実践も純実、人を望んで敬服させる力があった」「敬夫の学問はますます高く、議論は人の意表を出る。その語説を読むと胸中が洗われるようで、まことに感嘆に値する」と評した(以上、朱熹の語をまとめたもの)。