宋名臣言行錄外集卷六十三 邵雍

出自と生い立ち

  • 邵雍、字は堯夫、康節先生と諡される。先祖は范陽の人で、衡漳を経て共城に徙り、三十歳で洛陽に遊学、両親を伊川に葬って河南の人となった。嘉祐中、遺逸の詔挙で留守王拱辰の推薦を受け試将作監簿を授かった。熙寧初、御史中丞呂誨らに再び推薦され頴州團練推官を三辞ののち受けたが病と称して赴任せず、熙寧十年に六十七歳で没した。秘書省著作郎を贈られ、元祐中に諡を賜った。

苦学と交遊

  • 百源で学ぶこと数年、冬も炉を用いず夏も扇を使わず夜も寝床に就かぬ刻苦の日々を送った。「昔人は千古を友としたが、我はまだ四方を尽くしていない」と、呉・楚・斉・魯・梁・晋を歴遊してのち洛陽に帰り「道はここにある」と定住した。
  • 学問は李挺之に受け、李は穆伯長に受けたもので、源流遠く端緒があったが、雍自身の純一で汪洋浩大な体得は多大であった。易を極め、大名の王豫(天悦)は雍の篤志に感じ三日語らって従学した。晩年『皇極經世』六十巻を著し、詩集『撃壤集』二十巻を自ら序した。

安楽窩の暮らし

  • 洛陽に四十年住み、貧に安んじ道を楽しみ、寝室を「安楽窩」と号し自らを「安楽先生」と称した。朝は焚香独坐、晡時には酒三四甌を微醺で止め、大寒暑には外出せず小車で親旧を訪ねた。人と接するに賢愚貴賤を問わず歓を通じ、病にも客と対話すれば疾を忘れたという。
  • 富弼(文忠公)とは早くから知己で、官職を勧めても固辞し、「相招くこと多謝すれど遺てず、胸中に施す所あらんとするも、進めば吏責を禁じ得んや」の詩で辞退した。熙寧二年の遺逸挙にも王拱辰の推薦を受け試将作監簿を授かったが赴任しなかった。

隠者としての矜持と処世

  • 烏帽子・縄褐の隠者の服装で卿相にも会い、司馬温公(光)が深衣を勧めても「今の人は今の衣を服すべき」と答え、温公はその理に感嘆した。
  • 熙寧の新法施行で世が騒然とし、門生故旧が投劾(辞職)を相談すると、「賢者こそ力を尽くすべき時、寛容の一分でも民に恵みとなる」と諭した。
  • 洛陽の風俗を美しく整えたことで知られ、里の後生は「無為不善(善からぬ事をするな)、司馬端明・邵先生に知られるのを恐れよ」と戒め合ったという。富弼との交友も深く、互いに詩を贈答し、政局や人事についても意見を交わした(安石罷相後の呂惠卿の凶暴を予見した逸話等)。

予兆と易占の逸話

  • 治平年間、天津橋で杜鵑(ほととぎす)の声を聞いて憂色を示し、「南方の地気が北上し、南人の宰相が政変を起こし天下が多事となる」と予見、熙寧初にその言が的中したという。
  • 本朝の五事(革命の日に市が乱れず、天下を克服したのは即位後、無罪の者を一人も殺さず、四百年で四代、五百年間腹心の患いなし)を独自の史観として語った。

最期

  • 熙寧十年夏、微疾を得て気は日々耗しつつ神は日々明らかとなり、温公に「観化(死)に赴くのはいかに」と笑って語った。張横渠(載)・程伊川らが見舞い、天命を知る境地について問答を交わした。七月初四日、「生于太平世、長于太平世、死于太平世」の詩を大書し、その夜五更に没した。享年六十七。
  • 伊川が臨終に別れの言葉を求めると、両手を挙げて「面前の路は寛くせよ、狭ければ自ら身を置く場がなく、まして人を行かせられようか」と答えたという。

学問の性格と人物評

  • 程明道は「昨日堯夫先生に従って遊び、その議論は振古の豪傑であった。ただ世に用いられなかったのが惜しい」と評し、その学を「内聖外王の道」と評した。
  • 程伊川との問答では、雷の起こる所を「起こる所から起こる」と即答した伊川に対し雷の理を数で推し量る雍が驚嘆した逸話が伝わる(数によらず理を直観する伊川の境地を示す逸話として引かれる)。
  • 上蔡(謝良佐)は「堯夫は豪才、覇者の手腕を持つ」と評しつつ、天理と万物消長の理を見抜く見識を称賛した。二程はその数術を高く評価せず、明道は「私にはその学を修める二十年の余裕がない」と述べた。
  • 邵伯温は父雍の学統について、邢和叔(恕)の入門を「まず虚心にして学ぶべし」と諭した逸話を伝える。

先天図・皇極経世をめぐる朱熹らの評

  • 朱熹は邵雍の学を「先天図は伏羲の本図に由来し、一言一義もそこから流出しないものはない。周濂溪の太極図はその大綱を発明したもので、格局は先天図に及ばぬが義理の精約さでは先天図に勝る」と両者を比較した。
  • 「先天図」の陰陽消長・「皇極経世」の元会運世(一元十二万九千六百年)の暦法について、朱熹門下で繰り返し問答され、朱熹は「邵子の学は理を明らかにすることに本づく、未来を占うがごとき俗説とは異なる」と擁護しつつも、「その大体は瑩徹だが小節目には粗略なところもある」(伊川の評)とも評された。
  • 邵雍の詩は「雪月風花」の平易な題材を借りて堯舜三代の理を説くものと評され、朱熹は「これは孟子以後、誰も敢えて言わなかったこと」と評価しつつも、荘子・老子に通じる放曠な面もあると指摘した。