出自と経歴
- 楊沂中(和国武恭王)、字は正甫。崞県の人。高宗より「存中」の名を賜った。太傅に除せられ醴泉観使となり、孝宗朝には都督江淮軍馬となった。
李成討伐での活躍
- 李成が叛いた際、江東大帥・呂頤浩は左蠡に駐軍して境を守り、江南招討使・張俊は諸将を集めて賊を破る方策を議していたが、皆が分道進軍を望んだ。楊沂中(王)は当時右軍都統制官として「兵を分ければ力が弱まる。また諸将は地位が均しく互いに従わない」と述べた。岳飛も密かにこれに賛同する計を立てていた。張俊は急ぎ南昌へ趨き賊と長江を挟んで対陣した。岳飛は自ら先鋒となりこれを撃つことを請うた。楊沂中は上流から生米渡を突破し、賊の不意を突きその先鋒と遭遇してこれを撃退した。賊将・馬進が精鋭数万で来襲すると、楊沂中は張俊に「彼は多く我らは少ない、奇をもって勝つべきだ。願わくば騎兵を私に任せ、あなたは歩兵でその前を攻めていただきたい」と述べ、楊沂中は数千の騎兵を率い神武後軍統制の陳思恭と共に山の後方から出撃した。張俊は厳しく陣を布いて前に出し、前後から挟撃して大破した。数万を捕虜としたが、張俊はその数の多さと再び叛くことを疑い、その夜、陳思恭に命じてすべて殺させた。江州は回復された。楊沂中は李成を江州・均州・蘄州の間で追撃し、統制官の趙密と合流してさらに大破した。
神武中軍の整備
- 皇帝は宰執に「朕はすでに沂中に神武中軍を治めさせている。これらはすべて宿衛の兵である。卿らは器械の増修を第一とすべきである」と述べ、沂中に宿衛親兵の提挙を兼ねさせたが、その兵は3千に満たなかった。沂中は嘆いて「勾陳天仗(禁軍)がこれほど単弱とは」と述べた。ここに壮丁を招募し牧圉を営むと、半年足らずで軍器も充実し、皇帝はますますこれを重んじた。
殿前司の拡大
- 神武中軍はもと三部にとどまっていたが、存中が殿巌(殿前司の長官)となってから初めて五軍に増やし、さらに護聖・踏白・選鋒・策選鋒・遊奕・神勇・馬歩など計12軍を置いた。折しも江海の間で盗賊が相次いで起こったため、諸軍を分置してこれを制した。泉州の左翼、贛州の右翼、循州の摧鋒、明州の水軍もすべて本司の統轄下に置かれ、合計7万余人に及んだ。これにより殿前司の兵籍は天下随一となった。存中はさらに諸軍の戎仗を製造し敵に勝つための弩を工夫した。従来の弩は強力であっても士卒が引き絞るのに苦労していたため、旧制を増減して馬黄弩を精密に造り、敵が一矢を放つ間にこちらは三矢放てるようにした。
江上作戦での献策
- かつて張浚が江上にあって淮水を渡り北へ向かう計画を立てた際、韓世忠に頼ろうとしたが、世忠は兵が少ないとして張俊の将・趙密を助力に求めようとした。世忠が行府の檄をもって張俊に求めると、俊はこれを拒んだ。張浚が帰って奏上した際、俊がついに兵を分けなかったことを患いとした。趙鼎は張浚に「世忠が欲しがっているのは趙密です。今、楊沂中の武勇は密に劣らず、しかも彼が統率するのは御前軍です。誰が及ぼうとするでしょうか。沂中に世忠を助けさせ、密を撤収させて宿衛に戻せば、俊もあえて反対できないでしょう」と述べると、張浚は「これは上策だ」と述べた。
統制官の管理
- 宰執が沂中の下の統制官・王存と呉進に所属の2千人を率いて臨安へ戻らせ留守司に用いさせることを検討した際、呉進は戦に勇敢で、常に皇帝の御前で騎射を披露した。皇帝は「一人の好漢だ」と評し、呉進はこれを聞いて「好漢呉進」と縫い取った背心(胴着)を作り、閲兵のたびにこれを着て衆に示した。
石の運搬をめぐる叱責
- 沂中が士卒を遣って怪石を運ばせ太平楼の酒肆に置いたことがあった。侍御史の張絢がこれを道で見かけ「今、辺境は多事であり百姓は食に困っています。陛下は質素な宮殿にお住まいで一花一石にも心を煩わせておられません。それなのに中軍がこの聖意を体さず、公然と石を運んで酒肆の遊観を飾るとは。人々の目にとまり四方に伝わるのも良くないことです。事情を調べていただきたい」と上奏した。詔により沂中は罰金に処された。
淮西合力討伐の献策
- 『事実』には「趙鼎は張浚に書を送り、張俊・楊沂中に力を合わせて劉麟・劉猊の二賊を討滅させ、その後に建康で軍を固め江上を守って後続に備えるよう命じさせた。間諜の情報では二賊の後に金兵が続くとされ、兵法に通じた者は金が劉麟・劉猊を先鋒とし精騎をもって続かせると見ていた。万一この通りになれば対応が間に合わなくなるだろう」と記されている。枢密院の折彦質もこの書を送り特に切実に説き、趙鼎は皇帝にこれを述べた。皇帝は「これは善い謀りごとだ」と述べた。
藕塘の戦い
- 折しも劉猊の東路軍が淮東に至ったが、韓世忠の承州・楚州の兵に阻まれて進めず順昌へ戻った。劉麟は淮西から浮橋を架けて渡ると、賊衆数十万が濠州・寿州の間に至った。江東宣撫使の張俊がこれを防ぎ、詔により淮西も俊に属することとなった。沂中は俊の統制官であった。張浚は直ちに沂中を濠州へ遣り俊と合流させ、さらに張宗顔らを泗州から後継として送った。劉猊は数万の兵で定遠県を過ぎ宣化へ趨き建康を犯そうとしたが、沂中は劉猊の先鋒と越家坊で遭遇しこれを破り、藕塘で劉猊と遭遇すると、呉錫に精鋭5千を率いさせ猊の陣中に突入させると、賊衆は潰乱した。沂中は大軍を放ってこれに乗じ、張宗顔らも共に進んで賊は大敗し死体は野に満ちた。劉猊は謀主の李諤に「先ほど髯(ひげ)の将軍を見た、その鋭さは当たれない、あれは楊殿前(沂中)に違いない」と告げ、数騎で逃走した。残党なお万を数えたが、皆立ちすくみ怯えて周りを見回していた。沂中は馬を躍らせて前に出て「お前たちは皆趙氏の民ではないか、どうして速やかに降らないのか」と叱ると、皆恐れ伏して降伏を求めた。李諤とその大将・李亨ら数十人を捕らえた。劉麟は孔彦舟と共に劉猊の敗北を聞き引き上げ、北方は大いに恐れた。
戦功への評価
- 右司諫の陳公輔は「濠梁の急を、張浚が沂中を遣り援護してついに賊兵を破った。この功は覆い隠せない。劉光世は廬州を守らず、濠梁の防衛兵まで安易に引き上げ、渦口のような要地に守備の人がいなくなった。もし沂中の兵が至らなければ、淮西は保てなかったであろう。光世は罪を免れられない。また沂中の勝利は呉錫が先登した功であり、光世に追撃を進言した王徳もまた特に功があった。この二人は特に褒賞し諸軍の励みとすべきだ」と述べた。朝廷も張俊・沂中の功が特に著しいとして厚く賞し、俊に三鎮節度使を加え、沂中には保成節度使を加え殿前司を主管させた。
恩威並行論
- 皇帝は宰執に「天下を治めるには恩威賞罰を並行させるべきである。恩があって威がなく、賞があって罰がなければ、どうして治世を成せようか。沂中には朕は子弟以上に慈しみをかけている。昨年、淮西に警報があった際、朕は自ら親筆で戒め『進軍しなければ軍法に処す』と伝えた。沂中は恐懼して命を承け成功を成し遂げた」と述べた。給事の胡世将はこれを機に諸将を激励すべきだと請うた。
統制官の登用交代
- 詔により殿前司策選鋒軍統制の呉錫を行在へ召還すると、皇帝は「呉錫には胆勇と心計があるが、独り用いてはならない、召還して沂中に別の軍に代えさせるべきだ」と述べた。
精選の兵制論
- 皇帝は大臣に「しばしば沂中に、用いるべきでない将領はすべて淘汰し遣散するよう戒めている。養う人は必ず戦士たり得る者、馬は必ず戦騎たり得るもののみとし、それでこそ実用に足り、糧秣を無駄にせず国計を蠹(むしば)まないで済む」と述べた。
荊南への配置
- 存中は「四川・鄂渚・池陽・建康・京口など重地はすでに兵を宿して厳重に守られているが、荊南だけは歴代用武の地であり今は重鎮であるにもかかわらず、江上流の要害の地の間で緊急時に呼応できていない。それぞれに都統制を置いて屯備を広げるべきだ」と建言し、朝廷はこれに従った。荊南は劉錡が兼領し、三衙の軍と新募の兵をあわせ計1万を江州に屯させ戚方に率いさせた。
班位問題
- これより先、存中は少師として趙密が使相であることから共に班に並んで立っていた。校書郎の王十朋が対面の際にこれを不可と論じ、諸軍が受承において威福を恣にしていることも併せて論じた。起居舎人兼中書の虞允文もまたこの輩が賄賂を通じ石顕(漢代の宦官)に近い状態にあると論じた。ここに枢臣の葉義問は「三衙はもと枢密院に属し、祖宗の旧制では同座を許さなかった。これは名分を正し等級を示すためである。どうして官の高卑によって職の上下が冠履を逆さにするようなことがあってよいものか、これは朝廷の福ではない。各々の班位を定めるべきだ」と述べ、詔により文武官が合班するようになり、親王・使相が西班に立つ際は枢密院官が権宜的に東班に連なることとされ、親王が仮を請う際にのみ西班に立つこととなった。
殿前司職の交代
- 存中は殿巌の職に約30年在任していたが、ここに至り王十朋・陳俊卿・李浩が相次いでその過失を論じた。存中もしばしば免職を願う章を提出したため、趙密がこれに代わった。存中は太傅・同安郡王に進み祠禄の職となった。その前日、皇帝は学士の楊椿を召して制を起草させ、大臣に「趙密が未だ麻(辞令書)が発せられぬうちから職事を交わることを許すように。昔、唐の神策軍使・王駕鶴は長らく衛兵を統率し権勢は中外を震わせていた。これを交代させようとした際、崔祐甫が駕鶴を召し話をしている間に代わりの者はすでに軍中に入っていた。朕は唐の史書を読み、祐甫の善き処事ぶりを深く嘉している、これを模範とすべきだ」と諭した。
完顔亮南下と親征決定
- 金人が侵入すると遠近は大いに震撼し、皇帝は存中を宰執と共に内殿に召した。皇帝が百官を分散させ海を渡って敵を避けることを望むと諭すと、陳康伯は「不可です」と述べた。存中は「敵は国を空にして遠来し、すでに淮甸を犯しています。これこそ賢智の者が奔走してもなお足りない時です。私は率先して将士を率い北を向いて死をもって戦いたく存じます」と述べ、皇帝は喜んで親征の議を決め、存中を御営宿衛使とした。
采石の水戦準備
- 金兵が〓州鎮にある際、皇帝は急ぎ存中に江の守備を措置させた。存中は虞允文と共に、車船が時期に至って動かせないことを恐れ、江に臨んで試し、戦士に踏車船を漕がせ〓州へ直行させたが、岸に迫ると引き返した。虜兵はいずれも弓を引き絞って待ち構えていたが、その船が江の流れの中で上下三度も回転し、金山を回ること飛ぶがごとくであった。虜衆は驚愕し急いで人を遣って完顔亮に報告した。完顔亮が到着してこれを見ると笑って「これは紙の船にすぎない」と述べ、諸将を並べて座らせた。ある将が前に跪き「南軍には備えがあります、軽々しく攻めるべきではありません。しかも采石の渡し場は非常に狭く、我が軍には不利です。願わくば揚州に駐留し農業に力を注ぎ兵を訓練し、徐に進取を図るべきです」と述べると、完顔亮は激怒し剣を抜いてその罪を数え斬ろうとした。しばらく哀願されると笞打ち50に減じて釈放した。完顔亮は李寶が金の戦艦を焼き成閔が流れに乗って下ってくると聞き、ますます憤り揚州へ戻ると、諸将を召し「3日以内に渡江を終えよ、期限を過ぎれば全員殺す」と命じた。諸将はこれによって完顔亮の弑逆を謀ることとなった。
完顔亮の死
- 存中・虞允文らは黄旗をもって完顔亮がすでに部下に殺されたことを奏報し、朝野は互いに祝った。存中・允文は共に議し江北岸へ渡り敵情を察しようとしたが、諸将は行くことを憚った。允文と存中だけが軽舟で江を渡り北へ向かった。皇帝はかつて陳康伯・湯思退に「存中の忠は並ぶ者がない、朕の郭子儀のような存在だ」と語っていた。
孝宗の厚遇
- 孝宗は旧臣として存中を特に礼遇し、郡王と呼び名を呼ばなかった。存中の祖父・宗閔は永興軍総管として戦死し、祖母は隴蜀の地に流離していたが、存中は日夜祈り訪ね求め、数千里の険阻な道を経てついに迎え帰った。李顕忠が罪により斥けられた際、存中がこれを保証し、顕忠はついに名将となった。存中の居所には楼閣を建て御書を蔵し、皇帝は自ら「風雲慶会之閣」と題した。