宋名臣言行錄續集卷二十八 歐陽珣
歐陽珣、字は全美。吉州永和の人。崇寧五年(1106年)進士乙科に及第し、地方の教官・県令を歴任した。靖康の初め、三鎮の地の割譲に強く反対したが、かえって割地の使者に任じられ、深州で軍民に忠義を尽くすよう告げて金に捕らえられ殺された。紹興中にその節義が記録され、子と婿に官が授けられた。
- 歐陽珣。
出自と経歴
- 字は全美。吉州永和の人。崇寧五年(1106年)進士乙科に及第し、忠州の教授を授かり、杭州塩官の知県となった。罷免された後、南安の録事に起用された。靖康の初め京師に赴き、国難に遭って割地の議に力めて争ったため時の宰相の意に逆らい、河朔への使者を命じられ、朝請郎・将作監丞に進んだ。深州に至ってもなお力めて争ったため、金は怒って公を殺害した。紹興中にその節義を記録され、子に官が授けられ、その婿の臨江の曽敏恭にも官が授けられた。
三鎮割地への反対と使者としての死
- 靖康の初め、朝廷が三鎮の地の割譲を議した際、公はその党九人を率いて上書し「地を割ってはならない」と述べた。翌日、何㮚以下三十六人が集議したが異論はなかった。公は廷議で争い、「地を割いて金に奉ることは策ではない。そもそも金の志は地にあるのではない。願わくは力戦し、戦って敗れその地を失ったなら、後日我が軍がこれを取り返すのは筋が通っている。今それを進んで与えてしまえば、後日我が軍がこれを取り返そうにも道理が曲がってしまう」と述べた。しかし時の宰相は謀を抱いて国を惑わし、逆に公を派遣して河朔の地の割譲に当たらせた。ちょうど深州などの郡は義によって金に臣従することを肯んぜず皆固守して降らなかった。金人は公が城下に至ると朝命を伝えさせようとしたが、公は慟哭して城上の人々に「朝廷は姦臣に誤られている。汝らは努めて忠義を尽くし国に報いよ。私は一死を惜しまず朝廷に謝そう」と告げた。金人は怒って公を捕らえ燕山へ送り、そこで公は殺害された。
死地を求めた覚悟
- 初め公が闕に赴いて事を論じようとしたのは靖康元年の冬、金の勢いがまさに盛んな頃であった。公が豫章を通った際、旧友がその地の帥をしており、公に留まって行くのをやめるよう勧め、「行けば禍いに及ぶだろう」と言った。公は嘆じて「私は平生、死に場所を得られないことを憂えてきた。国がこれほど窮迫しているのに、国事を謀る者は日ごとにますます卑しくなっている。私はこれから進言しようとしているが、その説が容れられずに死ねば、それこそ死に場所を得たことになる。どうして避けられようか」と言い、金軍への使者としての命を受けると、辞令や書類を同年の戴特立に託して「これを持ち帰り我が家に報告せよ。私はもう生きて帰らないだろう」と言い、そのまま出発した。
三松王才臣の評
- 三松の王才臣は「公の殉難は真に舎生取義であり、大節を貫き死んでも節を折らなかった者である。いわゆる英雄豪傑の士であり、君に事える者の手本とすべきである。公が旧友の帥や同年生に語った言葉を見れば、生を偸んで節を折ることを潔しとしなかったことは、もとより日頃の蓄積によるもので偶然の一時の決断ではない」と評した。また、「女真の凶悪な酋長たちは、その用兵において必ずしも劉淵や石勒に及ぶものではなく、我が国もまた司馬氏(西晋)のような内乱・外患の危機がなかったにもかかわらず、彼らはまっすぐに攻め込んで誰もこれに歯向かわなかったのは、我が国に人材が空虚であったからにほかならない。金の兵が河朔に南下した際、諸郡の人々は各々守りを固めたのに、金は利を貪って顧みず黄河を絶ち懸軍深入して京師を犯した。これは兵家の忌むところである。もしこの時、竒男子(優れた人物)を得て朝廷の一節を仮し、燕趙の義に附く士を糾合して険を拠り竒策を出してその後方を突き、彼らに後顧の憂いを抱かせることができれば一つの竒策となったであろう。それなのに、なぜかえって先に地を割って虎に肉を与えるようなことをしたのか」と、公の事に胸を打ち痛惜した。
従孫文龍による祠堂建立と守道の記
- 公の従孫の文龍が公の祠堂を建て、守道(官職名)がこれを記して、「靖康・建炎の間、廬陵郡で国事に死んだ者は二人いる。監丞の陽公は燕山で死に、忠襄の楊公は金陵で死んだ。死は一つであるのに二つある。楊公は城を守って死に、歐陽公は使命に死んだ」と述べ、ある人が「歐陽公は誠に使命に死んだのだ。敵国に命を捧げ、我が方に従わなければ死ぬというのが使者の義である。公が赴いた時、我が国にはまだ言い分があった。金の勢いは盛んで京師は危急、三鎮は天下の根本といえどもこれを惜しまなかった。これによって禍いを緩め後図を為そうとしたのであり、公が命を奉じて割地に当たったのはやむを得ないことであった。しかし深州に至ると軍民が固守して降らなかったため、公は人心がまだ解けていないと知り、逆に『朝廷は姦臣に誤られてここに至った。汝らは忠義をもって国に報いるべきだ。私は既に一死を覚悟している』と告げた。金人は怒ってこれを捕らえ殺した。これは使命に違えて死んだのであり、使命のために死んだのではない。これが義であろうか」と問うたのに対し、記主は「公は死を得て、なお何を言うことがあろうか」と応じた。崇政殿での議論の際、淵聖(欽宗)は必ずしも土地放棄を決意していたわけではなく、公もまた不可なることを力説し、『戦って敗れて地を失えば、後日我が軍が取り返すのに理がある。今、進んで与えれば、後日取り返すにも理が曲がる』と述べたが、時の宰相はその説を非難し、強いて公を行かせた。これは漢が狄山を辺塞へ遣った故事に大変似ており、事はすべて武帝ではなく張湯から出たのと同じであった、と記されている。もし公がついに使命を果たして死ななかったとしても、それは公の本心ではなかったはずである。城下で慷慨し痛哭して守りを勧めた時、公はただ自らの心があるのみで使命があるとは見ておらず、使命に違えたのではない。この時の命令は時の宰相の命令であって君父の命令ではなく、この君父の命令も宗廟社稷の命令ではない。臣は君に命を受け、君は宗廟社稷に命を受ける。堂々と国境を出て地を挙げて人に与え『使命がある』と言うのは、宗廟社稷のために恐れるべきことである。もしこのような使者ばかりであれば、いくつの国もたやすく処分されてしまうだろう、と論じ、公が死んだのは三つの理由による。前言(割地反対の主張)が時の宰相の意に逆らったことが第一の死すべき理由、固守して降らぬ者を今揺り動かして国に背かせ虜に帰させるのは何者かという問いが第二の死すべき理由、死ぬなら死ぬまでという覚悟が第三の死すべき理由であるとし、義に定まった名はなく、要は忠にある、忠は小さな信義にあるのではなく国のためにあることに帰するのだ、公は死を得て、なお何を言うことがあろうか、と結んでいる」と記した。
陳彬の評
- 陳彬は「謹んで国史を按ずるに、丙午の厄(靖康の変)にあたり、割地の使者として死んだ者は三人いる。一人は絳州で死に、一人は磁州で死に、その一人は深州で死んだ、それが公である。絳州・磁州の使者は必ず割譲するとの覚悟を抱いて赴き、それによって金から死を逃れられると考えたが、結局は絳州・磁州の軍民・公主が割譲すべからずとの議を貫いたために死は固より定まっていた。金を罵ることは奴隷を罵るがごとく、刃に就くことは帰るがごとくであった。公は身を死し、金もまた気を害して死んだも同然であり、死という点では同じである。芳しい評判は百年を経てもなお新しく、公が死ななかったなら、いまだ死んでいない懦夫たちの骨はとうに冷え切っていたであろう」と述べ、河朔の地勢や金軍の脅威について詳論し、公が微官の身でありながら九人を率いて金にへつらう者たちの気勢を挫いたことを称え、河朔の軍民が城下の盟いに屈することなく公の死によって奮い立った経緯を詳しく述べた上で、忠義の士大夫の心を鼓舞するものとして公の死を高く評価した。最後に銘(頌歌)を付し、金軍の南侵の勢いと、それに対して戦っても割いてはならぬとする公の主張、剣を握って死に向かった公の忠節を称え、その名は千古に香り、この堂は巍然として聳え立つと結んでいる。