出自と経歴
- 呂祖謙、字は伯恭、号は東萊先生、諡は成公。先祖は河東の人で、後に夀春に移った。六世祖の呂夷簡(申国文靖公)が夀春から開封に移り、以来開封の人となった。
- 祖父の致仕の恩により将仕郎に補せられ、隆興元年に進士に及第、さらに宏詞科にも中った。南外睦宗院の宗教に任じられ、母の喪に服し、喪明けに太学博士となった。館職に召試され秘書正字に除せられ、父の喪に服して喪明けに台州崇道観の主管となった。その後召されて秘書郎兼国史編修となり、著作佐郎に遷り、再び大著(大著作)に遷って礼部郎を兼ねたが、冬に病により職を退いた。
- これに先立ち詔を奉じて『皇朝文鑑』を編類しており、このころに完成し、直閣・武夷冲佑観主管に任じられた。病がやや癒えると著作郎に任じられたが赴任せず、浙東帥への差遣も辞退し、明道宮の主管となった。淳熙八年七月、享年四十五で没した。嘉泰年間に諡を賜った。
学問の由来
- 公の文学と学術は天資に基づき家庭の教えに習熟し、中原文献の伝統を稽え、四方の師友の講論を博く取り入れて融合し偏りがなかった。晩年病に伏していても任重く道遠しとする志は変わらず、家政の細部に至るまで後世の模範となるものであった。
史学の方法論
- 「史には二体ある。編年体は『左氏』に始まり、紀伝体は司馬遷に始まる。その後、班固・范曄・陳寿らによって紀伝体は絶えることなく続いたが、編年体を続けられる者はいなかった。司馬光が『資治通鑑』を作ったのはまさに『左氏』を継ごうとしたものであり、『左氏』が智伯の貪愎により韓魏に滅ぼされる記事で終わるのに対応して『通鑑』はそこから始まる。編年体と紀伝体はそれぞれ得失があり、一時の事を論じるには紀伝体は編年体に及ばず、一人の生涯を論じるには編年体は紀伝体に及ばない。要するに両者とも廃すべきではない」と説いた。
- 『通鑑』の読み方について、陳瓘(瑩中)の「通鑑は薬山のようなもので、取れば得られるが採る技術がなければ博聞強記に終わる」という言葉を引き、列子の「人の遊は見るものを観るが、我の遊は変化を観る」という故事を史を見る法として引用し、「史を見て治を見れば治として捉え、乱を見れば乱として捉える。一事だけを見て一事しか知らないのでは不十分で、自らその中にいるかのように利害を捉え、巻を閉じて自分ならどう対処するかを考えるべきだ。そうしてこそ知識も見識も高まる」と説いた。
統体・機括の読史法
- 「歴史を読むにはまず全体の統体(一代の綱紀・風俗の消長・治乱)を捉えるべきだ。秦の暴虐、漢の寛大はそれぞれの統体であり、その偏りや流弊も考えるべきだ。一人の君主の統体(文帝の寛、宣帝の厳など)も捉える必要がある。統体は大綱であり、一代が寛であれば一、二の君主が多少厳しくても大勢は変わらない」と述べ、戦国期のように天下の統体と一国の統体が並存する時代も同様に考えるべきとした。
- 「統体を識った上で機括(国の盛衰・事の成敗・人の邪正が微かに萌す端緒)を見るべきだ」と説いた。
- 「歴史を読むには成敗のみで是非を判断せず、また軽々しく意見を立ててもいけない。理によって推し量り、身をもって体験し、心を平らかにして熟読し、経験を積み重ねて初めて時勢と事情を識別できるようになる」と述べた。
張栻・朱熹との学問問答
- 張栻(敬夫)への書簡でおおよそ「以前の病痛はまさに嗜欲が粗雑だったため克治の功が足りず、思慮が少なかったため操存澄定の力が足りなかった。蓄積が浅いのに発用ばかり急いだ」と自省した。
- 朱熹(晦翁)への書簡では「学ぶ者は専心致志して利欲の源を絶ち、心を凝集して初めて工夫を収めることができる」と述べた。
- 朱熹はこれに答え、「収斂に力を入れれば力み過ぎ、従容と学び進めれば怠りに陥る、これは学ぶ者共通の悩みだが、程頤も『徳が盛んになれば自然に左右で道理に出会う』と言っている。今はまず収斂に力を入れるべきだが、意図的に構えて弊を生じさせてはいけない」と応じた。
- さらに朱熹は「あなたの疑いは、道体が渾然として一切を具えていることは分かっていても、その渾然たる中に精粗・本末・賓主・内外の区別があることをまだ理解していないところにある。だから合を喜び離を嫌うが、精緻に分析することが渾然たる本体を損なうものではないと知るべきだ」と論じ、東萊も「まことにその通りだ」と答えた。
- また朱熹は「講学と克己の功はどちらも大切な工夫であり、一方に偏ってはいけない。中庸にも学問思弁の後に篤行を継ぐとあり、程頤も涵養と進学を両方説いている」と論じ、東萊は「致知と克己を偏らせてはいけないというのはもっともだ。以前は友人たちが義理ばかり比較して実践面の吟味が足りなかったのでその戒めを言ったに過ぎない」と応じた。
- 朱熹は再び「杜門して学問に進む勢いが日々深まっているだろう。凝聚収斂こそが大きな課題であり、これは工夫の根本である」と励まし、東萊も「道理は無窮であり、学ぶ者はまず自足の心を持ってはならない、というのが至言だ」と語り合った。
東萊の肖像への賛と朱熹の哭辞
- 朱熹は東萊の画像に賛して「一身に四気の和を備え、一心に千古の秘を涵み、その徳は主君を尊び民を庇うに足り、その余は俗を範し世に垂れるに足りる。しかし容貌は中人と変わらず衣冠も俗と異ならない。迎えてもその来るを見ず、随ってもその跡を見ない」と評した。
- 東萊の死を悼んで朱熹は哭辞を作り、「天がこの文(学問の道統)を断つとは何と酷いことか。かつて張栻(敬夫)を奪い、今また伯恭までも奪うとは。道学は誰が振興し、君徳は誰が正し、後生は誰が教え、民は誰が幸せにするのか」と嘆き、東萊の才智・弁舌・孝友・恬淡・忠言・秉義の美徳を数え上げ、その学問(『文鑑』編纂、講学、朝廷での建言)が時を得ずに終わったことを痛惜し、「わたしは兄と交わり講磨し情義は深かった。先ごろの手紙にはまだ死期を語らず、再会の約束まで交わしていたのに、まさかこれほど早く亡くなるとは」と結んだ。
『皇朝文鑑』編纂への評
- 朱熹は「『文鑑』の編纂はおおむね良いが、沈括(存中)の律暦を論じた一篇のように渾天説を論じたものも面白い」「康節(邵雍)の詩『一たび分かれてより造化人心より起こる』のような詩は編入されなかったのが惜しい」「『文鑑』を読むと、詩として本当に良いものが上位に選ばれておらず、句法・意思・勧戒のいずれの点でも物足りない箇所がある」と評した。
病中の東萊への朱熹の追想
- 朱熹は東萊の病中の日記を見て、繙閲・論著を一日も怠らず、気候の暑寒や草木の栄枯にまで注意を払っていたことに触れ、その物を察し内省する姿勢は血気の衰えにも左右されないものだったと述べ、「近ごろ伯恭に会えなかったのを深く悔やんでいたが、この日記を見てその学力の到達点を知り、自らを省みることができた。伯恭の教えはなお諄々として続いている」と語った。
東萊の学問の性格への朱熹の評
- 朱熹は「かつて東萊の『左氏』注は詳博だが言葉遣いが技巧に走りすぎている、博雑は学問を害する、伯恭は雑博な方面に力を注ぎすぎて要約すべきところを子細に研究していない」と評し、「『閫範』の趣旨は極めて良い」と評価した。
- また「伯恭は天性温厚なため、論は穏やかで委曲を尽くす」「伯恭は義理を多く語りすぎて技巧に流れ杜撰になることを免れない」「伯恭は聡明だが義理を子細に見ない。程頤の『易』の校訂で噬嗑卦の『和而且治』の字について、ある本は『治』を『洽』に作るのが理に適うとしたが、伯恭は頑なに『洽』を主張した。これは先に史書を多く読んだために見方が粗くなったからで、読書はまず経を本とし後に史を読むべきだ」と批判した。
東萊の学の系統をめぐる評
- 東萊の学問について問われ、朱熹は「伯恭は史学に特に詳しいが経学はあまり理会しない。かつて忠恕についての楊時・侯師聖の説のどちらが正しいか問われたとき、彼は『あなたはどうしてそのように文を読まないのか』とはぐらかし、『人のために謀って尽心しないのを忠、人を傷つけ物を害するのを恕とする』という誤った説を唱えたことがある。これは浙学(浙江の史学派)が戯れに言ったことだろう。史学は易しく見えて実は浅い」と述べた。
- 「伯恭の学は概ね『史記』を尊ぶもので、そうでなければ陳亮(同父)の説と合わない。陳亮の学はまさにこの類である」「その学は陳傅良(君挙)・陳亮(同父)二人の学を合わせたものだ」「永嘉の学(浙学)は制度を偏って考究するものが多いが、陳傅良は長所を持ち、その正則は統紀が明快で、陳亮は古今を談論して王道・覇道を説き、伯恭はこの両者の長所を兼ねる」と評した。
交友と人柄をめぐる評
- 「伯恭の講論はよいが、事ごとに一つにまとめようとしすぎ、異端・俗学の非難を恐れて蘇氏(蘇軾ら蜀学)を過度に擁護し、是非を争うより収斂して持養する方がよいと考えていた」
- 「伯恭が健在だったころは史学を好んで語ったが、没後は後生たちがそれを曲解し、王道を賤しみ覇道を尊び利害計算ばかりを説く俗論に陥ってしまった。聞くに堪えない」と朱熹は嘆いた。
- 「若いころ伯恭は気性が荒々しく、食事が気に入らないと家財を打ち壊すほどだったが、長い病の間『論語』一冊だけを朝夕読むうちに気持ちが平らかになり、生涯怒りを爆発させることがなくなった。これは気質を変化させる好例である」と朱熹は語った。
- 「伯恭は昔は気性が激しかったが、病中に『論語』の『躬自厚くして薄く人を責む』の一節を読んで悟るところがあり、それ以来穏やかになった」とも語られている(以上、朱熹の語をまとめたもの)。