宋名臣言行錄外集卷六十七 張繹

出自

  • 字は思叔。河南壽安の人。

学問への発憤

  • 家は甚だ微しく、成長しても学問を知らず、人のために傭われて働いていた。ある日、県官が出入りし道路で先触れの声が響くのを見て、思叔はそれを大いに羨んだ。人に「どうすればこのようになれるのか」と問うと、ある人が「それは読書によるものだ」と教えた。思叔はここに発憤し、人に従って学を受け、労苦の仕事にも耐え、教える者も彼の志を憐れんでよく勧め励ました。後にかなり文章に通じ、県学・府学に入り、科挙の学問では足りないとして推薦を受けた。

出家の志と周恭叔の助言

  • 僧寺に至り道楷禅師にまみえ、その道を悦んで剃髪して従おうとする意を抱いた。当時、周恭叔(周行己)が洛陽に官していたので思叔もこれに従ったところ、恭叔は「あなたは他日程先生が帰洛したらこれに従って学ぶべきだ、無為に剃髪することはない」と語った。

伊川への師事と孟子への開眼

  • 伊川が涪陵から帰った際、思叔は初めてこれにまみえた。当時従学する者は甚だ多かったが、伊川は独り思叔を許した。思叔は孟子の「志士は溝壑にあることを忘れず、勇士は其の元(首)を喪うことを忘れず」を読んで初めて自得するところがあり、その後さらに理を窮め微に至ることは、及ぶ者が少なかった。

伊川の族女との縁組

  • 和靖(尹焞)は「私と思叔はもとより友好であった。思叔は初めて伊川にまみえた時、穎悟疏通であり、先生も喜んだ。それ以来ともに遊学し、先生は族女を思叔に嫁がせ、深く敬い遇された。学ぶ者も次第に増えた」と語った。

晩学と伊川の評

  • 思叔は三十歳になって初めて伊川にまみえ、その後伊川が没するまで一年であった。初めは文章によって郷里で知られていたが、後には文章を作ることが甚だ少なくなった。伊川はいつも「張繹は朴茂(素朴で豊か)である」と評した。

朱子による評

  • 朱子は「思叔の敏さは和靖に似ている。伊川はその朴茂さを称えたが、しかし狭くて展拓(発展)する気象に乏しい」と評した。

早世を惜しむ声

  • 思叔は最も後から入門したが、その資質を深く惜しまれ、天が彼に年を与えていたならばその到達点は計り知れなかっただろうとされる。程門で誰が真にその伝を得たかと問われ、「それも完全には見定められない。劉質夫(劉絢)・張思叔(張繹)らも、まだその文字(著作)を見ることができていない。程門の諸公の力量を康節(邵雍)・横渠(張載)に比べれば、みな及ばない」と答えられた。