宋名臣言行錄別集下卷五十三 岳飛
岳飛(信國武穆王、字は鵬舉、相州安陽の人、?–紹興十一年)。宗澤の軍から身を起こし、建康・順昌の防衛、荆襄の回復、楊么討伐など数々の武功で南宋屈指の名将となったが、秦檜の主導する和議路線と対立し、淮西軍統合をめぐる軋轢や讒言の末に誣告により獄死した。
出自と生い立ち
- 岳飛、字は鵬舉、信國武穆王と諡される。相州安陽の人。靖康初、宗澤の軍に従い武翼郎に転じた。建炎初、上(高宗)即位に際し上書して用事者の忌避を受け官を奪われ、河北招討司に赴くも王彦と協調できず宗澤の軍に戻り留守司統制となった。竒功により武功郎・武經大夫・武略大夫・英州刺史・武徳大夫・眞州刺史・武功大夫・昌州防禦使・泰州鎭撫使兼知泰州を歴任し、神武副軍統制、親衛大夫・建州觀察使に進んだ。
- 紹興二年、潭州知事権を兼ね荆湖帥司都總管、六月に中衛大夫・武安軍承宣使を授かった。三年、鎭南軍承宣使・江西沿江制置使、四年に清逺軍節度使・湖北荆襄制置使、五年に鎭寧崇信軍節度使・少保加封、六年に營田使を兼ね、七年に太尉に復し、十年に少保・河南北陜西諸路招討使を加えられた。班師の詔が下り、章を上げて致仕を請うも許されず、十一年に樞密副使に召され兵権を返上、秦檜に憾まれ弾劾を受け続けた。八月萬壽觀使に任じられたのち、檜に讒せられ大理寺の獄に囚われ賜死された。享年三十九。一家は遠く徙され、孝宗即位後に原官を追復し子孫の官を録し鄂州に廟を立てた。
天資と学問
- 天資敏悟で記憶力に優れ、書伝に通じ、とりわけ『左氏春秋傳』と孫呉の兵法を好んだ。家貧しく薪を拾って燭に代え、文を作れば人の是非義理を的確に論じた。
初期の戦功
- 元帥府で上に見え、劉浩に従い東京の囲みを解き、滑州南で金兵と対峙し将を斬り数千級を得た。
- 上即位の際、数千言を上書し還京と親征を請うたが忤とされ官を奪われた。張所に招撫され国士として待遇され、河北防衛策(要害を重ねて防ぐ策)を献じた。
河北・河南での転戦
- 王彦に従い黄河を渡り、新郷県で単独で奮戦し敵将を捕らえ、太行山でも敵を破った。単騎で金の「黒風大王」を刺殺し敵三万を敗走させた。
- 杜充が京師を棄てて建康に走った際、飛は諫めたが聞き入れられず、金・李成の江寧渡り侵攻に対し独力で奮戦し、士卒を叱咤して忠義を説き士気を保った。
建康・臨安の防衛
- 烏珠(金将)の臨安侵入を六戦皆勝で撃退し、投降者多数を得た。常州でも四戦全勝、清水亭で烏珠軍を大破し、牛頭山で伏兵を用いて再び大破、建康を回復し二聖(欽宗・徽宗)の消息を得た。
- 淮西を固めるべきを上に建議し嘉納された。
李成・曹成の討伐
- 張俊とともに李成を討ち、鄱陽で合流。飛は騎兵の奇襲策を進言し先鋒となって賊軍を大破、馬進・李成を破走させた。
- 曹成の乱では賀州・桂嶺・連州を平定し嶺表を悉く平らげた。上より「精忠岳飛」の旗を賜った。
- 淮攻撃時、廬州の急を救い牛皋らと合流して偽齊軍を撃破した。
荆襄の回復と屯田策
- 上に守禦策を献じ、精兵二十万で中原を直撃すべきこと、襄陽・随・郢の営田策を詳細に述べた。趙鼎の推薦で襄陽收復を命じられ、王貴らと連戦連勝し襄陽・郢・隨州を回復、鄧州も攻略した。上は岳飛の収復を高く評価した。
- 郢州攻略では牛皋の急襲策が功を奏し、鄧州の西北で李成を破って軍声大いに振るった。
楊么討伐
- 荆湖の賊楊太(楊么)討伐では張浚の指揮下、湖賊二十余万を招降・平定した。李龜年の記録によれば、大旱で湖水が涸れた機に君山の木で筏を作り港を塞いで賊船を封じ、悉く招降した。
- 飛は営田の法を定め、戍卒に農閑に耕作させ漕運の負担を半減させた。上は曹操・諸葛亮・羊祜の故事を書き賜った。
淮西・虢州方面の戦い
- 逆豫(劉豫)の南侵の機に、飛は蔡州の積聚を焼き、虢州を攻略し十五万石の糧を得た。上は捷報を喜びつつ、兵家は勝敗の慎重さを説いた。
建儲の密奏と讒言の兆し
- 飛は建儲(皇太子擁立)を上に密奏したが、緊張のあまり字が乱れ、参謀官薛弼が驚いた逸話が伝わる。張戒の記録によれば、飛は虜酋の丙午年の元子擁立の情報から資宗(皇族)の名分を正すべきと進言し、上の不興を買ったという。
淮西軍統合問題と張浚との対立
- 飛は宣撫使に進み、劉光世の兵五万余を併せることとなったが、王徳・酈瓊らの人選をめぐり張浚と意見が対立した。飛は恢復策の上疏で、日月を仮し敵の虚を突いて京洛を回復する詳細な戦略を述べ、上は「臣にこの人あり、朕また何をか憂えん」と激賞した。しかし秦檜が和議を主張し功成るを忌んでこの議は沙汰止みとなった。
- 淮西軍の統帥人選で浚と対立し、飛は母の喪により職を辞し廬山に廬したが、上の詔で復職した。のち王徳が淮西軍を統べ呂祉が監軍となったが果たして変(酈瓊叛乱)を招いた。
順昌の役前後の連戦
- 金人が盟を破ると、飛は李寶・孫彦・牛皋・張憲・董先・王成・孟邦傑・梁興らを派遣して曹州・宛亭・京西・穎昌・陳州・鄭州・永安軍・河南府・南城軍・絳州・孟州・偃城・臨頴・穎昌府などで連戦連勝を重ね、多くの州県を回復した。しかし秦檜が班師を促す詔を重ね、飛は憤恨しつつ撤退し、回復した州県は再び失われた。
- 和議成立の際、飛は上表して「両河の地を全勝のうちに収め讐を復し国に報いる」との誓いを述べた。
韓世忠・張俊との軋轢
- 湖北京西宣撫副使として、韓世忠・張俊が先に功を立てていたため、飛は書を送り協調を図ったが応答なく、破楊么の功を献じて世忠はようやく打ち解けたが、俊はますます忌んだ。参謀官薛弼の調停の努力も及ばず、飛と俊の溝は深まった。
- 淮西援兵の際、糧乏を理由に遅延したとして俊・檜に恨まれた。楚州城の修築をめぐっても俊と対立し、俊は飛が山陽を棄てようとしたと讒言し、殺意の端緒となった。
兵権の剥奪と誅殺
- 給事中范同の献策により大将の兵権を樞密使に移す策が採られ、拓臯の捷を機に世忠・俊・飛が召され、飛が遅参する間に檜は世忠・俊を樞密使・副使に任じ、飛にも副使を授けて兵柄を解いた。
- 烏珠は檜に「飛を殺してこそ和議が成る」と迫り、檜と俊は淮西山陽の事を口実に飛を陥れる策を進めた。万俟卨は飛が両淮を棄てて長江以南を守ろうとしたと弾劾し、上もこれを疑うに至った。
- 張憲・王貴・王俊はもと飛の部曲であったが、俊は王俊を誘い張憲が飛の兵権回復を謀ったと告発させ、憲を捕らえて誣服させた。獄は檜により大理寺へ送られ、飛父子も逮捕された。何鑄は無実を明らかにしようとしたが、万俟卨に代わり誣告が固められた。御札や日月の記録が改竄され、飛は拷問にも服せず、檜は一片の紙で飛の死を報じさせた。張憲も市に戮され、家産は没収され嶺南に徙された。金の洪皓の密奏によれば、金人は岳飛を最も畏れ、その死を聞いて酋長たちは酒を酌んで祝ったという。
- 獄の成立に際し韓世忠が檜に問うと、檜は「莫須有(あるいはあったのだろう)」と答え、世忠はこの三字で人を服させられようかと憤った。
追贈と人物評
- 鄂州に岳飛祠宇を建て忠烈廟の額を賜った。飛は忠孝を天性とし、母を河北より十八往復して迎え、喪には廬に居し、御札で強いて起こされた。
- 質素を旨とし、酒は数斗まで飲めたが上の戒めで断酒し、呉玠が贈った美姫も辞退、行都の兵第建設も金滅ぶまで家を持たぬと固辞した。
- 用兵は厳正で賞罰明らかに士卒と苦楽を共にし、寡をもって衆に勝つことに長じた。杜充の下で八百人で王善らの五十万を破り、曹成討伐では八千人で十万を破った。
- 郾城の役では烏珠の「鉄浮屠」「拐子馬」を歩兵に斧で馬脚を斬らせて破り、烏珠は「自分が兵を起こして以来これで勝ってきたが、もはやこれまでだ」と大いに嘆じ、拐子馬は以後廃されたという。
- 十余年の従軍で百余戦して未だ敗れたことがなく、功を誇らず、子の雲の功も屡々匿して奏さなかった。書に失官した際に張所に補われた縁で、その子を訪ね育て官に補し名誉を回復させた逸話も人々に義とされた。