宋名臣言行錄別集上卷四十五 魏勝
魏勝(忠壯公)、字は彥威。淮陽軍宿遷県の弓手出身。完顔亮の南侵に際し義士を率いて漣水・海州を回復し、如意戦車を考案するなど工夫を凝らして海州を金軍から守り抜いた。のち楚州知事となり、劉宝が援軍を出さぬまま金軍と戦って戦死した。享年45。
年表(9件)
- 翌年閏月武功大夫・閤門贊舎人に転じ鎮江府駐劄御前前軍統制を兼ねる
- 紹興21年1151年漣水を取り、さらに海州を回復して自ら都統制を兼ねる
- 隆興初年3月1163年賈和仲との対立で一時罷免されるが冤罪が晴れ復職する
- 隆興初年10月1163年忠州刺史を授けられる
- 紹興31年8月1161年蒼山の包囲を解くため救援に赴き身に70の傷を負う
- 紹興32年閏2月1162年金の海州侵攻を李寶と合流して撃破する
- 紹興32年4月1162年烏津太師の20余万の大軍による海州包囲を凌ぎきる
- 隆興2年8月1164年楚州知事となる
- 隆興2年12月4日1164年淮陰県で金軍と戦い戦死。享年45
出自と経歴
- 魏勝(忠壯公)、字は彥威。淮陽軍宿遷県の人。県の弓手であった。紹興21年(1151年)、北上して漣水を取り、さらに海州を回復すると、州を摂政して自ら都統制を兼ねた。李寶が子の李公佐を海州に遣ってから初めてその名が朝廷に伝わり、まもなく修武郎・閤門祗候に任じられ、海州知事兼山東忠義軍都統制に差せられた。翌年閏月、武功大夫・閤門贊舎人に転じ、鎮江府駐劄御前前軍統制を兼ねた。隆興初年(1163年)3月、賈和仲との意見対立から督府によりその職を罷免され、京東路馬歩軍副総管・都督府統制に改められ、御前諸軍馬の訓練を専管し建康府に駐劄したが、まもなく督府がその冤罪を弁じ元の職に復した。10月、忠州刺史を授けられた。隆興2年(1164年)8月、楚州知事となり他の官職はそのままとされた。11月、金が清河に侵入して淮水に至ると力戦して戦死した。この事が伝わると詔により寧国軍節度使を追贈され、鎮江府江口に廟が建てられ「褒忠」の号を賜った。享年45。
若年期と海州攻略
- 若くして勇力に優れ知略も多く、騎射を善くし、義を好みながら財には無頓着で、当時の仲間から推服され、里の豪傑からも称賛された。完顔亮(亮)が帝位を簒奪し南侵の意図を示すと、魏勝は慷慨し義士300余人を得て、ある日突如淮水を渡り漣水軍を攻め取り、皇帝の徳意を宣べて一人も殺さなかったため、州の民は皆これに従い、態勢を整えると海州を取る計画を立てた。
- 海州の守将・高文多(渤海国の人)は魏勝の到来を聞いて兵を送って捕らえようとしたが、魏勝はこれを追撃し、夜には城下に迫った。高文多は城を閉ざして拒守した。魏勝は城外の山林に旗を張り火を多く焚いて疑兵と見せかけ、また使者を諸城門に遣って城中の人々に説得させた。城上の者が門を開くと魏勝は即座に勇敢に城門に登り防戦したが、他の門はほとんど自ら開いて抵抗する者はいなかった。ただ高文多とその子・安仁だけが牙兵を率いて抵抗した。魏勝は軍を整えて入城し、市の秩序を乱すことなく、譙門内で安仁父子と交戦し安仁を殺し高文多を捕らえた。民はみな安堵し、その日のうちに諸県に告知して忠義の士を募り、中原回復を図った。遠近の者はこれに応じ、旬日のうちに数千の勝兵を得た。
山東での戦い
- 金は当堪珍果(金将)に山東の軍馬1万余を率いさせ海州を攻め取ろうとし、州の北20里の新橋に至った。魏勝は自ら兵を率いて城を出て迎え撃ち、城外の地形と道の険隘な場所を観察して伏兵を配置し、鎧の整った兵を陣に並べて待ち構えた。士卒は死力を尽くして激戦し、伏兵が動くと金軍は大敗して逃走した。当堪珍果を殺し首級千余を得、生け捕った者300人、旗・馬・鼓・甲は数知れなかった。軍の名声は一層振るい、山東の民はこぞって帰順を望んだ。魏勝は檄文をもって招撫し、さらに壮丁を集めて保山寨とし、時に応じて出撃しては金軍を牽制しつつ、王師(宋の正規軍)の到来を待って中原回復を図った。
- 蒼山には民数十万、強壮の者1万余がおり山寨を築いていたが、金軍がこれを長期間包囲した。寨の首領・勝□が急を告げると、紹興31年(1161年)8月18日、魏勝は救援に赴いた。21日に山下に至り布陣すると、金は密かに伏兵を多く配していた。魏勝の軍が伏兵に遭遇し山寨の兵は皆隠れたが、魏勝は単騎で後方にとどまり金軍と戦い、大刀を奮って撃った。金軍は魏勝が将であると見て取り、500余騎で幾重にも包囲した。魏勝はその中に陥りながらも馳せ突き四方に撃ち、金の陣は開いてはまた合し、時を経て身に70もの傷を負った。刃を白刃にさらしながら重囲を脱出しようとしたが、追撃してきた金軍が魏勝の乗馬を射て倒し、魏勝は徒歩で脱出したが誰も敢えて阻む者はなかった。魏勝が山寨に至ると金軍はさらに急襲し水源を絶ったが、魏勝が神に祈ると大雨が降り、人々は食と水を得た。金軍の攻撃はさらに激しくなり、魏勝は山を巡らせて陣営を固め3日間守った。魏勝は金が再び海州を攻めるだろうと予測し、機を見て山寨を出て城中へ向かった。果たして金は海州を攻めたが、蒼山の包囲は解かれた。28日、金は新橋を犯し、9月1日には城下に至った。魏勝は城を出て迎撃し勝利を収めた。3日、金は軍を分けて四方から城を攻めたが、魏勝は募兵に恩賞を与えて城を守らせ、矢石が雨のように降る中7日間持ちこたえると、金は死傷者多く撤退した。
完顏亮南下と海州防衛
- 完顏亮(海陵)が淮水を越えた際、魏勝が海州にあってその背後を突くことを恐れ、数万の軍を分けて海州を攻めさせた。時に李寶が水軍を率いて密州膠西へ向かい金の船を破って海州の岸に至ると、魏勝はこれを迎え共に新橋で金を撃ち大勝した。魏勝は州に戻り北関子門で守備を固めた。金軍が関門に迫ると、魏勝は門上で音楽を奏で酒を飲み士を労い、あえて出戦せず固守した。金軍が城を攻め続けたのち少し兵を退かせると、魏勝は隘地に拠って撃った。金軍が攻めきれぬと知ると河を渡って関の後方を襲おうとしたが、魏勝はこれを察知し兵を城に入れた。金軍が砂堰を越えて城を包囲する陣営を築こうとすると、魏勝はあらかじめ砂堰に備えを置いてこれを拒み、さらに単騎で東門外の金軍を追い大声で叱ると、金の500余騎は皆風を望んで退いた。魏勝はこれを十数里追撃し、金軍は大いに驚き散った。魏勝は自らの手で十数人を殺し、兵をすべて城に入れて防禦した。金軍は城を囲んで陣を布き、翌朝は昏霧に乗じて四方から濠を越え攻めを強めたが、魏勝は士を励まし矢石を交えて防いだ。金軍は死傷者多く、攻城具を捨て陣を引き払って海州から離れた長い塁を築き、海州を包囲して脱出できないようにした。完顔亮が敗れて金軍が撤退するまで、城を守っている間は武具が不足し、靴底を綴って鎧を作るほどであった。金の陣営から炊煙が上がると、魏勝は城を出てこれを追い払ったため、金軍は食事もままならなかった。魏勝は大刀を得意とし、左右に射ることもでき、「山東魏勝」の名を掲げると金軍はこれを見るたびに退いた。
蜂起当初の窮乏と防備
- 魏勝が挙兵した当初は州郡からの糧餉の支給もなく、府庫や倉廩の蓄えもなかった。市易を工夫し酒・塩に課税し、有力者に穀物の供出を勧めることで物資が不足することはなかった。海州の周囲を巡り、金軍の攻略しやすい地形を見極めて城壁を築き、濠を掘り、関隘を塞ぐことを、軍中で一日も怠らず、常に敵の来襲に備えるかのように行った。そのため急に興った軍でありながら海に臨む地を守り、武具の豊かさはなくとも敵を防ぐ功績を挙げることができた。魏勝は自ら「金が南侵した当時、その本拠地は手薄であった。もし数万の兵を得て北方の忠義の士と再び結び共に中原を取れば、決して難しいことではなかった」と語っていた。
紹興32年の攻防
- 紹興32年(1162年)閏2月、金が海州を犯すと、魏勝は李寶の軍と合流してこれと戦い大破した。4月、烏津太師(金将)が20余万の兵を率いて再び海州を攻め、まず一軍を西南から迂回させ魏勝の糧道を断とうとした。11日、石闥堰に至った魏勝はこれを力戦して防いだ。翌日、金の10万の兵が要路を奪おうとしたが、魏勝は兵を率いて死戦し、先鋒数千を殺し残りは敗走させた。魏勝は追撃を止め、橋・堰の要路を守らせ、招討使・李寶に報告した。李寶は海路の防備のため出港した船から兵を出さず、金の大軍が来襲すると魏勝は士を励まし力を尽くして拒んだ。金軍はこれを崩せなかった。魏勝が城下に戻ると、民は李寶がすでに出港したため金の大軍が迫ることを恐れて城に入ろうとしたが、統制・郭蔚は門を閉ざして入れず、人民・牛馬が野を覆い号泣する声は震撼するほどであった。城中の軍民もこれを恐れたが、魏勝が城に入り「賊の勢いは既に退き怯えている。固守すれば無事だ」と諭し、門を開いて彼らを入れた。翌日、三方から金軍がすべて到着し、城を幾重にも囲んで陣営を築いた。魏勝は郭蔚と兵を分けて城上に配置し、旗を伏せ鼓を止めて静まりかえり、まるで無人のように見せかけたため、賊は数日間攻めあぐねた。17日、金は雲梯・砲座など攻城具をすべて備え四方から包囲し、矢石が雨のように降り、土を運んで濠を埋めた。魏勝は敵が城に近づくのを待って鼓を鳴らし旗を掲げ矢石を放つと、城外の敵に命中しないものはなかった。さらに火牛や金汁を用いて3昼夜にわたり多くの死傷を出させ、敵はついに城に近づけなかった。20日、金は攻撃をやめ陣営を修築し河道を断って持久戦の構えを見せ、時折騎兵を城の周囲に出した。魏勝もその不備を見て奇襲したり、単独で出撃して敵を休ませなかった。5月2日、金はさらに攻城具を増やし攻めを強めたが、魏勝も臨機応変に防禦の備えを整えた。14日、金は攻撃をやめた。魏勝は募兵を夜に密かに出させて急を告げ、李寶がこれを上奏すると、朝廷は張子盖を派遣した。15日、金は退く気配を見せ、まもなく張子盖が先に騎兵を率いて到着すると、魏勝は城外に出て共に作戦を協議し、城北でも敵を掠め大戦し多くの首級を斬ると、敵兵はことごとく退いた。
如意戦車の考案
- 魏勝は独自に工夫して如意戦車数百輛を創り、砲車・弩車も数十輛備えて攻守に用いた。車上には獣面の木牌と十数条の小槍を立て、氈幕・軟牌を垂らし、いずれも猛獣を描いた。各車は2人で押して動かし、50人を隠すことができた。行軍の際には陣を組んで輜重・武具を運び士卒の労を省き、停止時には営とし、掛け合わせて城塁のように守り、敵は近づくことができなかった。矢を防ぐこともでき、敵に対しては陣を組んで如意車を陣外に配し、旗で身を隠した。弩車は陣門に当て、その上に十石力の弩を据え、矢は鑿のように太く、一矢で数人を射抜き、一発で三矢を放ち数百歩に及んだ。砲車は陣内に配置し火石砲を放ち、これも200歩ほど届いた。両陣が近づくと弓弩・矢砲を発し、次に陣門近くで刀斧・槍手が交戦し、その間から騎兵が両側から挟撃した。勝利すれば陣を抜いて追撃し、少し不利になれば陣中に退いて休息し、士卒は疲れず進退ともに利があった。機を見て出撃し、万一の場合には逃れる策も予め用意し、常に夜間にこれを訓練し人に見られないようにした。この制度を朝廷に上奏すると、詔により諸軍もこの様式にならって多く製造するよう命じられた。
楚州での戦死
- 隆興2年(1164年)、詔により海州の守備を撤収し魏勝を楚州知事とし、所属の軍馬を新しい任地に移させ、清河口の措置を専管させ、淮東招撫使・劉宝らと共に盱眙・楚州一帯の防備を整えさせた。折しも和議はまだ堅固でなく、金はこちらの気の緩みに乗じて船に武具・食糧を積み、清河から淮水に出て国境を犯そうとした。魏勝はこれを察知し、州事を通判に委ねて自ら忠義軍を率い清河にとどまり防いだ。11月、金は「泗州へ糧を運ぶ」と偽って清河口から淮水に入ろうとしたが、魏勝はその謀計を察知し阻もうとした。しかし劉宝は「和議を協議中であるのに、なぜ攻戦するのか」と許さず、北へ向けて矢一つ放つことも禁じた。魏勝は命令に反することはできなかった。12月4日、金軍は果たして国境を犯し、魏勝は淮陰県でこれを迎え撃った。卯の刻から申の刻まで勝敗が決しない中、金は増援を送り込んだ。魏勝は力戦しつつ劉宝に急を告げたが、楚州にいた劉宝はわずか40里の距離にありながら、なお「和議を講じている最中にどうして兵を出せようか」と頑なに援軍を出さなかった。終日戦い抜いてついに援軍は来ず、魏勝はなお土阜に拠って陣を布き、士卒に「私はここで死ぬだろう。生きて脱出できた者は天子に報告せよ」と告げ、歩兵を前に騎兵を後にして戦いながら退いた。淮陰の東18里店に至った際、矢に当たり落馬して死んだ。魏勝は海州にあってしばしば金の鋭鋒を挫いたため、金は重賞をかけて魏勝を捕らえる者を募り、その肉一両を金一両で買うと公言していたほどであった。この戦いにおいて、魏勝は〓(無念の思い)を抱いたまま没した。