宋名臣言行錄外集卷六十七 尹焞
尹焞(字は彦明、一字は徳充、和靖処士、洛陽の人、享年七十二)。程頤(伊川)に師事し「敬」の工夫を篤く実践した高弟。金軍の洛陽陥落で一家を失い蜀に潜行したのち、南宋に召されて経筵に仕え、金との和議に強く反対する上奏を行った。
出自と経歴
- 字は彦明、一字は徳充。その先は洛陽の人。靖康の初め、京師に召されたが懇ろに辞して山に還り、和靖処士の号を授けられて栄誉としてこれを帰した。虜(金軍)が洛陽を陥した際、一家は禍に遭ったが、公だけは身を竄して蜀に入り涪陵に居した。紹興五年、崇政殿説書として召されたが力めて辞し、七年に至って初めて就職し、秘書郎に除せられ、八年、少監に除せられ、直徽猷閣に除せられなお説書を兼ね、太常少卿に転じ礼部侍郎兼侍講の権官となり、徽猷閣待制に転じた。九年、祠官として去り、十年、老を請い、紹興二年に至って歿した。享年七十二。
母の教えと伊川への師事
- 幼くして父を失い、母の陳氏に仕えて進士の業を為した。二十歳の時、伊川程夫子に師事した。先生(尹焞)が進士の挙に応じて策問に答える際、元祐党人の誅殺を議する問題が出たため、伊川は「禄を干める(求める)べきときであろうか」と言い、答えずに出た。伊川に「私はもう進士の挙に応じることはしません」と告げると、伊川は「あなたには母がいる」と言った。先生は帰って母に告げると、母は「私はお前が善をもって私を養うことは知っているが、禄をもって私を養うことは知らない」と言った。そこで先生は退いて再び挙に就くことをしなかった。伊川はこれを聞いて「賢いことだ、母は」と言った。
新学の隆盛下での節操
- 大観年間、新学(王安石学)が日に興り、ある者が「程頤は異端を唱え、尹焞・張繹はその左右となっている」と言った。先生はそのため仕えることを望まなくなったが、その声望はますます高まり、徳もますます成って、同門の士はみな彼を尊び畏れた。伊川は「私が死んでもその正しさを失わない者は尹氏の子(尹焞)である」と語った。
洛陽陥落と蜀への潜行
- 金人が洛陽を陥した際、先生の一家は難に死んだ。先生自身も死にかけて蘇生し、長安の山中に身を竄し、四、五年転々とした後、長安も陥落した。劉豫が僭位すると人を遣って招いたが、先生は夜に逃げ、徒歩で渭水を渡り、久しくして涪州に落ち着いた。紹興年間、上(高宗)は従臣の推薦により彼を召したが、力めて辞した。一年居た後に召に応じ、九江に至ったところ、程氏の学を毀る者が現れたため先生は再び辞そうとして「程氏に学ぶ者は私(焞)である。これに事えて二十年、今またさらに二十年である、どうか退けていただきたい」と述べた。上は召しをますます急にし、御前に至ってなお辞そうとすると、上は「卿はまだ辞するというのか、朕は卿を待つこと久しい、卿が伊川に従学したことを知っている、卿が学を講ずるのを待つのみで、あえて他を求めはしない」と言い、先生はついに就職した。
金との和議への反対上奏
- 金との和議が議された際、先生は上奏して「本朝の兵禍はいにしえよりいまだ聞いたことがなく、祖宗の徳沢が厚く陛下が勤めて撫でられたおかげで、億兆の民の心が離反することなくいられました。しかし前年、徽宗皇帝と寧徳皇后の凶問(崩御の報)が急に届き、その不豫(病)の詳細は究明されないまま、天下の人は痛心疾首したにもかかわらず、陛下はなお意を屈し心を降して梓宮(柩)を迎え奉り、諱日を問うことばかりに専心されました。そのため敵の意はますます驕り、我らに人材無しと侮り、再び和議を今日に持ち出すに至ったのです。おそらく敵は密かに中国を混一し臣妾にしようと図っており、陛下が十二年勤め撫でられた功はこの一事にかかっています。しかも先王の礼では、父母の讐は共に天を戴かず、兄弟の讐は兵を反さない(すぐに討つ)とされます。今、仇敵の詐りの謀を信じて彼らが和を肯じることを望み、目前の急を緩めようとするのは、不共戴天・反兵の義を失うものではないでしょうか」と述べた。
秦檜への書
- また宰相秦檜への書に「金と我らには共に天を戴かぬ讐があります。靖康以来しばしばその術に堕とされてきました。今もし一たび屈すれば、それが口実とされ、怨みを招き自ら困窮し自ら斃れるに至ります、どうしてこの議を為すに忍びましょうか。聞くところによれば、主上(高宗)は父兄が未だ帰らぬことを理由に、九重の中で志を降し身を辱めておられること既に幾年にもなりますが、いまだ金人が禍を悔いて二帝を沙漠より還したとは聞かず、梓宮の崩御の詳細も分からぬままです。すなわち金人が我らを謀り欺く心は言わずして明らかです。天下の人は今まさに相公(秦檜)がその既に起こったことを改める力を持たれることを望んでいるのに、これほど甚だしい和議を進めようとされるとは意外です」と述べた。
学問の姿勢――聖人の学
- 先生の学問は聖人を学ぶことを旨とした。「聖人は必ず学んで至ることができるものであり、無理に為すことはできない。玩味してこれを索め、践履してこれを身にし、涵養してこれを成せば、下学して上達し、理を窮め性を尽くして贅(余分)もなく外(漏れ)もない、これが学問の正道である」と語った。
墓誌に見る人物像
- 先生は荘正で仁実、心において過ちなく暗室でも自らを欺かず、誠より明らかにし、これをもって物を開き事を成し、これを推し四海に放っても凖(規範)とすべきものであった。その聖人・六経の言葉に対する理解は耳に順い心に得て自ら出たかのようであり、天下の道を知る者は必ずこれを宗とし、知らぬ者も必ずこれを慕った。以上、呂稽中が撰した墓誌による。
馮忠恕による評――学の三要
- 馮忠恕は言う。先生は聖人の学を学ぶ者であった。聖人が言うところを自分も言うべきとし、聖人が為すところを自分も為すべきとした、それは単なる詞章ではない。その要は三つある。一に玩味――言辞を諷味研索し、その帰趣を求めて聖賢の用心の精微を得ること。二に涵養――涵泳自得し、蓄えて動じず、気質を存養し充実に至って剛大となり、それでこそ得るところとなる。三に践履――ただ空言を誦えるだけでなく、実際の行いに現し、日用と動静語黙、また物を開き事を成す際にこの道を離れないこと。いわゆる修学とはこのようなものであり、いわゆる読書とはこのようなものであるにすぎない。以上、記善録序による。
伊川との問答――道について
- 公が伊川に「どうすることが道か」と問うと、「行う所が道である」と答えた。ある人が明道に「どうすることが道か」と問うと、「君臣・父子・兄弟・夫婦・朋友の上に求めるべきだ」と答えた。
蘇昞を介して伊川に入門
- 公は蘇昞を介して伊川にまみえ、その後半年してようやく『大学』『西銘』を読むことができた。
「敬」の教え
- 初めて伊川にまみえた時、「敬」の字について教えを乞うたところ、伊川は「主一(一に専心する)が敬である」と答えた。当時はこの言葉を領解したものの、近頃見えるほど親切ではなかった。祈寛(尹焞の門人)が「どうすれば主一と言えるか、先生よく諭してください」と問うと、公は「敬に何の形影があろうか、ただ身心を収斂すれば主一である。例えば人が神祠に至って敬を致す時、その心は収斂され髪の毛一本の余計な事も入り込まない、これが主一でなくて何であろうか」と答えた。
范元長との逸話
- 公はかつて范元長とともに伊川にまみえた際、たまたま用事があり范が先に立って階を下りると、伊川は范に「彦明(尹焞)を見よ、彼は将来必ず世に用いられるであろう」と言った。元長は翌日この話をしたが、そもそも伊川は平生めったに人を褒めなかった。
大学を読んでの問答
- ある日『大学』を読んで得るところがあり、伊川に問おうとして「心広く体胖なる」ことを語ると、伊川は「ここに至ってはもう楽の字さえ着けられない」と言った。
感応の理
- 明道はかつて「天下の事はただ感と応にすぎない」と語った。公は初めこれを聞いて伊川に問うと、伊川は「この事は非常に大きい、自ら識るべきだ」と答えた。公が「『これを綏んずればすなわち来たり、これを動かせばすなわち和す』というのも感と応であろうか」と問うと、伊川は「その通りだ」と答えた。
動静一理
- かつて伊川に「動と静とは一理であると思う」と問うと、伊川は「試みに喩えてみよ」と言った。公は「例えば鐘がまだ撞かれていない時も、その音はもとより存在している、というようなものです」と答えると、伊川は喜んで「さらに涵養せよ」と言った。
敬以直内
- 伊川は人を教えるにひたすら「敬以直内」を本としたが、公は独りこれを力めて行った。公は「先生が人を教えるのはただ専ら敬をもって内を直くさせることであり、この理を用いれば百事をみだりに為さず、妄りに作さず、屋漏(人目のない所)にも愧じない。習熟すれば自然に得るところがある」と語った。かつて先生(伊川)が涪陵から帰った日、日々これに会い、ある日『易』を読んで「敬以直内」の箇所に至った際、「習いて利あらざる無しの時は、もはや見当を付けることも計較することもないのですね」と問うと、伊川は深くこれを然りとし、「よく見得た、さらに涵養せよ、軽々しく口にするな」と言った。
温州鮑若雨との問答
- 温州の鮑若雨と郷人十輩が久しく伊川に従っていたが、伊川はこれを和靖の元に遣った。翌日、伊川が「みなは私が学問を惜しんで教えないと言っているようだが、果たしてそうか」と問うと、公は「私は諸公が先生の門に来て学を受けているとのみ考え、あえて彼らのために代わって説くことなどいたしません。万一違いがあっては、彼らの一生を誤らせてしまいます」と答え、伊川はうなずいた。
居室に付けた名の由来
- 公は瀘州にいた一室に「遂志斎」と名付け、『易』の「命を致し志を遂げる」の意を取った。涪陵の居所は「習堂」と名付け、「学びて時にこれを習う」の意を取った。千福院の一室は「六有斎」と名付け、張載(横渠)のいう「言に教あり、動に法あり、昼に為あり、宵に得あり、息に養あり、瞬に存あり」の意を取った。また一室は「三畏斎」と名付け、「天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏れる」の意を取った。
張繹との比較
- 公は張繹と同時に伊川に師事した。張繹は識見の高さで、公は篤行で、ともに称された。伊川が公と張繹に「日頃の見解に同じところ違うところがあるか、自分ではどう思うか、私に言ってみよ」と問うと、公は「私は思叔(張繹)に及びません。例えば凡そ問いを立てる時、三度四度尋ねても分からないことがあり、時が経ってようやく得られます。思叔なら先生がひとたび説けばすぐにうなずいて意を得、しばしば妙境に至ります。私は愚鈍ながら自ら保守することはできますが、思叔のようにはとても保てません」と答えた。伊川は笑って「その通りだ、その通りだ」と言い、それ以来毎回一緒に教えを請うようになった。退出後、伊川は必ず諸郎に「張秀才はこの通りだが、尹秀才が肯んじないわけではない」と語った。以上、祁寛の語録による。
張繹との友情と伊川の族女との縁組
- 公は「私と思叔はもとより友好で、伊川が涪州から帰り思叔が初めて会った時、穎悟疏通であり、伊川も喜んだ。それ以来ともに遊学し、伊川は族女を思叔に嫁がせ、ともに深く敬い遇した」と語った。和靖はかつて侍坐して伊川に「張某は先生の言葉を聞くたびその場で解悟しますが、私は先生の言葉を再三尋思し、あるいは再び質問してから初めて解悟します。しかし他日の持守については、思叔は私に及ばないでしょう」と稟したところ、先生はこれを然りとした。思叔は文章に長じ事を処理するのにも巧みであったが、先生が没した後間もなく思叔も没した。和靖は召された際に「思叔がもし存命であれば、今頃召し用いられ、必ず世に有為の働きをしただろう」と言い、伊川もかつて「晩年に二人の士を得た」と語ったという。
学問は人となるための学び
- 先生はかつて「学ぶ者は人となるために学ぶのである」と語った。徐名度(字は惇立、尹門人)が「私は学問に志があるが、その方法を知りません」と問うと、先生は「この言葉自体がよい、もし本当にこの意があるなら、帰ってこれを求めれば余りある師がある」と答えた。
心を虚閑にして道を見る
- また人に「心を虚閑にすれば自然に道が見える」と語った。
観音への礼拝をめぐる問答
- 先生が従班(朝廷の随員)であった時、朝士が郊外に天竺観音を迎える儀式があり、先生も参加した。ある人が「なぜ観音を迎えるのか」と問うと、先生は「衆人がみな迎えているのに、私だけがどうして違えられようか」と答えた。「では拝礼もするのか」と問うと、「もとより拝礼するつもりだ」と答えた。「やむを得ずして拝すのか、それとも誠から拝すのか」と問うと、「彼もまた賢者である、賢を見ればすなわち誠敬してこれを拝するものだ」と答えた。
蘇氏の解釈への批判
- 徐度が蘇氏の「民をして戦慄せしめる」の義について問うと、先生は色をなして「経を訓ずるのに新奇を欲すれば、至らぬところなしとなる」と言った。
光明経の読誦
- 先生は日々『光明経』一部を読んでいた。これを問われ「母の命であり、あえて背けない」と答えた。朱子は「これでは平生、父母を道に諭す一節を欠くことになる、それでこのようなことに至ったのだ」と評した。
門人による賛
- 門人の賛に「丕なるかな聖謨、六経の編、耳順にして心に得ること己の言を誦するがごとし」とある。朱子は「まさにこの境地に至ってこそ読書人と言えよう」と述べた。
朱子撰・行録序
- 朱子の序に「程夫子は『涵養は必ず敬をもってし、進学は則ち知を致すにあり』と言われた。この二言は夫子が人を教える上での造道入徳の大端であり、偏廃してはならないものである。尹先生のような方は、夫子に学んで敬について得るところがあったというべきだろう、その説の簡約さと居ることの安らかさはどれほどか」とある。以上、先生言行録序による。
- また「先生は晩年、片紙に手ずから聖賢が示した治気養心の要を書き、屋壁に貼って自ら戒めとされた。私(朱熹)は密かに前賢が修めることに倦まず、死してのちようやく止むことを思い、その心はきらきらとしてなお識ることができるようであり、捧げ読んで巻を終えると、恍然として我を失う。それゆえこれを自らへの戒めとする」と述べた。
後学による評
- 和靖の立朝時の議論について問われ、朱子は「和靖は他の書を見ず、ただ持守が良かった。彼の語録には涵養持守について分外に親切な説明がある。ただし朝廷への上疏の文字の多くは門人の代作である」と述べた。
- 和靖は「経は誦説によって伝わるとはいえ、講解によっても陋(狭められる)ことがある」と語った、この言葉は深い味わいがある。
- 和靖は主一の功が多く窮理の功が少ないため、経を説くのは簡約で学者に益するところがあるが、推し広めて説くことができず、大きな発明の功がない。経筵にあっては講義がやや開悟啓発の功に乏しかった。紹興の初め入朝した際は満朝がこれを神明のように待ち望んだが、大きな開発はなかった。当時高宗は山谷(黄庭堅)の詩を好んで見ていたが、尹は「この人の詩に何の良さがありましょう、陛下はこれを見て何になさいますか」とだけ言った。
- 和靖は主敬に専らで集義の面が少ないと問われ、「和靖は主敬をしっかり把握しており、多くは理に近い」と答えられた。
- 和靖は程門で最も鈍い方であったが、ひたすら「敬」の一字に工夫を積んで、ついに成し遂げた。
- 和靖は持守は十分だが格物には至らず、見識は精明でなく活法がない。伊川先生は病を説けばすぐに薬を出したが、和靖はまるで死んだ馬を医するように合わせてしまう。この道の伝授は容易に人に属せられるものではない。
- 和靖は〓を守り見識はあまり透徹しておらず、俗語で言えば「ただ泣かない赤子を抱いている」ようなものだ。
- 和靖は才が短く、ただ伊川の説を守るのみである。以上、朱子の語による。
- 和靖は「伊川の門人・馮理(字は聖先)は『二十年先生の教誨を聞いてきましたが、今一つ奇特な事があります』と先生に問うた。理は『夜に室で座禅していると光が見えます』と言うと、先生は『私にも一つ奇特なことがある』と言い、理が問うと、先生は『毎食必ず満腹になることだ』と答えた」と語った。