宋名臣言行錄別集下卷五十二 劉光世

出自と生い立ち

  • 劉光世、字は平叔、鄜國武僖王と諡される。劉延慶の次子。宣和二年、方臘討伐の功により鄜延路兵馬副總管となった。

靖康の変から高宗即位まで

  • 康王(高宗)が濟州を発つと、光世は麾下の兵を率いて従い、五軍都提舉に任じられた。高宗即位後は御營使司都統制となり、その後奉國軍節度使・御營使司提舉一行事務に進んだ。張遇らの賊を平定した功で檢校少保兼太尉・御營副使に加えられた。

歴任と官位の推移

  • 兩浙西路安撫大使兼知鎭江府、開府儀同三司集慶軍節度使を経て、紹興二年に寧武軍節度使、三年に檢校太傅・江東宣撫使、五年に少保・静武寧國軍節度使・淮西太平州宣撫使に進んだ。趙鼎の論により罷免され太一宮使となったが、九年に和衆輔國功臣の号を加えられ陜西五路宣撫使に復し雍國公に封ぜられた。のち臺諫の弾劾で罷免され萬壽觀使に改まり、十年に太保・三京招撫處置使を加えられたが、詔により班師し萬壽觀使として朝請に奉じた。十二年正月に薨じた。享年五十四。太師を贈られ謚は武僖。開禧元年八月、鄜王に追封された。

金銀銅の招納信寳

  • 達蘭(金将)が祁州に居り、その部衆が承楚公の守る鎭江に留まっていたため、光世は金銀銅の三色銭を鋳造し「招納信寳」と刻んで虜人を招いた。まもなく数千人が帰順し、良馬・利器を与えて用いたところ華人同様に働き、赤心竒兵両軍を創設して大いに活用した。

屯田をめぐる議論

  • 仇愈を鎭江に遣わし糧の窮乏を調べさせたところ、上(高宗)は光世の一軍の廩給が月に万を数えることを憂い、屯田を速やかに図るよう命じた。富直柔は辛道宗の陜西弓箭手法が屯田に類すると述べ、宗尹はこれを議すると答えた。

上への奏対

  • 光世は上に謁見し、銭糧に不足なく器甲も次第に充足していると奏し、官職も望みを超えたので力を尽くして国に報いたいと述べた。上は虚言に終わらせず行いで示すよう諭し、宰執らはこれを聞いて上が将を御する道を得ていると感嘆した。

親征の詔と諸将の不和

  • 上が親征の詔を下したとき、光世の軍は馬家渡に、張俊の軍は采石にあった。光世に韓世忠を援けさせ、俊には建康へ移軍させたが、三大将は互いに私怨を持ち協力しなかった。上は魏矼・田如鼇を遣わして仲裁させ、魏矼が光世を説き、世忠・俊とも和解の書を交わさせた。光世はその経緯を上に奏し、太平州に進屯した。

諸戦捷

  • 賊の東路軍(劉猊)は敗れて数騎で逃走し、西路軍(劉麟)も風を望んで潰えた。光世は勝ちに乗じ追撃してさらに勝利し、船数百艘・車数千両・器甲金帛銭米を莫大に得た。
  • 水賊邵清が通泰を騒がせ大小戦船三千余で太平州城下に迫ったが、光世の遣わした軍が江陰軍・崇明鎮を犯した賊を包囲し、賊は勢い窮して降伏した。
  • 張榮が達蘭を泰州で破りその婿佛寧を捕らえた際、光世は榮の献捷を朝廷に取り次ぎ、榮はまもなく泰州知事となった。
  • 光世は江東西安撫使として建康に司を置き、精鋭な背嵬親随軍を編成、新しい尅敵弓を作らせて鉄馬も一発で倒す威力を発揮した。

軍費と朝廷の配慮

  • 韓世忠の軍が建康にあった際、江東の漕臣に月十万緡を給していたが、光世が移屯するとさらに月椿銭五万七千緡を増した。転運の劉景眞が朝廷に窮乏を訴え、朝廷は融通を命じた。
  • 宰執が光世にも世忠軍と同様の支給を願うと奏したが、上は諸将の兵に差をつけないとしつつ、光世の冗兵を汰すよう促した。范宗尹は精兵三万を留めれば足りると述べ、上は家人の礼のごとく手書と玉帯を光世に賜い、張守は上の御将の道を称えた。
  • 平江府の織御服局を罷め、七万緡を節して劉光世の軍費に充てた。

淮西の防衛

  • 金人が淮を犯すと、光世は酈瓊に廬州から出兵させ、間道を経て光州を急襲し、偽知州許約を降し光州を回復した。
  • 偽齊が淮西に侵攻すると、光世は廬州に駐屯して楊沂中と呼応し、王徳・酈瓊に精卒を率いさせて安豐で賊将を撃破した。
  • 偽齊が劉龍城を築いて淮西を窺うと、王師晟を遣わしこれを破り、その衆を尽く俘虜として三鎮節度使を加えられた。

淮西軍統合の混乱

  • 張浚は上に光世が驕惰で戦わず大将たり得ないと述べ罷免を請うたが、趙鼎は光世が将家の子で士卒の信望が厚く、故なく罷めれば人心が離れると反対した。趙鼎が去った後、浚は罷免を強行し呂祉を淮西の軍務に当てたが、酈瓊らが王徳を訴え、呂祉は密奏で瓊を罷そうとして殺害された(酈瓊叛乱)。

晩年

  • 光世は少師に任じ賜第の詔が出たが、中書舎人の勾龍如淵が異議を上奏した。上は財力困難のため兵柄を解いた光世に恩礼を加えるとし、秦檜は上が光武帝の功臣を遇する意を得ていると称えた。
  • 光世が疾により祠を求めると、上は光世の功を忘れておらず玩好の品を賜ったところ、光世は夜通し秉燭して喜んだという。萬壽觀使に任じられた。

史論

  • 光世は若くして大将となったが、軍を御するに姑息で克復の志を欠いたとして、後世の論者はこれを咎めた。