宋名臣言行錄別集上卷四十三 向子忞
向子忞、字は宣卿。永嘉郡王・向宗良の恩蔭により登仕郎となる。靖康の変で兄・向子忠を陳州で失い、南渡後は真州の危機を鎮め、湖北・衡州で治績を挙げた地方官。剛毅な性格で幾度も左遷・復官を繰り返し、享年69で致仕した。
年表(12件)
- 政和7年1117年華州兵曹参軍に任じられる
- 建炎4年1130年金軍来襲により河南に退保し一官を降格される
- 紹興5年1135年郊祀の恩により直閣に復し衡州知事となる
- 紹興8年1138年寃罪を訴えて復権し直閣に復す
- 紹興14年1144年宰相に不服従として三官を貶される
- 紹興17年1147年元の官に復す
- 紹興28年1158年道州知事に起用される
- 紹興32年1162年江東運副となる
- 隆興初年1163年淮上の戒厳に伴い職名を復し軍運副使を兼ねる
- 隆興2年1164年病を得て俸禄返上を上奏する
- 乾道初年1165年本官のまま致仕。享年69
- 建炎2年1128年兄・向子忠が陳州で死節し、遺骸を収めて南に渡る
出自と経歴
- 向子忞、字は宣卿。伯父の永嘉郡王・向宗良の恩蔭により登仕郎に任じられた。政和7年(1117年)に華州兵曹参軍に任じられ、宣和6年(1124年)中山府録事参軍、7年に府の属官に召された。靖康の初め父の喪に丁り、喪が明けると均州倅に任じられたが赴任前に真州の摂官となり、呂丞相(呂頤浩)の推挙で高宗に召見され、直祕閣を加えられ淮東帥を兼ねた。金軍が来襲すると河南に退保し、一官を降格された。時に建炎4年(1130年)であった。
- 江陰軍知事となり、高宗の行幸に従って明州を経由し、道州知事を願い出た。紹興初年、朱勝非が督軍に出た際、参謀として召され洪州の摂帥を務めたが、論者に曹成の変を誘発したとされ官を降格されて罷免され、数年間祠禄の職に留め置かれた。紹興5年(1135年)の郊祀の恩により直閣に復し衡州知事となったが、まもなく宮祠に転じられ罷免された。8年(1138年)、諸司の奏によって寃罪を訴え出て復権し、直閣に復した。湖北憲(提点刑獄)の際に妨害を受け中傷されて罷免された。11年(1141年)祠禄に就き、14年(1144年)時の宰相に不服従として三官を貶され、17年(1147年)に元に復した。28年(1158年)道州知事に起用され半年で職を復し広州知事に転じたが赴任前に罷免と言われた。32年(1162年)江東運副となり、隆興初年(1163年)淮上の戒厳に伴い職名を復し軍運副使を兼ねた。2年(1164年)祠禄の身で病を得て、俸禄返上を上奏した。乾道初年(1165年)本官のまま致仕し、享年69。累官は太中大夫に至った。
真州の危機での義挙
- 朝廷は張俊に北伐軍を統率させ、先に二人の大将を遣って霊壁・虹県・符離の三城を取らせたが、二将は軍律を失い師は潰えた。張俊は淮水を渡ろうとして敗れ、この報が伝わると朝野は騒然とし幕府も混乱した。向子忞は随軍転運副使として、恐れることなく落ち着いていた。
- 呂丞相(呂頤浩)の檄により真州を守ることとなったとき、范瓊の潰兵の将・郭吉が州治を占拠して勝手に振る舞い、官吏は誰も手が出せなかった。向子忞は舟で城に至り、まず先聖(孔子廟)に謁して黄堂に座り太守を名乗った。郭吉は震え上がった。ひと月のうちに官吏の秩序は回復し、郭吉は向子忞が来て以来手を出せなくなった。府庫が満ちているのを見た郭吉の一味が向子忞に危害を加えようとし、民間に潜伏する者もあったが、ある日彼らが引き連れられて入ってくると、向子忞は堂上に座ったまま「先日、賊を罵って死んだ者を知っているか。私の兄である。私はもとより死を畏れぬ。お前は将でありながら賊を防げず、なお太守を殺そうというのか」と言い、左右に剣を取らせ郭吉に授けた。郭吉は気力を失い哀れみを乞い、流亡の民を招き集めて功を贖おうと申し出た。
人柄と行い
- 向子忞は天賦の正しい性質を持ち、志を用いること苟くもせず、孝悌忠信のほかは学ばなかった。30を過ぎてすでに州を治める身分を得たが40年の間しばしば地位を得ては失い、それでも意に介さなかった。赴任先ではいずれも治績があり、去った後も遺愛を残した。南方に難を避けて流離する間も、先祖を奉じる念を忘れなかった。落ち着いた地では家廟を立て古の礼制に倣って祭祀を整え、兄弟一族百人近くを養い育て、人に非難されることがなかった。かつて自分の子の任官の恩典を、殉節した兄の子に譲り、さらに死んだ兄の孫二人にも官を与えた。向子忞の死の日、自分の子一人と孫五人はなお無官の白丁のままであった。その篤行と特立ぶりはこのようであった。
- 幼くして慷慨の志を持ち、老先生たちに会うたびに時事を論じ、雄弁に議論を戦わせ、老先生たちも彼と争うことができなかった。天性剛毅であったため世と衝突することも多かったが、幾度抑えられても悔いなかった。
兄・向子忠の死節
- 靖康の初め、金が再び京師に侵攻し、翌年大乱となった。向子忞は陳州へ帰った。建炎2年(1128年)、金軍が陳州・蔡州を侵すと、向子忞の兄・忠毅公(向子忠)は以前から蔡州に恩義があり、蔡州に留められていたが、朝廷はすでに別の者を任じて陳州知事に起復させていた。金軍が陳州を囲むと、忠毅公は死をもって守ることを誓い、まず向子忞を京師に遣って留守の宗澤に援軍を求めさせた。しかし宗澤に出兵の意はなく、向子忞が急いで戻ったときには城はすでに陥落していた。忠毅公は賊を罵って屈せず、弟三人と共に死んだ。向子忞は男児一人・女児一人と共に、艱難を経て兄弟の遺骸を収め葬り、生存する骨肉を訪ね捜し、これを連れて南に渡った。
湖北・衡州での治績
- かつて荆湖北路提点刑獄となった際、衡州の人々は向子忞を慕い肖像を描いて城東の青草寺に祀った。再び湖北に赴任すると、先声が境内に入っただけで悪辣な官吏の多くが官印を解いて逃亡した。湖北の営田では以前から百姓に無理な割当を課しており、破産してもなお償えぬ者が日々馬前で訴えていた。向子忞はその便宜を調べ、実行可能な部分は遵守させ、一切の強制割当を廃止したため、遠近の人々は歓喜した。時に岳飛が両鎮の節度使を兼ねて営田大使を務めており、誰もその意に逆らえなかったが、岳飛もまたこれを当然として喜んだ。向子忞は巡回先に「積年の理不尽な訴えのある者はここに立て」と大きな榜を掲げ、長年放置された冤罪の訴えは悉く雪がれた。
- 張忠獻(張浚)が向子忞を衡州知事に推薦した。折しも大旱で米一斛が1万5千銭に達していた。向子忞は使者を分けて金を持たせ、近隣の豊作の州へ買い付けに行かせ、元値と路費を計算し、街道で1升あたり60銭で売った。飢えた民はたちまち安い米を得て、救われた命は数えきれなかった。向子忞が宮祠に転じることになると、士民は提刑司に群れ集まり鼓を打って留任を願い出て、その鼓が裂けるほどであった。提刑は恐れをなして夜半に船に乗って巡視に出て避けた。向子忞が旅立つ日、城中の人々がこぞって取り囲み哭泣する声は数里にわたって聞こえ、単なる形だけの見送りではなかった。
人物眼と胡安国との対話
- 向子忞は生涯、人物を論ずることを好み忌憚がなく、聞く者はしばしば驚いたが、後にその言葉通りになることが多かった。かつて胡文定公(胡安国)と当世の事を語った際、胡文定は靖康の頃の秦檜を称賛した。向子忞は「秦檜と同時に金軍に捕らわれた者で生きて帰った者は稀であるのに、彼だけが数年ののち一族を挙げて海路帰国した。大姦人でなければこのようなことができようか」と述べた。胡文定の没後、秦檜の姦邪が日々明らかになると、胡文定の子・明仲(胡寅)は向子忞と共にかつての言葉を思い出し、「昔、父に仕えていた頃、姦邪を予見できた者は公の言葉のようなわずか一、二人であった」と語り、向子忞の卓見に深く服した。
人物評価
- 向子忞の聖人を学ぶ姿勢は、言葉を誦えて名声を求めるものではなく、大節に臨んで奪われないことにあった。その政は、苛察によって奸悪の者の肝を潰すのではなく、職分として当然なすべきことを行い、身を正すことにあった。その廉潔さは、書を著して世を矯め伯夷の清らかさを真似るものではなく、道に対して苟くもしないことにあった。その明白さは、私に循って取捨するのではなく、日月が昼夜を分かつように善を善とし悪を悪とすることにあった。その文章は、字句を凝らして華を求め実を忘れるものではなく、筆を執って言いたいことを尽くすことにあった。その施策は、土を捧げて奔流を塞ぐような無理をするものではなく、義の行うべきところを行い、止まるべきところで止まることにあった。学問・政治・介然たる明白さ・文章・施策のすべては形容し得るが、その精義が神に入り神に通じ化に窮め、実を居えて枢機を発し、千里の外に善く応じて天地を動かすところは、容易に形容し得るものではない。
隠棲の日々
- 向子忞は衡州の伊山、晋の桓伊の書堂の旧跡に隠棲し、茅屋を結んで書を蔵した。竹や蘭が生い茂り四季の花が咲き、猿の声が近くの峰に響き鴎が沼を舞い、馬蹄や車の喧噪から離れて雲水の境地にあった。胡寅・韓璜は天柱峰の南から蓑笠を背負い杖をついて年に一、二度訪れ、文義を論じ合ったり詩を賦したりして逍遥し、興が尽きるまで別れを惜しんだ。胡寅はここに「有裕堂記」を著した。