出自と生い立ち
- 李顯忠、初名は世輔、字は君錫、忠襄公と諡される。綏德青澗の人。高宗より今名を賜った。先祖は唐の諸公子とされ、代々蘇尾九族都巡檢使を継いだ。建炎二年に功により初階を補され、鄜延路兵馬都監・知同州となり密かに恢復を志したが果たせず西夏に奔った。紹興九年に夏国より帰朝し護國軍承宣使・龍神衞四廂都指揮使を授かった。
- その後三京招撫使前軍都統制、保信軍節度使、選鋒軍統制、御前先鋒都統制、御前諸軍都統制、淮西制置使、太尉などを歴任し、隆興の符離の役の責を負い果州團練副使に降されたが、後に復して威武軍節度使・左金吾衞上將軍などを経て太尉に復した。淳熙五年七月に薨じた。享年六十九。開府儀同三司・隴西郡開國公を贈られ、嘉定二年に謚を賜った。
誕生の異伝
- 母の胎内にあること数日出産に至らず、僧が刀剣弓矢鎧甲を母の傍に置くよう告げると生まれ、蓐の上に立ち火光燦然たりと伝わる。
薩里罕捕縛の壮挙
- 知同州として恢復を謀り、金の薩里罕を計略により酔わせて捕らえ、南帰の質としようとしたが、変事が漏れて囲まれ、決死の突囲を敢行した。薩里罕を人質に追撃を退け、三事(両国の和睦継続・州民への累不及・自身の解放後の不追撃)を誓わせて解放し、自らは夏国に奔った。
西夏での復讐戦
- 夏国で家族二百口が金に殺されたことを知り、夏主に借兵を請い、辺境を荒らす豪酋「青面野乂」を計略で討ち取り献俘した。夏主は感じ入り兵十万を授け、顯忠は東進した。延安の抵抗も懐柔し、父兄殺害の下手人を捕らえて剖心して祭った。
帰朝
- 三国を流離すること十余年、南帰の志を遂げ、夏人三千余人と鄜延の部曲数万を率いて帰朝した。高宗は便殿で対面し忠義を奬諭した。時に年三十であった。
拓臯・和州の戦い
- 劉光世の下で拓臯の戦いに従い烏珠の軍を大敗させ、孔城まで追撃し被虜の民を万を数えるほど回復した。
和議下の逼塞
- 恢復の策を上疏したが当時の宰執は和議を旨とし、疑われて平海軍承宣使に降され台州に居った。金使の訴えでさらに奉祠に落とされた。
采石・和州の防衛戦
- 完顔亮南侵の際、王権が合肥で敗走し裕谿口の防衛が崩れる中、顯忠は虞允文の推薦で軍を引き受け、楊林で亮の渡江策を破り、船を焼き払い大勝した。亮を追って和州を回復し、亮の偽詔による離間策も見抜いて撃退した。亮はついに部下に殺され、王師は班師した。
符離の役
- 孝宗即位後、張浚の招撫使のもと殿前・馬司の軍を率い北伐した。靈璧・虹縣を攻略し宿州も回復したが、副将邵宏淵との不和が深まり、士気は動揺し、督府の命により撤退を余儀なくされた(符離の敗)。この敗の責を一身に負い、果州團練副使に貶されたが、上は符離の敗が邵との不協が原因であったことを知っていた。
人物と最期
- 智勇に優れ、兒時より馳射を好み、行軍中に虎を射殺した逸話も伝わる。用兵は奇智に富み先計後戦を旨とし、諸子にも厳しく軍律を課した。
- 晩年、門人・諸子を呼び「吾は束髪より従軍し、殺伐少なからずと雖も私憾で一人も戮したことはない。国恩未だ報いず、大讐未だ復せざるを恨みとする」と語り、遺表の意を口占して没した。