宋名臣言行錄別集上卷三十五 沈與求

出自と経歴

沈與求、字は和仲。湖州の人。政和五年(1115年)進士第に登り、靖康初年、太学博士となった。延末(建炎末)、侍御史に任じられ、紹興二年(1132年)御史中丞に任じられ、吏部尚書に遷った。紹興三年、太平観を提挙し、紹興七年、龍図直学士として鎮江知事となり、召されて吏部尚書兼権翰林学士侍読に任じられた。参知政事に任じられ、紹興五年(1135年)枢密院事を兼ね、紹興六年、資政殿学士に任じられ明州知事となったが、まもなく洞霄宮を提挙した。紹興七年、同知枢密院事に任じられ、まもなく知院事となり、六月に薨去した。享年五十二。

屯田の議

公は軍儲が窮迫していることをまず陳べ、屯田の利害を論じた集議二巻を上呈した。さらに「先務の急は兵にまさるものはございません。今、兵権は朝廷にあらず、枢密院や兵部にあってもただ文書を奉行するのみです。願わくは大臣に詔し利害を講求させ、軍政を助け整え中興の業を成し遂げるべきです」と述べた。

天変への対応と占象の解釈

公が侍御史であった頃、占象を見る者が夜、赤気が天を横切り白気が練のようにこれを貫くのを見たと言った。公は「これは天心が仁愛をもって陛下に変を示し警めているのです。まして天子のいる所を朝廷と呼ぶのに、今、虔州にも一朝廷、秦州にも一朝廷があるようで、号令が乱れる極みは詔にまで及んでいます。願わくは張浚らに詔を降す指揮を止めさせるよう命じてください」と述べた。さらに「宰相の職は天子を輔佐するものです。願わくは天子自らその意に叶う臣の姓名を書き、天地に祈ってから占って登用し、開宝の故事に倣って参知政事を宰相と輪番で印を管理させてください」と論じた。さらに劉光世の軍の名称、浙西で預借した苗米の停止、諸軍の功罪簿の設置について論じ、詔して三省に次第施行させた。

天変を機とした天子への諫言

公は「徽州・厳州で水泉が突如湧き出し城郭や廬舎を漂わせ、臨安の火事は民家一万余家に及びました。天変が異常であり同時に見られたのは畏るべきことです。陛下はこの折、事に処するにあたりまだ及ばない所を考え、これに誠を加えれば天地は感応し、陰陽は和平し、災異の生ずることはむしろ福に転じるでしょう」と述べた。

海路防備の建言

逆賊劉豫が京東で船を建造した際、海路を防ぐべきだと議論された。議者の多くは明州の向頭に備えを設けるべきだと主張したが、公は「もし賊船が向頭に至るのを許せば、それはすでに我らの腹心の地に入ることになる。通州の料角や泰州の石港は水勢が険しく、海舟がここに至れば必ず砂上で水手が乗り換えねばならない。もしここに備えを設け、拘留した水手を養って用意しておけば、虜もまたどうして突破できようか」と述べた。詔して都督府に付された。

天子御賜の礼をめぐる指摘

天子が近侍を通じ金の盤・樽・斚を用いて劉光世ら三帥に酒を賜り、あわせて用いた食器も賜った。三帥は天子への辞行の後、退出した。公は「将軍は国の爪牙であり、推轂して帥を受けることについては聞いたことがある。しかし天子が自ら座して盃を賜り親しく勧めるという先例はいまだ聞いたことがない。臣が聞くところによれば、英宗が司馬光を待遇した際にこの種の賜り物があり、後に淵聖(欽宗)が李綱を用いたときにこれを継承したという。光世らがこのように寵栄を受けたからには、必ずこれに報いる考えを持つでしょう」と述べた。

言路にあっての態度

公が再び言路にあった際、ある者は公が范宗尹の登用した者をすべて排除したと疑った。公は「近世の人材は宰相の去就に応じて進退を左右されると見られている。しかし今、当然人材の正邪と能否を見分けてこれを公言しているのに、どうして一時に用いられた人材がすべて不賢であり、宰相の去就をもって進退させるのが当然だと言えるだろうか」と答えた。