宋名臣言行錄別集上卷四十一 呉玠

呉玠、字は晉卿、封号は涪國武安王。徳順軍の人。若くして曲端の軍に属し戦功を重ね、張浚に用いられて都統制となった。和尚原・饒風嶺・仙人関の諸戦で金軍を繰り返し撃退し蜀の防衛を守り抜いた名将。士卒と甘苦を共にし清廉で、享年四十七で薨去した。

年表(6件)

出自と経歴

呉玠、封号は涪國武安王。字は晉卿。徳順軍の人。若くして曲端の軍に属し、戦功により副尉・隊将に補せられた。建炎三年(1129年)、涇原都監に転じ懐徳軍を知り、冬に忠州刺史を加えられた。建炎四年(1130年)春、熙河路副総管に抜擢され秦鳳路副総管に改まり、張浚に用いられ都統制となった。紹興初年、鎮西軍節度使を加えられ、さらに川陝宣撫処置副使に加えられ、検校少保・奉寧軍節度使・保静軍節度使を加えられた。紹興五年(1135年)、統制していた軍を行営護軍と改称し、翌年、検校少師・静難軍節度使・川陝宣撫使に加えられた。紹興九年(1139年)、開府儀同三司・宣撫使をもとのまま加えられ、六月に薨去した。享年四十七。官は太師を贈られた。

若き日の軍歴

呉玠は少くして沈毅で気節を尚び、騎射に長じ兵法に通じ、読書して大義に通じることができた。弱冠前に涇原軍に属し大いに戦功を立てた。

曲端との連携と青溪嶺の戦い

羅索が鳳翔に侵冦した際、曲端と呉玠は大軍を北原に屯し堅壁を守り動かなかった。金人が涇州に向かおうとする謀を見て、曲端は麻務鎮を拒守し呉玠を前軍として討伐に遣わした。呉玠は青溪嶺に進み逆撃して大破し、さらに本道の兵で華州の城を回復し、諸将士に殺掠を禁じ民をすべて安堵させた。

涇原での兵の統率

曲端と呉玠は涇原で兵を起こし流民や潰卒を招き賊を捍いだ。通る所には民が糧を供し道は拾遺せず、猛士は林のごとく甲軍は野を蔽った。戦うごとに必ず高原の必勝の地を占め、いまだかつて敗れたことがなかった。賊は次第に北へ退き河東を守り、河を越えて馬を飲ませることさえしなくなった。

秦州での軍紀粛正

張浚が秦州に至り呉玠と語り大いに悦び、鳳翔の任にあたらせた。当時、兵火の後、呉玠は民を招き安んじ民はこれによって生き延びた。初め青溪嶺の戦いで呉玠の牙兵は皆潰えたが、この時になり呉玠は秦鳳に兵を整え、諸潰卒が再び招きに応じて出てきた。呉玠は再三尋問し、怪しい者五、六人を斥け遣り、その他は悉く秦州から十里離れた亭下で斬った。軍中は震え上がり、以後の戦ではみな死力を尽くし潰散する者がなくなった。

富平の戦いでの進言と和尚原の防衛

張浚が便宜をもって陝川の師を統べ諸路の将臣に大戦を檄した際、曲端と呉玠を召して策を問うた。曲端は「士を十年教えてから大挙すべきだ」と述べたが、呉玠は「高山峻谷は我が軍の駐屯に便利です。賊は驍果ですが甲馬が重厚で駆け抜けることができません。我らは嵯峨(険しい山)を占め関輔の勢を占めれば、賊は悍勇でも我が地を尺寸も奪えません」と述べた。宣撫幕僚の中にはこれを迂遠、あるいは怯懦とみなす者があり、両人の言葉は用いられなかった。師が富平に次し都統制が諸将を集めて戦を議した際、呉玠は再び「兵は利をもって動くものです。今、地勢は不利であり、どうして戦えましょうか。高阜に移って賊の馬の突撃を制すべきです」と述べたが、諸将は「我が軍は数倍おり、しかも前は葦澤に臨んでいて鉄騎には向きません」と反対した。都統制はこれを聞かず、まもなく賊が急襲し巴蜀は大いに震動した。呉玠は独り軍を整え散関の東を保ち、和尚原に拠って粟を積み兵器を整え柵を列ねた。ある人が漢中に進んで屯し蜀を守るべきだと言うと、呉玠は「賊を破らずして、どうしてみだりに進めようか。我が堅壁重兵で雍甸を下瞰すれば、彼は我が虚を襲われることを恐れ後を躡む。これが蜀を保つ良策だ」と答えた。

慕洧と関師古の投降

叛将の慕洧が寨を捨てて逃げた。関師古は敵境深く進んで金兵と遭遇し大敗し、大潭の内に帰ったが慚懼して単身賊に降った。呉玠はその部下の忠義の心を思い、叛かなかった者たちを速やかに撫定した。呉玠は既にその衆を併せ、統率する軍はますます強くなった。

和尚原での連戦

摩哩郎君が精鋭の兵をもって和尚原を攻め必ず奪って進もうとしたが、呉玠はこれを撃破した。摩哩と和尼郎君・馬五太師・耿太師はさらに烏嚕貝勒と会し、階州・成州から大散関に出て呉玠と三日にわたって戦い連勝したが、摩哩は箭筈関を攻めており、呉玠は麾下を遣わしてこれを撃退し二将と合流させなかった。分兵して挟撃し両軍とも潰走させた。

神坌谿の伏兵による大勝

北人は契丹を破って以来常勝に慣れていたが、この頃は呉玠と戦うたびに敗れ、その恨みは深かった。元帥四太子(兀朮)は諸兵と正甲女真数万人を会し、渭水に浮橋をかけ寶雞から三十里にわたり石を積んで城を築き呉玠と対峙した。呉玠は諸将を指揮し強弓・強弩を選び必死を期し番休迭射させ、賊がやや退けば奇兵を用い険を乗じ隘を拠り横攻夾撃した。三日にわたりこのようにして賊が疲れ必ず退くと見て、麾下を神坌谿の谷に伏せさせ、賊が果たして遁走したところを伏兵が発し賊は潰えた。都将英格貝勒及び酋領を捕虜とし、甲士の屍が谷を埋めるほどで二十余里に及び、鎧仗数万を得た。夜に乗じて併せて賊の大寨を劫し四太子の全軍は陥没し、ほとんど四太子自身を捕らえるところであった。

饒風嶺の戦い

賊は久しく蜀を狙い必ず奇策で取ろうとし、薩里罕と四太子は前の敗戦を懲りて和尚原を窺うことをやめた。紹興二年(1132年)春、その兵三十万を集め、さらに諸路の簽軍を尽く発し、東に帰ると声言して太原から商於に出て漢陰を襲い上洋・金州を陥した。呉玠は急遽麾下の騎兵を率いて昼夜数百里を駆け、閬・利の兵を急いで調達し金州・洋州に赴いた。先に黄柑数百枚を賊師に贈り「大軍が遠くから来られたので、渇を止める程度に差し上げましょう。今日は決戦です、各々忠を尽くしましょう」と述べた。薩里罕は杖で地を打ち大いに驚き「呉侯よ、来るのが何と速いことか」と述べ、急いで進むことができなかった。数日間対峙する間に呉玠は饒風嶺の寨柵を整え要害を占め、賊は中軍を急いで上らせ大戦となった。饒風嶺での戦いは六昼夜にわたり、賊はことごとく敗れた。薩里罕は大いに怒って千戸・貝勒十数人を斬り死を決して関に犯し、また潜軍を間道から遣わし蟬渓嶺を越えて官軍の後方に出て呉玠の帰路を断とうとした。呉玠は兵を按じ夜のうちに西県に急いで移った。ある者は「蜀は危うい」と言ったが、呉玠は「賊は国を挙げて来た。国を去り遠く戦って死傷が大半に及んでいる。我らは全軍でその咽喉を扼せば、蜀を憂うることはない」と述べた。呉玠は清野の計をなし、諸将を分屯させ虚を衝く勢いを示すと、賊はまもなく中梁山で日夜潜遁した。

薩里罕との書信のやり取り

薩里罕は帰って呉玠の善く兵を用いることに深く服し、勢いをもって破れないと知ると密かに書を送り百方にわたり金国の威徳の盛んなること、知勇の優れたること、甲兵の強さを説いて勧誘し「公は時を見て動かれるべきです」と述べた。呉玠は返書に「そもそも華夷は域が異なり、君臣は分が異なる。これは天下の大義であり古今の常理である。これに順えば治まり、これに逆らえば乱れる。伝記を披いて見れば、数千百年の兵乱の中で中原に叛臣賊子が兵を挙げても、大義に背き常理に反したため神人が憤り天地が容れず、旋踵(すぐに)の間に夷滅して遺類なきに至った例が多い。私は代々宋の臣であり趙氏の禄を食んできた。子孫を中原の地に育みながら二心を懐けば、天地鬼神が必ず私を誅すであろう。あなたの説く『時を見て動け』というが、私がどうして苟得を忘恥し利を見て義を忘れるような人間だと思われるのか。一言の失は駟馬をもってしても及ばない。あなたのために惜しむ」と述べた。薩里罕はこの返書を得て大いに不満に思った。

仙人関の戦い

烏珠(兀朮)が五十万の兵を挙げて蜀に入ろうとしたとき、豫(劉豫)の弟の劉不忘が密かに使者を朝廷に遣わし早めに備えるよう告げた。呉玠は興州仙人関で烏珠を攻めた。呉玠と烏珠は相見え、烏珠は「あなたがもし降れば美地百里を与え王にしよう」と述べたが、呉玠は「既に本朝に事えている以上、どうして二心があろうか」と答えた。両軍は戦日を約束して定め、仙人関で大戦し、これを大破した。

呉玠の統率と将士への処遇

呉玠の親兵は五万に満たなかったが、戦うごとに肩輿に乗り鼓楽を奏でて殊に懼れる色がなかった。敵情に長け将士を激励し、退く者は必ず誅し信賞必罰であったため、戦えば必ず勝った。

仙人関の大攻防戦

薩里罕・四太子は久しく怒りを積み、数十万の兵を糾合し三河の粟を転運し魚貫蟻附して決意して蜀を取ろうとし、元帥以下皆家族を挙げて来た。劉豫の腹心を招撫に用い諸路の簽軍を招集し寶雞に諸屯を列ね数百里にわたった。鉄山を攻め崖を鑿って仙人関の高嶺に道を開き大柵を立て、下方の呉玠の陣営を望んで攻めた。呉玠は自ら万人をもってその前に当たり、弟の呉璘は七方関から待たずして輕兵を率い倍道兼行で援軍に入った。四太子はこれを聞き皇弟郎君と共に万戸・酋長を分けて率い急攻し、また金平の野砦を攻めて我が軍と対峙し連珠硬砦数十座を築き、また呉玠の陣営前に砲数十座を立てて攻撃した。呉玠は陣営に神臂弓・大砲を一斉に発射させ賊を無数に斃した。統制官の田晟は総兵で深く追撃し、賊はまた生軍を万余人発して陣営の左を攻めた。呉玠は兵を分けて力戦しこれを退けた。賊はさらに生軍を加え洞子(攻城具)雲梯を擁して前進し城壁に取り付こうとしたが、呉玠は砲で洞子を砕き撞竿で雲梯を倒した。賊は虚棚・戦楼を縛って恐れ、また大貝勒に精鋭万余を率いさせて一斉に城に乗ろうとしたが、呉玠は統制官楊政に長槍・陌刀の手を率いて深く入り刺し隔て断たせた。賊はさらに二貝勒に正甲金人三万を率いさせ柵の両脇を挟撃したが、呉璘は左右で遮護し血戦して敵を退けた。薩里罕は馬を駐めて四顧すること久しく「これで得られた」と述べた。翌日、号令して諸軍が力を併せてただ呉玠の陣営の兌方の一楼子を攻め、寅の刻から午の刻まで危機に陥った。統領の姚仲は楼上で酣闘し楼が既に傾いたが、絹を繩に用いて引き戻し、金は火で楼柱を焼こうとしたが姚仲は酒缶を使って火を消した。金は東嶺の下に神臂弓を布陣させ呉玠もまた神臂弓五百隻を発して対射した。金が退くと呉玠は王萬年・劉鈐轄・王武・宣賛を遣わして紫白の旗を掲げて金に突入させ、金は奔潰した。夜になり呉玠は別に五将を分けて交互に夜襲を仕掛け、数十度戦を重ねた。金は困憊し死傷が万を数えるに至り、兵を収めて夜のうちに逃走した。殺した千戸・甲軍は万余に及び、榜牌・衮槍・金鼓・旗幟数千件を得た。左統制の張彦は夜、金の横山砦を襲い千級を斬り将領二十人を捕虜にした。呉玠は統制の王俊を河池に伏せさせ金の帰路を扼し、百余人を捕虜にし千級を斬り、馬・旗幟を無数に得た。呉玠は全兵をもって和尚原まで追撃した。皇帝はこれを聞いて嘆賞し、御用の戦袍・器甲を賜り、また親書して「朕は遠く離れて卿の背を撫でることができないのを恨む」と述べた。

質素な人柄

呉玠は威儀を張らず、宣撫副使を除せられても簡易であり続けた。常に手を後ろに組んで幕から出て軍士と立ち話をした。ある幕客が「今、大敵が遠くない中、刺客がいないとも限りません。万一のことがあれば朝廷の委任の意に背き、軍民の望みに背きます」と諫めると、呉玠は謝して「まことにあなたの言う通りだが、私の意はそこにない。国家は私の不肖を知らず宣撫使に任じたのだから、私が出仕しなければ軍民の冤抑・訴えの声が届かなくなる。しばしば外に出て彼らの声を聞くのはこのためだ」と答え、幕客は心服した。

慕洧・関師古再叛への処遇

金が長く思うようにいかず鳳翔に戻って授甲・屯田し長く留まる計を立てたとき、呉玠はもはや軽々に動かなかった。呉玠は洮州・泯州の李進王師古に糧を戴かせ河州を襲い大潭県を掩い骨谷鎮を攻めさせたが、慕洧は寨を捨てて逃げた。師古は殺馬谷から焦山務を攻め田家村の園子谷を焼き敵境深く進んで石要嶺に至り、突然金の大軍に遭遇して敗れ、大潭の内に帰ったが慙懼して単身、宣司を捨てて賊に降った。呉玠はこの軍の忠義を愛し、師古に従って叛いた者は一人もいなかった。その家族を撫存し家財をなげうって厚く与えた。両軍は合流し中外一心となり、師古を失った代わりに万の貔貅(勇猛な兵)を陣中に得た。呉玠の兵はこれによりますます精強になった。

秦州出兵と屯田政策

紹興五年(1135年)春、呉玠は天水に向かい奇兵を出して秦州を下した。呉玠と金人は対峙して交戦すること十年余り、その軍壘の曲折に熟達し、その部隊の堅脆を知り、常に一人で百人に当たる勢いであったが、ただ遠くからの餉運が民を苦しめることを憂え、しばしば冗員を汰し官の浮費を節し、毎年屯田で十万斛を蓄え、また戍兵を調え、梁州・洋州の守将に命じて褒城の廃堰を治めさせ民田の灌漑を広め復業する者数万に及び、朝廷はこれを嘉した。

激賞銭の節減

呉玠の軍中では激賞銭が毎年四川漕司から百八十万緡を応援していたが、呉玠は「今兵を発しない以上、その半分を省くことを乞う」と述べ、詔してこれを奬した。

劉豫廃絶の予測

金が劉豫を廃し諸道の兵を召して蜀に入ると声言したとき、呉玠は独りこれを疑い、事の推移を測ってその通りとならないと判断し、後に果たしてその通りとなった。

人柄と統率力

呉玠は士卒と甘苦を共にしたが、軍政に至っては斬刈(処罰)を一律に貸さなかった。それゆえ人々は死を効し(死力を尽くし)、功労を論功する際は公論に基づき、請託の私を交えなかった。性は善を楽しみ、常に史伝を観て師とすべきものがあれば必ず座右に書き記した。日々七書(武経七書)を誦し、その用兵は孫呉(孫子・呉子)を本としながらその変化を窮めた。功高く貴顕であっても常に極めて倹約であり、士に与える段になると少しも吝しまなかった。その死去のとき、家に余貲がなく居るべき宅さえなかった。

弟呉璘との軍事論

胡世将が川陝を宣撫していたとき、呉玠の弟の呉璘が秦帥として軍中にいたが、ある日胡世将が呉璘に何をもって戦うのかと問うと、呉璘は「私と兄が束髮(幼少)から西戎と戦ってきましたが、一進一退の間に勝負が決するに過ぎませんでした。しかし金人に至っては、勝っても追わず敗れても乱れず、軍を整えて後に更に進み迭って退き、堅忍持久し、令は厳しく必死とさせます。毎戦、幾日も続かなければ決しません。昔から用兵の様として未だ見たことのないものです。これに勝つ道は、屡々彼と角逐した者でなければ十分には知り得ません。しかしその要点は、我らの長所を用い短所を去ることにあります。金人の弓矢は中国の兵の勁利には及ばず、中国の士卒の堅忍は金人には及びません。我らの長所である射術を尽くし、甲を数百歩の外で貫くほどにすれば、彼らはそこに及ぶことができません。我らは地形の便を占め鋭卒を出して彼らと際限なく相対すれば、その堅忍の勢いを挫くことができます。両陣の間で機を決し変化すること神の如く、心術の微に黙して運ぶことについては、私にも言い尽くせないところがあります。これで呉玠が兵に深く通じていることが分かるでしょう」と述べた。

廟祀

紹興十五年(1145年)、詔して仙人関に廟を立て、額を「忠烈」と賜った。