出自と生い立ち
- 張戩、字は天祺、張横渠(載)の弟。進士に及第し陜州閿縣簿、鳳翔普潤縣令、知懐安軍金堂縣、太子博士を歴任した。熙寧二年、御史裏行となり、翌年公安縣知事に出され、夏縣監・鳳翔司竹監に転じ、熙寧九年に四十七歳で没した。
治績
- 金堂縣知事として誠心をもって民を愛し、離任後も民に慕われた。
王安石の新法への抵抗
- 熙寧初、御史として召され堯舜三代の事をもって上に進言し、根本を正すことは朝廷から始めるべきと説いた。
- 王安石の変法に上疏して異を唱え、条例司の罷止と常平使者の召還を求めたが応答なく、曾公亮・陳升之・趙抃が是非を明らかにせず改めさせないことを弾劾した。
- 韓絳が陳升之に代わり条例司を領すると、絳が安石に阿附し死党をなしていること、李定が幕官から台職に抜擢された諂佞ぶり、呂惠卿が経術を仮りて姦言を文飾していることなどを次々と弾劾し、十数回上疏した。中書でも声色を厲しくして争い、曾公亮は俯いて答えず、安石は扇で顔を覆って笑った。戩は「私の狂直さは参政の笑いものになるだろうが、天下の人が参政を笑うのも少なくないだろう」と述べた。
- 安石との経義をめぐる論争で「安石は却って書を読むことを解さぬが、賢(戩)は書を読むことを解している」と安石に言われ答えられずにいると、伊川(程頤)は「道に向かわぬことこそ、書を読むことを解さぬということだ」と評した。
人柄
- 篤実寛裕で儼然として正色、喜怒を顔に現さなかったが、人と居れば温厚の情が日々親しまれた。終日利を語らず、人の善を楽しみ悪を語らず、己の徳を進めることを楽しみ無益な言を事としなかった。清廉でも人を病ませず、和やかでも志を奪われなかった。常に鶏鳴とともに起き、道を任じて力行し、徳の大きさは容れる余裕があった。過ちを自省しては「私はこれを知った、諸君も察せよ、以後二度と行わない」と語った。
- 兄横渠は「わが弟の徳性の美は自分の及ばぬところ、驕らず不屈に勇む姿は孔門なら子夏に相前後する」と評した。伊川は「天祺は自然の徳気があり貴人の気象に似るが、気短の欠点があり事を重んじすぎて周到に過ぎ、気局が小さい」と評した。