出自と経歴
- 字は季明。武功の人。張載(横渠)の門人で、二程(程顥・程頤)のもとで学業を修めた。元祐末、呂大忠の推薦により布衣(無官)から召されて博士となったが、後に上書して邪党の弾劾に連座し鄱陽に流された。
- 呂大忠は「蘇昞は徳性純厚にして学問に篤く、四十歳になっても仕進を求めず、張載の学を修めた門人の秀才である。秦(陝西)の賢い士大夫たちも多く彼を称賛している。もし取り立てられ学官に選ばれれば、必ずその学識を尽くして朝廷が人材を育てる意にかなうであろう」と推挙した。
貶謫と伊川・和靖との問答
- 蘇昞は上書して罪を得、饒州に貶されて洛陽を通過した際、和靖(尹焞)が伊川(程頤)の館に彼を訪ねた。ちょうど伊川が出かけていたところ、伊川は「季明は左遷されたことをまるで意に介さない」と語った。和靖が「その通りです」と応じ、さらに焞(和靖自身)は季明に「あなたが上書したのは国家のためを思ってのことか、それとも自分自身の利害のためか。もし国家のためであれば喜んで饒州へ行くべきだが、もし出世を求めてのことなら饒州への貶謫はまだ軽い処分といえる」と問うたところ、季明はこの言葉を然りとした。伊川はこれを聞き「名言だ、名言だ」と評した。
学問の系統に関する論評
- 後の世で言責(言論を司る職)にある者が、君主の前で言うべきでないことを言い、あるいは王言を代作する者が言葉を乱すのは、学問に源流がないためである。伊川の門下は多いが、その要(本質)を知らぬ者は結局何も得られない。季明は張載(横渠)に最も長く学び、その文章を編纂して十七篇とし、自ら「最もその大旨を知る」と称していたが、後に上書して邪党の弾劾に連座したのは、実は横渠の学の本質を理解していなかった証しである。朝廷の事は宰相・執政があり、その次に諫官・御史がある。季明が職分を越えて上書し重い罪を得たのも、また言うべきでないことを言った点があったのであろう。以上、胡氏『傳家錄』による。