宋名臣言行錄別集上卷四十 潘良貴
出自と経歴
潘良貴、字は義榮、一字は子賤。天台の人。進士に登第し州県の官を歴任し、宣和初年、博士となり、まもなく館職を除せられ、淮南に使いした。靖康年間に召対を受け、建炎初年、右司諫を除せられたが時の宰相に忌まれ罷免された。紹興年間、都司(尚書都省の官)に入ったが時の宰相に忤い罷免され、再び中書舎人を除せられ起居郎を摂したがまた罷免され、家で卒去した。
権貴への迎合拒否と正論
宣和初年、博士であった潘良貴は権貴の家との婚姻を肯じず、独り大臣が事実を覆い隠している姦を論斥した。館職となってからも蔡京父子の間で交遊することを肯んじず、淮南に使いした際にも中宮(皇后)との宴席を共にすることを肯じなかった。靖康年間、召対に際して当時の宰相何㮚・唐恪を用いるべきでないと論じ、国事を誤ることを恐れたため、これによりまもなく左遷されたが、その言葉は果たして的中した。
姦邪弾劾による左遷
建炎初年、乱臣逆党には重典をもって邦法を正すべきと論じ、当時の権力者たちの姦邪の状にまで言及したため、汪伯彦・黄潜善(汪黄)に大いに忌まれた。上奏文を出してから三日で左遷された。その言葉自体は大きくは伝わらなかったが、劉観が起草した責詞が揣摩(推測)や詆訾(誹謗)を罪として記していたことから、その事の内実は分かる。
大公至正の道についての進言
紹興年間、左司であったとき、ある日御前で奏上し「先王が治を致した所以は大公至正の道に合ったからであり、近年乱に至った所以はこれに反したからにほかなりません。陛下は今日、祖宗が創業した艱難と二聖(徽宗・欽宗)が塵に蒙って久しいこと、生霊の塗炭の苦しみと土地が多く侵削されたことを仰ぎ思い、俯して念じ、夙に寤め晨に興きて少しも怠らず、事を行うごとに必ずこれを念じてから発するようにし、一毫の私意をもって人情を曲げず行えば、天下はようやく休息の期を得られましょう」と述べた。
向子諲叱責の逸話
向子諲が陛対で日が傾くまで退かなかったとき、潘良貴は列を越えて厳しく「向子諲は無益な言葉で長らく聖聴を煩わせている」と叱咤し退かせようとした。これを二度行った。皇帝は驚き怒って潘良貴を法に問おうとしたが、御史中執法の常同がこれを援護し向子諲を排斥したため、皇帝は怒って常同も併せて逐おうとした。翌日、礼部侍郎の張九成が侍講の際に金華でこの件を論じ「私が聞くところ、潘良貴は向子諲を叱ったことを甚だ懼れ、これについて問うたところ、潘良貴は『暑気が甚だしく子諲は長い間対応しており、朝膳もまだ進まぬうちに汗が流れ、私は情に迫られて声の激しさに気づかなかった』と申しました」と述べた。皇帝は「潘良貴の心遣いはこのようなものか」と述べ、続けて「二人は日頃仲が悪いのではないか」と問うと、張九成は「私はもとより向子諲の名を聞いたことがなく、かつて館職にあったとき潘良貴が少監であったとき、私が向子諲はどのような人かと尋ねたところ、良貴は『好士の人だ』と答えました。今、私の住まいが子諲の近くにあり、ある日子諲が訪ねて『子賤(良貴)が朝廷にいることを喜んでいる』と言っておりました。これから見ても二人は仲が悪いわけではありません」と述べ、皇帝の疑いはやや解けたが、二人はついに共に罷免された。
朱熹による序文
晦翁(朱熹)は潘良貴の文集に序して次のように述べた。天地の化は無外を包括し無窮に運行するが、その実たる所以は一陰一陽の両端を出ない。その動静屈伸往来闔闢升降浮沈の性はいまだかつて一日も相反しないことはなかったが、また一日も相無いことはできない。聖人は易を作り神明の徳に通じ万物の情を類し、その説く所もまたこのようなものであった。しかしこれを人事に推し形容を擬るとき、常に陽を君子としてこれを引き翼扶持し、その盛んならざるを恐れ、陰を小人としてこれを排擯黜抑し、その衰えざるを恐れる。なぜか。陽の徳は剛、陰の徳は柔である。剛なる者は常に公、柔なる者は常に私。剛なる者は常に明、柔なる者は常に暗。剛なる者はいまだ正でないことなく、柔なる者はいまだ邪でないことなし。剛なる者はいまだ大でないことなく、柔なる者はいまだ小でないことなし。公明正大の人が世に用いられれば天下はその福を蒙り、私暗邪僻の人がその志を得れば天下はその禍を受ける。これは理の必然である。これは易の説のみのことではなく、古来の聖賢の言で伝記に雑出するものも、剛を好み柔を悪まないものはない。孔子が「剛毅は仁に近い」と言い、いまだ剛者を見ないことを深く嘆いたこと、あるいは或人(申棖)の対に「棖は欲があるから剛とはできない」と言ったのも、専らこれを君子の徳としたためである。ああ、潘公こそまさに孔子のいわゆる「いまだ見ない」者であろう。潘良貴は生涯亷介(清廉潔白)を自ら守り、少きより老いに至るまで三朝に出入りしながら、前後の在官はわずか八百六十余日、住まいはただ風雨をしのぐだけで郭外に尺寸の田もなかった。経界法が行われた際も丘墓(祖先の墓)の寄進として帛数尺を輸すのみであった。その清苦貧約は人が堪えられないほどであったが、超然としてこれに処し、秦檜に少しも屈しなかった。その子の潘熺が急に鼎貴(高位)になり内外を圧倒する権勢を得ても、潘良貴は彼と通問することさえなかった。かつて君子三戒の言を誦し、深く得を得ることを慎む規範を胸に刻み、造次(あわただしい)の間の一言一行に至るまで、朋友との交わりや子弟の教えにも孝弟忠信・節倹正直・防微謹独の意を本としない事はなかった。その読書磨鏡の喩は当世の弊病に切実に当たっており、当世に多く伝わった。汲長孺・葢寛饒の人柄を論じたものは、彼自身の志の在るところをよく示している。ああ、潘公の清明で亮直、欲がなかったことは、まことに剛毅にして仁に近いと言うべきであろう。三代の聖人の世においてすら孔子は剛者を見ることが稀であることを嘆いたのだから、まして百世の後、潘公のような人がいてもその志を伸ばせぬまま没し、時を益するに足りることさえなかった。潘良貴の条奏の草稿には後世の法となるべきものが多くあったが、自ら焼き削り残さなかったため、日頃の言葉で見られるものは賦詠・筆札の余の数十百篇のみである。後の君子はこれによって彼の時代を論ずるほかない。潘良貴を没々として伝わらぬまま終わらせてよいものだろうか。