宋名臣言行錄別集上卷四十三 向子諲

向子諲、字は伯恭。宰相・向敏中の五世の孫で忠肅皇后(向皇后)の再従姪。財政の弊を糺す建言や靖康の変での勤王、潭州での金軍への籠城戦などで気節を示した。金の使者への非礼な儀礼に抗議して致仕し、享年68で没した。

年表(2件)

出自と経歴

  • 向子諲、字は伯恭。故宰相・文簡公(向敏中)の五世の孫で、忠肅皇后(向皇后)の再従姪にあたる。元符3年(1100年)、皇后の恩蔭により仮承務郎に補せられ、翌年雄州推官に遷った。のち濱州の監税、鎮南軍節度推官を歴任し、儀鑾司の監督に転じたが、宦官と伍することを恥じて吏部に願い出て辞し、真州録事参軍、開封府咸平県知県となった。
  • あることで御筆により官を停止され、のち復官して洞霄宮の管理役となり、まもなく淮南江浙制置発運司主管に除せられた。翌年召されて淮南運判となり、淵聖(欽宗)が即位すると京畿運判に召され、右司員外郎、戸房検討を歴任したが就任せず、龍図閣待制に昇り開封府戸曹に召されたが辞退し、淮南荆湖制置発運副使を兼ねて京城外の行司を治めた。
  • 高宗即位後、再び発運使となった。張邦昌が三公として政に参与したことに反発して致仕を願い、宋良の一件に連座して三官を降格され、襲慶府知事となった。父の喪に丁り、翌年喪中に召されて潭州知事となったが、失守により自ら弾劾し罷免された。まもなく復職を願ったが許されず、喪服を終えるまでの猶予も許されなかった。湖東の新帥として鄂州に赴き、群盗が蜂起した際にも自ら喪服のまま参戦することを乞い、許されて喪を終えると広州知事に召されたがまもなく弾劾されて罷免された。母の喪に丁り、喪が明けると致仕の詔を撤回されて江州知事に任じられ、江東運使への転任を固辞したが、都堂での稟議に召され、閣に至って祕閣修撰を加えられ、両浙の漕運使を歴任した。徽猷閣待制に進み都運使に昇ったが、三月にして戸部侍郎に除せられ、再三辞退したが許されず、朝廷で近臣の意に逆らったため自ら罪を待って致仕を願ったが許されず、徽猷閣待制のまま平江府知事に任じられ、再び致仕を願って許された。
  • 壬申(紹興22年、1152年)3月16日に没した。享年68。

若年期

  • 向子諲は生まれつき人並み外れて優れ、5歳で書を誦し1日に数百言を暗記し、7歳で数十種の書に通じ、13歳で家事を取り仕切った。開封(開府)の厳格な家風のもと、弟たちを率いて詩書の習得に専念し、一族の模範とされ、憲肅皇后(向皇后)もこれを聞いて喜んだ。

宣和年間の財政建言

  • 宣和年間、軍糧が不足し諸州の兵の多くが変を起こそうとする気配があり、皇帝はこれを深く憂えていた。向子諲は「淮南の歳租は130万であるのに上供の額は150万、別に金帛の供出も150万に及び、茶塩の利はすべて榷貨(専売)に取られています。これが兵食不足の根本原因です。応奉司の費用がすべて中央から出ているとの詔を拝見しております」と奏上した。皇帝が「実は漕運の計を費やしたくないのだ」と言うと、向子諲は「郡県はただ命令を奉行するのみで、陛下に社稷への深い憂いがあることを知りません」と述べ、朱勔父子兄弟が応奉の名目で奸利をむさぼり、一つの大石を運ぶのに800余艘の船を用い、一綱(一組の運送)に千斛もの費用をかけていること、官軍への支給の時期になると民から強制的に取り立てるため怨嗟の声が多いことを述べた。皇帝は「王黼に話しておく、お前に監視させよう」と言った。向子諲は「微臣は疎遠の身でこの任を負えば命が危うくなります」と辞退したが、皇帝は「私はこの輩に姑息な対応をしたことはない、何事も逐一報告せよ」と述べ、御筆を下して向子諲に応奉の綱運はすべて御前から支給させ、地方からは支給しないよう命じた。さらに応奉の騒擾や違法を専ら監視するよう命が下ると、向子諲は所轄を巡って厳しく取り締まったため、朱勔は大いに勢いを失い、年間40万の経費を節約した。

財政の私曲を退ける

  • 同僚が州県の財賦の一分を留めて予備に備えることを提案し、向子諲はこれに賛同した。数万緡が集まった頃、その属官が密かに30万を余剰として応奉司に献上しようとしたため、向子諲は「今秋の税収は来年の予算に充てるもので、来年は40万余りが必要であり今年の不足を補うのに使う。どうして余剰などあろうか」と諭し、具(つぶさ)に朝廷へ報告したため、王黼はついに受け取れなかった。

発運の制度改革案

  • 祖宗の制では発運使が六路の財賦を統轄し、諸路に糴(買い付け)の備蓄を置き、年額の綱運(運送)が到着しない場合は備蓄で代用し、到着後は旧に復して据え置いた。凶作の州県には、豊作の路から元の価格で買い集めて補填した米を送り、真州・揚州で塩を積んで帰り経費に充てたため、漕運が滞らず民力も緩やかであった。しかし塩課が榷貨に組み込まれてからは漕運の計がすでに不足し、さらに达(連絡運送)を廃して倉廩を無用のものとし、糴の元手を余剰として献上し、綱運の使者や兵卒が私的な往来・販売の利を失ったため、官物を横領したり負債を抱えたりする者が十人中八、九にのぼった。これが漕法の破綻した所以である。向子諲は「発運使・副使・判官の三員を交代で往来させ、一員は泗州にあって淮浙を管轄し、一員は都で交納を管轄し、旧来の未納は泗州にある者が巡って会計し、未納米は排岸司(港湾管理)を経て発運司へ申達させ、下部に吏部から使臣数十員を差し向けて管理に当たらせれば、身の保全を図りつつ官物を確保できましょう」と上奏し、皇帝は大いに喜んでこれを許可した。

靖康の変での勤王

  • 淮南荆湖制置発運副使に転じ京城外の行司を治めた。京師が戒厳となった際、殿前司の范瓊の兵が野を清めると称して略奪を働いたため、向子諲はこれを数十人捕らえて処刑し、上奏して便宜の裁量を得た。さらに東道・南道の両総管、胡直孺・張叔夜に進軍を促す詔が下ると、向子諲は黎陽の駅から到着し、胡直孺を励まし、自ら雍丘への道を先導した。途中で黄河の敗残兵に出会うと、これに功を立てて過ちを贖うよう説き、「東道の先鋒は既に雍丘で金軍を破った」と喧伝させた。向子諲は宿州に至り、宋良嗣を選んで権鈐轄とし、衆を率いて防戦させたため、金軍は江淮への侵掠を果たせなかった。江淮に散った敗残兵をことごとく収容し数万人を得て、これを朱勝非・范訥の軍に送った。また外路の平安と募兵の状況を京師と大元帥府に伝え、東南八路に布告して人心を安んじた。のち朝廷が蝋丸(密書)で監司・郡守に勤王を促すと、向子諲は自ら兵を募り、属官に軽貨十万を持たせて元帥の軍に送り、元帥に曹州・済州への進軍を求めて諸道と同時進撃するよう請うたが、まもなく「勤王の軍はみだりに動かすべからず」との詔が下り、諸軍は疑い惑って進まなかった。向子諲は独り部将・金汝翼を鹿邑から太康へ遣り、力戦の末に金軍に捕らえられた。金は使者を分けて李綱・呉敏・蔡靖・宗澤・徐処仁および蔡京・王黼・王安中らの家族を捕らえようとしたが、向子諲はその使者を捕らえて尋問し、ここに至って初めて京城陥落と二聖(徽宗・欽宗)の連行、張邦昌の僭位という事態を知った。

張邦昌への対応

  • 張邦昌は使者を遣って書を送り向子諲の家について問うと、向子諲は郡に命じて使者を留め置いた。また自ら書を南京の尹(知事)に送ったが、この尹は張邦昌の縁者であった。ある者が向子諲に「尹を捕らえて自ら立て」と勧めたが、向子諲は「時は艱難の最中にある。今こそ法度を謹んで守るべきだ」と答えた。張邦昌がさらに偽の詔をもって出兵を督促してくると、向子諲はこれを大元帥府に報告した。大元帥府は再び張邦昌の子・張澹を遣り「今、天下に君主なく人心が惑乱している。大王(大元帥、のちの高宗)は軍国の事を処分し、勤王の憤怒の師を率いて自ら黄河を渡り、金の狡猾な侵略を討ち、二聖の急を救うべきである。機会を失えば、内応外結の徒を除くことが難しくなろう」と説いた。

潭州の防衛戦

  • 潭州知事となり、折しも金軍が大挙して侵入し豫章を経て長沙の境まで迫った。向子諲は将士を配置し1万余人を得て守りを固めた。ある者が「衆は烏合の兵で城は大きく、敵の鋭鋒に当たれない、避けるべきだ」と言ったが、向子諲は「朝廷は我にこの藩を守らせている。これを捨てて去れば義に反する」と答えた。敵騎が城に迫り降伏を勧める檄文が届くと、向子諲は檄文をもって数々の非を責め、城門で将士に忠義を誓わせた。将士は力を合わせて防戦し、敵味方の死傷は相半ばしたが、外部からの援軍は来なかった。8日間の攻防の末に外城が破られ、向子諲は衆を率いて子城に入り2日間の巷戦を続け、ついに敵の柵を焼き門を奪って脱出し、湘水を渡って湘西に陣を敷いた。郡人は向子諲の忠義に奮起し、一人も敵に降る者はなかった。金軍はこのため城を離れて掠奪することができず、4日間留まって退いた。向子諲は城に戻り強悪の徒を取り締まり善良な民を安撫したが、自ら弾劾を上奏したところ、向子諲を快く思わない朝議の者たちが「抗敵は正しくない」として彼を罷免した。

中興の建策

  • 朝廷に召され上奏した際「陛下は中興の業を図られながら、規模がいまだ定まらないため号令が一致していません。かつて漢の高祖が天下を取った際、その謀は漢中で先に定まり、先主(劉備)が巴蜀を謀った際も新野で計画が予め立てられていました。今は一定の方針がないため、9年経っても成果が上がらないのです」と述べ、さらに「君子と小人の進退は安危に関わります。今、朝廷には敵に付いた者がいながら夷狄を追い払い中原を平定しようとするのは、難しいことではないでしょうか」と述べた。皇帝はこれを称賛した。

偽斉の侵攻と劉光世

  • 偽斉(劉豫政権)が侵攻し、劉光世が合肥を守っていた。賊が淮水を渡ってきたとき、向子諲は上流にあり、劉光世は退却しようとして糧食不足を口実にした。折しも車駕(高宗)は姑蘇にあり、朝野は震撼した。向子諲に劉光世軍への糧食供給を急がせる詔が下り、昼夜兼行で太平州に至ると、劉光世の輜重はすでに江を蔽って下っていた。向子諲が廬州に到着したときには劉光世はすでに東門から兵を出していた。向子諲は城に入って帳簿を調べ、現存の穀物と沿路の運送物資を具に報告した上で、大義をもって劉光世を責めた。劉光世はついに方針を改め、進んで劉麟を襲撃し敗走させた。

三つの急務

  • 上奏して「今の急務は三つある。一に士風の不振、二に兵籍の不備、三に戸籍の不実である」と述べ、さらに「敵情は測り難いので辺境の防備を厳にすべきである」と進言した。

平江府での抗議

  • 平江府知事のとき、王倫が金からの使者となって帰り、非礼な儀礼を行おうとしていると聞くと、向子諲は致仕の意をさらに固め、「聞くところによれば使者は詔諭と称しているが、古来の和親の例はあっても君臣の位を逆にする例は聞いたことがない。韓世忠に諭してこれを拒ませるべきである。本朝が金へ遣る使者は多く城外で通過するのが例であり、既に国信計議所へ伝えている」と上奏した。向子諲は金の詔に拝礼することを肯んじなかったのである。

人物評価

  • 向子諲は天資英邁で、書を読んでは古人の大節を観ることに努め、章句を守ることに専心しなかった。志は大きく気は剛にして、義を見れば必ず行い、死生を度外視した。識見は深遠で、物事の情理を見通し、繁雑な事務を鋭く解決し、利を興し害を除くことに目先の得失を計らなかった。政は厳しくとも心は忠恕を宅とし、精神は爽やかで衆に抜きん出、議論は英気に富み忠誠は人を動かした。官に就いては威声が一方に震え、その姿は隠然たる威厳があった。
  • 劉安世に学問の要を問うたところ、劉安世は「誠のみ、これは司馬光の教えである」と答え、向子諲は敬んでこれを受けて帰った。のちに再び劉安世に会い天下事を極論すると、劉安世は深く感嘆し「いずれ世に立つ者となろう」と述べた。胡安国もかつて朝廷で「向某(向子諲)は気節忠鯁で国家を尊び君父に忠を尽くし、公に殉じて私を忘れる。今日、三綱(君臣・父子・夫婦の道)を扶持する任に堪える人物である」と評した。
  • 方臘の乱の際、朝廷が発運司に討伐を命じると、向子諲は属官として「速やかに朝廷に請い、劉安世を南都の尹に、陳瓘を金陵の鎮に任じれば、人望が帰服し兵を労さずして乱を破れるでしょう」と献言したが、用いられなかった。

薌林文集と朱熹の序

  • 向子諲には『薌林文集』があり、朱熹(朱晦庵)がこれに序を寄せ、次のように述べた。張良(張子房)は五世にわたり韓に仕えた家柄で、韓が滅びると万金の財を惜しまず、弟の死に葬儀も行わず韓のために仇を報じようとした。博浪沙の謀は成らず、横陽君の命も長くは続かなかったが、ついに漢に助力して秦を滅ぼし項羽を誅してその憤りを晴らし、その後は人間の事を離れ導引辟穀の道に入り、古の仙人と時を同じくすることを願った。その志は壮なりというべきである。陶淵明(陶元亮)は自ら晋の宰相の子孫であることを恥じ、後代(宋)に仕えることを潔しとせず、劉裕が簒奪してからは仕官しなかった。功名事業には乏しいが、その高い情操と逸興は後世の能文の士も及ばぬものである。おおよそ古の君子は天命・民彝・君臣父子の大倫大法に対してこれほどまでに慎み深かった。それゆえ大なるものが立ってこそ、節概の高さや言葉の妙が語られるに値する。もしそうでなければ、紀逡・唐林の節操も、王維・儲光羲の詩も清らかに見えても、一度新莽や安禄山の朝に身を委ねれば、生涯の労苦もすべて後人の笑いの種になるだけである。
  • 私(朱熹)は古今を観て、向居士(向子諲)の書にふれて感ずるところがあった。向子諲の家系は丞相・文簡公(向敏中)に始まり、その卓越した識見をもって真宗に仕え、欽聖憲肅皇后が任姒(古の賢后)の徳をもって天下の母となって以来、一族の栄華は代々続いた。しかし向子諲の代に至っては靖康・建炎の変乱に遭遇し、国家の艱難はここに極まった。彼は僭叛の勢いを絶とうとしてその一族を犠牲にし、覇府(大元帥府)の号令を宣べてその威霊を発揚し、あるいは孤城を守って強敵百勝の鋒を防ぎ、群盗の横行を阻んだ。身はしばしば九死に瀕しながらも志は奪われず、紹興初年に大臣が仇を忘れ国を辱める和議を決すると、慷慨して再三上疏しその過ちを指摘し、病篤く死に瀕してもなお皇帝に創業の艱難を深く思い、小康に安んじて大計を忘れぬよう勧めた。この平生の大節は張良・陶淵明の心に通じるものがある。しかしこの二人はいずれも位を得ず、なすべくもない時代になしたのに対し、向子諲は幸いにも股肱の力を尽くして宗社の安寧に貢献できた点で、二人よりもなお優るところがある。それゆえ中年にして官を辞し江湖に身を放ち、士大夫はその高潔さに服し、詩酒に興じてもその清夷閑曠の姿と魁奇跌宕の気は、生涯を詩作に費やした者すら及ばぬものであった。これは単に世を離れる困難さや詩文の巧みさによるものではなく、必ずやその根本があってのことである。

高宗との交わり

  • 参内するたびに帰郷を願い出た向子諲を、高宗はその心を親しく愛で、自ら「薌林」の二字を書いて賜った。