宋名臣言行錄別集上卷三十四 范宗尹
范宗尹、字は覚民。襄陽府の人(?–1135年)。若くして宰相となり、藩鎮制の復活を建言するなど南宋初期の危機に対処した。欺罔の風潮を戒める上奏や濫賞討論の建策でも知られるが、後にこれが元で秦檜に排斥された。
出自と経歴
范宗尹、字は覚民。襄陽府の人。宣和三年(1121年)進士甲科に登り、靖康初年、開封府儀曹となり、まもなく校書郎・監察御史に任じられ、侍御史を経て右諫議大夫に任じられた。冬に集撰に任じられ崇福宮を提挙した。建炎初年、御史中丞に召され、建炎三年(1129年)参知政事、四年右僕射となった。紹興初年、罷免されて観文殿学士洞霄宮提挙となった。後に温州知事に任じられたが祠職を乞い、紹興五年(1135年)に卒した。
欺罔の風潮を戒める上奏
公は上奏して言った。「今、天下の事で改革すべきものは多いですが、欺罔の風潮を改めることを最も急がねばなりません。そもそも鹿と馬とは大きく異なるものですが、趙高が鹿を馬と称し、二世皇帝はこれを疑いませんでした。これは天下をもって一人を欺いたのです。天下をもって一人を欺くことの禍は言い尽くせません。崇寧年間以来、上は宰輔大臣から下は州県の下級の吏に至るまで、欺罔をもって競い合わない者はいません。これゆえ財用は尽き、民は苦しみ、災異がしばしば現れ、盗賊が群起しても、陛下はご存じないのです。陛下は明目達聡(善く見聞きする賢明な君主)の時にありながら、臣下には欺誕をほしいままにする者がいます。願わくは諫官に明詔を下し、すでに発覚したものも未だ発覚していないものも、すべて弾劾を仰ぎ、天下に欺罔が二度と行われないことを知らしめれば、深仁厚沢は行き渡るでしょう。」詔してこれを朝堂に掲示した。
藩鎮制の復活論
当時、諸路で盗賊が蜂起し、大きなものは数万人に及び、朝廷の力ではこれを制することができなかった。公は「これらは皆烏合の衆であり、急いで討伐しようとすればかえって死力を尽くして抵抗するため、容易には制圧できない。むしろ土地を分けて彼らに与える方がよい。盗賊も帰る場所があれば、次第に土地への愛着を持ち、徐々に制圧できる」と考え、こう奏した。「昔、太祖と趙普は謀を合わせ藩鎮の権を収めました。近年国難がこのようであり、四方の帥守は皆手をこまねいて見ているばかりで、なす術を知りません。これは事力が単寡であるゆえのこの制度の弊です。今日、弊を救う道は、やや藩鎮の制を復すべきです。もっともこれをすべて天下に行うのではなく、河南江北の数十州を裂き、少しの土地と権限を与え、人を選んで久しく任じ、王室の藩屏とすべきです。」群臣の多くは不可としたが、天子は決意してこれを実行し、公を宰相とした。当時三十三歳であった。漢唐から本朝に至るまで、これほど若くして宰相となった者はいなかった。
執政としての心構え
張守が参知政事に任じられた際、公は「今日の国勢はあたかも人の重病のようであり、性急な処方を施せば必ず転倒の患いがある。措置には順序を要する。急いではならぬ。ともに力を合わせ天子の前で心を尽くして進言し、広く言路を開き、賢才を抜擢し、財用を節し、名器を惜しみ、僥倖を抑え、周囲を巧みに調整すれば、なんとかなるだろう」と語った。
官制の建言
公は「崇寧年間に権侍郎を罷めて以来、庶官の登用に給事中・中書舎人に足る者がなければ、正しく侍郎に除するのは越階が甚だしくなる。願わくは旧制を復し、資浅な新進の人材にはこの職を与えられるように」と述べた。これは建炎四年(1130年)のことである。
公らは合議して京畿・東西湖北・淮南を分けて鎮とし、鎮撫使をこれに置くことを議した。「茶塩の利は国計に係るので旧に依り朝廷に帰属させ、他の監司はすべて廃止すべきです。上供の分を除いた財賦は帥臣が管内州県の官の任用に充ててよく、通判の任用は帥臣が辟召し朝廷が審査して授けます。軍が興ればすべて便宜に従わせ、帥臣は招擢によらず、代替もしないことにします。もし敵を防ぎ功を立てれば世襲を許すことも特に議すべきです」と奏し、詔してこれに従った。当初、世襲を許す案について天子は「世襲を許せば重すぎることになろう。まず平穏に守り抜けるか見極めてから許すべきだ」と述べた。
公が枢密院事を兼ねると御営使を罷めてその事務を枢密院の機速房に帰した。慶暦以来、宰相が枢密を兼ねないのは八十年余り続いていたが、この時に再開された。
公は「今、任用する者の多くは儒生ですが、才吏を兼用して緊急事態に備えたい」と奏したところ、天子は「才吏もまた欠かせないが、あまり多くしすぎないように」と答えた。
天子が大臣に「従班の者があまりに少ない。卿らともに議して実を取るべきであり、多いことを厭う必要はない」と述べると、公は「人材の登用の法は、まず執政に足る者を選んでから侍従を任じ、侍従に足る者を選んでから省郎を任ずるべきです。そうすれば選抜の基準は高くなり、真の才能が現れるでしょう」と述べ、天子は「その通りだ」と答えた。
公は「張浚が浙西から来て、岳飛は用いるに足ると言った」と述べると、天子は「岳飛は杜充の愛将であった。杜充は君に仕えて節を失ったが、それでも岳飛を用いたのは知人の明があると言えよう」と答えた。
太史が日に黒点があると奏したとき、公は「これは陛下が徳を修めてこれを弭むべきものです。臣らも輔政において至らぬところがあり、罷免に処されるべきです」と述べたが、天子は「日は太陽であり人君の象である。どうして卿らのせいであろうか。ただ君臣が心を一つにして民を安んじ物事を和らげれば、天は災いを下さぬであろう」と答えた。
宰執が辺境の事を奏した際、公は「金は必ずしも再び長江を渡らないでしょう」と言ったが、突然斥候の報告があり、金が舟を漕渠から南下させているとのことで、行在は震撼した。趙鼎は公に「速やかに動かねば再び維揚の変が起こるであろう」と言った。公は「今日の事は維揚においては不可であるが、会稽(越州)においては可である」と答えた。趙鼎は「相公の言は当を得ている」と言い、李回も「丞相の言はほぼ人の心を強くする」と言った。
秦檜が金から戻った際、二帝とともに上京にあったが、この時、行在に赴いた。自ら「金の監視者を殺して帰ってきた」と語ったが、朝臣の多くはこれを疑った。しかし公と李回は秦檜と親しく、その忠を力めて推薦し、対面に及んで檜は「天下が無事であることを望むならば、南は南自ら、北は北自らという方針を取るべきである」と述べ、遂に和議を建策することとなった。
天子が台州に舟を寄せた際、宰執は駐蹕の地について議論した。王綯は「蜀は秦から本朝に至るまで王継恩ら八人が入蜀した先例があるが、それを容易く得たとは言えない。蜀に入るのはまだ得策とは言えない」と述べた。公は「もし安易に蜀に入れば、二つとも失うことになりましょう。江表に拠って徐に関陝の事を図れば、両方を得ることができます。取捨の決定は慎重にすべきです」と述べ、天子はこれを是とした。
天子が宰執に「先に西外宗正に藝祖(太祖)の子孫を四、五人選ばせよ」と命じた。これより先、公はかねて内密に天子にこのことを進言していた。ここで公は「これは陛下が万世の根本をお考えになったことです」と述べた。天子は「藝祖は聖なる武をもって天下を定めたが、その子孫はこれを享受できず、時勢の艱難の中で零落しているのは憐れむべきことである」と述べ、さらに「朕もまた伯の字の行にある者から選ぼうと思う」と語った。富直柔が「宮人の中に依頼できる者はおりますか」と問うと、天子は「朕はすでに人を得たが、もし宮嬪を先に選ばなければ、憂うべき事はさらに多くなろう」と答えた。公は「陛下がここまで深く考慮なさっているのは、まことに宗廟の無疆の福であります」と述べた。
濫賞討論をめぐる去就
公は初め、濫りな恩賞を議論して糾すことを建策した。士大夫の中で僥倖を得た者は争ってこれに反発した。諸大将である楊惟忠・劉光世・辛企宗兄弟らは皆かつて童貫に従って行軍したことがあり、論者はこれもまた貶削の対象とすべきかと疑った。吏部侍郎の高衛は当初、圍田を理由に改官したが、この時、右選の主を務めておりこれを不便として上疏し公を弾劾した。同知の李回も、宣和年間に中書舎人として御前文籍を校正して官を進めた者は秩を削り政を罷めるべきだと述べた。天子は「宣和の政事は必ずしもすべてが人の道に反するものではない。文籍の校正は美事であり、他の濫賞と同列に扱えるものではない」と述べた。秦檜も「この法が一度行われれば、濁流の者は少し削られるだけで済み、過ちのない者にとっては幸いとなろう。清流の者は少しでも吏の議論に触れれば辱めとなり甚だしく、朝廷に立つことを恐れ、君子が受けるべき弊が及ぶことを危惧する」と言った。天子は公に顧みて諭したところ、公は「この事に該当するのは李回のような者はごくわずかであり、他は惜しむに足らない」と述べた。ここに詔して侍従・館職の兼帯を罷めるよう命じたが、武臣に対する討論の免除も命じられ、尚書省に命令を掲示させることとなった。命令はすでに下ったが、二日後に天子は「朕は過ちを君父に帰したくない。恨みを士大夫に受けるくらいなら、日を追ってこれを取りやめよう」と批した。公はなおこれを実行すべきだと強く主張したが、天子はついに難色を示した。後に至って天子の意が固いことを見て、かえって公を退けようとする者が現れた。公が初めてこの議論を建て、秦檜が力めてこれを賛したが、天子の意が固いことを見て、秦檜は逆にこれを利用して公を排除しようとしたのである。