宋名臣言行錄別集下卷五十八 胡銓

出自と生い立ち

  • 胡銓、字は邦衡、忠簡公と諡される。吉州廬陵の人。建炎二年進士に及第し撫州判官を授かった。退虜の功により承直に転じ、紹興五年張魏公(張浚)に湖北倉幹に辟され、湖南憲幹、賢良方正直言極諫科に薦挙され通直郎・樞密編修官となった。上書して秦檜を斬るよう請い除名、昭州編管に処され、以後広州鹽倉監・威武軍簽を経て、十三年に羅汝檝の弾劾で新州安置、さらに吉陽軍に責められた。二十六年檜の死により衡州に量移、三十一年自便を許され、孝宗即位後は復官し饒州知事、吏部侍郎・秘書少監・起居郎・兵部侍郎などを歴任し、淳熙六年に致仕、資政殿學士を加えられ薨じ、忠簡と謚された。

孝宗との対話

  • 起居郎として、二十六年の罪廃と急な抜擢に恐縮する銓に、孝宗は「卿の被罪は無辜であった、朕は卿と王十朋をともに親擢した」と語った。
  • 臺諫の論事が「賣直」と評される風説について、孝宗は「論事は曲直を弁ずべきもの」と答え、銓は「君に隠すことなきは臣の忠孝」と応じた。
  • 孝宗が藩邸時代の酒色の過ちを悔いる話をすると、銓は「陛下は無酒色の過ちがありながらなお謹み深い、聖徳は日々増している」と述べた。
  • 泉州知事として辞するにあたり礼の要諦を説き、上は経筵侍講を命じた。
  • 虞允文・梁克家が銓の気節を惜しんで留任を進言し、上もこれに従い経筵に留めた。

上高宗封事(和議反対の上疏)

  • 王倫を「狎邪小人・市井無頼」と断じ、その使金・和議推進を厳しく批判。「陛下が一たび膝を屈すれば祖宗の廟社の霊は汚され、天下の士大夫も夷狄の服に変わる」と警告し、劉豫の末路(父子ともに虜となった例)を引いて和議の危険を説いた。
  • 「梓宮(先帝の柩)も太后も淵聖(欽宗)も遂に還らず、中原も得られぬであろう。ただ国勢の陵夷を招くのみ」と論じ、秦檜・王倫・孫近の三人の首を斬り讐を明らかにすべきと激烈に主張した。「臣は東海に赴いて死すとも、小朝廷に生きて求活はできぬ」と結んだ。
  • この上書は都人を騒然とさせ、上は「朕に黄屋の心なし、ただ養母のみを念ずる」と述べ、檜は銓を昭州編管に処した。晏敦復らが救援に動き知府張澄を説き、追い戻された経緯もある。
  • 登聞鼓院の陳剛中は銓を送る啓で「屈膝して和を請うは廟堂禦侮の策の無きを知らしめ、身を南海の行に処すとも名は泰山の如く重し」と称え、檜の恨みを買い自らも貶謫され死んだ。

貶謫の日々

  • 福州判官の時、諫議羅汝楫の弾劾で除名され新州に編置。郷人王廷珪は「痴児不了官中事、男子要為天下竒」の詩を贈り送った。
  • 吉陽軍への移動時、檜は「一德格天閣」に趙鼎・李光・胡銓の三名を記して憎悪を示した。張棣の讒言で海南編管となり、雷州で守臣王趯に不当に械送された逸話も伝わる(趯は流人を厚遇し後に罪を得た)。

孝宗朝の言論

  • 起居郎として史官制度の弊害(史不當進・立非其地・前殿不立・奏不直前の四点)を詳細に上疏し、唐宋の故事を引いて改善を求めた。
  • 旱・蝗・星変に際し、上が至誠をもって祈禱すれば災異は消えると奏し、佛老に頼らず周宣王の政事に倣うよう求めた。上の箝默を戒める「唐德宗の猜忌」の故事も引いた。

講和反対の論

  • 講和論に対し、耿南仲・何㮚・汪伯彦・黄潜善・秦檜など歴代の主和論者の末路を挙げ、金との講和が三綱五常を損なうと痛論した。
  • 兵部侍郎として水災に際し上書し、和議の「十の痛哭すべき理由」(歳幣増加、唐鄧海泗の割譲、両淮の喪失、中原の望絶、民の膏血消耗、忠臣の抑圧、帰正人問題、府庫窮乏など)を列挙した。
  • 転対では和議進行の果てに称臣・請降・納土・輿櫬に至る危険を「十弔(十の弔うべき事)」として論じ、武備強化による自立を説いた。

淮東防衛の実務

  • 湯思退・王之望の和議推進で張浚が兵柄を失った際、浙西淮東海道の措置を命じられ、李寳・陳敏らの不協和を正し、大雪の中自ら氷を斲つなど実務にも尽力した。

人物評

  • 楊誠齋(楊萬里)は銓の上書を「一封の朝奏が百万の師に勝る」と称え、金が千金でその文を求めたと伝える。銓の文集の序でも「先生の功は洙泗(孔子の教え)に接し河洛の伝統を開く」と絶賛された。
  • 新州に十七八年生きながらえたことについて、朱晦庵(朱熹)は「天生天殺は道の理、人はどうして死なせられよう」と評した。