宋名臣言行錄別集上卷三十四 朱倬
朱倬、字は漢章。閩の人(?–1163年)。秦檜に忤ったため長く不遇であったが、高宗・孝宗に用いられて右正言・御史中丞を経て尚書右僕射に至った。金主南侵への対策を的確に予見し、皇位継承をめぐる建言でも両宮の信任を得た。
年表(7件)
- 宣和三年1121年郷挙の法によって選抜される
- 宣和五年1123年進士第に及第する
- 紹興二十七年秋1157年右正言に任じられる
- 紹興二十九年春二月1159年侍御史に進む
- 紹興二十九年冬十二月1159年御史中丞に進む
- 隆興元年六月1163年薨去する
- 紹興三十二年1162年金人の侵入に際し天子の親征に扈従し病を得て帰る
出自と経歴
朱倬、字は漢章。七世の祖が閩に避難して居を移し、以来閩の人となった。郷挙により京師に至り太学の内舎生に補せられた。宣和三年(1121年)再び郷挙の法によって選抜され、五年(1123年)進士第に及第した。常州宜興県の主簿に任じられ、張忠献(張浚)の推薦で広東倉幹に召され、検察建広財用所の属官に改まった。後に秦檜に忤らって越州の教官に任じられ、諸王宮教に改まり、浙帥参謀に改まって任期満了で帰郷し、秦檜の禍を避けて十余年祠禄に留まった。南剣州の副知事、恵州知事を経て国子監丞に任じられ、浙西倉に任じられた。右正言に任じられたのは紹興二十七年(1157年)の秋であった。紹興二十九年春二月、侍御史に進み、冬十二月に御史中丞に進んだ。科挙の試験官を務めた後に戻り参知政事に遷り、翌年、尚書右僕射を拝した。一月余りで三朝国史・詳定勅令の詔提挙を受け、明堂の恩により開国公に進封された。紹興三十二年(1162年)、金人が侵入した際、天子の親征に扈従して病を得て帰り、老齢を理由に致仕を願い出て、三、四度懇請した末、観文殿学士興国宮提挙に任じられた。隆興元年(1163年)六月薨去した。訃報が聞こえると特進を贈られた。
常州での善政
金の将が常州を侵した際、居民は避難を求め、公は舟を出して食を給し、多くの命を救った。まもなく民が郡に洪水の被害を訴えたため、郡は公にその実情を調べさせた。公は田租を蠲免すること九分に至らせ、太守は怒りこれを罪に問おうとしたが、公の意志が堅固であることを知ると、広州へ宣諭使として派遣することにした。広東の人々はその厳しい風聞を恐れたが、公に対しては薦める者が多く「宜興に賊が至ったとき、民を死から救ったのはあなたではないか。民は今もあなたを思っている」と褒め称えた。これがついに天子に奏上された。当時、劉豫の脅威を憂慮していたため、公は対策として劉豫が必ず敗れるであろうことを進言し、高皇(高宗)は大いに喜んだ。
恵州知事への赴任と天子の記憶
恵州知事に赴くにあたり天子への辞行の際、かつて劉豫必敗の策を進言したことを述べると、高皇は「覚えている、覚えている。卿は久しく淹留していたが何をしていたのか」と問い、公は「秦檜のもとで阻まれておりました」と答えた。天子は愀然として「恵陽は朝廷から遠い。卿には百姓を撫でることを、朕が自ら撫でるつもりで頼む」と慰め、公が去るのを目送した。十日ほど後、天子が突然大臣に「先日の対問は誰の推薦によるものか」と問うと、「守臣として辞行するのは常のことでございます」と答えたが、政府にはまだ公のことを知らぬ者がおり「すでに去った」と言われた。
国子監丞・提挙浙西常平としての建言
国子監丞に任じられた公は命を聞くと視事し、八か月を過ごした後、職務を通じて奏対を行い、民の困窮を憂慮すべきことを建言した。まもなく浙西常平の提挙に任じられ、突如特命によって今後、内で任じられる提挙官はすべて朝辞して天子に殿上で対面することとされた。これは公のために設けられた措置であった。公が最初にこの対面を得ると、天子は「近年、内が重く外が軽い。今、卿は朕が親しく登用した人物として、あえて部使者として出す。内外の任がともに均しいことを知ってほしい」と述べ、さらに「人は卿を知らずとも、朕ひとりは卿を知っている」と言い、諫官に任じた。
諫官としての実直な姿勢
公は諫官となってから天子の恵みをますます受けたが、心はいっそう畏懼した。常に「人主は私に耳目としての役割を任せ、腹心としての職を託しているのは、決して怨みを晴らし気に任せる場ではなく、必ず天心に叶い子孫のために荊棘を植えないためのものだ」と語り、上疏するたびに早朝から起き、身を清め、まるで上帝の前に立つかのように厳粛に振る舞った。朝廷が国境防備を憂うとき、公は力を尽くしてこれを陳べ、言葉は詳細で気は落ち着いており、たとえ天子の激しい怒りに遭っても動じなかった。言路にあること久しく、人を薦め事を論じることから倉廩を開き米価を蠲じ、私塩を減じ軍籍を調べ、過度な配給を厳しく抑え、州県の科借を禁じることに至るまで、興利除弊のために数十条を挙げ、そのほとんどは草稿を焼いて残さなかった。公の経学は醇厚で深く、経筵での侍講でも多く称賛された。
金主南侵への対策
金主が長江を侵犯した際、公は戦の備えを三策に応じて陳べ「兵とは応じる者こそ勝つ」と述べた。天子は「卿の言う三策はまことに当を得ている。朕はこれを座右に書き、朝夕これを思う」と述べた。金の勢いがますます迫ると、公はさらに金の三つの意図について策を立てた。「上策は耕作と築城を進めることであり、中策は守備を固めることであり、下策は妄りに長江を絶とうとすることである。臣が考えるに、下策を取る可能性が多く、心配には及ばぬでしょう」と述べたが、果たしてすべて公の予想通りとなった。
人材の推薦
史忠定(史浩)・張忠簡・虞忠肅・劉忠肅の登用には、皆公の力があった。陳福公・王魯公および王之望・芮公曄らも公の推薦によるものである。
公が科挙の試験を主宰した際、劉朔が賈誼の論「国体に通達するには太子を早く立てるべし」を論じ、公はこれを第一に選んだ。公は平生、これについて幾度も内密に建言していたが、この時、試験官として朝廷に復命し、さらに論奏を重ねてこの意見を高く評価された。これによって特に恩遇を受けた。建王が正名を得て天子の側に扈従した際、ただ陳文恭公(陳康伯)と公が左右に侍り、事は大小を問わず必ず二人に諮問された。まして揖遜(皇位継承)のような大事についてはなおさら熟考して問われた。
誹謗の解消と晩年
孝皇(孝宗)が倦怠を覚え、中外で流言が広まり信疑半ばした頃、諫大夫のかねて公に恨みを抱いていた者が風聞をもって上疏した。孝皇は公に他意がないことを知り、二度上奏があっても資政殿学士に降格するにとどまり、まず観文殿学士として祠を主管させ、詞臣たちに「元良(太子)が天下の根本である」という言葉を待ち望んでいるように見せかけて、実際には君臣の間に異心があったことなど一度もなかったことを表そうとした。授受の意はしばしば詔諭に現れ、誰もこれを知らなかった者はない。まして公は科挙を主宰した際に早くもその端緒を発しており、続いて臣として扈従し政事に関与していたことから、もし何か言いたいことがあれば事に臨むのを待たずに発していたはずである。公が発したことといえば「靖康の事はまさに位を伝えるのが急ぎすぎたためであり、しばらく徐にすべきである」というだけであった。これを人情に照らして考えれば、これもまた君を愛する至情によるものである。高皇が決してこれを忤りとは考えなかったのは当然であり、孝皇も仁孝篤誠であり、趣得(急ぎ利を得ようとすること)に志があるはずもないので、これを疑うことも決してなかった。天子への辞行の日、高皇は「そなたが論じたことは、朕にとって何の関わりがあろうか。朕は徳寿宮(高宗の御所)に赴くつもりであるので、卿もしばらく帰って年月を待ち、召されるのを待ちなさい」と諭した。翌年、公は致仕を願い出た。孝皇は大臣に「朱某には気概がある。どうしてこうもすぐに致仕を望むのか」と述べた。大臣が訃報を伝えると、天子は「哀れなことだ、哀れなことだ」と述べ、恩典はすべて前宰相と同様に扱われ、詔をもって元の官職を復した。この後、人々は初めて両宮(高宗・孝宗)が決して公を忤りとは考えていなかったことを知ったのであった。
魏鶴山の評
魏鶴山(魏了翁)は言った。「了翁(魏了翁の号)は常に思う。帝たる者の盛んな徳をもってしてもなお『ただ口から出る言葉は好を興し戦を招く』と言われる。授受(皇位継承)の間はいにしえの人が甚だ畏れたことである。范仲淹・富弼らの定策の功をもってしても、人はあえてこれを言わなかった。王同老が自ら陳べても寧ろ身を没しても記録されなかった。王岐公(王珪)と子(王仲修)との議論もかつて異論があったわけではないのに、なお社稷を他家に指したと言われて譴責され、その子の仲修の一言がなければ、まさに自らを弁明する術もなかったであろう。それでもなお畏れるべきことがある。『好を興し口から出て、戦を招くのも口から出る』ゆえに、これを語ってもそれを自ら徳としないし、知られなくてもあえて弁じない。今、高皇の思いは志を継ぐことを三十年以上も蔽い、孝皇は志を継ぐことを喜びとし、位を楽しみとしなかった。これは皆中外の人が知るところであって、これがどうしてこの遅速の間を較べるようなものであろうか。今、言者の説のようであれば、聖徳を浅く議するものである。公が知られていたか否かなど何ら恤うるに足らず、揖遜という古今の盛事はこれを見て弁じずにはいられない。」