出自と経歴
- 翁䝉之、字は子功。建州崇安の人。祖父の任官の恩蔭により官に補せられ、常山県尉に任じられ、のち婺州蘭溪県尉に転じた。さらに明州へ移り吏部架閣文字を主管し、官は司農寺丞に至って没した。享年50。
趙鼎の遺骸をめぐる義挙
- 紹興年間、趙忠簡(趙鼎)の遺骸が台州から常山(現在の郡)へ帰葬されるとき、常山の郡将・章傑(章惇の孫にあたる)は、かつて趙鼎が政権を執っていた際に章惇の罪を糾弾する詔を奉じたことを恨みに思い、また秦檜の意を受けて美官を得ようと企んでいた。章傑は表向き善意を装い、常山県尉であった翁䝉之に趙鼎の葬儀を護送するよう命じた。
- ある日、章傑は翁䝉之に「趙氏の家人が私に酒を醸して人夫に飲ませているので、速やかに捕らえて処罰せよ」と命じ、密かに人を遣って趙氏が生前に交わした書簡を捜索させ、趙氏を陥れて私憤を晴らし、秦檜に媚びて美官を得ようとした。翁䝉之が応じないと、利で誘い、それでも応じないと威嚇した。翁䝉之は章傑の意図が固く、これ以上拒めば他の役人に任されて取り返しのつかないことになると察し、密かに趙氏に急を告げ、夜のうちに趙鼎の書簡をすべて焼かせて一片も残さなかった。翌朝、翁䝉之は捜索するふりをして「何も得られなかった」と章傑に報告した。
- 章傑は怒り、さらに翁䝉之の妹が、かつて章惇の罪状を記した詔を起草した胡寅に嫁いでいたことを知って一層激怒し、翁䝉之に別件の罪を着せて弾劾した。折しも胡寅の弟・胡寧が尚書郎であったため事情を秦檜に告げると、秦檜はようやく章傑に欺かれていたことを悟り、事を安撫使に下して調査させた。翁䝉之は他郡に転任させられたが、趙氏も結局無事であり、章傑はその後廃せられて用いられなかった。当時、天下の人々は翁䝉之の義と名を慕わぬ者はなかった。
史論
- 周益公(周必大)は次のように評した。当時、士気はまだ完全に失われておらず、左遷された官人を弔問し時事を論じる者は少なくなかったが、それは決して一族の問題では済まされなかった。翁䝉之は一身をもって趙氏を守ろうとした。もし根が連なり株が及ぶように大獄が起これば、魏公(胡寅、あるいは魏了翁とも)や矼(万里、楊万里とも)らとの交わりの深さゆえ罪の首謀者にされたであろうが、それでも仁でなかったといえようか。翁䝉之は当初この任を委ねられたとき、逃れようと思えば容易に名を保てたはずだが、他の小人がこの任に代われば善良な人々のためにならないと恐れ、あえて偽って引き受け、密かにその企みを漏らして趙氏の一家を禍から救った。これを智でなかったといえようか。役人が二千石(知事クラス)の意に逆らえば罪は測り知れず、まして宰相の深い怨みと激しい怒りを買えば、鼎鑊(極刑)が目前にあってもひるまず進んだ。これを勇でなかったといえようか。一つの事に三つの美徳が備わっていたことは、書き記すに値する。
- 翁䝉之は身の丈五尺に満たず、口下手であったが、義を見れば必ず行い、難易を選ばなかった。財を軽んじて施しを好み、田宅を売って人の急を救ったこともある。友人からの付託には死してもそむかなかった。一県尉としてすらこれほどであったから、もし高位に就いて大節に臨んでいれば、その立つところは必ずや卓越したものであったろう。