出自と経歴
- 字は定夫。建州建陽の人。元豊六年、進士に登第し、越州蕭山尉に任じられた。侍臣の推薦により太学録となり、博士に任じられて河清県の知県に擬せられた。范忠宣(范純仁)が潁昌の知事となった際、府の教授に招かれた。范純仁が再び宰相となると太学博士に任じられ、さらに斉州僉判となったが、丁憂(服喪)で辞し、服除後に泉州僉判に再任された。上皇(徽宗)の即位に伴い召還され、監察御史となった。和州の知州に出て一年余り、祠官として和州・漢陽軍の知軍を務め、再び祠官を乞い、その後舒州・濠州の知州を務めた。罷免されて厯陽(和州)に寓居し、宣和五年に没した。享年七十一。
兄弟の学と伊川への入門
- 公は兄・醇とともに文行によって当時知られ、交わる者はみな天下の豪英であった。少壮であったにもかかわらず、当時の老師宿儒もみな彼を推した。伊川(程頤)は用事で京師に至った際、一目見て「その資質は道に適う」と評した。当時、明道(程顥)は扶溝の知県であり、兄弟(游酢兄弟)はまさに明道の学を唱えることを己が任とし、庠序(学校)を設けて邑人の子弟を集め教えていた。公を招いて学事に就かせると、公は喜んでこれに従い学び、その微言(深意)を得るに至って、それまでの学問をすべて棄てて改めて学んだ。
龜山の評
- 龜山(楊時)は言う。伊川は游君(游酢)の徳と器量が粋然としており、学問は日に進み、政事の面でも人を大きく超えていると称した。師門からこれほど称されるのだから、その到達点が知れよう。
初任の県での判断力
- 出仕して間もない頃、県には十余年決着しない疑獄があった。公は県の事務を代行し、一度尋問しただけでその実情を得てこれを釈放した。その手際は熟練の官吏のようで、人はその明察に感服した。
人柄と学風
- 幼い頃から群れず、書を読めば一度で暗誦した。壮年になるとますます力を尽くし、心を専らにして目を注ぎ、世俗の儒者の習いにならわなかった。内に誠があれば外に形となって表れ、儀容・辞令は燦然として文があり、望めば徳のある君子と知られた。親に事えて違うことなく、朋友と交わって信あり、官に莅んで僚吏に恩意を及ぼしたので、人々は自ら尽くすことを楽しみ、あえて怠る者はなかった。恵政は民にあり、父母のように慕われ、去った後もますます思われて忘れられなかった。その道学が人を悟らせるに足り、その余沢が天下を潤すに足りたにもかかわらず、清明の時に遭いながらその用いる所を究められなかったことは、士論がともに惜しんだ。
朱子撰祠堂記による人物評
- 先正忠肅公(劉安節を指すか)が先生と交遊した際の笑談論議・書疏辞章は、かつて親しく見聞きした者が今なお諳んじることができる。その雍雍として立ち居振る舞う間にも深く微妙な意を得ており、聞く者をして恍然としてその人に再び会うかのように感じさせる。以上、朱子が撰した祠堂記による。
清徳重望
- 公の清徳と重望は日星のごとく明らかで、身分の低い奴婢のような者までもがこれを知っていた。その流風余韻は世を師とし俗を範とするに足りた。
学問上の業績
- 公の事業は大きく世に施すことができなかったが、『中庸義』『論孟説』を世に遺した。その師友からの評価やその話言の伝わるところを考えれば、道を造る深さと流風の遠さをうかがい知ることができる。
伊川による評
- 伊川は「游酢はもう昔の游酢ではない、もとより穎然(明敏)たる資質に加えて温厚である」と言った。また「游酢は西銘を読んで、すでに心に逆らわず、言葉の外に一つの意思を立てられる、これはすなわち中庸の境地である」と評した。
楊時との比較
- 游酢と楊時は先に禅を学ぶことを知っていたが、内に安んずる場がないことを知っていたためにここ(程門)に来た。それでも変わらないとは限らない、という懸念も語られた。
呂居仁との問答――佛儒の異同
- 呂居仁(呂本中)は言う。定夫(游酢)は後に禅を学んだ。大観年間、呂居仁が書をもって「儒道は父子・君臣・夫婦・朋友・兄弟という関係に順うことで聖人に至ることができるとするが、仏道はこれらを去ることで聖人に至ることができるとする。あなたはすでに二程に学び、後にまた諸禅に遊んだのだから、この二つの論には必ず滞りのない見解をお持ちだろう、なぜ両者は異なるのか」と問うた。游酢は答えて「仏書の説くところは儒者もいまだ深く考察していない。かつて伊川が『私が攻撃するのは(仏教の)跡(表面)である、しかしその跡は何に由来するのか』と語るのを聞いた。要するにこの事は自らその境地に至って初めて同異を弁じることができ、口先で争うことはできない」と答えた。定夫は「先輩たちは往々にして仏書を見ずしてこれほど激しく非難する、しかし仏を破る所以についても自分自身では納得していないのだ」と語った。
中の字義をめぐる問答
- 定夫が記した程先生の言葉に「一物も該(そなわ)らざれば中ではない、一事も為さざれば中ではない、一息も存せざれば中ではない、それはなぜかといえば偏っているからだ」とある。朱子はこれに対し「これでは中の字の意味に届いていない、中の字の意味はこのようなものではない。彼(程先生)が『偏』の字を説くのはむしろ、一偏一偏がかえって周徧を妨げないという意味であって、定夫がこの語を記したのは正確ではなく、程先生が普段語る話とは似ていない。これは彼が王氏(王安石)の学と混じったためであり、当時王氏の学は盛んに行われ、その影響を広く受けていた」と述べた。