出自と生い立ち
- 張俊、字は伯英、循國忠烈王と諡される。秦州三陽の人。若くして弓箭手となり、政和七年に都指揮使となった。靖康中に武義大夫を加えられ元帥府で上(高宗)に見え、後軍統制に抜擢された。その後榮州刺史・桂州團練使・貴州防禦使・徐州觀察使を歴任し拱衛大夫に遷った。
高宗の擁立と即位への尽力
- 高宗が元帥府にあった際、張澂が蠟封の詔を持って京師から来て大元帥に兵を副帥に付し京師へ帰るよう伝えた。上が大計を問うと、俊は「これは金の詐謀である。大王が外に居るのは天の授けである。どうして彼の地に赴くべきか」と述べ、進兵を請うた。京師陥落を聞くと俊は上に即位を勧め、上が固辞すると「大王は皇帝の実弟、人心の帰するところ、早く大位に即かれるべし」と説き、上は応天府で即位した。
歴任と官位
- 建炎初、俊は敵勢の南進を予測し左藏庫の鎮江移転を請うた。金軍が明州を犯すと俊は越州から兵を率いて至り、隠士劉相如の策を用いて留まり抗戦した。統制官らを督戦させ、守臣劉洪道の側射も相まって大破した。
- 江淮招討使として李成討伐に赴く際、上に必ず全軍で成功させると誓い、以後鉄山の号を得るまで各地で連戦連勝した。
- 紹興以降、鎭西軍節度使・御前右軍都統制、浙東招置使、浙西江東制置使、江西招討使、江淮招討使、太尉、浙西江東宣撫使、淮西宣撫使、開府儀同三司などを歴任し、紹興十一年に太傅・廣國公、進んで益國公となった。十二年に罷され醴泉觀使となったが、後に三鎮節鉞を復し清河郡王に封ぜられた。十六年に静江寧武靖海軍節度使、二十一年に太師、二十四年六月に薨じた。享年六十九。循王に追封され、淳熙十五年に高宗廟に配享された。
諸戦と朝廷との対話
- 江淮招討使として李成討伐に赴く前、上が「汝の全軍で一郡を攻めるのはいかに」と問うと、俊は「朝に至り夕には入れましょう」と答えた。上は韓世忠が苗傅・劉正彦を擒えた功績に俊が及ばぬと激励し、俊はこれを恐懼して成の討伐を誓った。
- 俊の軍律の厳正さは上にも聞こえており、犯律者は既に六七人誅せられていた。范宗尹の勧めで上は詔をもって俊を勉励した。
- 筠州・臨江軍を復し馬進を追撃、李成は遁走し「鉄山」の号を得た。
- 趙鼎の奏で、金字牌を得た諸大将が奮起することが上の信頼のたまものと語られた。
- 婺州屯駐の際、便銭関子(後の東南会子の起源)の制を建議し、朝廷はこれを許した。
- 明堂の恩により子の宗元に文資の任子を願い出て特に許された(武臣が文資で子孫を任じる先例となった)。
- 江東宣撫使として都統制王徳を厚遇して帰属させた。
- 淮西宣撫使として営寨の整備を願い、上は民の膏血を惜しむよう戒め、俊もこれを奉じた。
- 河道の整備につき、上は俊が常に親臨するので事が成ると評し、将帥は弓馬より士卒に先んじる姿勢こそ重要と諭した。
- 建康入対の折、劉光世が軍政を解き隠居を楽しんでいることに言及すると、上は俊に「今日の富貴はみな朕の賜物、光世を羨む理由はない」と戒め、俊は涙して死を誓った。
- 上は俊に民と利を争わず土木の工を興さぬよう命じ、俊は謹んで承った。
淮西・濠州の戦い
- 樞副使王庶の措置で軍を移した際、默記によれば張宗顏・巨師古の兵配分に俊は不満だったという。
- 廬州で王徳・趙密らを進発させ亳州を攻略、宿城で虜と戦い勝利し、軍威盛んであった。
- 上が郭子儀の伝を引いて、朝廷を尊べば身も子孫も福を得ると諭した。
- 泗州侵犯の際、劉子羽の見立て通り金軍の動きに他意ありと判明した。
- 楊沂中と腹心の間柄であったが、劉錡とは拓臯の戦いの論功で軋轢が生じた。班師の際も互いに牽制しあった。
- 濠州急を告げると、俊は駆けつけ、韓世忠らと合流し防戦した。上は多殺を戒め、対金講和と武備を併せて進める方針を示した。
- 淮西の賞を急ぐよう上に訴えたが、上は論功の不公平を正すよう俊に求め、俊はこれに従うと答えた。
兵権の返上と晩年
- 三宣撫司が罷され枢密院に統合された際、俊は檜と意が合い和議を賛じ、真っ先に統兵を返上した。しかし居ること一年余り辞去の意がなかったため、檜は台臣を使嗾して弾劾させ、俊はついに求めて職を退き、三鎮節度・清河郡王に封ぜられた。
- 俊の喪に上が臨み、秦檜に対し俊の勲功を称え、貂冠朝服を賜い、内侍張去為に葬事を護らせた。麾下の楊沂中・田師中・王徳・趙密・劉寶らは皆節鉞を建て高位に至った。
- 上は明受の変(苗劉の乱)の際に俊が兵を率い賊を破った功を語り、循王の封を与えた。淳化以降、異姓は真王に封ぜられなかったが、その追封は俊に始まるという。