宋名臣言行錄續集卷二十五 江公望

江公望、字は民表。睦州の人。進士に挙げられ、建中靖国初め左司諫として直言を尽くし、宮中の風紀や諫官の在り方について徽宗に強く諫言した。後に蔡京が政を執ると南安軍に貶され、赦免後は帰郷して没した。厳子陵になぞらえられるほどの気節を後世称えられた。

年表(3件)

出自と経歴

江公望、字は民表。睦州の人。進士に挙げられた。建中靖国初め、太常博士から左司諫に任じられ、事を論じて睢陽の知事に出た。まもなく召されて左司員外郎となり、直龍図閣・寿州知事に任じられたが、その後職を落とされた。蔡京が政を執ると南安軍に貶され、赦によって官に復し、帰郷して没した。建炎四年(1130年)、諫議大夫を追贈された。

夢と合致した上奏

徽宗はかつて、亭の樹の間の壁に数語の題があった夢を見たが、目覚めてもその意味を理解できずにいた。江公望が対面してその論列する内容がその夢と多く合致していたため、皇帝は感嘆し称賛した。長らく熟読した後、「卿の徳望と儒雅なる姿は、朕の心にしかと留まっている、いい加減な大臣ではないと聞いている」と語った。退朝後、皇帝は「公望が私の夢と合致したのは、大任を委ねてよい証だ」と大いに喜んだ。

天下を治める道についての長大な上奏

江公望は「天下は大器であり、これを安きに置けば安く、危うきに置けば危うくなります。しかしこれは『置く場所』を知っているだけで、『運ぶ手』を知らないということです。天下という神器は、これを何かのために為そうとすれば破れ、これに執着すれば失われます。これは『運ぶ手』を知っているだけで、『蔵する道』を知らないということです。天下を天下に蔵して逃れさせないこと、これが『道』というものです。天下には常に安んじる理があり、聖人は妙用の手を操り、至人は動かない道を蔵します。動かないことが常に動くこと、動くことが常に動かないこと、常に運ばないことが常に運ぶこと、常に安んじないことが常に安んじること、これが天下を宰制する妙理です。戦国の合従連衡、秦漢の吞并には、『為す』ことの敗れと『執する』ことの失いがありました。それゆえその妙は蔵する術を知らず、その粗は置く術を知らないのです。天下が無事であるのは幸いに過ぎません。陛下には仁を朴(生地)とし、義を削(削り仕上げ)とし、信を縄(墨縄)とし、智を巧(技巧)とし、礼を絵(彩色)とし、政をもってその用を制し、刑をもってその蠹(害虫)を支えるべきです。啾々たる万の鳴き声、蠢々たる群れの動き、みな同じ器の中にあります。虚にして実ならざるゆえに衆実がここに集まり、静にして動かざるゆえに群動がここに止まります。止まって止まることが無ければ動もまた寂となり、集まって集まることが無ければ実もまた空となります。虚と実は一体、動と静は同じ役割を果たし、その隠れたところを測ることができず、その用いるところを窺うことができません。陛下がこの道理をもって天下を蔵されれば、誰がこれを動かせましょうか。天より得たものは人為で得たものではなく、これを弊履のように見ても愛が無いわけではありません。宗廟から承け継いだものであれば、決して敢えて疎かにはできません。一つの不義を行い一人の無辜を殺すことすら、敢えて為すべきではありません。人が愛せば陛下も愛し、人が棄てれば陛下も棄てる、それでこそ至公を示すことになります。上は公輔から下は有司百執事に至るまで、あるいは座して道を論じ、あるいは立って行い、それぞれその力に応じます。一隅一曲に偏らず、東を顧み西を眄み、左に提げ右に携え、まるで掌の上にあるかのようです。陛下がこの道理をもって天下を運ばれれば、誰がこれを弊れさせましょうか。多くの困難を畏れず、無難であることをむしろ憂いとし、過ちが無いことを誇らず、過ちを改めることを美とし、安きに居て危うきを慮り、治にあって乱を思い、山河を金湯(堅固な城)とし、夷狄を赤子(我が子)のように見なし、外は郡国を犬牙のように相制し合わせ、内は宗族を磐石のように鎮め安んじ、四方に通ずる道に極(規範)を建て、民を仁寿の域に躋(のぼ)らせるべきです。陛下がこの道理をもって天下を置かれれば、誰がこれを危うくしましょうか」と数百言にわたって述べた。皇帝は何度もこれを奇として称え、篇を読み終えると「卿の文才は実に奇である。上奏する箚子はいずれも義理に根ざしており、ただ文才が人に優れているだけではない」と述べた。後日、さらに「卿が先に上げた箚子は宮中で無事の折には手放せず何度も味わっている。句々に義味があり、既に編んで上等の文字に収め、卿とともに後世に伝えたい」と語った。

諫官としての進言

陳祐が曾布を論じたことが受け入れられず、左司諫を罷免された際、江公望は「祐の責め词には『観望・推引』の言葉がある」と対して述べた。皇帝が「曾布を逐って李清臣を宰相にしようとしている」と述べると、江公望は「それでは誰も納得しません」と応じた。皇帝はさらに「曾布はどうして去らせられようか」と述べたが、江公望は即座に「陛下が即位されて以来、三人の言官を代え、七人の諫臣を逐われました。これは天下が期待するところではありません。今、陳祐が宰相の過失を言うのはその職務にほかなりません。どうして他意があると言えましょうか。人君が諫臣を扱うにあたっては、養うにあたっては普段からのことでなければならず、用いるにあたっては審らかでなければならず、遇するにあたっては厚くしなければならず、聴くにあたっては察しなければならず、去らせるにあたっては慎重でなければなりません。これらを尽くしてこそ、諫官を用いる道が全うされます」と述べ、皇帝はこれを是とした。さらに疏を上げて紹述・分裂を主張することが元豊・元祐の禍乱の源であると論じ、その言葉は懇切であった。

陳祐への助言の逸話

先に、陳祐は皇帝との対面の際、「公事があれば必ず江公望と協議して来るように」と言われた。祐が江公望を訪ねたとき、江公望は「玉座の前のわずかな一畳の地は、臣下が君父に対面して天下の事を極言する場です。上は天を欺かず、中は君を欺かず、下は心を欺かなければ、罪を免れることができます。人の見方はそれぞれ異なりますが、ただ迎合してはなりません」と語った。祐は後日皇帝の前でこれを誦し、皇帝はこれを名言とした。

宮中の風紀についての諫言

江公望は「巡邏の者を増やし、以前と合わせて十人としましたが、夫婦の醜い罵り合いや仇怨の言葉を増幅し、隠された事情を暴くことは、清朝の美事とは言えません」と述べた。また「陛下は近ごろ鳴き声の巧みな鳥や闘う鳥を飼い、珍しい羽や美しい嘴の鳥を籠に入れておられると聞きます。志に欲するところがあってこれを禁じなければ、志は荒み、志が荒めば政も怠るでしょう」と述べた。さらに「賈某という中貴人が鷂鶻を腕に据えて後苑に入り鳥獣を追ったと伝え聞きますが、私はまだ信じきれていません。それでもなお疑念を捨てられずにおります。鳥獣を追うことは若い諸王のなすことです。天子が諸王の若者のなすことをなさるのは、ご自身を軽んじるものであり、万乗の君主が天下に重んじられる道ではまったくありません」と述べた。皇帝はこれをすべて放させ、ただ一羽の鷴だけは長らく飼い慣らされていたため、杖で追っても離れなかった。そこで杖の頭に江公望の姓名を刻み、これを記念とした。

張栻による奏藁序

南軒張栻(張栻)は江公望の奏藁の序に「徽宗皇帝は自ら万機を親裁し、朋党の論を嫌い、豪傑を召して身近に置き、追放されていた臣を次々に南荒から呼び戻された。翌年、建中靖国と改元し、天下とともに新たな出発をしようとした。ここに江公望は奉常博士から左司諫に抜擢され、自らこれを不世出の遇として、進み見えるたびに謹んで力を尽くさぬことなく、見聞くところがあれば言い及ばぬことを恐れた。遠く便佞を退け、友睦を篤くし、朋党を消し、直言を受け入れることに特に力を尽くし、皇帝はしばしばこれを聞き入れた。ところが奸人が権を得ると、江公望はすぐに外任に補され、貶謫流落のうちに没し、天下はこれを惜しんだ。紹興四年(1134年)、詔によって追録され諫議大夫を贈られた。制詞には『世道の変わりやすさと国論の常無きことにより、是非がしばしば愛憎から出て、平坦と険難がひとえに一節に持されていた。権寵が日々忌まれ、竄斥の暇もなかった。ああ、公もほぼ悔いは無いであろう』とある。ああ、君子が無ければ、どうして国が成り立とうか。祖宗が天下を有して以来、多くの士に留意し、仁宗はこれを涵養育成すること四十二年、その用をもって元祐の政となした。元祐の諸君子は困窮百罹に遭いながらも直道は隠然として流れ、その風は元符の末・建中靖国の初めに至って著しく現れ、彬彬とした様相を呈した。元気は傾かず、たとえ夷狄の侵食を受けても中興の日はたちまちにして現れた。人材が国の重軽を為すことはこのようなものである。国を治めることを計る者は、忠直の気を育て護り、諂いの萌芽を防ぎ、天下の脈を長らえさせることを忘れてよいだろうか。人臣として幸いに朝廷に立つ者もまた、利害の分かれ道でぐずぐずして寒蝉のように同じく沈黙し、ついに委靡陵夷して我が国家に背いてよいはずがない」と記した。

真徳秀による文集序

真西山徳秀(真徳秀)は江公望の文集の序に「釣台(厳陵瀬)の厳子陵の清風は、以来千百年、これに続く者は無かった。諫議・江公が現れて初めて、その孤高峻節が仰いで恥じることのない存在となった。ある人は『子陵は万乗の故人となることを拒み、裳をかかげて去った、悠然と濁世を超越し、万物もこれを縛ることができなかった。江公は苦難のうちに仕官すること四十余年、権貴に触れ艱険を踏み、荒地に投げられること万里、万世の憐れみと笑いの的となった、どうして子陵に並ぶことができようか』と言う。ああ、この論法で人を評するのは、まるで馬の毛色だけを見て良し悪しを判じるようなもので、形や色の外に本質を見出せていない。かつて禹・稷と顔子の憂楽、伯夷と柳下恵の清和は、趣を異にすると言えるだろう。しかし孔子・孟子はいずれも彼らを賢として並び称した。それは彼らの時代が同じでなくとも、その道が一つであることを認めたからである。これによって見れば、子陵の不仕と江公の仕官を、単に足跡だけで判じることはできない。子陵の不仕は自らを清らかに保つためではなく、節義を激昂させ西都(前漢の都、腐敗した世相を指す)の頽廃した風俗を救うためであった。江公の仕官は自らの利のためではなく、世道を支え一時の朋党の禍を弭めるためであった。足跡は異なっても、道はどうして違うだろうか。彼が卑官下僚として自ら人主に結びつこうとした頃、その誠が通じ兆しが形を成した。これは臣子にとって得難い機会ではなかったろうか。しかしこの時、皇帝は善に心を向けていながら、まだ志を決していなかった。元祐の諸賢は少しずつ用いられていたが、その勢いはまだ定まっておらず、まさに安危治乱の岐路にあった。江公は懇々として言を尽くし、明主の意を堅めさせ善類を保ち合わせようと、力を惜しまなかった。もし江公の道が実現していたなら、二蔡(蔡京・蔡卞)の姦は攻めずとも自ずと退き、紹述の説は阻まずとも自ずと消え、王室は尊安を得て、戎狄は退いて従っただろう。それが国家・生民の福となったことは計り知れない。しかし正邪消長の勢いが一たび分かれると、江公の身は朝廷の上に安んじることができなくなった。それより二十年、疽(悪性の腫れ物)が浸透し元気は日々衰え、天下の患いは言い尽くせなくなった。事の変化が極まったとき、江公の言葉はついに霊亀のような予兆となった。建炎の中興は遺された正直の士を褒め称え、江公自身はそれを見ることは叶わなかったが、その高風は凛々として、千年後にもなお衰弱怠惰な人を奮い立たせ姦諛の徒を恥じ入らせるに足る。まことに厳子陵にも劣らぬ人物であった」と記した。