宋名臣言行錄外集卷六十五 謝良佐

出自と経歴

  • 字は顯道。上蔡の人。釋褐して登第し、秦州教授を授かる。建中年間、召対されて書局官を除せられ、後に去って筦庫(倉庫官)となったが、飛語(讒言)により詔獄に係われ官を剥奪された。

明道による評価

  • 挙業を習い、すでに名を知られていた頃、扶溝に赴いて明道(程顥)にまみえた。明道は人に「この秀才は展拓(発展)させれば、将来を望める」と語った。

明道への師事と静坐の学び

  • 明道に受学すること甚だ篤かった。明道はある日「お前たちはここで私に従っているが、ただ私の言葉を学んでいるだけで、学問と言動が一致していない」と言い、「試みに何かを行ってみよ」と問うと、謝良佐は「まずは座って学びます」と答えた。伊川(程頤)は人が静坐しているのを見るたび、その善く学ぶことを歎じた。

「小魯にして誠篤」との評

  • 明道はまた「謝子は多少せっかちだが、誠実篤実で、事について理解が及ばない所があれば、額に汗をかいて憤り悱えるほどである」と語った。

朱公掞の来訪

  • 朱公掞(朱光庭)が諫官として召され洛陽を過ぎ、伊川にまみえた際、顯道(謝良佐)が同座していた。公掞が語らずにいると、伊川は顯道を指して「この人は切問近思の学をなす者だ」と言った。

記問の学から実践の学への転回

  • 胡文定(胡安国)は語る。謝良佐は初め記問(暗記博識)の学を為し、博覧を自負していた。明道の前で史書を挙げ一字も違えず暗誦したところ、明道は「賢者はよくこれほど多くを記憶できるものだが、これは玩物喪志(物にもてあそばれ志を失う)というべきだ」と評した。謝良佐はこれを聞いて汗が背に流れ、顔が赤くなった。明道は「これがすなわち惻隠の心である」と言った。その後、明道が史書を読むのを見ると、逐行にわたり一字も違えず見ていた。謝良佐は当初は不服であったが、後に悟り、この逸話を博学の士を導く話柄として用いるようになった。

「矜」の一字を去る工夫

  • 謝子は伊川に別れて一年後にまた訪れた。伊川が「別れてまた一年、どのような工夫を積んだか」と問うと、謝子は「ただ『矜』の一字を去ろうとしています」と答えた。伊川が「なぜか」と問うと、「よく点検してみると、病はすべてこの一字にある。もしこの罪過を抑え込めれば、初めて前進できる」と答え、伊川はうなずいた。胡文定は「矜の字の罪過がなぜそれほど大きいのか」と問うと、謝子は「今の人が事をするのは、ただ他人の目に誇示するためであって、自分自身のためになることを顧みない。食前方丈(贅沢な食事)を持つ者は人前で堂々と食べるが、粗末な食事をとる者は房の中に隠れて食べる。それはなぜか」と答えた。

命を知る

  • 命を知ることは浅近なようでも、それを信じ切ることが肝要で、将来これを土台に工夫を積むべきである。良佐が最初に及第した年、前年に内廷に入る夢を見たが神宗ではなく皇太子が涕泣しているのを見た。釋褐(任官)の時には神宗が崩御し哲宗が即位した。このような事はうかつに見過ごしてはならず、万事はまことに天命があり人力で計り知れないものである。良佐は平生人に頼ることをせず、書局にいても執政に謁見しなかった。人がこれを勧めても「彼にどうして私を陶鋳(造り上げる)できようか、自らに命がある」と答えた。もし信じ切れなければ、風が吹き草が動くだけで恐怖が生じ、憂喜のために無用の心力を費やすことになる。命を信じ切れれば気は挫かれない。

外物を放下する工夫

  • 游子(游酢)が謝子に「あなたは外物についてすべて放下(手放す)できているか」と問うと、謝子は胡子(胡安国)に「まことに切問だ」と語った。胡が「どう答えたか」と問うと、「彼に、私はその方面の工夫を積んできたと答えた」と言う。胡が「どのように工夫をするのか」と問うと、「すべての事には根がある。屋柱に根がなければ折れて倒れるが、樹木は根があれば枝を切っても再び芽吹く。人が富貴を求めるのも必ず用いる所があるからで、その用いる場所という病根を探り出し断ち切れば事はなくなる」と答えた。

勢利の関門を突破する

  • ある人が謝子に「勢利についてはどうか」と問うと、「この関門を打ち破ってから十余年になる。当初は大いに工夫を積んで捨てがたいものを捨て去り、後には次第に軽くなり、今では器物の類も、ただ用に応じて置いているだけで、羨む心はない」と答えた。

太虚と心の存止をめぐる問答

  • 「太虚は無尽で、心には止まりがある。どうして合一できるのか」と問われ、「心に止まりがあるのは、ただそれを用いるからだ。用いなければ何の止まりがあろうか」と答えた。「あなたはすでに用いていないのか」と問われ、「まだこの境地に至っていない、聖人でなければ用いないということはない」と答えた。当初この言葉を発した時、伊川の一言で覆された。かつて伊川を訪ねた際、伊川が「近日はどうか」と問うと、良佐は「天下何をか思い何をか慮らん」と答えた。伊川は「その通りだが、その理はある。あなたはこれを言うのが早すぎる」と言った。当初この言葉を発した時の心境を問われると、「この事が見えた時は他念なく、事に接してもよく応じられた」と答えた。それがなぜ伊川の一言で覆されたのかと問われ、「まだ透徹していないところがあった。もしあの時伊川の一言で救われなければ、禅家に入っていただろう」と答えた。伊川はまことに人を鍛練する術に長けていた、と評された。

課簿による日々の反省

  • かつて課簿(日課帳)を作って日々の言動や視聴が礼にかなうか非礼かを記した。また、若い頃は恐懼する心が強く、危うい階段の上でよく修練したという。

儒と禅の違い

  • 儒が禅と異なるのはまさに下学(日常の実践的な学び)の点にある。顔子の工夫は真に百世の軌範であり、これを措いては入る道もなく住む家もない。二、三十年があっという間に虚しく過ぎてしまう。

春秋の読み方

  • 春秋はおおよそ法家の断例(判例)のようなものであり、中道をもって折衷すべきである。これは中庸の「中に権あり」の説、二つのものの中を取るという説にも通じよう。

進学の工夫

  • 学問を進め功を積むには、自ら少しでも立とうとするなら、自分自身で法術を用いる必要がある。近頃の学者は言うに足りず、鸚鵡のように言葉を真似るのみである。富貴利達において脱却できる者は今の人には少なく、それは小事ではない。禅家が声色の関を透るように、切に努めるべきである。

名利の関を透る

  • 名利の関を突破すれば、それは小休止に過ぎない。ただし窮理の工夫があってこそ、初めて聖域に入る望みがある。そうでなければ道を見る理は万に一つもない。

世味への淡泊

  • 私(謝良佐)は早くから道を有する人に親しみ、また克己の学を為してきたため、世の中の趣味には有るか無きかの淡さで接するようになった。先頃憂患を経てからは、仕える意欲もいよいよ薄くなった。

学問の要諦――志有る者への戒め

  • 学問において貴いのは、自ら実践し身に得ることが難しい点である。聞くところでは詹君らは勇猛精進しており、大いに喜ばしい。物事へのとらわれをさらに見破ることができればなお良い。もし見破れなければ、危険を冒す行為を論じるまでもなく、すでに気力は弱まり志は喪われている。道に志す者はこれを戒めねばならない。まさに朝夕点検して明らかにすべきである。以上、東(人名か)・胡文定より。

伊川に「王佐の才」と評されたかの検証

  • 馮忠恕が「陳叔易は、伊川がかつて良佐に王佐の才があると許したと言っていた」として、これを和靖(尹焞)に質した。和靖は「先生(伊川)にそのような言葉はない。先生の晩年、顯道は澠池県令となり、洛陽に来て先生を訪ね十余日滞在した。先生は焞(和靖)に『顯道に会ったなら、近頃の得るところを試しに問うてみよ』と言った。焞が訪ねて問うと、謝は『良佐は常々先生の話を聞くたびに疑惑を抱いていたが、今回は先生の言葉を聞いて判然と疑いがなくなった』と答えた。得るところがこのようであったと先生に告げると、先生は『私が見るところ彼もその通りだ、大いに喜ばしいが、その言葉(王佐の才)は聞いていない』と言った」と答えた。

朱子發との論語問答

  • 謝先生が西竹木〓の監となっていた時、朱子發(朱震)は太学から弟子の權とともに彼を訪ねた。座に着くと子發は「あなたにお目にかかりたいと思っていました。今日参りましたが、何を問うべきか分かりません、どうかご教示ください」と言った。先生は「よろしい、あなたに論語一部を説いてあげよう」と言ったが、子發は内心「日も刻々と過ぎるのに、いつ講説を親しく受けられるのか」と思った。やがて食事と酒が五巡したが、他の話ばかりで、茶が終わって初めて先生はひげをしごいて「論語を説くには、まず『子、齊衰する者と冕衣裳する者と瞽者とを見れば、少しといえども必ず作つ、これを過ぐれば必ず趨る』を挙げ、また『師冕見ゆ』の段で、階に及べば子は『階なり』と言い、席に及べば『席なり』と言い、みな座れば子は『某はここに在り、某はここに在り』と言った件を挙げよ。子張が『師と言うの道か』と問うと、『固より師を相くるの道なり』と答えた。聖人の道は微も顕も内も外もなく、洒掃応対進退より上達し、道は本末一以て貫く。論語一部はこのように読むべきである」と語った。以上、語録の跋による。

尹子(尹焞)への教え――烏頭の譬え

  • 謝子は河南夫子(程頤)にまみえて帰る際、尹子(尹焞)が送りに出て「何を教えてくださいますか」と問うと、謝は「我々は朝夕先生に従い、行いを見ては学び、言葉を聞いては識る。譬えば烏頭(薬草)を服用する人が、服用している間は顔色艶やかで筋力盛んだが、ある日烏頭の力が尽きればどうなるか」と語った。尹子はこれを夫子に告げると、夫子は「益友というべきだ」と言った。

顔子・孟子論

  • 顔子は「体を具えて微なる者」であり、生まれつきそのような気象があったが、まだ彰著(顕著)ではなかった。孟子は強勇にして身をもって道を担い、壁立万仞のごとく誰も正視できないほどであった。孟子でなければこの手腕はなし得ない。それでもなお大きな気象があり消し尽くせないところがあり、そうでなければ「藐たる大人」等の言葉を口にしなかったであろう。孔子は「君に事えて礼を尽くせば、人はこれを諂いとみなす」と言ったが、当時の諸国の君相はどうしてこれに堪えられただろうか。聖人はこのように礼をなし、ひたすら礼を行うだけで、あなたと長短を計ることをしない。上大夫と語れば誾誾(和やかに)とし、下大夫と語れば侃侃(率直に)とし、冕者・瞽者を見ればすぐに立ち上がりすぐに趨る。これはその徳が全く盛んで自然にそうなるのであって、無理にそうしているのではなく、孟子とは全く異なる。

朱子による総評

  • 朱子は言う。先生(謝良佐)の人柄は英果明決、力強く倦むことがなかった。克己復礼を日々の課程とし、著した論語説および門人が記録した遺語はみな世に行われた。生意(生き生きとした心)をもって仁を論じ、実理をもって誠を論じ、常惺惺(常に目覚めていること)をもって敬を論じ、求是をもって窮理を論じ、その命意はみな精当であった。特に窮理・居敬を入徳の門とするのを直指した点は、明道の教人の綱領を最もよく得ている。かつて徳安府の応城の宰となった時、胡文定が典学使者としてその地を巡視し、あえて職事を問わず、紹介を通じて弟子の礼をもって面会を求めた。門に入ると、吏卒が庭に立ち並ぶさまが土木の人形のように粛然として敬すべきであったので、そこで学を稟けたという。同時代の門下の士もみなその言論が閎肆(広大で自由闊達)で人を啓発するのが巧みであると称えた。今その書を読むと、なお彼を想見することができる。朱熹自身も若い頃から学に志し、先生の言葉に頼ってその趣を発し、また平生聞いた先生の行事はみな高邁卓絶であり、人を奮起させるものであった。それがいつか泯滅して伝わらなくなるのを常に懼れている、と述べた。

後学による論評

  • 上蔡の論語解には人を啓発する箇所が多いが、その説はやや行き過ぎることがある。ただし理を識った後にはこれを細密に商量すれば平正なものとなる。
  • 上蔡は「孝弟は仁ではない」と説いた。孔門はただ「仁を為す」ことを説くのみだが、上蔡は「仁を知る」ことを説き、この心が見えれば仁とみなした。上蔡の説は一転して張子韶(張九成)となり、子韶が一転して陸子靜(陸九淵)となった。上蔡があえて衝突しなかったところを子韶は尽く衝突し、子韶があえて衝突しなかったところを子靜は尽く衝突した。
  • 上蔡が仁を説き覚を説くのは、はっきりと禅に近い。
  • 論語における上蔡の解釈は非常に多く、その要となる字を見出す力があり、上蔡の見識は透徹して滞りがない。
  • 上蔡は「詩を読むにはまず六義の体裁を識り、それから諷誦してこれを得るべきだ」と説いた。これはよく詩を読んでいる証しである。
  • 上蔡の語録の上巻は極めて親切(丁寧)であり、暇な日に試しに涵泳(よく味わうこと)すれば自ずと味わいがある。広く求めすぎるとかえって言葉に頼って解釈を生み、脱洒(自由闊達)になれない。
  • 語録の跋に「先生は程門に学び、諸公の中で最も志を篤くし力行し、見識は最も超越していた」とある。
  • 上蔡の議論は行き過ぎではないかと問われ、「上蔡は事の上で理会(理解)することを好み、そこにやや行き過ぎがある」と答えられた。
  • 上蔡は高邁卓絶で、言論は宏肆(雄大自由)で人を啓発するのが巧みだが、その言葉には過ちがないわけではない。それでも確実な工夫を積んでいる。
  • 人の病痛(欠点)は一様でなく、それぞれ偏りに応じて生ずる。上蔡は才が高いゆえに病痛は「矜」の字にあった、と問われ、「その通りだ。ただし謝氏は矜の字を去ったと言っても、後にまた矜は依然として去りきれず、道理を説くのに揚々としていた」と答えられた。
  • 伊川の門下で上蔡は禅門から来た者であり、その説にもやや偏りがある。今の人が道を説くのに高妙な所から説き始めると禅に入りやすいのは、上蔡以来そうなのである。
  • 上蔡はおおむね張皇(誇張)で妥帖(着実)でない。
  • 上蔡の「観復齋記」の中で説く道理はみな禅学の意味合いであり、これを伊川と比べると異なる。静処に見る消息を説き、工夫を下さない類は、儒仏の違いはただ下截(実践の部分)にあることを言っているようで、龜山(楊時)もまた同様である。
  • 張南軒(張栻)は「上蔡の論語序は前半は非常によく説かれているが、後半は『天地と流を同じくする』ことを説きすぎて、かえって学者に想像が実質を離れる心を起こさせる」と評した。