出自
復讐計画と誅殺
- 紹興十五年(1145年)、公は初め金への使者となったが金に留められ、その後は金に用いられた。公は東北の士が左袵(異民族の服装、金への服属)とされたことを憤り、密かに信義をもって彼らを感発しようとした。従う者は響きに応じるようであり、翰林学士の高士談と共謀して金主亶(熙宗)が郊天(天を祀る儀式)を行う機に乗じてこれを刧殺しようと図った。あらかじめ蝋書(蝋で封じた密書)をもって朝廷に告げ、外応となることを望んだが、秦檜はこれを拒んで受け入れなかった。やがて事が発覚し、公とその子の師瑗はいずれも罪に問われて誅殺され、一門は皆殺しとなり生き残る者がなかった。
留正による評
- 留正は「公の忠はここに考証できよう。建炎の初め、資政殿大学士として金国への使者を命じられ、北庭に留め置かれて節を抗して屈しなかった。故相の秦檜が政を執るに及び、公の妻子をすべて虜中に送り込んだのが紹興十二年(1142年)のことである。公は金にあること既に久しく、金の名だたる王族・大族は皆公を尊び信じて疑わなかった。これによって子の師瑗、および偽の翰林学士高士談とともに復讐の挙を謀り、九月に金主が天を祀る際にこれを刧しようとした。金の諸王・宗親も内応することを約したが、不幸にして事は成らなかった。これは天命であろう。金人はこれ以来、上下互いに疑い合い、次第に誅戮を行うようになった。公の一家は既に金の手によって砕かれ、その禍いの発端は蝋書の返送によるものであり、これは秦檜の仕業である。この時、国家が中興してから二十年、公の事は表沙汰にならなかったが、最後に張魏公(張浚)が韓王を招いて帰らせた際、初めてその詳細を語ることができた。公には男子がなく女子があり、族人の紹節をその孫として、明詔をもって京秩(京官の位階)を命じた。淳熙十一年(1184年)にはさらに恩沢二名を与えられ、曽孫に受け継がせることとなった。これは天下の人臣たる者を勧めるためである」と評した。