宋名臣言行錄外集卷六十六 劉安節

出自と経歴

  • 字は元承。温州の人。元符三年、進士に登第し、越州諸暨県の主簿に任じられた。萊州教授に除せられたが赴任せず、河東提学に改められ、召対されて監察御史に抜擢され、起居郎に除せられ、太常少卿に遷り、責められて饒州の知州となり、宣州に移された。政和五年に没した。享年四十九。

人柄と学問

  • 公は天資が道に近く学問に敏く、その趣尚は世俗のいわゆる学者とは異なった。当代の賢く道を有する人物に従って遊び、まず致知格物によってその材を発し、心を沈め熟慮を重ね、心を存し性を養うこと久しく、そこに得るところがあった。その容貌は温和で、望めばその度量の広さが知れた。人に接するに貴賤大小を問わず一様に誠をもってし、自分に逆らう者に対しても怒りの色や恨みの言葉を見せることはなかった。

便殿での上奏

  • 便殿での召対で公は「春宮(皇太子の宮)はよく官属を選ぶべきです」と述べ、また節倹および君子・小人の和同の違いについて論じた。上(皇帝)はこれを善しとし、顧問すること甚だ懇切であった。

饒州での飢饉救済

  • 饒州の知州となった際、州はしきりに飢饉に見舞われた。公は着任するや大いに廩(穀倉)を開いて振済し、また近隣の郡に檄を発して糴(米の買い付け)を遏(さえぎ)らないよう求めた。軍儲が不足すれば、他の役所が強いて民から取り立てるのが常であったため、公は「凶年にこのようにして重ねて民を苦しめてよいものか、他の司にも融通できるものがあるはずで、緩急に応じて調整すべきだ」と述べた。

宣州での水害救済

  • 宣州に移る際、饒州を離れて二日、民は道を遮って引き留め涙を流して別れを惜しんだ。耆老たちは「わが州は范文正公(范仲淹)以後、ただわが劉公あるのみ」と言った。宣州に至って十日で大水が至ると、公はその属官を分遣して舟を具え溺れる者を救い、自ら督励して昼夜休むことなく、活かした者はほとんど数千人に及んだ。遠近から流民が万を数えるほど至ったが、公は廩を開いて彼らを救済し、一人も所を失う者がなかった。

鄒浩への支援

  • 鄒公浩(鄒浩)が右正言として罪を得た際、公はその親しい数名とともに道を追って彼を労い励ました。朝廷は激怒し追及すること甚だ厳しかったが、人々がみな恐れ惴くなか、公だけは泰然としていた。やがて哲宗が鄒浩に他意のないことを察し、詔してこれを釈放させたが、公もまた自若としていた。

治政の理念

  • 公は常に「堯舜の道は孝悌を出ない、天下の理は一つで二つはない、異端になると初めて断絶が生じる」と語った。人と交わるにあたっては常にその長所を引き出しその及ばぬ所は密かに覆い隠した。その施策は常に公にあり、天下はこれをもって内外を合わせ彼我を通じることでなければならないと考えた。治めた二州はもっぱら仁義による教化と、平易に民に親しむことを旨とし、民に訴訟があれば、これを委曲に訓戒した。

上蔡との問答

  • 上蔡(謝良佐)に「劉子(劉安節)は進んでいるか」と問われ、「まだ進むところを見ない」と答えた。「進まない理由は何か」と問うと、「ただ根がないためだ」と言い、庭前の茶䕷(花の名)を指して「この花はただ根があるからこそ、一年ごとに盛んに成長するのだ」と語った。