宋名臣言行錄別集上卷三十五 鄭㲄

出自と経歴

鄭㲄、字は致剛。建城南郷龍池の人。政和八年(1118年)貢士として及第し、安陸の教官に任じられ、任期を待って信陽尉を権知した。恩賞により承務郎に進み、南康の酒税を監督し、台簿に任じられた。高宗即位に伴い監察御史に任じられ、建炎二年(1128年)司諫に任じられ、さらに御史中丞に遷った。建炎三年、苗傅・劉正彦が誅されて天子が復位すると、僉書枢密院事に任じられた。紹興七年(1137年)、在職のまま薨去した。享年五十。

苗劉の変での抵抗

天子の車駕が銭塘に駐蹕した折、苗傅・劉正彦の逆乱が起こり、天子を睿聖皇帝として皇太子に位を譲らせようとした。公は庭に立って面と向かってこれを咎めたが、彼らの意志を変えることはできなかった。公は密かに「逆焔は甚だ盛んであり、外の援軍と結ばなければ何もできない」と語り、上表して罪を待ち去ろうとした。北の平江・金陵へ向かい呂頥浩らと興復の計を議したが、太后が慰留の詔を下し不允とされた。

御史中丞としての諫言

御史中丞に遷ると、二凶(苗傅・劉正彦)はほしいままに殺戮を行い、連日、都堂の政事を侵し乱していた。公は上奏し「傅らに軍法に基づく便宜の措置を告げ知らせ、その所部の士卒に限って処置させればよく、その他はすべて朝廷に上申させるべきです」と述べた。また「近日の人事任免は多くこの二人の意によって決められ、しかも都堂に何度も出入りし、まるで空虚な日がありません。彼らがこれほど大胆になれるのは、兵の強さを恃んでいるからです。王莽の兵も強力でなかったわけではありませんが、昆陽で一敗を喫すると莽はたちまち首を斬られました。願わくは傅らに典法を厳守するよう告げ知らせるべきです」と述べたが、上奏は留められ下されなかった。公は懇請して三省に交付し施行させるよう求め、「もし乱臣に害されようとも、臣は死をもって職を全うするのを避けません」と言った。上奏が下ると、傅らは果たして怨言を発し、「まっすぐ我らを王莽になぞらえるつもりか」と言ったが、恨みつつも少し行動を控えた。

苗劉の陰謀を見抜く

二凶が枢密院の招きに応じ、呂頥浩を礼部の召しに応じさせ、張浚も召そうとし、また張浚の兵五百人を分けて陝西に帰らせようとした。張浚が命に従わず、劉光世が兵を分けなかったため、遂に張浚を散官に降格し彬州に居住させ、劉光世を抜擢して節度使として鳳翔知事とした。公はこれがすべて彼らの姦謀であることを見抜き、朝命を借りて外に強兵が無いように見せかけ、謀臣が内で変乱を起こす隙を作らせようとしていることを察し、遂に上奏して呂頥浩を金陵に留め、張浚を降格すべきでないと述べた。

密使を用いた連絡工作

公は親しい謝嚮という者を密かに商人に変装させ、徒歩で平江に向かわせ、張浚らに城中の事情を詳しく伝えさせた。「厳しく兵備を整え、声勢を張り、じっくりと進軍し、彼ら自らが逃げ出すように仕向けよ。これが三宮を驚かせずに済む上策である」と命じた。また杜鵑を詠んだ詩四句を自ら書いて携えさせ、これを見せることで自らの意向の証としてもらった。詩は「杜鵑飛び飛びて定まる棲なし、巣を寄せて子を生む百鳥の園林。花老いて昼夜に啼く、いずくんぞ百鳥を得て挟んで帰らんか」というもので、杜甫の詩の「蜀の天子は化して杜鵑となり、子を生んで百鳥がこれを巣とする」の意を取り、杜鵑をもって天子に喩え、百鳥をもって百官に喩え、内外の百官が心を一つにして天子を奉じ帝位に戻すべきことを言い表したものである。謝嚮が平江に至り、張浚らに詩をあまねく示すと、皆嘆息し感激し、決起して危難に赴く覚悟を固めた。

復位の実現

突如、天子を皇太弟大元帥とし、幼主を皇太姪監国とする詔が出された。公は震え恐れ、どうすればよいか分からず、上章して太后が聴政するのは宋の宗廟社稷を保つためであるのに、これでは趙氏の子孫が帝位に就けなくなってしまうと述べた。「二十日の間に二人の皇帝を降格させ、天下に君主が無い状態を作ってしまいます。この詔書が一度出れば、天下の貢賦は届かなくなり、必ず義兵をもって起つ者が現れましょう。」太后はこの諫言を受け入れ、公を都堂に招いて共に議論させた。ここに詔書は四方に下されず、次第に復辟の計が進められることとなった。