出自と経歴
- 字は賔王、本名は揚庭。徽宗より現在の名を賜った。越州山陰の人。進士に挙げられ、館陶県の主簿となり、澶州の教授、中牟県の知事を歴任。宗学博士に任じられ、祠部・吏部の員外郎に抜擢された。右司郎中に遷り、遼への使者を務めて帰国後、太常少卿・起居舎人に遷り、中書舎人・礼部侍郎を拝命した。御史中丞を拝命したが、権貴の意に逆らう発言をしたため蘄州の知州に左遷され、赴任の途中で海州団練副使・黄州安置に処された。しばらくして復権を許された。欽宗即位に及び兵部侍郎として召還され、再び御史中丞に復し、礼部尚書に転じ、右丞に抜擢され、中書侍郎に遷った。金への使者として河北に赴いたが、燕山で客死した。享年六十。開府儀同三司を追贈された。
遼への使者としての対応
- 遼への使者を終えて帰国すると、徽宗は「虜主(遼の君主)は風痺を患い手足が動かず、また矢傷で両目を損なったというが本当か」と尋ねた。公は「伝聞は誇張されがちであり、恐らく事実は異なるでしょう。今日の急務は、安きにあっても危うきを忘れず、治にあっても乱を忘れぬことです。盟約が信頼できるとしても、なお辺境の備えを心に留めるべきです」と答え、上はこれを是とした。
右司における中立
- 右司郎中を四年務めたが、当時大臣たちはそれぞれ党派を立てて互いに協調せず、同僚も陰で向背を通じ合っていたなかで、公だけはどの党派にも属さなかった。上は「陳過庭は中立にして偏らぬ者である」と評した。
方臘の乱をめぐる上奏
- 方臘の反乱に際し、公は「寇を招いたのは蔡京、寇を養ったのは王黼である。この二人を左遷すれば寇は自ずと平定される」と述べた。また朱勔父子は本来刑余の身でありながら権近と結託して官位を窃取し、賄賂が甚だしく罪悪が明らかであるとして、正しく刑を科して天下に謝すべきだと論じた。これにより権貴の甚だしい怒りを買った。
彗星出現をめぐる長文の上奏
- 壬戌より戊辰に至る七日間、天の東北に彗星が現れたのを見て上奏した。「陛下は恭倹にして憂勤、仁民愛物の徳を四海に及ぼされているのに、このような災異を招くべきではありません。天象に明るい者は皆、これを金人滅亡の兆しと言います。天理に照らし人事に験するに、金人の残暴は自ら滅亡を招くもので、その理は確かにあります。とはいえ天道は幽遠であり、幽遠であるからといって明白な戒めを軽んじれば、古の聖王が事を正して天変に応えた道に背くことになりましょう。まして戎敵は未だ滅びず、寇盗は未だ平らかならず、主威は未だ振るわず、国勢は未だ強からず、権綱は未だ挙がらず、紀律は未だ厳ならず、是非は未だ明らかならず、賞罰は未だ当たらず、罪人は既に捕らえながら未だ明刑を加えず、寛大な詔は既に頒布されながら未だ実恵に浴さず、倉庫は未だ満たず、私室(皇室の私財)は未だ富まず、貴近の列には未だ正人を得ず、州県の間には未だ廉吏が揃わず、命令はしばしば下されてはしばしば改められ、差遣(人事)は幾度も報じられては幾度も移され、朝廷には姑息の政があり、官吏には冗濫の員が多い状況です。このようであれば星象の戒めをどうして疎かにできましょうか。切に自ら警め畏れ、内には徳を修め外には政を修め、君子を進め小人を退け、廉潔を奨め苛撓を蠲(のぞ)き、兵甲を修め車徒を選び、辺陲の備えを整え、糧食を蓄え、民の困窮を憐れみ、冗吏を除き弊源を取り去るべきです。そうすれば災いを転じて福となすことができましょう」。
金軍との交渉と客死
- 金人が再び京師を侵し、両河(河北・河東)の割譲を議するにあたり大臣の同行が必要とされたが、聶昌・耿南仲はいずれも事を口実に辞退した。公は「主君に憂いあれば臣は辱を受くる、臣は死を効するを願う」と述べた。欽宗は涙を揮って歎息し、公を留めて遣らせなかったが、都城が陥落するに及んでついに出発することとなった。二帝(徽宗・欽宗)が北へ拉致される際、公は既に河北にあり、そのまま留め置かれて帰ることができず、燕山で客死した。