出自と経歴
- 字は潜翁。信州玉山の人。進士に及第し、州県の官を歴任した。建炎元年(1127年)直秘閣として同州の知州に除せられ、金の兵が城を陥落させた際、これに殉じた。事が上聞し官を追贈され、張忠文公(張叔夜)とともに廟を並び立てられた。本州の廟額は「旌忠愍節」という。
朱熹の評
- 晦庵(朱熹)は「公は疲弊した兵を擁して孤城を守り、まさに勢いの盛んな暴虐な敵に抗い、隣国からの援助が既に絶えると、ついに身をもってこれに殉じた。私はその遺事を読んで三度読み返さぬことなく涙を流した。忠義の性は人心の常なる道理から出るもので、名を策に記し身を委ねて人に仕える者は、これを熟知しているはずである。しかし私が先日の中原の禍いを見るに、当時の士大夫で身を捨てて国に殉じ、その官職に死んだ者が公のように少ないのはなぜか。それは義と利の分別が明らかでなく、取捨の判断があらかじめ定まっていなかったため、いざという時に生を貪り死を恐れ、ただ利に従ってしまうからではないか。ああ、公のような者こそ、まことに本心を得て人臣の義に恥じないと言えよう。これはもとより国家を治める者が懇ろに褒賞し記録すべきことであり、臣子の勧めとして、これを慕い感激して忠義の良心を奮い起こさせるべきものであって、ひとり鄭氏の子孫だけのためのものではない」と評した。
張栻(南軒)の評
- 南軒(張栻)は「公は同州を守り、城が陥落してこれに死んだのは、まことにその死に場所を得たと言えよう。その書辞を読むと、胸中に処するところが元よりすでに定まっていたことがわかる。ああ、義のあるところに君子はこれを行うこと、飢えれば必ず食し渇けば必ず飲むようなもので、後回しにすることはできない。もし少しでも私意がこれに介在すれば、躊躇して結局その正を失ってしまう。しからば公の行いを見れば、なんと凛然として貴ぶべきことではないか」と評した。
楊萬里(誠齋)の評
- 誠齋(楊万里)は「近世、人材を培い忠孝を風俗として成すことにおいては、本朝に至って盛んになった。唐末五代の全躯(身の保全)や売国の風潮は、これによって一変した。慶暦・元祐の間、忠臣義士が朝野に満ちたのは、諸賢の賢明さと祖宗の勤めによるものであり、一朝一夕のことではない。しかし紹聖・崇寧・大観の大臣は諸賢を姦邪と指弾し、挫き消し尽くそうとしても尽くしきれなかった。そして靖康の禍いにあってなお公のように国に死んだ者がいたのは、まさに先日の姦邪が根絶やしにできなかった遺種であり、紹聖・崇寧の大臣が消し尽くせなかったものであろう。ああ、慶暦・元祐の姦邪もまた決して少なくはなかったが、それでも消し尽くせなかった点にこそ、祖宗の恩沢を見ることができる」と評した。
朱熹による張叔夜との比較評
- 晦庵(朱熹)はさらに「靖康の難に敵騎が長駆し都城が危迫した際、四方の勤王の兵は逡巡してためらい、誰も至らなかった。ひとり張忠文(張叔夜)は南道の師をもって千里を難に赴き、軍の鋭さは甚だしく戦うごとに必ず勝ったが、廟算(朝廷の作戦)がなお躊躇したためついに成功を収めることができず、艱難辛苦の末、力を尽くして死を致し、なお宗社を存続させることを自らの任として、事が成らないと見るや口を閉ざし食を絶って身をもって殉じた。その後、虜が兵を分けて西の陝関を窺い、向かうところ降伏しないところがなかったが、そこにまた鄭公(鄭驤)のような者がいた。ひとり孤城の疲弊した兵をもって、乗り勝った鋭い敵の勢いに当たり、三秦を庇って皇帝の巡幸に備えた。虜の兵が大挙して至り、近隣の援軍がすべて絶え、守り切れないと知りながらも勇気はいよいよ激しく、必ず郡と存亡を共にすると誓い、城が陥落した日にその命を落として悔いることがなかった。これは危を見て命を致し、身を殺して仁を成すものであり、いずれも人臣の義に恥じないものである」と評した。