宋名臣言行錄續集卷三十 向子韶

出自と経歴

向子韶、字は和卿。開封の人。向忠簡の四世孫にあたる。元符二年(1099年)、国学からの推薦で仮に承奉郎に補せられ、三年(1100年)に進士第に及第した。保州法曹に任ぜられ承事郎に改まり、在京の炭場監督となったが、親族との嫌疑により荆南府節度判官に改められた。任期満了後、蘇州呉江県の知事となった。大観三年(1109年)に開封右曹に任じられ、翌年朝散大夫に転じたが、李彪が蔡京の事を弾劾した一件に連座し、三官を追われ停任となった。大観四年、朝散郎として保州の税を監督し、五年に恩赦で復官、太霞宮提点に任じられたが赴かず、虢州知事に任じられたがこれにも赴かなかった。六年、西外宗室の財用を主管し、七年に南外へ転じて旧任に復した。宣和初年、虔州・建昌軍の知事に任じられたが赴任前に夔州路の漕運を改めて命ぜられ、宣和六年に帰朝して延和殿で天子に対面し、蔡州知事となった。八年、明道宮を主管し、まもなく徐州知事となった。靖康初年、京東運副に任じられたが父母の喪により職を退いた。喪が明けて淮寧府知事に起用され、金軍が陳州に至ると屈せず、殺害された。享年五十、実際には靖康二年(1127年)二月二十二日のことであった。

生い立ちと学問への志

生まれつき常人と異なる資質を備え、荘重で成人のようであった。学問を志す年頃になると賢者に交わり、清く慎ましくして、人々は彼が宰相の家柄・后族の子姪であることを知らなかったほどであった。強く学問に励み、油を焚いて夜を継ぎ、少しも怠らなかった。同窓の者が「君子の学問は休息してこそ安んずるもの。君はなぜこれほど自らを苦しめるのか」と言うと、公は顔色を改めて「わが家門は衰えた。あえて努め励まずして自ら怠ることができようか」と答えた。伊川(程頤)の門人である劉安節らはこの「衰替」の言葉を訝しんで問うたところ、公は「先の丞相(向敏中)の事業は久しく寂寥としている」と答えた。安節はその言葉を壮とし、忘年の交わりを結んだ。

京東の財政をめぐる弾劾

京東戸部の書記であった聶昌は、国用不足を理由に諸路に余剰金の上納を促した。密州知事の郭奉世は聶昌と旧知の間柄であったため一万緡を進上し、聶昌はこれを朝廷に薦めて奉世を賞し、天下に勧奨しようとした。公は奉世を弾劾して言った。「一路の財用には多寡の差があり互いに補い合うもの。もし密州に余財があれば、その数を部使者に申告し、融通し合って兵吏の費用に充てるべきである。どうして大計を顧みず、他州が納める通用の財を横取りして不当な寵愛を求めることが許されようか。奉世を罰しなければ姦を懲らしめる術がなく、財政を主管する近臣が率先して収斂の道を開けば、その弊風は際限なく広がる。」士論はこれを偉とした。

蔡州から淮寧への任官と守城・殉節

蔡州に守が欠けた際、州人は使者を出迎えて公を三年間留めてほしいと願った。使者がこれを上申したときには蔡州はすでに他の者が任ぜられていたため、公は喪に服したまま起用され、淮寧府知事に任じられた。公は三度上表して喪の継続を願い出たが許されず、視事すること六か月にして金兵が陳州に至った。公は諸弟とともに城を守り、将士を励まし、百姓を諭して言った。「汝らの祖先の墳墓のある国を捨ててどこへ行こうというのか。私は汝らとともに死をもってこれを守る。」敵は昼夜城を攻め、公は自ら甲冑を身につけ矢石をおかし、子弟を東京留守司へ遣わして援兵を乞うたが、援軍は至らぬうちに金軍はますます勢いを増し、城は陥落した。公はなお衆を率いて巷戦を続けたが力尽きて捕らえられた。金は城上に座り公を降伏させようとして酒をすすめ、左右の者に膝を屈させようとしたが、公は立ったまま動かず、戟の柄をつかんで敵を罵り、遂に殺害された。

諫官の上疏

諫官は上疏して言った。「昨冬、夷狄が侵入した際、諸路の守臣の多くは風を望んで逃げ去ったが、傑然として忠義を奮い立たせ、死をもって守ると誓ったのは陳州の向子韶である。城が陥落してもなお衆を率いて巷戦し、甲冑の士とともに戦場で斃れた。道行く人はこれを称頌し嘆息する。忠義の士を発奮させ激昂させるためにも、子韶の忠節を褒め詔り、爵秩を厚く加えてこれを顕彰し、その子孫を捜し求めて恩賜を与えられたい。そうすれば天下はこの気風を聞いて、誰が奮い立って陛下のために死節を尽くさぬことがあろうか。」

人柄と行状

公の人柄は端正実直で気さくであり、うわべを飾ることをしなかった。一言発すればその心の底まで見通すことができた。族を厚くする志の深い者であり、その志を継いで諸弟とともに俸禄を分け合い、まだ仕官していない者や任用を待つ本家の者に均しく分け与えた。遠方の珍しい品も届けば必ず時を移さず配分した。病の際も衣の帯を解かず、人と交わるには忠信を主として浮ついた礼儀で人目を欺くことをしなかった。手紙は一幅を超えず、言葉は厳格で意を尽くした。訪れる先はいつも君子や年長者のもとであり、暇があれば書を読み、門には雑多な客がいなかった。人と議論するときは穏やかに何度も折り返し論じ、常に至当な結論に導いた。その辞章は典雅温厚で唐代の詞人の風があった。幕職から県令、そして倉庫の管理役、さらに刺史・二千石の地位に至るまで、常に誠意を主とし、色や言葉で人に媚びることがなかった。ゆえに官にあれば記すべき業績があり、去れば人々に慕われた。大難を踏み、大節に臨んでも動じなかったのは、決して偶然ではなく、その胸中に平素から定まった志があったからである。