宋名臣言行錄別集下卷五十一 韓世忠

韓世忠(蘄国忠武王、字は良臣、延安の人、?–1151年)。行伍の兵卒から身を起こし、苗劉の乱の平定、黄天蕩の戦いでの完顔宗弼(烏珠)への抵抗、大儀鎮の戦いなど数々の武功により南宋の中興を支えた武将。晩年は秦檜の和議路線に反対して閑職に退いた。

年表(14件)

出自と経歴

  • 韓世忠(蘄国忠武王)、字は良臣。延安の人。弱冠前に勇敢さをもって応募し、守闕進義副尉に補せられ、累進して武節郎となった。欽宗朝で武節大夫・果州団練使に転じ、正任として単州団練使・嘉州防禦使となった。高宗が済陽にあった際に扈従し南京へ赴いた。皇帝即位後、光州観察使・帯御器械に任じられ、御営を初めて建てる際に左軍統制となった。建炎2年(1128年)定国軍承宣使・鄜延路副総管に昇進し、平冦将軍を加えられ苗劉の乱を平定した。検校少保・武勝昭慶軍節度使・御前左軍都統制に除せられ、武勝軍節度使・江浙制置使を授けられた。検校少保・神武左軍都統制に除せられた。紹興元年(1131年)江西・福建・荊湖宣撫副使に除せられ、2年太尉を加えられ他の職はそのまま、さらに江東西宣撫使に除せられ建康に司を置いた。3年開府儀同三司・淮東西宣撫使に除せられ泗州に司を置いた。4年淮東宣撫使として鎮江に司を置いた。5年少保に進んだ。6年武寧安化軍節度使を授けられ京東淮東安撫処置司として楚州に駐屯し鎮江の節制も兼ねた。「揚武翊運功臣」の号を賜り横海武寧安化節度使を加えられた。9年少師を授けられ太保に進み英国公に封ぜられ河北諸路招討使を兼ねた。秦檜がその権を奪おうとし枢密使に任じられると、韓世忠は檜が国を誤らせていると上疏したが、檜は言者にこれを論じさせ、皇帝はこの上奏を差し戻し降ろさなかった。世忠は連ねて枢密の職を辞す上疏をし、続いて骸骨(辞職)を乞う表を上げ、罷免されて醴泉観使・奉朝請となり、福国公に進封され節鉞はそのままとされた。12年潭国公に封ぜられ、13年咸安郡王に封ぜられ、17年鎮南武安寧国節度使に改められた。21年太師を冊拝された。8月4日に薨じた。享年63。通義郡王を追贈された。乾道4年(1168年)蘄王を追封された。淳熙15年(1188年)高廟に配享され、嘉泰4年(1204年)鎮江府に廟が建てられた。

若年期の逸話

  • 韓世忠は風骨堂々として目は電光のごとく輝き、早くから鷙勇(猛々しい勇気)が人並み外れていた。ある日者(占い師)が「彼は将来三公になるだろう」と予言すると、世忠は自分を侮辱されたと怒り殴りつけた。

銀州の戦い

  • 銀州の戦いで夏人が城に籠って自ら守りを固めた際、韓世忠は関を破りその将を斬りその首を城壁の外へ投げ捨てた。諸軍がこれに乗じて攻めると賊は大敗した。まもなく重兵が蒿平嶺に至ると、韓世忠は激戦の末に囲みを解いた。突如鋭気ある一騎士が現れると、韓世忠は捕虜を問いただし監軍駙馬・烏頁だと知ると馬を躍らせてこれを斬り、賊は大潰した。

方臘討伐

  • 方臘が反乱を起こすと江浙は震撼した。韓世忠は王淵に従いこれを討伐した。杭州に至ると賊の勢いが甚だしく大将も恐れおののいたが、世忠は2千の兵で伏撃することを願い出て、賊は逃げた。淵は「まことに万人敵だ」と感嘆し、随行の白銀器をすべて賞として与えた。賊が睦州清渓洞の深い山中に拠っていた際、韓世忠は溪谷を進み、野の婦人に道を尋ねて得て、単身戈を手に洞窟を突いて数人を格殺し、方臘を生け捕って連れ出した。

燕山経略における奮戦

  • 燕山回復の議に伴い諸軍を招集したが、集まった軍はすぐに潰えた。韓世忠が蘇格らと数騎で出た際、虜の騎兵2千余に遭遇し従者は色を失った。世忠は高い丘に列を敷き動かぬよう戒め、折しも燕山の潰兵が舟に集結していたのを見ると、鼓を合図に助勢するよう命じた。世忠は馬を躍らせ賊に迫り旋回すること飛ぶがごとくであった。虜は二隊に分かれ高地に拠ったが、世忠は不意にその旗手を突き奮撃した。蘇格らが挟撃し、舟の兵も約束通り鼓譟すると、虜は大いに乱れ多くの首級を斬った。

楊方平配下での討伐

  • 楊方平に従い東方を経略した際、賊の楊天王・透手滑・武鬍・徐進・青社・張先らはいずれも1万の兵を擁していたが、韓世忠はこれを次々に捕らえ滅ぼし、軍を振るって帰還した。

河北叛乱の鎮圧

  • 勝捷軍が河北で潰えた際、大校の李福がこれを率いて乱を起こした。宣撫使の李彌大が世忠を遣ってこれを撃たせると、陣に臨んで李福を斬った。残兵はなお1万余に及んでいたが、世忠は単騎でその軍中に入り「我らは皆西方の人間ではないか。生涯ただ番賊(異民族の賊)を殺すことのみを望んできたのに、いつ賊になったというのか。朝廷は私にお前たちを招くよう命じている。もし降るなら皆の罪を赦す」と述べると、皆拝して命を請い降伏した。

真定失守後の孤軍防衛

  • 真定が失陥した際、韓世忠は王淵が趙州を守っていることを知り急ぎ赴いたが、虜が到来し世忠がそこにいると知るとさらに攻撃を強めた。糧は尽き援軍もなく、大雪の夜半、世忠は300人を率いて虜の陣営を急襲すると、虜は大いに乱れことごとく逃げ去った。のちに虜方から来た者によれば、大酋長が負傷して死んだため衆が支えきれなかったのだという。

高宗即位前後の武功

  • 高宗が最初に済陽に駐まった際、韓世忠は所属の部隊を率いて即位を勧め南京へ従った。虜が城に迫り人心は恟々としていたが、世忠は西王台に拠って力戦し虜を退けた。翌日、酋帥が数万を率いて至ると、世忠の兵はわずか千人であったが、これと遭遇するや単騎で突撃し酋帥を斬った。虜は大潰し、郡守が父老を率いて出迎え感涙した。世忠は済陽へ還り、皇帝に従って南京へ赴いた。

揚州行幸時の対応

  • 皇帝が維揚(揚州)に行幸した際、世忠は所属を率いて従った。折しも「一窩蜂」と称する賊将・張遇が来降し城下に至ったが甲を解かず、人心は危惧を抱いた。世忠は独りその陣中に入りこれを説得すると、すべて命に服した。

苗劉の変での果敢な行動

  • 韓世忠が微賤の身であった頃、王淵は彼を並外れて厚遇していた。苗傅が淵を殺し乱を起こすと、韓世忠は特に力を尽くして討伐に奮起し、海路を経て行在に赴いた。張俊らは世忠の到来を知り「韓公が来る、これで必ず事は成る」と互いに祝った。世忠は常熟に至って張俊の書を得ると大いに慟哭し、酒を酌んで神に誓い「この賊とは断じて天を共にしない」と述べ、士卒は皆奮い立った。俊に会うと「私はすぐにでも官家(皇帝)を救いに行きたい」と述べたが、俊は「鼠を投げるにも器を忌むというように、事は急いてはならない。すでに人を遣って甘言で賊を誘っている」と答えた。世忠の兵は寡少であったため、俊は張浚の兵2千を分けて世忠に貸した。二凶(苗傅・劉正彦)は矯制(偽の勅命)で世忠を召したが、世忠は表向き好意的な言葉で「残兵は少なく歩いて行在へ参ろうと思う」と答え、二凶はこれを許した。折しも俊もまた呉江に兵を遣っていた。歩将の安義という者が密かに二凶と結び、俊を討ってその兵を奪い、呉江橋を断って賊に呼応しようとした。俊は世忠を秀州に屯させこの謀りごとを討たせようとしたが、世忠は秀州に至ると病と称して行かず攻具を造った。二凶はようやく驚いた。呂頤浩もまた到着し、世忠は郊外で出迎えた。呂が「賊の計に虞(懸念)はないだろうか」と問うと、世忠は「彼らは勢いに頼り衆を恃み鉄券(不処罰の証書)を脅し取ろうとしているに過ぎない。自ら死を免れないと分かっている、他に虞があろうか」と答えた。さらに「必勝を確信できるか」と問われると「順をもって逆を討つ、なぜ勝てないことがあろうか」と答えた。当時、世忠の妻・梁氏と子の亮は苗傅の軍に人質として捕らわれていたが、世忠は意に介さなかった。折しも隆祐太后が梁氏を召見しその手を執り泣きながら「太尉が救援に来てくれれば、速やかに岩陛(皇帝の座所)を清めることができよう」と語った。傅は先に弟の苗翊を遣い赤心軍を臨平に伏せ、勤王の軍を待ち伏せさせようとした。世忠は「乳臭い子供が何を企んでいるのか」と述べた。苗翊らは世忠の軍を招いて戦おうとし、世忠は矛を手に自ら先頭に立ち、将士に「今日、それぞれ死をもって国に報いよ。もし顔に矢を受けなかった者は必ず斬る」と命じた。苗翊らは敗走し、苗傅・劉正彦は兵を率いて逃走した。世忠は城に入り賊党の王世修・呉湛を捕らえ、いずれも処刑した。

苗劉討伐後の追撃

  • 韓世忠は江浙制置使として一軍を統率し苗傅らを追捕した。傅らは浦城県を犯した。世忠は兵を率いて夜、県の北10里に至ったが、賊は溪を跨ぎ険を拠って道に伏兵を設けていた。世忠が統制官の馬彦輔に賊を撃たせると伏兵が起こり彦輔は戦死した。賊は勝ちに乗じて中軍に至ると、世忠は自ら親兵を率いて力戦し、〓を大破し王彦を捕らえた。挙人の程妥という者は崇安の人で、当時〓軍に捕らわれ〓のために策を画していたが、残兵を率いて小路から崇安県境に入ると夜になって軍を棄て姓名を変え商人に扮し、妥とその寵臣・張政と共に西へ逃れ剣鋒村に至り土豪の詹標に捕らえられ、苗傅は数日留め置かれた。妥は逃れられないと悟り密かに標に「これは苗〓である」と告げ、標はこれを福建提刑の林杞に報告し、朝廷に知らせた。

論功行賞

  • 苗劉平定の功に対し韓世忠に両鎮節度使を加え、皇帝は自ら「忠勇」の二字を書いてその軍旗に示した。またその妻・梁氏を国夫人に封じ内中の俸を給し厚遇した。将臣が両鎮節度使を兼ね、その妻に俸給が与えられたのはこれに始まる。

遷都に関する議論

  • 皇帝は張俊・韓世忠・辛企宗らを召し駐蹕(滞在先)の地を共に議した。俊・企宗は皇帝に潭州へ直行するよう勧めたが、世忠は遅れて到着し「呉越へ向かうべきです」と述べ、「陛下はすでに河北・山東を失われました。もしさらに江淮までも棄てれば、あとどこに拠るべき地があるでしょうか」と述べた。皇帝は内侍に三人を都堂へ連れて議させ、宰執が入奏すると、皇帝は「昨日、世忠は呉越へ行くべきだと述べた、呉越なら我らは戦える。俊と企宗は戦うことを敢えてしないため湖南へ行きたいのだ」と述べた。呂頤浩は「まことに聖訓の通りです」と述べた。

李成討伐の献策

  • 呂頤浩が李成討伐のため増兵を上奏すると、皇帝は宰執に「頤浩は身を顧みず国のため賊を討とうとしている、群臣はこれに及ばない」と述べた。范宗尹は「頤浩は世忠の軍をさらに助として得たいと望んでいます」と述べると、皇帝は「金人はまだ江北にあり、世忠を軽々しく動かせない」と述べた。李回は「李成が兵を擁して江を跨ぐ大胆な行動に出ているのは、まさに辺防が緩んでいるためです。朝廷が兵を遣れないなら、陛下自ら六師を率い饒州・信州の間へ行幸されれば、賊は肝を潰すでしょう」と述べた。

焦山寺での対峙

  • 韓世忠は先に焦山寺に屯して敵を待ち構えていた。完顔宗弼(烏珠)が使者を送り決戦の日を約すと、世忠は諸将に「この辺りの地形で金山龍王廟に勝る場所はない。彼らは必ずここに登ってわれらの虚実を窺うだろう」と述べ、偏将に300人の兵を廟中に伏せさせ、さらに300人を江岸に伏せ、人を遣って中間から見張らせ「江中の鼓声を聞いたら、岸の兵が先に入り廟の兵が続いて出よ」と戒めた。虜が至ると果たして5騎が龍王廟へ趨いた。廟中の伏兵は先に鼓を鳴らして出撃し、5騎は策を振るって馳せたがわずかに2人を捕らえた。1人は紅袍に玉帯を身につけていたが、落馬した後跳ね起きて再び馬に飛び乗り逃れた。捕らえた2人を問い詰めると、それが完顔宗弼だったという。まもなく数十合の戦闘を経て多くの捕虜を得た。さらに宗弼の婿で偽の龍虎大王に封ぜられた者を捕らえ、船千余艘を得た。虜はついに渡ることができず、また使者を遣って掠奪した物を返すので道を借りたいと願い出たが世忠は許さなかった。名馬を加えて求めても許さなかった。折しも達蘭(撻懶)が濰州にあり、貝勒太一を遣り淮東へ趨かせ完顔宗弼の後援とした。

皇帝の激励

  • 韓世忠が戦勝を上奏すると、皇帝は「金人が侵し辱めて以来、兵将の多くが風を望んで潰走してきた。しかし今年、韓世忠らのように大功とは言えなくとも度々戦勝を重ねている者もいる。もしこれより士卒を訓練し武具を修め力を尽くして措置すれば、今冬は虜に勝てる見込みがあるやもしれない。朕は古来、衆を恃んで敗れた例、王尋・昆陽の戦いのようなものが多いことを見てきた」と述べ、世忠の上奏を出して尚書省に黄榜で中外に諭させた。当時、金兵は10余万に及んでいたが、世忠の戦士はわずか8千であった。完顔宗弼は上陸して語ることを求め、世忠に2人を伴わせて会見したが、宗弼の言葉は不遜であり、世忠は怒って弓を引いてこれを射ようとしたため、宗弼は急いで馬を走らせ逃げ去った。

黄天蕩の戦い

  • これより先、韓世忠は完顔宗弼と黄天蕩で対峙していた。世忠は海艦を進めて金山下に泊め、戦いに備え工人に鉄を鍛えさせ長い綆(縄)を連ね一つの大鈎を貫かせ、驍捷な士卒に授けた。夜明けに敵が船で鼓譟しながら前進すると、世忠は海船を二手に分け敵の背後に出て、縄を投げるたびに一艘の船を引き寄せて捕らえたため、敵はついに渡ることができなかった。ここに宗弼は世忠に語り合いを求めた。世忠は応答が非常に的確であり、佩びていた金鳳瓶で酒を注ぎ盃を交わし縦飲するさまを見せた。宗弼は世忠が余裕綽々としているのを見てますます意気消沈し、道を借りたいと非常に丁重に求めた。世忠は「それは難しくない、ただ両宮(徽宗・欽宗)を迎え還し旧疆土を復してから明主(皇帝)に報告すれば、互いに全うできよう」と答えた。完顔宗弼は世忠に扼えられ、建康から自ら北へ帰る策を謀ったが、帰れずにいた。ある者が芦場地に大きな渠を20余里掘り、上流を江口に接続させ船を出せば世忠の上流に出られると教えた。宗弼は冶城の西南隅から渠を掘らせ一夜で完成させた。翌朝、船を出すと世忠は大いに驚いた。金人はことごとく建康へ趨いたが、世忠は追撃してこれを破り、敵はついに渡れなかった。世忠は風に乗り篷を張った海船を自在に往来させたため、宗弼は諸将に「船を用いるのは馬を用いるようなものだ、どうすればこれを破れるか」と問うた。榜文を掲げ海船を破る策を献じる者を募ると、福州の人・王某が「船中に土を積み平らな板を敷き、船板に穴を開けて櫂で漕げるようにし、風が止んだら江に出し、風があれば出さないようにすればよい。海船は風がなければ動けないのです。火矢でその篛篷(竹の帆)を射れば、攻めずとも自ら破れるでしょう」と教えた。一夜で火矢を造り、その日船を江に出すと飛ぶように速く、天は晴れ風もなかったため海船はいずれも動けなかった。火矢で海船の篛篷を射ると、火は日に照らされ乾いた篷に燃え広がり、人々は乱れて叫び馬は驚いて嘶いた。焼かれた船は江を蔽って流れ下った。世忠は残軍と共に〓歩に至り船を捨てて陸から鎮江へ奔り還った。完顔宗弼はここに至りようやく江を渡って逃げることができた。

蕩平の詔と将士への激励

  • 詔により韓世忠に諸賊の蕩平が命じられ、大捷を連ねて上奏すると、優詔をもって嘉され抜擢された。世忠は諸軍統制官に、それぞれ功を立て国に報い共に中興を助け史書にその名を輝かせるよう告げた。

子の任官

  • 世忠は子・亮のために文官への転換を請い許された。諸将の子孫に文資の禄を与える慣例はこれに始まる。

皇帝との深夜の議論

  • 皇帝は宰執に「朕は中興の政を行うにあたり用兵をせずには済まない。卿らはかつて世忠とこれを議したか。朕は先日、世忠と論じて晩膳を過ぎ夜四更まで眠らなかった。朕と卿らですでに一定の議論があるはずだ、さらに侍従官を日替わりで召し都堂に上らせ札を給し条上させよ、朕はこれを参酌して万全を決めよう」と述べると、呂頤浩は「謹んで聖訓を奉じます」と答えた。

劉光世との軋轢

  • 浙西大帥の劉光世が江東宣撫使となり池州に司を置いた際、光世と世忠は交代で戍守していた。世忠がすでに鎮江に至った際、間諜が池州城に入り密かに倉庫を焼いた。光世はこれを捕らえ尋問すると皆「世忠の遣った者だ」と答えた。ここに世忠と光世は互いに皇帝に訴えた。詔により光世は建康へ移り、世忠もまたその後方を襲おうとしたため、皇帝は使者を遣って和解させ、後漢の寇恂・馮異の故事を書いて戒めた。世忠は杜琳・解元に兵を率いて淮水を渡り北へ向かわせたが、ここに至り詔により「金人はすでに和議を約している、両軍は盱眙に駐まり斉国の境を侵さぬように」と命じられた。

蕃境の兵犯への対応

  • 宰執は世忠が報告した蕃偽兵の承州・楚州侵犯の事を、奉使の魏良臣に軍前で協議させるよう上奏した。皇帝は「和議はやむを得ないことだ。もし淮南の百姓が安業できれば、内帑からでも歳幣は賄える、戸部の財賦を用いる必要はない。朕の宮中は内帑以外に何も用いず、専ら養兵に充てている」と述べると、沈与求は「陛下が民のために内帑を割いて歳幣に充てられるのは、盛徳の事です」と述べた。

使者派遣への警戒

  • 魏良臣を奉表通問使として金へ遣った際、金はすでに出師を決めていたが朝廷はまだ知らなかった。世忠は上奏して「使者を遣って議和するのは策ではありません。兵を励まし恢復すべきです」と述べた。皇帝は大臣に「世忠の国を思う心は非常に切実だ、詔を降して奨諭すべきだ。ただし先に二聖が遠方にあることを諭させ、当時は使者を遣って通問しただけだったことも伝えるように」と述べた。

揚州駐屯と防衛

  • 金と偽斉が兵を合わせて侵入すると、皇帝は世忠に御札を賜り「敵の勢いはまさに鋭く、朕は深く憂えている。建康の諸渡は元来賊の要衝であり、万一漏れがあれば存亡に関わる。朕は不徳の身ではあるが、君として国を治め子として民を養う責任がある。祖宗の徳沢は今なお人心にあり、代々養われてきた恩と永く千載に伝わる忠誼の烈をよくよく思うべきである」と述べた。世忠は詔を読み感泣し、揚州へ進屯した。

出師の督励

  • 淮東宣撫使・韓世忠が江を渡り賊を防ぐと上奏すると、皇帝は「世忠は忠勇であり必ず功を成すだろう、戸部に銀絹を支給させ渡江した将士を犒い、その心を励ますべきだ」と述べた。まもなく世忠がまた「揚州にいるが折しも霖雨で進軍できない」と上奏すると、朝廷は成功の遅れを訝るのではと恐れたが、皇帝は「兵事はどうして遠くから制御できようか」と述べ、世忠に機に応じて自ら判断させるよう詔した。

大儀鎮の戦い

  • 世忠が揚州に兵を駐屯させていた際、奉使の魏良臣が世忠のもとを通過し酒宴を設けて別れの盃を交わしていたところ、流星のように早馬が次々に到着した。良臣が理由を尋ねると、世忠は「軍を移し江を守れとの詔があった」と答え、炊事を止めて班師を命じた。良臣が去ると、世忠は彼がすでに境を出たと見計らい馬に乗り軍中に「わが鞭の向く先を見よ」と命じた。ここに諸軍が大集結し、大儀鎮に至ると精兵を5陣に配置し20余の伏を設け、鼓声を聞いたら起きて撃つよう戒めた。良臣は金の陣に至り我が軍の動静を問われると、見たままを伝え、金は大いに喜び兵を励まして江口へ趨いた。大儀鎮まで5里の距離に迫った際、金の将・貝勒托卜嘉が鉄騎を擁して5陣の東を通過すると、世忠は密かに麾を伝え鼓を鳴らすと伏兵が四方から起こり、わが軍旗と金の旗が入り乱れた。金軍は混乱し弓刀を使う暇もなく、わが軍は次々に隊列を進め、背嵬軍はそれぞれ長斧を持ち上は人の胸を突き下は馬の足を斬った。金の全装備の兵は泥沼にはまり人馬ともに動けなくなり、貝勒托卜嘉を捕らえた。完顔宗弼は泗上まで逃げ帰り、良臣を召して自らを裏切ったと責め殺そうとしたが、良臣は言葉巧みに逃れた。世忠の提挙官・董旻は金と天長軍で戦い、統制官の解元・成閔も承州で戦い、いずれも金を破り生きた女真人100余人を捕らえた。属官の陳桷を旻らと共に船で送り行在へ献上させ、あわせて戦没した使臣が30余人に及んだことを報告した。沈与求は「建炎以来、将士は敵を迎え撃つ戦いをしたことがなかったが、今、世忠は連戦連勝しその鋭鋒を挫いた、この功は小さくない」と述べ、趙鼎は「陛下がすでに自ら六師を総べる以上、功を第(等級づけ)し賞を行うのは平時とは異なるべきです」と述べた。皇帝は「優遇して賞せよ、人々にこれを知らしめ激励すればきっと成功するだろう」と述べた。

泗州対峙と偽斉軍の撤退

  • 達蘭(撻懶)が泗州にあり、完顔宗弼は竹墅鎮に屯していた。かつて書幣を世忠に送り決戦を約したことがあった。世忠は諸将と酒を酌み交わす席で伶人(芸人)に橘や茶を持たせ返礼とし、返書には「元帥のご苦労、決戦の約束、私はどうして急いで支度をし指揮に従わずにいられましょうか」と述べた。折しも金の軍は世忠に阻まれ、大雪が降り糧道が途絶え、野に掠奪するものもなく馬を殺して食う有様となり、軍は皆怨嗟した。完顔宗弼は夜のうちに軍を引き揚げると、劉麟・劉猊に諭す使者を遣った。ここに劉麟らは輜重を棄てて逃げ、昼夜兼行200余里を進んで宿州に至ってようやく少し休んだ。北西方は大いに恐れた。

入朝と皇帝の心境

  • 世忠が劉光世らと共に参内すると、皇帝に「金兵が撤退しました、陛下はさぞお喜びでしょう」と上奏した。皇帝は「これは喜ぶに足りない。もし中原を回復し二聖を迎え還せてこそ喜ばしいのだ。しかし一つだけ、卿らのような将士が勇を競って争って前に立つようになったのは、以前敵を恐れていた頃とは違う、これは喜ばしいことだ」と述べた。辞去の際に趙鼎らが侍立していると、皇帝は「敵が南侵する際、名だたる酋長がすべてその中にいた。江浙を呑もうとする意図があったのだろう。卿らが戮力して防いだおかげで彼らは利を失い去った、朕は深く嘉している」と述べると、趙鼎は「私は降人・程師回から、劉豫が虜に『劉光世と韓世忠は近ごろ不和である』と偽って告げたと聞いております。虜が淮甸に至って以前と違うと知り、その気力はすでに萎えたのでしょう」と述べた。皇帝は「烈士は気節をもって互いに許し合うべきである。まず国家の急を先にし私怨を後にすべきだ。昔、寇恂と賈復は深い恨みを抱いていたが、光武は『天下未だ定まらぬのに二虎がどうして私闘してよいものか』と述べた。今日、朕がこれを分かち合いたい」と述べ、光世と世忠を並び座らせ大いに歓を尽くし、共に車に乗って出て友を結んで去らせた。両人には睚眦(わずかな怨恨)があったとしても「今日、朕がこれを分けよう。恨みを解いて歓びを結ぶべきだ」と諭すと、両人は感泣し再拝して「私どもは以前、意見の食い違いがありましたが、国家の安定に関わることに私恨を分け隔てすることは決してありません。まして今は仲良くしております。それなのに君父にまでご心配をおかけし懇々とお諭しいただき、恐懼のあまり身の置き所もございません、謹んで詔を奉じます」と述べた。皇帝は内侍に内蔵の金盤と尊斚(酒器)を出させ両帥に酒を賜り、それぞれ用いた酒器も併せて賜った。辞去する際、皇帝は「光世らは忠誠にして国に身を捧げる、必ず朕のために僭叛を平らげ疆土を回復してくれるだろう」と述べた。

楚州への進屯

  • 都督・張浚が軍を労うために出て鎮江に至り王(世忠)を召して皇帝の意を親しく諭し、楚州への移屯を命じ山東を動揺させるようにと伝えると、世忠は喜んで命を受け即日全軍を率いて渡江した。皇帝は楚州への移屯を伝え聞き手札で労い「今、全軍が渡江し威声が遠く響き渡っていると聞いた。卿の妻子は同行しているか。急に到着したなら医薬や飲食が備わっていないかもしれない、必要なものはすべて申し出るように」と述べた。当時、山陽は荒廃した後で、世忠は荊棘を切り開いて軍府を立て、士卒と共に力役を担った。その夫人・梁氏は自ら薄(すだれ)を織って屋根を作った。敵に臨んで怯懦な将士がいれば、世忠は巾幗(婦人の頭巾)を与え、宴を設けて楽を奏し、その将士に女性の装いをさせて恥をかかせた。軍塁が完成すると、世忠は流散した民を撫育集結させ商売と手工業を通じさせ、楚州は重鎮となった。

軍紀の厳正さ

  • 詔により「韓世忠は紀律厳明、岳飛は治軍に法がある」として学士院に奨諭の詔を降させた。当時、世忠が淮甸へ移屯した際、軍の行進は整粛で秋毫も民を犯さなかった。岳飛が潭州へ移軍した際も通過する先で民を煩わせず、郷民が私的に士卒に酒食を贈っても即座に代金を払った。皇帝はこれを聞いて詔を出した。

建康行幸時の視察

  • 皇帝が建康に行幸し下蜀鎮に至った際、宰執に「道中で世忠の背嵬軍を閲したが、その驍健さと武芸は以前よりさらに精進している」と述べた。張浚は「諸将の才は異なるが、要は士心を得ることにあり、そうすれば人々が命に従う」と応じ、皇帝はこれを是とした。

秦檜との対立

  • 秦檜が国政を執り堅く和議を主張すると、世忠はこれを不可とし、洪沢に伏兵を置き偽って賊を装わせ金人の使者を劫かそうと画策し和議を破ろうとした。これはその将・郝辨が密かに淮東運副の胡昉に告げたことで発覚した。折しも韓肖冑が京国(金国)への使者となっており、胡昉は密かに肖冑に告げ、そのため肖冑と金使は淮西を経由して去った。世忠はこれを妨げられず、檜は深くこれを恨んだ。

藩籬論

  • 宰執が世忠・俊がいずれも参内すると上奏した際、檜は「私は世忠と俊の二大将を陛下は二虎のように頼りにし、それぞれが藩籬を守り賊が近づけないようにしていると考えていました」と述べたが、皇帝は「この譬えは的確ではない。まさに左右の手のようなもの、一方の手が力を尽くさなくてよいことなどあろうか」と述べた。

淮陽の攻略計画への慎重論

  • 世忠は淮陽の形勢を図に描いて上奏し「賊はそこに堡を築いています、偏師を遣ってこれを平定したい」と述べ、属官の温済に朝廷へこれを諮らせた。皇帝は済に「そなたの帥(世忠)に告げよ、万全を期すべきで軽々しく動くべきでない、後悔を招くことのないように」と戒めた。済は命を受けた後、さらに他日の将士への賞について求めた。皇帝は「功があれば賞す、ただし実を確かめてから功のあった者を励ますべきだ。世忠がすでに状を上げているが、朝廷はこれに反しにくい。しかし昨年の淮陽攻撃で1万7千人を賞したのは、誰もが当を得ていないと考えている」と述べ、済は畏れ入り詔を奉じて退いた。

淮陽城下での突囲

  • 世忠は兵を率いて淮陽城下に趨き虜に包囲されると、按兵不動(動かず様子を見る)とし、まもなく衆に「わが馬の首の向く先を見よ」と命じ、戈を奮って一躍すると包囲を破って出て、矢一本すら失わなかった。世忠は「虜は与しやすい」と述べ、再び鋭を乗じて掩撃すると賊は敗走した。まもなく功に応じて賞せられ「揚武翊運功臣」の号を賜り、横海武寧安化節度使を加えられた。大将が功号を賜り節を三鎮に開くのはこれに始まる。

楚州単独防衛の請願

  • 皇帝は世忠に鎮江へ司を移し楚州には兵を残して守らせるよう命じたが、世忠は上奏して「虜の情勢は測りがたく、計をもってわが軍を緩めさせようとしています。願わくば私一人だけをこの軍に留め江淮を守らせてください、敵と決戦することを誓います」と極論した。皇帝は札を賜り「古人が言うように『閫外(国境外)の事は将軍がこれを制する』。今すでに適切に制御している以上、そなたが自由に処置すべきである、もう拘束にとらわれる必要はない」と述べた。

皇太后との対面

  • 皇太后が北方から帰還する際、韓世忠の名を聞いていたため簾前に召し「これが韓相公か」と述べ、長く労いの言葉をかけた。

名馬の献上をめぐる問答

  • 皇帝は宰執に「世忠が高さ5尺1寸の駿馬を献上しようとし『臣下が乗るべきものではありません』と言うので、朕は不用と辞退した。卿は自ら留めて出入りに備えるべきだ」と述べた。世忠は「今すでに和議が成っています、再び戦うことがありましょうか」と述べたが、皇帝は「そうではない。金とは講和したとしても備えを緩めてはならない。和議など頼りにできるものだろうか」と述べた。

金の内紛への対応

  • 世忠は「金が近ごろ宗族の大臣を誅殺し国内が紛擾している。淮陽に屯していた兵はすべて撤収された。この虚に乗じて襲撃したい」と上奏したが、皇帝は「世忠は武人であり大体を知らない。金がまさに通好を求めている折、その無防備に乗じて襲うのは、乱に乗じて災いを幸いとするようなものだ。他日、どうして夷狄に信義を守らせられようか」と述べた。

諸将の不和への配慮

  • 当時、世忠・劉光世・張俊・劉錡はいずれも互いに折り合いが悪かった。中丞の王次翁は「私が聞くところでは、世忠と光世は議論の不一致から隙が生じ、俊と劉錡は措置の食い違いから対立しています。私は劉錡が孤塁を守り光世の軍が孤立無援の状態にあることを恐れます。俊と世忠は急いで援護しようとしません。使者を遣り切に責め、季布・郭子儀の忠義の故事を引いて感動させるべきです」と述べた。当時、諸将は驕っていたが、次翁は臆せず弾劾した。

山東方面への出兵

  • 世忠は統制の王勝と背嵬将の成閔を遣り北伐させ、淮陽軍城の南20里に至って水陸で転戦し、虜を沂河に追い込み多くの死者を出させ、戦船200余隻を奪った。

海州方面の攻略

  • さらに王勝・王権を遣り海州を攻略し、偽の守将・王山を捕らえ、虜人を捕らえて行在に護送した。老父たちが金帛を集めて軍を犒おうとしたが、王勝はこれを受けなかった。世忠は出兵のたびに秋毫も犯さぬよう戒めていたため、軍が通過する先々で耕作する農夫は鋤を担いだままこれを眺めていた。

三将への訓示

  • 皇帝は世忠・張俊・岳飛に「朕は昔、そなたらに一路の宣撫の権を付したがまだ小さいものだった。今、そなたらに枢府本兵(枢密院の兵権)という重い権を付す。そなたらは心を一つにし彼我を分け隔てるべきではない、そうすれば兵力が全うされ誰も抵抗できまい。完顔宗弼(烏珠)ごとき、どうして掃討できないことがあろうか」と述べた。

世忠軍の実力

  • 皇帝は張俊・岳飛に楚州へ赴き世忠の軍を撫定させた。岳飛が兵籍を見て初めて、世忠がわずか3万の兵しか持たないにもかかわらず、楚州で10余年、金があえて犯さず、なお山東を侵す余力があることを知った。飛は「これは奇特の士である」と述べた。

尅敵弓の考案

  • 世忠は淮東にあって金と戦う際、尅敵弓を用いて勝利を収め、ここに至りその様式を献上した。皇帝は宰執に「世忠が尅敵弓で賊を破ったので、朕がこれを取って見たところ、誠に工巧であったがまだ完全ではなかった。朕は数日考えて少し改良し、2石の力を増しつつ数斤の重さを減らした。今やほぼ完全であり、後世の作者も及ばないだろう」と述べ、詔により工部が軍器監に良工を選びこれを製造させた。

帰順者への義理

  • 趙栄・王威という者たちが宿州・亳州から帰順してきた。王倫が東京に至った際、完顔宗弼はまず栄と威の引き渡しを求めた。まもなく詔により彼らを送還することとなった。世忠は秦檜に書を送り「栄と威は本朝を忘れず、身をもって帰順したのに、その父母妻子は皆虐殺されました。相公はなおも彼らを送り返すことに忍びないのですか。それでは中原に望みはなくなります」と述べた。

和議への抵抗と晩年

  • 世忠は和議に賛同しないだけでなく、切実に諫めて「中原の士民はやむを得ず戦禍に沈んでいるが、その中の豪傑はいずれも首を延ばして民を弔い罪を伐つ王師を待ち望んでいる。もしこのまま和議のまま日月を過ぎれば、人情は消え弱まり国勢は萎えてしまう、誰がこれを振るわせられようか」と述べた。再び上章して秦檜が国を誤らせていることを力説し、辞意は切実であった。檜はこれにより深く世忠を恨み、言者は世忠の罪を上奏させた。皇帝はこの上奏を留め下ろさなかったが、世忠は力めて閑職を乞い、大傅・醴泉観使となった。以後は門を閉ざして客を謝絶し、口を閉ざして兵事を論じなくなった。時にロバに乗り酒を携え一、二の童僕を従えて西湖に遊び自ら楽しんだ。平時、将佐でさえその顔を見られる者は稀であったという。

若年期の逸話

  • 世忠は若い頃、省倉で米を運ぶ役についていたが、慓悍で人並み外れ、鞭轡を用いずとも生馬の駒を乗りこなせた。家は貧しく生業がなく、酒を好み豪縦で規律に拘らず、人々は「潑韓五」と呼んだ。18歳で初めて軍籍に入ると、強弓を引き馬を馳せ射て、軍中随一の勇者となった。世忠が制定した兵器には、跳澗(騎馬訓練用)、洞貫(射撃訓練用)、狻猊の兜、連鎖の甲、掠陣弓などがあり、いずれも世忠が遺した制度である。かつて毒矢に当たり骨まで達したが、強弩でこれを引き抜いたため、10指のうち僅かに一部だけが動けなくなり、身に受けた金瘡(刀傷)は刻画のごとく無数であった。晩年、王公として朝請の身にありながら口を閉ざして功名を語らず、政務から退いて都城に高臥すること10年、まるで権位を持ったことがないかのようであったが、その部将・部曲の多くは高位に登り節鉞を連ねていた。歳時に彼らが門を訪れても、たいてい謝絶して会わなかった。当時、朝廷は皆秦檜の権力を憚り皆その党に付いて自らを守ろうとしたが、世忠は班列で一揖するだけで、それ以上親しく交わることはなかった。

史論

  • 晦菴(朱熹)は「国家の中興にあたり張浚・韓世忠・劉光世・岳飛が突如として現れたのは、平時に諸公が見識していた人物であったろうか。ただ事が期せずしてこの局面に至り、こうした人材が押し出されて世に出てきただけである」と述べた。