宋名臣言行錄外集卷六十七 馬伸
馬伸(字は時中、東平の人)。程頤に師事し、靖康の変で張邦昌の偽帝擁立に抗い趙氏の存続を訴える上書を主導した監察御史。高宗即位後は汪伯彦・黄潜善を弾劾して濮州監税に貶され、後に秦檜の関与も明らかにされた。
出自と経歴
- 字は時中(あるいは時仲・時挙とも作る)。東平の人。弱冠にして登第し、州県に晦迹(隠れて仕える)した。靖康の初め、枢臣の推薦により召されて監察御史となった。中興の初め、殿中侍御史に抜擢され、湖広路の撫諭を務め、台に還って執政を弾劾したため濮州の監税に貶された。卒後、紹興の初め、諫議大夫を追贈された。
伊川の学への傾倒
- 崇寧の初め、元祐の学に禁が下り、姦人が用事し、その党を諸路の学使とし、専らこれを糾察させたため、伊川の門下で学ぶ者はほとんどいなくなった。もともとの門人でさえ、利を趨めて叛き去る者があった。公はまさに吏部から西京司法を求め、鋭意して親しく依ろうとする計を立てた。至った際、張繹を介して先生(伊川)に会おうとしたが、伊川は初め、その時勢を思って公に累が及ぶことを恐れた。しかし公は名刺を持って十度訪ねてはますます恭しくし、「私(伸)が道を聞くことができるなら、たとえ死んでも悔いはありません、まして死に至るとは限りません」と述べた。先生はこれを聞いて「これぞ真に志ある者だ」と歎じ、引き入れて教えた。それより出入りすること三年、公務の暇があれば風雨をおしても日に一度は必ず訪ねた。
郫県丞としての明察
- 公は成都郫県の丞に任じられた。着任間もなく冬米の納入があり、成都は物資豊かな地であったため、知事はこれを公に委ねた。公はその弊害が多く扱いが難しいとして辞退した。知事が理由を問うと、公は「弊害の最たるものは諸司の吏人が(米袋を)封じ抄せんとするのを拒めば、たちまち禍を招くことです」と答えた。知事は「あなたはすでに弊害を知っているのに、なぜ辞退するのか」と言い、公はやむなく引き受けた。米の受け入れ場に至ると、諸邑の人々が紛然として集まり、豊かな飲食・玩好・美女など、誘惑できるものは何でも用いて公に取り入ろうとした。以前の担当者はこれに一度でも引っかかると計略にはまり、束手して制せられ、誰も咎めることができなかった。公はこれらをすべて退け、吏卒を厳しく監督して些細な不正も許さず、米を負って至る者は滞りなく処理された。当時、倉使の孫侯が視察に来て、境に至った早朝、道端で仮眠して夜明けを待つ荷担ぎの者たちを見て怪しんで問うと、みな「今年は受け入れがよく、馬県丞は取り立てても阻んだりしないので、先を争って来ています」と答え、その主管者の名を尋ねると「馬県丞です」と答えた。孫は歎息してやまず、郡に至るとすぐに吏に文書を書かせ、公を推薦し、即日官階を改められた。公はこれについて常々人に「人の運の巡りには時があるが、ただ正しい道を行うべきで、人に頼る必要はない」と語っていたという。
台官辞令をめぐる矜持
- 靖康の初め、枢密の孫傅が卓行をもって公を推薦した。中丞・秦檜も日頃その節操を高く評価し、迎えて監察御史とし、人を遣って願書を取ろうとした。公は「中丞が台官を取るには、堪えるか堪えないかを問うべきで、願うか願わないかを問うべきではない」と答えた。
張邦昌の偽帝擁立への抵抗
- 金が張邦昌を立てて去った際、公は真っ先に書を作り、邦昌に元帥・康王を迎えるよう請う書を書いた。書ができると同院の者を率いて共に持って行こうとしたが、みな顔を見合わせて誰一人肯んじる者がなかった。公はそこで自らこの書を銀台司に届けて奏進した。吏はその書を見て臣と称していないことを理由に受け取りを拒んだ。公は袂を振り払って「逆賊よ、私は今日一命を惜しまぬのはまさにこのためだ、それを私に臣と称させようというのか」と叱り、そのまま尚書省に繰り返し申し立てた。尚書省がこれを邦昌に示すと、邦昌は書を見て気力を失い、誅を恐れ、隆祐太后を迎えて垂簾させる計を議し始めた。その書の大略には「相公(張邦昌)は不幸にも強敵に迫られ偽号に当たられた、閣下はこの時、義を犯すべきものとし、君を忘れるべきものとし、宗社神霊を欺くべきものと考えられたであろうか。それゆえ死を忍んで暫時その言に従われたのだ。その心はおそらく『虚しく人に遜って実は趙氏の宗を亡ぼすよりは、虚しく人から受けても実は趙氏を存して帰すほうがよい』というものであったろう。金人がすでに北に去った今、相公は義においてただちに憂懼して朝に自ら列すべきである。上皇の子で唯一康王が外におられ、天下の望みはそこに係っている。使者を発して情報を通じ、宮室を掃き清めて群臣を率いてこれを迎え立て、閣下は退いて北面の列に就き、有司に死を請うべきである。そうすれば明主(康王)は必ず照察されるであろう。それを今、この道を出ずに謀を為さず、拠なき状態のまま羣心が狐疑して、その意図するところが分からずにいる」とあった。
靖康二年四月八日の書
- 靖康二年四月八日の状にいう。「金人が犯順して二帝を北に連れ去り、相公に主国事を強いたのを見た。相公が死を忍んで位に就かれたのは、兵が退けば必ず復辟できると信じてのことであろう。忠臣義士がすぐに死なず、城中の人が変を起こさずにいるのも、相公が必ず趙氏の孤児を立てられると信じてのことである。今、兵が退いて多日経ち、吾君の子(康王)はすでに所在が知れ、獄訟や謳歌もみな帰趨するところとなった。それでも相公はなお禁中に留まり臣列に就かれない。道路の噂では相公は金人の威を借りて人を遣って康王を説き、南に逃れさせて長く帰らせぬ計を立てているという。私(伸)は相公にそのような心はないと分かってはいるが、金人がまだ遠くない今、これに従ってなお改めきれないところがあるのだ。しかしながら人心はいまだ信服せず、いったん騒動が起これば初心を裏切ることになる、速やかに改正し、服を易え、太后のご命令を仰いでから行動されることを望む。さらに速やかに康王を京師に迎え奉り、勤王の師をねぎらい間隙のないことを示すべきである。すでに出された内外の赦書による恩恵の施行等は、いったん権りに取り止め、趙氏を立てるまで待つべきである。そうすれば内外の疑いも解けよう。そうでなければ、私は死あるのみで、決して相公を輔けて宋朝の叛臣となることはない」と述べた。
邦昌の財産処分を諫止
- 王及之が邦昌に「寧徳宮の府蔵にあるもの、池塘の魚藕の利まですべて取って用いてよい」と進言した際、公はまた義を引いて都堂に「古には人臣が国を去って三年経ってようやくその田里を収公する。今、我らの君はまだ疆を出て狩りに出たのみで戻っていないのに、天下の人がまさにこれを追い挽こうとしているのに、君の府蔵や庭園の利を、どうして一朝にして毀ってよいものか」と白した。
高宗即位後の弾劾と貶謫
- 高宗が即位(龍飛)すると、公は湖広路の撫諭を終えて都に戻る途中で、執政の汪伯彦・黄潜善の不法な行いを探り、弾劾文の草稿を作っていたところ、何兌が追いついて「先生はちょうど使いから戻られたばかりだから、まず職事を奏上し、この件はゆっくり論じてもよいのでは」と言った。公は「彼らは私を忌んでいる、もし私が言う前に人事異動があればどうする」と答えた。当時朝廷は孫覿を召そうとしていたが、謝克家がこの二人(汪伯彦・黄潜善)は小人であり用いるべきでないと言った。孫覿は降表を親しく起草しその筆力を極めて金に媚びを売り、金から二人の女性を受け取った、国を裏切る賊であると論じたが、この訴えは受け入れられなかった。公は司農卿に任じられたが固辞し、弾劾文を進上した。執政は激怒し、罪に問おうとしたが手掛かりが見つからず、そこで文中に邵成章のことが触れられていたのを取り上げ、邵は宦官であるから趣向が正しくないとして、公を濮州の監税に貶した。
死に至る経緯
- 当時、権力者たちは公を必ず死地に送り込もうとしていた。濮州は敵境に迫っていたためこの命令があったのである。識者はその去るのを惜しみ、親戚知友はみな嗟嘆し互いに弔い、公の身を危ぶんだ。公は行李をまとめて出発する際にも憂懼の色を見せなかった。人々はますます公の人柄を敬服した。公は天姿重厚で、勇んで義を行いながらも、名を釣ることを恥じたが、不幸にも仇に陥れられ死に至った。ある説では、王淵が淮上に屯していた際、黄潜善の密命を受けて公に不利な処置をしたともいい、知る知らないにかかわらず皆これを痛んだという。
死を恐れぬ志
- 公は常に「志士は溝壑にあることを忘れず、勇士は其の元を喪うことを忘れない、今日はまさに何時か、溝壑こそ我が死すべき所である」と語り、事に臨むとつねに身を顧みず奮い立った。
日常の修養と質素な生活
- 公は朝起きるとまず衣冠を整え端座して『中庸』を一通り読んでから政務に出た。公は「わが志は道を行うことにある、もし私が富貴を心に置けば富貴に累され、妻子を思えば妻子に累される、それでは道を行うことができない」と語った。それゆえ広陵にあっては随身の荷物はわずか一担のみで、そのうち図書が半分を占めた。山東がすでに騒乱に見舞われていたのに、家族はなお東平に留めたままであった。
胡文定による弾劾内容の総括
- 胡文定(胡安国)は時政論において「馬伸が汪伯彦・黄潜善を弾劾した内容は具体的である。命令を慎まなかった件は都に還る詔についてであり、私恩を広く施した件は祠官・教官の欠員を補った件であり、黜陟(賞罰人事)が公正でなかった件は衛膚敏を罷免して不祥の人物・孫覿を用いた件であり、言路を塞いだ件は呉給・張誾・邵成章を貶した件であり、功ある者を妨げ有能な者を害した件は宗沢・許景衡を退けた件であり、軍情を私的に集めた件は各々親兵千人を置きその給与を特に厚くした件であり、悪を助け合った件は罪人・王安中を力庇した件である。一つの事を挙げるごとに一つの証があり、みな衆人の知るところ・見るところであった。当時これを罷けて『言うことが事実でない』としてかえって重く責めたのは、忠直で身を捐てて国に尽くす人を罰し陥れるものであった。邪説がどうして息み、公道がどうして行われようか」と論じた。
邦昌擁立への抵抗と秦檜の関与
- 靖康の際、金が邦昌を立てようとした時、公は衆人の前で「私たちは職として諫争の臣である、どうして黙して座視できようか、共に議状に加わり趙氏の存続を乞うべきだ」と抗言した。秦檜は答えなかったが、間もなく公が草稿を書き上げ、台の吏を呼んで連名で署名させた。秦檜は台長であったからその筆頭に列すべきであったが、公にこれを呈すると檜は躊躇した。公は同僚を率いて力を合わせて請い、檜はやむを得ずついに署名した。公は人を遣って急ぎこれを金に届けさせたため、秦氏の元に残された書には「檜の筆」と記されている。公が死んだ後、檜は金から帰って自分の功を吹聴し、富貴をすべて手にした。公の子孫は流離して閩中にたどり着き、甥の何珫が原稿を得て、たびたびこれを上奏しようとしたが、その子はこれを止めて「秦の凶焔は犯しがたい」と言った。紹興乙亥(二十五年)の春、珫はふと公が生前のままの衣冠で夢に現れ「秦氏はまもなく敗れる、急いでこれを奏上せよ」と告げる夢を見た。珫はすぐに原稿を持って闕下に訴えようとしたが、檜は大いに怒り、他の罪をでっち上げて珫を大理寺に下し嶺外に流した。間もなく檜は果たして死に、珫の家は冤を訴え、詔によって珫の官が回復され、公の忠績はついに明らかにされた。