宋名臣言行錄外集卷六十四 呂大臨

出自と学統

  • 字は與叔。大鈞(和叔)の弟。張載(横渠先生)に学び、横渠の没後は東のかた二程(程顥・程頤)にまみえてその学業を修めた。元祐年間、太学博士・正字に任じられた。范祖禹(内翰)が講官として推挙したが、用いられる前に没した。
  • 家門の蔭位により出仕する資格があったが、これによって出仕せず、科挙にも応じなかった。理由を問われて「祖先の徳を覆い隠すには忍びない」と答えた。

程頤の人物評

  • 程頤(伊川)は「與叔は横渠の説を固く守り、横渠に説のない箇所ではみな横渠に従い、一旦定めた説は容易に翻さない」と評した。
  • また「與叔は六月中に緱氏に来て閑居していたが、常にうかがい見ると、必ず厳然として端座しており、篤実というべきである。学ぶ者は恭敬であるべきだが、あまりに拘束されすぎるのもよくない、拘束が過ぎれば長続きしない」とも語った。

弟・和叔(呂大鈞)との比較と器識の逸話

  • 程頤はまた語った。和叔(呂大鈞)は任道(信念を貫く力)の点で風力が甚だ強いが、深く沈潜し綿密なことにおいては與叔に及ばない。
  • 元豊庚申(三年)の年、伊川が雍・華の間を旅した際、関西の学者で従う者六、七人があり、千銭を馬の鞍に掛けていたが、宿に着くと無くなっていた。下僕は「朝の身支度のときに落としたのでなければ、水を渡るときに落としたのでしょう」と言った。伊川は「千銭が惜しい」と嘆いたところ、同席の二人は声をそろえて「千銭を失ったのは実に惜しい」と応じ、次の一人は「千銭など些細な物、気にするに足りない」と言い、最後の一人は「水中であれ、袋の中であれ、一様に人が失い人が得るもの、なぜ嘆く必要があろうか」と言った。伊川は「もし人がこれを得たのであれば失ったことにはならないが、有用な物が水に沈めば二度と用をなさない」と語った。雍に至って呂大忠(公)にこの話をすると、大忠は「人の器量・識見はもとより同じではなく、上聖から下愚に至るまで幾つもの等級がある。同行の数人でさえこの通りだ」と答え、伊川が「では四人の言葉はどうか」と問うと、大忠は「最後の者が最も善い」と答えた。伊川は「まことに善い。だが先生(横渠)の言葉を見れば、体はあっても用がないと分かる」と語った。以上、伊川の語による。

范祖禹の推薦

  • 范祖禹はかつて與叔を「修身好学、行いは古人のごとし、講官となり得る」と推挙したが、用いられる前に卒した。

死後の評――汲公の祭文

  • 汲公(富弼)の祭文にいう。與叔の学問は広く群書に及び、義理を妙達すること、口に出さずとも自ずと表れるがごとくであった。その行いは聖賢を法とし、政事に臨んでは民を愛し物を利すること、あたかも無能であるかに見えるほど自然であった。その文章はほとんど古人に及び、しかも薄っぺらな文飾を為さなかった。この四つはみな人に優れていたが、その運命は世に恵まれず、科挙に登第してより二十年でようやく一階の官を改め、文学の職にあること七年にして逝った。與叔の岳父・張天祺(張戩)はかつて人に「私は顔回のような婿を得た」と語ったという。人々に重んじられたことはこの通りであった。

附 呂大忠

  • 公(呂大臨)の兄、大忠、字は晉伯。秦州の帥(長官)となった。馬涓(巨済)が状元及第して秦州の僉判となった際、当初「状元」と呼ばれていたのを、晉伯は「状元というのは及第しただけで未だ官に任じられたわけではない。すでに判官となった以上『状元』と呼ぶべきではない」と諭した。馬涓は恥じて謝した。さらに晉伯は「科挙の学問はすでに無用である、修身のための己を修める学問にこそ努めよ」と語った。当時、上蔡(謝良佐)が秦州の教官となり程氏の学を講じていたが、晉伯はしばしば車馬を止めて馬涓とともに訪れ、上蔡が論語を講ずるのを聴くたびに、晉伯は襟を正し容を粛して「聖人の言行がここにある、謹んで聴かぬわけにいかない」と言った。また公事の案牘(文書)をしばしば馬涓に委ねて詳しく検討させ、「修身の学問は必ず後々政治に活かされる、知らずにいられようか」と語った。馬涓は自らこれを師の教えと得心し、後に朝廷で台官として名声を得るたび「呂公が私を教えてくれた恩だ」と嘆じたという。
  • 程頤は「晉伯は老いてなお学問を好み、理会(理解)が徹底している」と評した。老いて学を喜ぶ者は特に愛すべきであり、若く壮健な者はなおのこと自ら勉め励むべきである。
  • 上蔡は「晉伯は学を好んだが、当初『仁』の一字が理解できなかった。私(上蔡)が『世人は仁の字をただ愛の一点のみで捉えようとするが、仁はどう見るべきか。ただ「力行は仁に近し」というように、力を尽くして行うことと愛とは何の関係もないのに、なぜ仁に近いと言うのか』と問いかけ、この類推によって説いたところ、晉伯は悟って『あなたの仁の説明は、あの高僧が禅を説くのと同じだ』と言った」と語った。晉伯の兄弟にはみな見識があり、ある者は曽点(孔子門人)を詠じて「先生の前で穏やかに問答し、才能を発揮しないことはなかった。諸侯に見え得るのに曽点だけは瑟を鳴らし、独り春風に向かって詠じてやまなかった」との詩を作り、また別の者は「学問は元凱(杜預)のごとくにして初めて癖となり、文章は司馬相如に及んでもかえって俳優のごとくなる。独り孔門に立てば何事もなく、ただ顔子の心斎の境地を得るのみ」との詩を作った。程頤は「この詩は非常によい。昔の学者はひたすら性情を養うことを務めとしたが、今の文章を作る者は専ら章句の技巧に努め、人の耳目を悦ばせることだけを考える。人を悦ばせることに専念するなら、俳優と何が違おうか」と評した。
  • 朱熹は「與叔の文章は実に説き得て良い、千軍万馬のごとく充実して勇壮である」と評した。
  • 程頤は「與叔の資質は深く沈潜し綿密である。惜しいことに長命でなかった。私がもし與叔ほどの年齢であったなら、これほどの境地に至れたかは分からない」と語った。
  • 「與叔はもともと剛の気質を持つ人物であった。涵養がここまで至ったのは、聖人が剛を君子とし柔を小人とするからで、もし剛でありながらその弊害を除き、剛の徳を全うすれば、次第に学を為すことができる。もし剛でなければ、ついに成すことはできない」(程頤の語)。
  • 「與叔の顔子(顔回)論はきわめて優れている。また『未発の前、心の本体は明らかに具わっている』と語った。伊川はこの説を破らなかった。『克己銘』において己と物とを対立させて説いたのは、本来の意図を言い当てていない」(以上、朱子の語)。