宋名臣言行錄續集卷三十一 孫昭逺

出自と経歴

孫昭遠、字は顯叔。その先祖は眉州に住み、後に鄭州管城の人となった。元祐九年(1094年)進士第に登り、長沙尉に任じられた。父の喪が明けて興国軍永興簿の主とり、河東経幹に辟せられて鳳翔府天興県の主簿となった。政和二年(1112年)亳州譙県知事、続いて解州安邑県の知事兼塩池管理に任じられたがいずれも赴任せず、永興撫幹となって再任、都大茶幹となった。宣和二年(1120年)滑州の副知事となり、州の防備を摂り、河北運副に任じられた。靖康初年、水部員外郎に召され、秘閣修撰・西道副都総管に任じられて便宜に従い事に当たった。高宗即位後、河南尹・西京留守・西道都総管に任じられ、京西北路制撫使に改まった。靖康二年(1127年)正月、叛乱兵に殺害された。享年五十八。徽制の贈号を賜った。

若年の学問と科挙

幼くして聡明で学問に励み、文を綴ることを好んだ。二十四歳で進士第に登った。当時の策問は熙寧・元豊の新法を首位に論じるものであったが、新法を主とせぬ者は皆末席に置かれ、公もその一人であった。

太原陥落後の兵の招集

金軍が太原を包囲し、我が軍の多くが潰走した。欽宗は折彦質に伝令を発して兵を招集させた。彦質は「汾州の潰兵二万が河津を渡った。陝西の帥臣とともに招集を選任し、官を委ねて河東に還らせたい」と言った。詔により公が派遣されることとなった。公は言った。「軍士が逃げ帰ったのは、すでにその気力が尽きたためであり、無理に再び遣わすのは難しい。ならば西方の防備に留めて功を挙げることを期待した方がよい。」また「長安・河中は備えを欠くことはできない。今、各地の州県で保甲を調発して城を守らせているが、実際は自衛のためにすぎず、要害の地を選んで扼守させた方がよい」とも言った。公は現地に至って進軍を督励し、「天子が初めて四道総管を任命した際、兵は調発でき、官は廃置でき、財は移用できることとされた。事が急を要すれば王室を援けるべきであり、今、京師が包囲されて急を告げているのに、いつまで待って救援を怠るのか」と慷慨した。聞く者は皆感動した。また諸方の帥臣に檄を発して出師を促した。まもなく環慶帥の王似、熙河帥の王倚が各々兵を率いて集まったが、涇原帥の席貢、秦鳳帥の趙点、鄜延帥の張深は至らなかった。公は二十八通の疏を奉じてこれを弾劾した。合わせて諸路の兵十余万を得て、范致虚は馬祐昌に統率させ、杜常・夏淑を華陰で斬った。公は致虚とともに関を出て、まもなく祐昌が石壕・千秋の間で敵と戦い敗れると、致虚は京兆に引き返した。公は独り王似・王倚とともに陝に留まったが、金軍は兵を併せて陝を攻め、これを陥落させた。当時、両蜀は金帛を輸して河東を助けようとしていたが、公はその属官の計をもってこれを止め、河池において兵を募って精鋭数千を得た。軍がようやく振るった矢先に京師が陥落し、公は使者を太元帥府へ遣わした。建炎初年、詔により公は入朝し、御下は厳正で通る先々で人々が粛然とした。内郷の賊である尚虎は数万余の兵を擁していたが、公はこれに遭遇して撃破した。

京西北路制置安撫使としての防衛

都総管として、率いていた西方の兵数千を張俊に付し、蜀兵数百のみを率いて道を進み、七月に洛陽に至って離散した兵を収集し、豪傑を招撫し、陝西・河北の義兵を合わせて一万余人を得た。伊陽に柵を築いて民を保護させた。そのとき四道都総管を罷して公を京西北路制置安撫使としたが、西方の兵はもとより公の管轄ではなくなり、皆引き上げてしまった。公はしばしば洛陽に城池が無く強敵と境を接する状況を朝廷に訴え、また諸子への書に「今日の防禦は甚だ困難である。もし一年の猶予があればあるいは守り抜けるかもしれない。わが四男二女よ、今はもう心を残さず、忠義に死ぬまでである。汝らは聖人の書を読み古人の事を行うことを心がけ、私のことを思ってはならない」と記した。十二月、金兵が攻め寄せ、公は全軍でこれを防いだ。驍将の姚慶は偃師で戦死した。公は将官の王仔らに命じて啓運宮の諸殿の神御を奉じて間道を進ませ行在に走らせた。金兵はますます勢いを増し、公の戦況は不利となり、金軍はすでに雍・秦・隴を破り南下して唐・鄧・陳・蔡を侵し、敗残兵が野に満ちた。公はなお彼らを招集していたが、やがて麾下の兵が弱まったのを見て、公を擁して南へ逃れようとする者が現れた。公はこれを罵り、「お前たちは平生、朝廷の衣食を受けながら、この時に報国せずして何をしようというのか」と言った。叛兵は怒って公を襲い、遂に落命した。

人柄

天性孝行かつ友愛に厚く、財を軽んじて義を重んじ、事に当たっては剛毅果断であり、議論は詳細で明晰であった。人に対して誠実を尽くし、出世を求めることがなかった。学問を好み老いてなお衰えず、人と古今や本朝の故実を論じては次々と話が尽きず聞く者を魅了した。晩年に至って国難の時期にあたり、志は大きかったが命運がこれに伴わなかった。士論はこれを惜しんだ。

張南軒の跋文

張南軒(張栻)は公の手帖に跋を寄せて言った。「公の数通の手紙は、その死に処する覚悟がすでに定まっていたことを示している。『事は予め備えていればこそ立つ』とはまことにその通りである。熙寧年間以来、宰相の中には釈老の説をもって孔孟の真義を乱す者があり、その説は世に広まって士人の心を蝕み、風潮は揺れ動いた。その間、節義を守り義に死んだ臣は稀にしか聞かれなかった。公を篤く論ずる者はその由来を知るであろう。公が諸子を訓戒し、経史に従事させ、おおむね実用を貴び虚に渉ることを戒めていたことを見れば、俗に流されなかったことが分かる。ついに自ら節を立てたのは当然のことである。」